第6話 初任務は女装令嬢!?
きらびやかなドレスを脱ぎ、男物の普段着に着替えてからクラウドの政務室を訪れると、先に部屋にいたシャルナークが辛辣な視線を投げてきた。その厳しい顔がディアナの服、そして髪へ向けられると、唖然としたような、がっくりとしたような表情に変わった。それはそうだろう。自分の愛する女性と他人を間違えただけならまだしも、その相手が男だったと知ったら、誰でも屈辱感を味わうに決まっている。
(それも嘘なんだけどね……)
決めたこととはいえ、さらに偽りを重ねるのは心苦しい。ディアナは無意識に首元に手をやった。男物の短髪のかつらは少年役の時にはかぶり慣れていたが、久しぶりだと少し心もとない。
この大陸には女性が髪を短くするのははしたないという観念がある。特にソマリスはその傾向が強く、短髪の女性はまずいないし、肩くらいの髪でも眉をひそめられる。ヴィエンダールではそこまで厳しくないが、肩より髪が短ければまず女性に見られない。
「シャルナーク様はついこの間までソマリスにいらしたので、気づかれる可能性は少ないかと」
「その前に、なぜ男の子のふりをしなければならないんですか?」
詳しい話をする前に、まずは着替えをと言われ連れてこられた小部屋で、ディアナはルーセントに詰め寄った。椅子の上に服がかけてあるが、明らかに男物だ。
「だいたいあの試験だって何がしたかったのか全然わかりません」
あの時シャルナーク王子はリディアンヌ嬢に精いっぱいの想いを伝えようとしていた。あんなにせつなく苦しい想いを向けられたのははじめてで、だからこそ後悔した。たとえウィルのためであっても、他人の気持ちを踏みにじっていいわけない。
リディアンヌが別人とわかってからは終始冷たい目で見られ、憤りも感じたが、他意はなかったとはいえそんな態度をとらせるようなことをしたのはディアナだし、ディアナ自身『試験だったから』だけで片づけてしまいたくはなかった。そんな自分でもよくわからない複雑な想いを抱えることになったのに、ただクラウドが楽しむためだけにやったのだとしたら、いくら王子でも許せない。
部屋の中を落ち着きなく歩き回るディアナに、ルーセントが見かねたのか話しかけた。
「あの試験は……」
「きみの演技力をもう一度きちんと確かめるためにやったに決まっているじゃないか」
「クラウド様」
ディアナが振り向くと、腕を組み、扉に身体をもたせかけたクラウドがいた。
「シャルが一番大事に想っているリディをきみは完璧に演じていた。シャルもまったく気づいていなかった。なかなかやるね」
褒められたのに気まずそうに視線を下げるディアナに気づいているのか、彼は軽い足取りで部屋に入ると、置いてある服を手に取りディアナに差し出した。
「大きさはちょうどいいはずだ。僕は女性の服の寸法の見立てを間違えたことは一度もないんでね」
「なっ」
ディアナは顔を赤らめかけたが、すぐに平静を装った。これ以上彼の意のままに動くわけにはいかない。
「男のふりなんてできません」
「なぜ?」
「する意味がわからないからです」
「ではひとつ思い出話をしよう」
「は?」
クラウドは破顔一笑した。
「私たち兄弟はこの通り顔が良すぎるからね、昔から女性たちからそれはそれは引く手あまただったのだよ」
謙遜もせず堂々とのたまうクラウドにディアナはあきれたが、口は挟まない。一見して脈絡のないところから入り、引き込む話術はこの王子の得意技だとわかってきたし、最後まで聞かなければ反論もできない。
「シャルとアレクは年上の女性に特にもててね。アレクは上手につきあっていたが、シャルは煩わしかったようで、いつも逃げ回っていたんだ。だがあるとき二十も年上の未亡人に寝室に忍び込まれてね…………」
言葉を巧みに切り、クラウドは憐憫の情を浮かべる。空白の時間を与えられたことで、ディアナはその時の様子をつい想像してしまった。自分の母親に近い年の女性に、強引に迫られたら……。
(子供心にトラウマになってもおかしくはないわよね……)
「シャルは昔から落ち着いた性格だったが、普通によく笑う子供だった。だがそれ以来、女性と目を合わせるのすら嫌うようになって、ほとんど笑顔も見せなくなってしまった」
ついシャルナークに同情しそうになり、慌てて首を振る。
(いけない、考えちゃだめ)
「だが、リディアンヌだけは別だった。シャルにとってリディは唯一普通に接せられる女性なんだ。なのについさっきリディにも裏切られてしまった……シャルの心はいまふかーく傷ついているに違いない……」
(え、わたしのせい? あの場面を演出したのはあなたなのに、明らかにわたしが悪者になってるんですけどっ)
これこそクラウドが策略家と囁かれる所以だ。相手を罪悪感に捕わせ、良心の呵責から承諾や同意を強引に奪いとる。皆自分のせいじゃないと思っていても、いつの間にか自責の念に駆られ、うなずいてしまっているのだ。
もちろんディアナも例外でなく、クラウドの奸計に陥ろうとしていた。
(わたしはただ言われた通りに試験を受けただけ。それだけよ)
そう思いつつも後ろめたい気持ちが消えるわけではない。ずっと秘めていた恋心を、相手に伝える前に他人に知られてしまった。しかも、騙されて。普段人からひどいことを言われたり、恨みや悪意を直接受けることなどない王子が、長年隠していた恋心を白日の下に晒されるなんて、矜持が許さないに決まっている。
(結果的に苦しめたのは……わたしなのよね)
戸惑うディアナの心を見透かしたうえで、クラウドは哀愁たっぷりに嘆いた。
「ああ、このままでは女性不審どころか、一生恋もできない体質になってしまうかもしれない」
若干大げさな物言いも、今の罪悪感に揺れるディアナの心にはするりと入り込み、侵食する。
うつむいてしまったディアナにすべての先制球が有効に作用したことを確信すると、クラウドはとどめの一撃を放った。
「だからね、シャルの前では男のふりをしてほしいんだ。女性とわかると、調査に協力しなくなるかもしれないからね。シャルの助けがなくなるとなると……」
たっぷり一呼吸分の間をあける。
「キミの大切な人も守れなくなるかもしれない……」
「男のふり、します……」
(本当に男か……?)
兄の政務室にうつむきがちに入ってきた〈少年〉が男だということを、シャルナークは半分も信じていなかった。リディのふりをしていた時、ドレスから覗いていたなめらかな首筋はあきらかに女性だった。だからこそ、リディだと疑いもしなかったのだ。大方自分の女性に対する態度を知っているクラウドがついた嘘ではないかと、シャルナークは邪推していた。
(別にリディ以外のすべての女性が嫌いというわけじゃない)
ただ自分に近づいてくる女は大概王子という肩書にしか魅力を感じていない連中ばかりで、シャルナークはそんな中身のない女の相手は頼まれても嫌なだけだ。
向かいの長椅子に腰をおろした彼の様子を慎重にうかがう。肩よりかなり上で切りそろえられた栗色の髪がさらりと顔にかかって表情を隠してしまっているが、気配からしてシャルナークに負い目を感じているようだ。視線に気づいているのに〈少年〉はこちらを見ようとしない。やはり何か隠しているのだろうか。
顔を上げようともしない彼をどうにかしてこちらを向かせようと、ぶしつけな視線を投げ続ける。こうして改めてみると線は細いし、色も透けるように白い。ドレスを着た彼は確かに女に見えたが、かつらをとり、短い地毛をさらした少年だと言われればそう見えなくもない。
(あれもかつらという可能性もあるが……このままじゃどちらとも言えないな)
どっちにしても、騙されたと素直に認めるのはリディへの気持ちを否定してしまったようで不愉快だった。せめて男か女かははっきりさせたい。男に惑わされたと考えただけで強い屈辱を覚える。芽生えた苛立ちを払拭したくて、シャルナークは本物のリディアンヌのことを思い浮かべた。
(彼女は女性らしくやわらかな印象だが、こいつは全然子供だし、色気も何もない。リディの淡い金髪ときらめく琥珀の瞳は穏やかに人を惹きつける。こんな栗色の髪に翡翠の目では華やかさが皆無だ。リディとはまったく違う。さっきは金髪のかつらをかぶっていたから、間違えたんだ。確かに金の髪の下ではあの瞳も神秘的に見えたが……)
リディアンヌのことを考えていたはずなのに、一瞬残像のようによみがえったのは、偽リディの後ろ姿だった。淡い黄色のドレスの襟元からのぞく、透き通るような白いうなじ。まとめ髪から一筋たれる金の糸。ふわりと振り返れば、蠱惑的にうるんだ翡翠の瞳にシャルナークの姿が映り……。
「シャル? まだ怒っているのかい?」
クラウドに聞かれ、はっとする。
何を考えていたのか。だまされただけでも恥ずべきなのに、その姿を一瞬でも思い返すなどもっての外だ。
「もう気にしていません」
卑猥な妄想をしたかのような感覚に気をとがめ、短く答えながら顔を背けると、ちょうどこちらを上目がちにうかがっていた少年と目が合った。
纏う空気が緩んだことに気づいたのか、明らかにほっとした顔をした彼は、シャルナークの向かいの長椅子に身体を縮こませて所在無げに座っている。憂いをおびた大きな翡翠の瞳に見つめられると、心に一瞬浮かんだ画を見透かされた気持ちになり、シャルナークは気まずげに目をそらした。早口で訊ねる。
「それより任務とは何のことですか」
「その前にまずは事の起こりから聞きたまえ」
そう言うとクラウドは政務卓に浅く腰をかけ、長い足を組んだ。
「二ヶ月前、国家機密の研究が横流しされたらしいという情報が入ったのがはじまりだ」
国家機密に研究の横流しというのっけから不穏な単語の連続に、シャルナークは顔をしかめた。国家単位の話でも自分は慣れているが、明らかに官吏でも貴族でもなさそうな〈少年〉に聞かせてもよい話なのだろうか。
〈少年〉をちらりと見やると、緊張しているのかかすかに身じろぎをしたものの、真剣な表情でクラウドを見つめている。その感じからして初耳というわけではなさそうだ。すでに兄から聞いているのだろうか。シャルナークは訝しく思ったが、とりあえずは話に集中しようとクラウドに視線を向けなおす。研究とやらがどんなものか気にもなったが、兄はどうせ前置きをすべて話してからでないと教えないだろう。
「機密は国外に流れた可能性が高く諜報局が調査していたんだが、ソマリスで変調があったと報告が入った。ひと月前あたりからある大臣が急に王に重用されるようになってきたというんだ。ソマリス王宮に潜り込ませている間諜によると、ムルサムという大臣は宰相と折り合いが悪く、何かと対立していたらしい。そこに新たに送りこんでいた諜報員から、大臣の出世にヴァンベールの誰かが関わっているようだとの報告があった」
「信憑性があるんですか?」
「かなり信頼できる情報だ。証拠もいくつか揃っている。ほぼ事実だろう」
「だとしたら、まずいですね。特に今の時期は……」
ふとシャルナークは自分が何を言おうとしたのか気づき、眉根を寄せた。〈少年〉が呑み込めない顔をしていることに気づいたが、無視して、投げやりな視線を遠くへ向ける。
(どうせ兄上が懇切丁寧に説明するさ)
その通り、クラウドが含みのある笑みを浮かべつつ、教官さながらに解説しはじめる。
「なぜ今の時期がよくないかと言うとね、リディアンヌがソマリスの王太子と婚約したばかりだからだよ」
つまり、王族であるリディアンヌが婚約し、両国のきずなが強化されるべきこの時に、ヴァンベールに余計な疑いがかかることはさけたいということだ。シャルナークがここまで口にしなかったのは矜持があるからだ。気にしていないと言った手前、あからさまに攻撃するようなことはしないが、自分をだました相手にわざわざ説明してやるほど、寛大な気持ちにはなれない。
シャルナークの不機嫌な様子を気にしつつも、一応納得した表情になった〈少年〉にうなずいて、クラウドは卓から立ち上がった。
「そこで、内密に大臣とつながる人物を探り、大臣の周囲に国家機密の研究が関わっているのかを早急に調査する必要があるというわけだ」
「それが『任務』ですか」
「その通り」
「それは諜報局の捜査官の仕事です。彼らは本職です。俺やこんな子供がやる仕事ではありません」
言葉は丁寧だが、シャルナークの表情と口調には明らかに不可解さと不満が見え隠れしている。だがクラウドは気分を害した様子もなく微笑んだ。
「もちろんそうだよ。さて、宿題の答えは考えてきたかな?」
次兄の突飛な言動には慣れているシャルナークだが、この時は少し躊躇した。部外者がいる場で解答を伝えていいものか。〈少年〉をちらりと見たシャルナークに、クラウドは艶然と言った。
「答えを聞こう」
兄がいいと言うのなら、迷う必要はない。
「法務省諜報局第三課直属、特別諜報室です」
「正解」
クラウドがゆっくりと手を三回たたいた。まるで当たり前とでも言っているようだ。
「法務省には昔から諜報局が存在している。主に国外の情勢を把握するために諜報活動を行う部署で、所属する人材や活動内容などはほとんど公にされていない」
クラウドが語り出す。シャルナークは当然身につけている知識なので、何も知らなさそうな〈少年〉に対して説明しているのだろう。
「だが、政においては身近な者に足元をすくわれることも少なくない。実際歴史を遡れば、内部の者によって国家を崩壊させられた例は、この大陸にごまんと存在する。僕は法務省の長官だが、諜報局の局長も兼任している。その立場を利用して、まさに今回のような問題を未然に防ぎ、もしくは性急に解決すべく、一年前、諜報局内にある機関を立ち上げた。それが特別諜報室だ」
次兄が新たな機関を立ち上げたことは耳にしていた。兄が極秘に創った組織なら、かなり優秀な人材を集めているに違いない。だが、その内情はソマリスにいる間はまったく漏れ聞こえることはなかった。概要を知る者を限定していたのだろうが、身近にいる者にも箝口令をひいていたのか。
「法務省……長官……局長」
驚いたのか、〈少年〉の口からつぶやきが漏れる。今クラウドが話したことの半分も理解しているのか怪しい。
怪しいといえば、とシャルナークは眉根を寄せた。この〈少年〉は何をしている者なのだろう。名前すら知らない。さっきの出来事があまりにも突拍子もなかったため、警戒心を持つことすら忘れていた。一度考え出すと、この〈少年〉の人となりが急に気になり始め、シャルナークは次にクラウドが発した言葉を聞き逃した。
「え?」
クラウドは物珍しげに片眉をあげると、微笑んでもう一度言った。
「きみたちには今日からこの特別諜報室の一員として任務に加わってもらうと言ったんだ」
シャルナークは目を見開いた。
「どういうことですか?」
「どういうこととはどういうことかな」
「ですから、なぜ俺とこの少年が諜報官にならなければいけないんです」
「それはもちろん、二人に適性があると判断したからだよ」
「適性? ではどこをどう見て適性ありと判断したのか、納得のいく説明をしてください」
一旦驚きが通り過ぎると、だんだん険しさを増していくのが自分でもわかった。
諜報官だと? この俺が?
確かにそろそろどこかに任官されることはわかっていた。どこに配属されても受け入れるつもりでいる。だが、法務省だけは別だ。この悪辣狡猾な兄の下で働くなんて、何をさせられるかわかったものではない。憮然とした顔できっぱり告げる。
「納得できなければ絶対にやりません」
「シャル、きみは本当に昔から強情だね。そこがかわいいところではあるんだけど」
はっきりと拒絶されたのにも関わらず、どことなく楽しそうなクラウドの様子に、かすかな不安が心をよぎる。いやな感じだ。昔からこの手の胸騒ぎを覚えた時は、たいていクラウドの思惑通りに事が運んでいた。突っぱねれば突っぱねるほど、兄の手の内にはまっていたことを今更ながら思い出す。
そこに、軽いノックの音が響いた。クラウドが入るよう声をかけると、メイドが飾りのついた豪華な台にお茶の用意をのせて部屋に入ってきた。
皆黙っている中、落ち着いた風格のメイドは手際よくカップにお茶を注いでいく。カップは質素にみえるが、一脚で庶民の月給分くらいの価値がある代物だ。最後に〈少年〉の前にカップが置かれると、小さな声でありがとうございますと頭を下げ、つぶやいた。
「レモンバームですね」
一瞬何を言ったのかわからなかったが、クラウドが片眉を上げ言った。
「飲んでもいないのによくわかったね」
「ハーブを自分でも育てているので、だいたいは香りと色でわかります」
そうはにかんだように笑うと、少年はいただきますと小声で言ってカップに口をつけ、ほっとした表情をした。それがとても自然な笑みで、シャルナークは彼がこの部屋に来てからほとんど声をだしていなかったことを思い出した。
(気を張ってたんだな)
当たり前のことにいまさら気づく。ふと端に静かにたつランスコート子爵を見ると、無表情ながらも穏やかな顔だ。王宮ではハーブティーなどめったに出てこないのだが、どうやらハーブに身近らしい〈少年〉のために彼が用意したものらしい。
(あの堅物のルーセントがここまでするなら、やっぱり女なのか……?)
この少年だか少女だかの素性は未だまったくわからないが、王宮や政に縁のない世界で生きていることくらいはわかる。それがいきなり王族の生活の場である慶春殿の、しかも王子の私室に近い政務室になんて連れて来られたら、誰だって緊張するはずだ。
安堵のため息をつきながらハーブティーを味わっている〈少年〉の顔を盗み見ながら、そんなことをつらつら考えていると、さっきまで見えなかった、いや見ようとしていなかったことにも気づかされる。
(あのリディのふりも試験だったとか言ってたし、腹黒のクラウド兄上に騙されて連れて来られたのかもな……)
だとしたら、少し大人げない態度をとりすぎたかもしれない。少々きまずい思いを抱いていると、淹れたてのハーブティーの香りを楽しんでいたクラウドが、こちらを見てふっと笑った。
「シャル、きみも飲むといい。レモンバームには気持ちを落ち着ける作用があるよ。それに、不安や緊張も取りのぞいてくれるからね」
抜群のタイミングでさらりと言うので、気持ちが乱れていたことを見透かされたかと勘繰りつつも、勧められるままにはじめて体験する爽やかなレモンの香りのするお茶を一口すする。
一拍おいて、クラウドがおかしそうに言った。
「レモンの味はしたかい?」
「……いいえ」
自分はそんなに変な顔をしていたのだろうか。笑われたことにむすっとする。
「香りはレモンなのに、飲むと酸味もくせもない。清涼な風味だけが口に広がるし、身体にいい効能もある。良薬口に苦しと言うけれど、これは飲みやすいし、まさに理想的な飲み物じゃないか」
「なんだか都合がよすぎて信用できません」
頭に浮かんだことを素直に言っただけなのに、〈少年〉は目を丸くしてこちらを見た。
「ふーん。都合がよすぎる、か」
おもしろい解釈だとでも言うように、クラウドはあごに手をやり、目線を上に向けてつぶやいた。
「確かに、おいしい話には裏があるって言うしね」
「何が言いたいんですか?」
その言い方に含みを感じ、シャルナークが聞きとがめると、クラウドは微笑んで言った。
「二日前の朝食」
「二日前?」
「あの時何を話したか、覚えているかな?」
(おとといの朝、何を話したか……?)
家族の集まる食卓でのことか。立て続けに色々なことが頭に入ってきて失念していたが、そういえば何か重要な話をした気がする。
(……そうだ)
はたと思い出す。リディアンヌのことだ。婚約式の話題がでて、エリーが行きたいと騒いで……。
つかみを思い出せば、勢いよく流れおちる滝のように頭に浮かんでくる。それを順に追っていき、ある場面にたどり着いたとき、シャルナークは思わず息をのんだ。
「ソマリス……」
「思い出したかな?」
呆然とつぶやいたシャルナークに、クラウドがにっこりとほほ笑む。
「きみは父上からソマリスで王太子とリディの婚約式に出るよう言われたんだったよね。それって敵のふところのど真ん中だろう? シャルナーク、きみは我がヴィエンダールの王子だ。王から任命された正式な大使で、身元は確実だし不審な点もまったくない。そしてソマリス王国王太子フェルディナンド殿下のご学友だ。親友の婚約祝いに駆けつけた隣国の王子。完璧だろう? 下手に諜報官が入り込むより、よっぽど安全安心に諜報活動ができる。これほど諜報官に適した人材がいるかな?」
まるで唄っているかのような口調で理路整然と畳みかけられ、シャルナークは口を挟むすきもなかった。
(やられた……)
何日も前から周到に用意されていた筋書きだったのだ。あの朝食の席でリディアンヌの婚約話を持ち出したのは確かにクラウドだった。
シャルナークは心の中でがっくりとうなだれた。言っていることは確かに正しい。敵の内部に潜入するのなら、できるだけ怪しまれずに済むに越したことはないのだ。
「シャル、僕はお前の優秀さを買っているんだよ。特別捜査官、引き受けてくれるね?」
優しげに響く声の奥に、有無を言わせない迫力を感じる。反論材料を持たない丸腰の自分に、もはや選択の余地はなかった。
「……わかりました」
「結構」
クラウドは上機嫌で、まだほのかに湯気のたつハーブティーを優雅にすすった。
(さすが本物の王子様はちがうわ。言い争ったり、駆け引きに火花を散らしていても、まとっている空気が高貴すぎる……)
先ほどからディアナは、二人の王子の攻防を、まるで舞台でも観ているような気持ちで眺めていた。自分の思い通りにしたい銀髪の王子と、それに反発する漆黒の王子……。手に汗握る展開を制したのは、やはり眉目秀麗の兄王子だった。
〈夢幻遊戯〉でも他の劇団でも、王子様が出てくる芝居はたくさんあったので、ディアナ自身たくさんの〈王子〉役をみてきたが、やはり本物にはかなわない。光を放っているような独特のオーラを感じるのだ。
(もし二人が光の勇者を演ったとしたら……どんな騎士になるかなぁ)
ディアナは騎士姿になったクラウドとシャルナークを脳裏に思い浮かべる。白銀の甲冑に身を包んだきらびやかで優美な騎士様もいいけど、少し影のある、憂いを含んだ目をした黒髪の騎士様も捨てがたいかも。
ここがどこかも忘れて、芝居の世界に入り込んでいると、シャルナークが「少年」と言ったような気がした。ふっと我にかえると、二人の視線がディアナに集中していた。
(つい考え事しちゃってたっ)
「この少年と組んで任務を行なければいけないのはなぜですか?」
シャルナークがディアナを不審そうに見ながら言った。
「正直足手まとい以外の何ものでもない」
「この任務には彼が必要だという僕の判断だ」
「そうだとしても、素性も、名前すら知らない子供を連れて行くのはいやです。か弱そうだし、任務に支障がでます」
きっぱりと拒絶したシャルナークにむっとしたが、すぐにしゅんと落ち込む。彼の言うとおりだ。自分は何も話していないどころか、他人のふりをしてだまして、今は性別すら嘘を言っている。偽りだらけだ。それで信用してほしいなんて、言えるわけがない。
「そうか、紹介がまだだったね」
クラウドがそう言ったので彼を見ると、にっこり笑った。どうやら自己紹介しろと言っているようだ。ディアナは自分を不満そうにじっと見つめるシャルナークに、恐るおそる言った。
「わ……僕はディックと言います」
名乗って、またクラウドをちらっと見上げる。さっき着替えの時に、とりあえず間違えかけてもごまかせる偽名だけは決めておいたが、時間がなくてほとんど打ち合わせできなかったのだ。これ以上どこまでディアナのことを話していいのかわからず、途方に暮れる。
黙っている時間がまだ不審に思われそうだと焦りかけた時、横から落ち着いた声が割って入った。
「彼はヴァレンタイン王立大学植物学科に今年から在学している学生です」
ルーセントがさも当然のように説明をはじめてくれたおかげで、自分で話さなくてすんだようだ。助け舟にほっとする。
「ヴァレンタイン大学……」
シャルナークの険しい表情が少し緩んだ。ヴァレンタイン大学に入れるなら、少なくとも身元は確かだし、頭も少しは切れると判断されたのだろうか。
「高等学校時代はマリードで過ごされていたそうです」
(なんだ。わたしの生活そのままでいいのね)
生活内容まで偽るとなると、どこかでぼろを出してしまいそうだったので、ほっとする。
「マリード? それは本当なのか?」
またも疑わしい目で見られ、ひるみそうになるが、ここで引いてしまったらもう信用を得る機会がなくなってしまうかもしれないと思い、必死で耐える。任務がどんなものかさえわからないが、ウィルに会うためなら、とにかく第三王子と一緒にソマリスに行く以外方法はないのだ。
「本当です」
ルーセントが静かに後をつなぐ。
「実際にこの目で見ましたので」
「どういうことだ?」
「マリードのサルハが芸術の都と呼ばれていることは知っているだろう?」
クラウドが説明に割り込んできたが、不承不承シャルナークはうなずいた。
「サルハには多くの劇団があるが、彼はその中でも三本の指に入る新鋭劇団に所属していた」
「劇団に?」
シャルナークはディアナを振り返る。驚いた瞳に、納得の色が浮かんだ。ディアナが演劇をやっていたから、リディアンヌのふりができたのかと思ったのだろう。
「そうだ」
クラウドが立ち上がった。
「ルーセントをマリードに派遣していたのは、特別諜報室にふさわしい人物を引き抜くためだ」
それはディアナにとって初耳だった。シャルナークを見れば、彼も同じように驚きと怪訝さが入り混じった顔をしている。王族である彼も知らない機関とは、どんなものなのか。ただ何かを探ればいいと言うわけではないのだろうか。
「特別諜報室はどんな存在なのですか?」
シャルナークが冷静に訊く。クラウドはやっと聞いたのかというように艶美に微笑んだ。
「そうだね、一言でいえば、特殊な能力を持つ人材を集めた室だよ」
「特殊な能力?」
「そう。まだできたばかりだからね、少ないけど、大きく分けて二種類の人間が所属している」
「二種類というのは?」
「まずは五感に特化した能力を持つ者たちがいる。目や耳が異常に良かったりして、それを駆使して諜報活動を行っている。それから、人より優れた特技を持つ者。詳しくは言わないけどディック、きみもその一人だ」
「わ……僕、ですか?」
思わずわたしと言いそうになり、慌てて言いかえる。
「きみの演技力は素晴らしい。ただ演技がうまいだけではなく、他人になりきれる能力を持っている」
シャルナークが少し苦い顔をしたのが、目端に映った。
「きみのその力を貸してほしい」
「……重要な任務に、僕はお役に立てるのでしょうか」
いくら演技ができても、国家の陰謀に関する調査に、無力な学生である自分に何かできるなんてうぬぼれられるほど、ディアナは自信を持っていない。しかも潜入となると、設定はあっても台本はまったくなしだ。
だが、クラウドはにっこりと力強くうなずいた。ディアナの両手をとり、そっと包みこんだ。
「もちろんだ。きみにしかできないことなんだよ」
「僕にしか、できない?」
手を引き抜くわけにもいかず戸惑いながらも、聞き返す。
「そう。きみにシャルナークと一緒にソマリスへ潜入してほしいんだ。リディアンヌの友人として」
「リディアンヌ様の友人?」
ちょっと待って。ディアナは混乱した。男のふりをするはずなのでは?
おずおずと訊く。
「あの、男である僕がリディアンヌ様の友人として行くのは、あまり体面が良くないのでは……?」
「あたりまえだ! 婚約したばかりの公爵令嬢に別に男がいたなんてうわさされたら、国の不名誉だ!」
クラウドが口を開く前に、シャルナークがすごい剣幕でどなった。クラウドの方にその勢いのまま向き直る。眉根にかなり深いしわが刻まれている様子からして、今まで黙っていたのは静かに憤っていたかららしい。
「行くのは自分ひとりで十分です」
「だが女性を連れて行った方が監視の目が和らぐし、一人よりは行動しやすい」
「剣もろくに使えなさそうなやつを連れて行っても、足手まといになるだけです」
(女性? どういうこと?)
シャルナークは頭に血がのぼっているのか、すぐに気づかなかったが、ディアナはいやな予感を覚える。まさか……。ディアナは可能性に思い当たってうろたえる。
シャルナークも吐きだしたあと何か引っかかりを感じたのか、不可解な表情をした。そのままつぶやく。
「女性……?」
クラウドが心配そうに言う。
「リディは緊張からか今少し体調がよくないらしい。そこにリディの友人を連れて婚約のお祝いとリディのお見舞いに行くという設定だ。すばらしい案ではないか」
「ちょっと待って下さい、女性とはどういうことですか?」
シャルナークに詰め寄られたクラウドは、きょとんとした顔で首をかしげた。そんな子供のような表情やしぐさをしても、彼の持つ高貴な雰囲気は損なわれることはない。
「彼のことだが?」
(わたしか――――!)
指し示されたのは案の定ディアナで、指の先を目で追ったシャルナークが、ディアナをみとめて穴の開くほど凝視してきた。その顔には驚愕の二文字が浮かんでいる。
「まさか…………」
「そう、彼に女装してもらって、リディの友人を演じてもらうんだ」
(つまり、男のふりをしながらさらに女のふりをするってこと?)
「ちょ、ちょっと待ってください。女装するなんて、聞いていません」
ディアナは必死で言いつのった。女なのに、女だとばれないように男として女を演じる。そんな複雑なことできるわけがない。
クラウドは片眉を上げると、ディアナの前に立った。碧い瞳でじっと見つめられ、どぎまぎする。美形すぎてある意味怖いくらいだ。
「キミは俳優だろう? 大丈夫。きみならできる。僕が特別諜報員として見込んだのだから」
そして、そっと耳打ちをされる。
「裏の裏は表だよ」
――つまり、女として女性を演じるのでも、男として女性を演じるのでも、結局は演じる人物が女性なら同じ、ということか。
クラウドのいいたいことを理解すると、不思議と気持ちが落ち着いてきた。ウィルの無事をこの目で確認するためには、どうしてもソマリスに行く必要がある。そのためには、どうしたってこの仕事を引き受けなければはじまらないのだ。
「やります。やり遂げてみせます」
気づいたらそう返事をしていた。特別諜報員は全員特殊な能力を持っていると言っていたが、彼にもある意味備わっているのではないだろうか。人の心を惹きつけるという。
(天性の魅力……)
不安は尽きないが、この難問に挑まなければ何も進まない。ウィルを助けるために、とにかく演るのみだ。
戸惑いながらも覚悟を決めたディアナが気合を入れる一方、ひとりで行動することを頑として主張しているシャルナークがすんなり腹を決めるわけがなかった。
「彼はやってくれる気になってくれたのにシャルは何か問題でもあるのかい?」
「問題だらけでしょう? 女装するなんて、万が一敵にバレたら危険だ。ひとりで身も守れそうもないのに」
「ではうちの局の女性を連れて行くかい?」
憤るシャルナークにクラウドが訊ね、返事を待たずに一気に続ける。
「そうしたいならそれでもいいが、今いる諜報局員の中で、女性は三名。そのうち一番若手が二十四歳。武家の出で一通りの武術をたしなんでるから足手まといにはなり得ないけど、極度の男嫌いで、自分の間合いに入る男はみんな投げ飛ばす。だから今は事務をやらせている。次が三十代の百戦錬磨の特別諜報局員。見た目は若いが、醸し出す雰囲気が……だから、さすがにリディの友人には厳しいだろう? 最後は諜報歴50年の大ベテラン諜報員だ。なぜだめかは言わずもがなだ」
「あの、なぜそんな年配の方が?」
好奇心を抑えきれず、ディアナはおずおずと質問した。
「諜報活動は様々なところで行われているからね。優秀な諜報官とは周りに警戒されず、周囲に溶け込むことだ。もしかしたら気づかないだけで、結構近くにいるかもしれないよ。もっとも彼女は今地方業務にでてしまっていて不在だがね」
ディアナに片目をつぶると、だんだん顔色が悪くなってきていたシャルナークの横に腰かけ、肩に手をかけながら顔を覗きこむ。
「さて、どうする? 残るふたりのうちどちらかと行くかい? それでもいいけれど、ひとり行動は許さないよ」
かなりの時間逡巡し、シャルナークはディアナを力なく指差した。
「……こいつと行きます」
(本当に女性が苦手なのね)
あれだけ冷たい態度をとっていた相手を選ぶとは、よほど女性と行動をともにしなくないのだろうか。それとも、単にこの三人の中から選びたくなかっただけなのか。
どちらにしても、選んでおいてディアナを見ようともしないのは、この選択が不本意であることの表れだろう。どうしようもなく消去法で選んだことがありありと伝わりムッとするが、女性が苦手になった理由を思い出し、少し溜飲を下げる。
「では決まりだ」
絞り出すように言ったあと渋面をつくったままのシャルナークの肩を満足げに二度たたき、クラウドはうなずいた。
ディアナはこちらを見ていないのをいいことに、シャルナークをじっと見つめた。セナから聞かされた話から、真面目で物静かな王子様を想像していたが、実際会ってみると全然違う。クラウドやアレクシオンに比べると確かに外見的にはきらびやかさは少ない。だが報われないと知りながらもひとりの女性を想い続ける姿に、決して熱くはないが、あたたかな情熱を胸に秘めていることに気づいた。自分もこんな風に愛されたい。そう思わせるような……。
ふと、リディとして接していた時に向けられた恋情を思い出し、ディアナの胸の奥がかっと熱くなる。あの時、まるで自分が愛されているような錯覚におちいりそうになった。そんなはずないのに。自分はただの一般庶民で、令嬢なんかではないのに、つい夢を見てしまいそうになった。舞台に立っていた時はほとんど少年役だったから、舞台上で素敵な王子様に見つめられても、凛々しい騎士に手をとられても、こんな淡い気持ちになることはなかった。
だが、今彼を見つめてみても、別に心が揺れることはない。
(やっぱり、芝居中じゃないからよね)
そう考え、ほっとする。
思えば、舞台でない場所で演技をしたのは、今日がはじめてだ。しかも、秘書に侯爵令嬢と立て続けだ。はじめての経験で、演じていたのは現実の世界。リディ役に気持ちがのめり込みすぎても不思議ではない。だいたい、あんな冷たい目をする王子様には舞台上でだって恋をするのは難しい。
(現実の世界で演じる……か)
ディアナはため息をついて天井を見上げる。豪奢なシャンデリアが光を反射して無数にきらめいている。舞台と違って、現実には場面転換も暗転もない。一度はじめたら、終わるまで演りつづけなければならない。そしてそれは、シャルナークにずっと嘘をつき続けなくてはならないということだ。それを考えると、気が重い。人に嘘をつくというのは考える以上に体力を消耗することだとはじめて気づいた。
シャルナークを見ると、彼も物思いに沈んでいるようだ。正式に同じ任務につくと決まったはいいが、彼とはあの試験のあと冷たく突き放されてから、ほとんど話らしい話もしていない。ウィルのためとはいえ、お互い気まずい思いを抱いたままで、未知の地ソマリスでうまく立ち回ることなどできるだろうか。しかもディックとして、女性を演じながら。だがどうしたら歩み寄れるのか見当もつかない。
(ただでさえ、王子様ってだけでハードル高いのに、一緒にソマリスに行かせるつもりだったならなんであんな風に逢わせたのよ)
出逢い方さえ違えば、もう少し壁は低くなっていたかもしれないのに。思わずクラウドを恨みがましい目で見てしまう。ディアナの目線に気づいたクラウドは楽しそうに笑いかけた。
「これから二人は相棒になるんだから、今までのことは水に流して、一からいい関係を築いていかなければね」
だから、この距離感をつくったのは、あなたです!
ディアナの心の叫びを、同じくシャルナークも叫んだのに違いない。勢いよく顔を上げクラウドを睨もうとしたが、ディアナと目が合うと、気まずげに目線を落とした。だが、すぐにもう一度ディアナの目を見つめると、早口で言った。
「お互いいろいろと思うところはあるが、決めたからには任務を遂行しなければならない。そのためには、協力が必要だ」
怒ったような口調だが、これが彼の精いっぱいなのだろう。矜持の高そうな彼がここまで言ったのだから、ディアナもあの試験のことはいったん忘れることにする。
「よろしくお願いします」
頭を下げて戻すと、いつも笑みを絶やすことのなかったクラウドから、柔らかさがかき消えているのに気づいた。思わず息をのむ。
クラウドがゆっくりと言った。
「では本題に入ろうか」
「盗まれた機密の研究のことですね」
仏頂面していたシャルナークが、すぐに居住まいを正して真面目な顔になる。クラウドも口元は少し緩めたものの、目は笑っていない。一国を担う者たちの一種の緊迫感のようなものに触れ、ディアナは今更ながら自分が足を踏み入れた世界に脅威を感じた。ディアナはウィルのためだけにここにいるが、彼らは国のすべての民のためにここにいるということを強く意識する。
背負うものの大きさの違いにおじけづきながらも、ディアナは背筋を伸ばした。やると決めたからには、できるだけのことをしなくては。
「盗まれたのはもう十年以上も前に書かれた、新種の植物の論文だ」
植物と聞いてディアナは思わず声をあげた。
「植物が機密なんですか?」
「ただの植物じゃない。使い方を間違えば一国がつぶれる。それほど恐ろしいものだ。だから封印していた」
クラウドはかたい声で言うと、幾分か表情を和らげてディアナを見た。
「きみは植物学科に通っている学生だ。それもあって、今回の任務には適任だと判断したんだ」
「それは毒ですか?」
シャルナークが冷静な声で訊くと、クラウドは首を振る。
「いや、我が国の研究機関は優秀だからね。大概の植物毒なら解毒剤も作れるし、国が傾くようなことはまずない」
(毒ではないとすると……)
ディアナは目を閉じる。植物からつくられる危険なものは二種類ある。ひとつは毒。そしてもうひとつは……。
「薬、ですね」
「その通り」
クラウドが軽い驚きと称賛の目でみたので、ディアナは重苦しかった気分が少し持ち上がった。
(植物に関してなら、わたしでも役に立つことがあるかもしれない)
「薬? なぜそれが危険なんだ?」
シャルナークが怪訝そうな目を向けつつも普通に話しかけてきた。心の中はどうであれ、表面上は水に流すことにしたようなので、ディアナも平静に答える。
「薬はもちろん身体の悪いところを治すのに有効なものですが、量や使い方を間違えれば毒にもなりえます。薬の中には、ある種の成分だけを強めて、悪用するものもあるので……」
「つまり、麻薬か……」
ディアナのつたない説明でも、さすがに理解が早い。
「今この大陸にどんな麻薬があるか知っているかな?」
クラウドの問いに、ディアナは一瞬返事に迷った。麻薬はとても高価なので、庶民の間で出回ることはまずない。だから知っているというと変な誤解をされそうで怖かったのだが、隠してもきっと第二王子には見抜かれてしまうに決まっているし、きちんと説明すればわかってくれるはずだ。だったら勘違いされないためにも、話した方がいいだろう。
ディアナはうなずくと、植物学者だった父の影響で、麻薬とはどういうものか、どんな植物から造られるのかは知識として一通り把握していること、もちろん造ったことなど一度もないし、使ったこともないことを懸命に話した。
「そうか、父君は亡くなっているんだな……」
憐れみを寄せて、クラウドがつぶやいた。
「だが、父君から教わった知識は本物だ。今回の任務にはかなり役立つだろう」
「ですが、栽培方法は知らないんです。父はそれは知らなくてよいことだと教えてくれなかったので」
申し訳なさそうに言うと、クラウドはふっとやさしく微笑んだ。
「それは父君がきみのことを想っていたからだろうね」
「どういうことですか?」
「麻薬を製造できる人間というのは、麻薬をほしがる連中からしてみれば金や宝石を生み出すことができるのと同じだ。きっと知られればどんな手段を使っても奪いにくるだろうね」
つまり、下手をすれば一生拘束され、彼らの下で麻薬を造り続けることになるということか。ディアナはいつもにこにこしながら植物に話しかけていた父の顔を思い浮かべた。そうやってディアナを守ってくれていたなんて知らなかった。思いがけず父の気持ちに気づけたことに嬉しさがこみ上げるとともに、淋しさも胸に染み込んできて、ディアナは唇をかんだ。
「シャル、きみは?」
クラウドが質問すると、シャルナークは淡々と答える。
「知識としてはいくつか知っています」
「では、〈シーフ〉という麻薬は聞いたことがあるか?」
どちらにというわけでもなく問われたので、何となくシャルナークに目を向けると、ちょうど彼もこちらを見たところだった。目が合い、思わずうろたえる。忘れようと思っても、あの時〈リディ〉に向けられた氷のような視線は簡単には忘れられない。まだ普通に接するには時間がかかりそうだ。シャルナークはそんなディアナの動揺を感じ取ったのか、すぐに目線を外してクラウドに向き直ると、自分から話し出した。
「名前は聞いたことがあります。確か三年ほど前から出回り始めた麻薬です。人工栽培できない植物から造られる、とにかく希少なものだと」
シャルナークの説明が正しいことは、クラウドが笑みを浮かべたことでわかった。ディアナは効能や原料の植物は知っていても、栽培方法や出回り始めた時期、場所などはまったくわからない。シャルナークはもちろん使っているわけはないから、どこからか知識として仕入れているのだろう。王子というのはこんなことまで知らなければいけないのかと、ディアナは驚いた。いや、すべての王子が調べるわけではないだろう。きっと彼だから知り得たのだ。彼ならきっとこんなことわざわざ調べないだろうなと、双子の麗の王子を思い浮かべる。麻薬の知識なんかより、女性と遊び歩いている方が好きそうだ。
(シャルナーク様って礼の王子なんて呼ばれて物静かなイメージだったけど、実はすごく行動的なのかな)
「ディック、シーフを乱用することによる症状は?」
急に聞かれたので、ディアナははっとした。いけない、思考に沈んでいると、ディックでいることを忘れてしまうかもしれない。気を持ち直して、ディアナは『ディックらしく』を意識して答える。
「えーっと、シーフは飲用する麻薬です。飲むとまず頭がぼうっとして、眠くなります。短時間で目が覚めますが、起きると気分がすっきりして軽い高揚感があり、何時間も寝た後よりも身体が軽く感じるそうです」
「睡眠薬のようだな」
欲しいと言わんばかりのシャルナークに、ディアナは忠告する。
「シーフはカルダモンの実から精製されます。同じカルダモン科のコリアンの根は確かに睡眠導入剤として重用されていますが、シーフは常用性があって、一度でも使うと手放せなくなります。少ししか寝なくても、長く寝たと身体が勘違いするのを続けていけば……」
「人間は必ず病気になるね」
クラウドが引き継ぐと、シャルナークは渋面をつくる。
「さらに身体に一度に取り入れる量によっては、自分の意思が保てず、操られるような状態になることもあるようです」
ディアナの説明にクラウドはうなずくと、難しい顔をした。
「カルダモンは特定の山にしか生息せず、人の手で栽培することができないとされている。……いや、されていた、と言った方が正しいかな」
その微妙な言い回しに、シャルナークがはっとした。
「もしかして、盗まれた論文というのは、シーフに関するものですか?」
「そうだ。十年前、ヴァレンタイン大学の研究者が新種のカルダモンについて論文を発表した。その論文は特に注目されることもなく、長い間大学の資料室で眠っていたのだが、シーフが出回り始めてからその存在があきらかになり、機密扱いされることになった」
「つまり、公になると都合の悪い内容が書かれていた……?」
自問自答のようなディアナの問いに、クラウドが鷹揚にうなずく。
「そうだ。その論文にはカルダモンの栽培方法が書かれていたんだ」
ディアナはぴんと来なかったが、シャルナークは一気につながったらしい。考え込みながらつぶやく。
「そうか、そういうことか……」
「さすがは僕の弟。僕に似てのみ込みが早いね」
(え? どういうこと?)
焦るディアナに、シャルナークがこれみよがしなため息をひとつついた。
「栽培できないと思われていた麻薬を造るための植物。その栽培方法が書かれた論文が盗まれた。なぜか?」
こんなことも理解できないのかと呆れているのがありありとわかる、ぶっきらぼうな説明を急にふってくる。ディアナはイラっとしながらも答える。
「その植物を栽培するためです」
「栽培して、どうする?」
「それはもちろん、麻薬を……」
答えかけて、その先の事実に気づく。麻薬を造ったら、何に使うのか。
誰かにこっそり使っていたら、その人は気づかないうちに少しずつ消耗していくだろう。だがそれには気づかず、むしろ体調がいいと錯覚さえするかもしれない。それが麻薬の恐ろしいところだ。
(さっき第二王子が話していた、ソマリスで起こっている異変……)
思い出そうとこめかみを軽く抑える。そう、確かこう言っていた。
『ひと月前あたりから、ある大臣が急に王に重用されるようになってきたというんだ』
(栽培した麻薬を、ソマリスの大臣が王様に使っている?)
その考えに行きつき、目を見開いたディアナに、クラウドがまるで心を読んだように言う。
「ソマリスで今使われているシーフは、たぶん前からあったものだと思う。論文が盗まれたのはたった二ヶ月前だし、栽培していたとしてもすぐに収穫できるものではないはずだ」
「でもソマリスのどこかで栽培されている可能性があるということですか……」
端正な形のいい眉を寄せて、シャルナークが独りごちる。
「それを書いた研究者は?」
「残念ながら、作成者が不明なんだ。論文にはもともと何枚か抜けているところがあってね」
「でも、たった十年前なら大学に問い合わせればわかるのでは?」
「誰が黒幕かわからないのに、こちらの動向が露見するのは避けたい」
暗に大学に協力者がいる可能性をにおわされ、ディアナは顔見知った教授たちを思い浮かべる。大学の中にウィルをはめて、ヴィエンダールを陥れようとしている人がいるかもしれないなんて……。恐ろしさに身震いしそうになったが、今はディックであることを思いだし、ぎゅっと我慢する。少年とはいえ、男が身震いなどしたらシャルナークにまた使えないと思われそうだ。
ディアナは深呼吸した。頭を整理するために確認する。
「論文が盗まれたのが二ヶ月前。大臣が重用され始めたのはひと月くらい前といっていましたね?」
「そうだ。さすがに新たに造るには時間が足りないだろう」
「盗んだ論文とカルダモンの種子で栽培を始めるとしたらまずどうするか……」
ディアナが考え込むと、シャルナークがこともなげに言った。
「普通は庭師に頼むだろうな」
「じゃあもしうまく育たなかったとしたら?」
人の手では栽培できないと言われていた植物だ。方法がわかったからといって、簡単に育てられるとも思えない。
「ソマリスの庭師ではだめだということになれば、別の誰かを連れてきて栽培させるだろうね。それこそカルダモンに詳しい人物を探して」
クラウドの言葉で、ディアナの脳裏にある人物が浮かぶ。
「ウィル……」
「ウィリアム・マクリード?」
「ウィルは植物育種学を専門にしていました。父の弟子みたいな存在でしたから、麻薬についても詳しく教わっていたはずです」
「失踪と同時に大学からいくつかの論文が失くなったと言っていたね」
「はい」
「失くなった論文の内容は?」
「ええと……」
ディアナは題名を思い出そうと上を向いた時、
「兄上、そのウィリアムとかいう男は誰ですか」
シャルナークが不満そうに話に割って入った。そういえば、彼はここに来るまで何も聞かされていなかったらしいということを思いだす。自分の叔父であることを伝えようとしたが、口をひらく前にクラウドが微笑んで答えた。
「ディックの大切な人だよ」
シャルナークが思いきり怪訝な顔をした。
(ちょ、ちょっと、ディックの時にそんな言い方したら、変に思われるじゃない)
慌てて違うと言おうとしたが、納得したわけでもなさそうなシャルナークが早々に話を切り上げてしまった。疑惑の目をしているならともかく、無表情なのが気にかかる。
「で、そのウィリアムが失踪したと?」
「ああ。彼はヴァレンタイン大学の研究員だったんだが、昨日失踪したんだ。ソマリスの大臣の娘と婚約し、ソマリス大学の助教授になると手紙を残してね」
「明らかに怪しいですね」
口を挟むすきをうかがっているうちに、話はどんどん進んでいく。
「あの」
「それでディック、論文は?」
質問を再度ふられ、結局答えだけを言葉にのせる。
「あ、ええと、肥料や北方の土地についてだったかと」
「……なるほど」
クラウドは何かに気づいた顔をした。
「カルダモンが自生しているのは寒冷地帯の山だけなはずだ」
「あ……」
その言葉で頭にひらめいた。
ソマリスはヴィエンダールの南東に位置する国だ。ヴィエンダールよりも温暖で、冬でも過ごしやすいと聞く。そんな土地で寒冷地帯に生息する植物を育てようとしたら、どうするだろうか。
「ただでさえ育てることが難しい植物なのに、気候も適していないとなると、少しでも自生している土地に近づける必要があります」
すべてはカルダモンをソマリスで栽培するために必要な論文だったのだ。北方の土地に関する論文には土壌の性質や生育に向く植物などについて書かれていた。肥料の資料には各土地の土質にあった肥料とその与え方の記載があったはずだ。
「つながってきたね」
クラウドがあごに手をやりながら、遠くを見つめる。その先にはソマリスを見据えているのだろうか。
「シャルナーク、ディック。きみたちの最大の任務は、ソマリスでカルダモンが栽培されている証拠を早急に見つけ出すことだ。それと、栽培に関わっている人物を探ること。この二つを王宮に潜入して調べてほしい」
シャルナークもディアナも無言でうなずいたが、ディアナにはまだ気になることがあった。
「あの、」
「マクリード研究員のことかな?」
言いかけただけで、クラウドが正確にいい当てた。ウィルのことで頭がいっぱいのディアナは、さすがに切れ者と言われるだけあって勘がいいんだなと驚き、感心しただけだったが、見る人が見れば明らかに面白がっているのがわかっただろう。クラウドがウィルの名前を出した時、なぜかシャルナークの表情が微妙に変化したことにも、ディアナは気づいていない。今のディアナは、周りに目を向けている余裕はなかった。はたから見ればかなり思いつめた表情で、ディアナは問うた。
「はい。あの、ウィルがもしソマリスでカルダモンの栽培をしているとしたら……」
「どうなるか、ということかな?」
「…………」
誰にも告げずに失踪したこと。それと同時に失くなった論文と資料。届けられた不可解な手紙。ソマリスの大学に籍をおいている現状。
今までの検証を考察していくと、どの角度から見てもウィルがこの事件に関わっているのは間違いなさそうだ。問題は自分の意志か、それとも裏に誰かいるのかということだ。だが、脅されているにしろ、ありえないと思いたいが自ら進んでやっているにしろ、もしウィルが栽培しているという明確な証拠が出てきてしまったら……。
ディアナはうつむいて、ぎゅっと手を握りしめた。
ウィルは大事な家族だ。もし何かあったら、ひとりになってしまったら。そう思うと、怖かった。
「信じろ」
一瞬、誰の声かわからず、ディアナは顔を上げた。その途端、藍色の目に強い力をたたえたシャルナークを目が合う。
「絶対にその論文を取り戻して、関わっている人間を捕まえる」
ウィルを助ける、とは言わなかった。けれど、なぜだかディアナには、そう言ったように感じた。大事な人を信じろ。信じればきっと助けられる。
(そうだ……。わたしウィルのことを疑い出してた)
信じていたからここまで来たのに、色々な事実を突きつけられて、いつの間にかウィルが自分で行動しているような気になっていた。そんな証拠はひとつもなかったのに。
(わたしが信じなきゃ、何もはじまらない)
昨日までは何もできないと思っていた。でも今は、ウィルのためにやれることがある。
(まずは信じること)
それを思い出させてくれたのが礼の王子だというのは何か意外で、でもすんなり腑に落ちた。人の心を動かす情熱を秘めている彼なら、信じられる気がした。
「さてまとまったところで、今後の予定について説明しよう。何しろ時間がないからな。君には貴族として最低限のマナーと立ち振る舞いを身につけてもらう必要があるしね」
ウィルを助けると決めた時から、大変さは覚悟していたが、いざ言葉にされると不安がこみ上げる。
「貴族を演じるのに必要な身の回りのものなどはこちらで揃えさせるから心配しなくていい。他に何か特別にこの仕事に必要なものはあるかな?」
問われてディアナはしばらく考え、あっと思い当たった。自分が芝居をするために必要不可欠な存在を思い出したのだ。
「何かあるか、あとで聞くから考えておいてくれたまえ。では、まずはおおまかな日程についてだ」
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