第5話 臨時試験は王宮でとり行われます。

 王宮を追い出されたディアナは、とりあえず大学に向かって歩いていた。手ぶらで帰りたくはないが、他に行くところもない。むしろ、あんなことをして捕まらなかったことは運がよかったとしか言い様がない。もともと何か持ち帰られる保証なんてなかったのだ。それでも帰る足取りは重苦しかった。

 自然な丘陵に造られた王都ヴィスタは坂が多い。ただでさえつらい登り坂だが、落ち込んだ気持ちも手伝って、足が鉛のように重く感じられる。

 第二王子はウィルが行方不明だと言った。なぜ行方をくらませたのか。機密とはなんなのか。あの資料室から失くなった論文と何か関係があるのか。結局、わからないことばかりだ。

(せっかくサイモン教授とネリアが協力してくれたのに……)

 ウィルを助けるどころか、ウィルが機密漏洩事件に関与していて、指名手配されたという動かしがたい事実を突きつけられただけだった。

(ウィル、どこにいるの?)

 ディアナは涙がこぼれそうになるのをこらえるように空を見上げた。ディアナの気持ちとはうらはらに、少し新緑の香りをふくんだ風はさわやかで、空はどこまでも青くつきぬけている。

 後ろから軽やかな蹄の音が近づいてきたと思うと、風のように追い越した二頭引きの馬車がディアナの行く先にすべるように停まった。ディアナはその馬に一瞬で目を奪われた。豪華な装飾のついた馬車を引いていたのは、凛々しい白馬だった。二頭ともきりっとした黒い目を前に向けて優雅に立っている。その美しさにディアナが目を瞠っていると、中から一人の男が降りてきた。

 ダークグレーのスーツを身につけた男は、ディアナに向かってまっすぐ歩いてきた。思わず周りを見渡すが、ディアナのほかに人気はない。

(わたしに用事?)

 見知らぬ男はディアナの前に立ち止まると、鳶色の瞳をまっすぐ向けた。その端正な顔にくぎづけられる。

「ディアナ・フェンリール嬢ですね?」

 涼しい声でディアナの名を呼ばれ、気圧されるようにうなずく。

「そうですが……」

「怪しいものではありません。私は王宮から来たものです」

「王宮から?」

 ディアナはまじまじと男を見た。確かに彼の立ち振る舞いには気高さを感じる。整った造作に絵の中の王子のような金の髪。そのたたずまいは大成功をおさめた舞台を思い出させる。すらりとした体躯に貴公子然とした金髪はまさに〈光の勇者〉のようだ。だが鳶色の冷たい瞳と、にこりともしない表情が加わると、精巧な人形のようにも見えた。

男は形のよい唇を開く。

「私はルーセント・ランスコートと申します。私の主があなたをお呼びです。今一度王宮まで来ていただけますか?」

「王宮へ?」

 耳を疑った。王宮と言えばついさっき追い出されたばかりだ。まさか、やはり王宮への不法侵入罪で捕まるのだろうか。

 不安そうに身を引きかけるディアナに、ルーセントが見越したように言う。

「さきほどの件であなたが処罰されることはありません。ウィリアム・マクリードのことについて話があるのです」

 その言葉にディアナは目を見開いた。

「ウィルのこと何か知っているんですか?」

 不審に思っていたことも忘れ、思わずルーセントにつめ寄る。

「ウィルを助けてくれるの?」

「それはあなた次第です」

「わたし次第?」

「話をお聞きになりますか?」

 ルーセントに静かにみつめられ、ディアナは考えるまでもなく即答した。

「行きます」

 ウィルにもう一度会うために、少しでも情報がほしい。

 ルーセントに導かれ、ディアナは馬車に乗り込んだ。


 案内されたのは先ほど入った秋嘉殿の入口ではなかった。宮殿内のいくつもある門を通過し、そのたびにルーセントが身分証を提示しているのを不安げに眺める。かなり奥にきているようだが、疑問には思わなかった。これほど広い宮殿ならいくつも入り口があるに決まっている。きっと奥の目立たないところから入城するのだろう。そんなことよりも、いまはウィルのことで頭がいっぱいだった。少しでも話が聞けないかとちらりとルーセントを見ても、彼はこちらを見ようともしない。ここではまったく話す気はないのだろう。

 馬車を降りるとすぐにルーセントは歩きだしたので、周りを見る間もないままディアナも慌てて後を追う。

 建物の中に入ると、ディアナはさっきまでいた秋嘉殿とは様相が違うような気がして首をかしげた。長い回廊には品の良い調度品が置かれ、柔らかな絨毯が敷き詰められている。秋嘉殿もしっかりした造りだが、そこは政務を行う宮なだけあって、内装は簡素なところも多かった。だがここはもっとひとつひとつにこだわりが感じられる。上を見上げれば素晴らしい神話の天井画が見えないほど先まで描かれている。見つめれば吸い込まれそうになるほど細かく描かれた絵から今にも天使が降りてきそうだ。

 先ほど秋嘉殿に乗り込んだ時は緊張していて周りを見る余裕もなかったので、はっきりと違うとは言えないが、ここは政をする場にしてはあまりにも豪華すぎないだろうか。ゆるぎない足取りで前をいくルーセントにおそるおそる訊ねる。

「あの、ここは……秋嘉殿ですよね?」

「慶春殿です」

 ルーセントにあっさりと言われ、ディアナの顔から一気に血の気が引いた。

(慶春殿って……王様たちが暮らしている宮殿よね!? 普通の人どころか偉い人すら簡単に入れないって聞いてるけど!?)

 だがルーセントは、勝手知ったるように宮殿の中をどんどん進んでいく。そしてある一室の前に着くと、扉をたたいた。

「お連れ致しました」

 ややして、「入れ」と声が聞こえた。扉を開けたルーセントに目でうながされ、ディアナがおそるおそる中に入ると、正面の大きな窓の前に置かれた執務机に男が座っているのが目に入った。

 後ろの大きな窓から差し込む光で顔はよく見えなかったが、その見覚えのある豊かな銀髪にディアナは目を瞠った。

「待っていたよ」

 彼――――クラウド王子はにっこりとして立ち上がり、呆然としているディアナの前に来た。

「さあ、こっちにかけたまえ」

 指し示された長椅子になんとか座ると、クラウドは向かいに優雅に腰かけ、足を組んだ。

「緊張しなくていいよ」

 ふわりと笑うクラウドに、ディアナはごくんと喉をならすと声をしぼり出した。

「さ、先ほどは大変失礼をいたしました……」

「ああ、さっきはすまなかったね」

 クラウドは笑みをたたえたまま言った。

「君の演技は素晴らしかったよ。今は同じ服をきていても普通の女の子なのに、あの時は冷静沈着な秘書にしか見えなかった」

 急にほめられ、わけがわからないながらも、ディアナはとりあえずお礼を口にする。

「……ありがとうございます」

「〈夢幻遊戯〉で女優をしていたらしいね」

 さらりと言われ、驚愕する。

「どうしてそれを……」

「彼が君の舞台を観たことがあるというんでね」

 言われてクラウドの視線をたどると、部屋のすみにルーセントが気配もなく立っていた。相変わらず反応はほとんどない。

「そうですか……でも少年役専門でしたし、出番も多くありませんでした。それに芸名を使っていましたから……覚えられていられたなんて、驚きです」

「少年役を演っていたんだね。でも、女性の役もやったことがあるよね?」

 ディアナは目を見開いた。確かに女性として舞台に立ったことはあるが、たった一度だけだ。しかも急な代役で名前も出なかった。あの時客として来ていた人たちが、普段少年を演じている自分と舞台上の女優を重ねることなどできるはずもないと思っていた。

「あなたは紅薔薇姫を演じていました」

 ルーセントが静かに言った。紅薔薇姫という言葉にディアナははっとする。そして彼が確かにあの舞台を観ていたのだと確信した。大盛況をおさめた舞台、『薔薇の乙女と光の勇者』を。

 あの日ディアナは急病で出られなくなった紅薔薇姫の代理で舞台に立った。

『薔薇の乙女と光の勇者』はその題名のとおり、薔薇の乙女と勇者の恋物語だ。白薔薇、黄薔薇、紅薔薇の三姉妹の妖精が住む森に、ある日ひとりの騎士が迷い込む。三人に助けられた騎士はしばらく森にとどまるが、三人の妖精は皆彼に恋してしまう。仲がよかった姉妹たちは騎士をめぐって争うのだが……。

「私はある任務のため、マリードの劇を見て回っていました。その際〈夢幻遊戯〉の舞台も何度か観る機会がありました」

「彼が言うには、君の紅薔薇姫はとにかく観ている者を惹きつける気迫があったそうだよ」

 妖艶で、自分の美貌に絶対の自信を持ち、騎士をあの手この手で誘惑する。恋敵であるがゆえに姉妹すらも罠にはめる。全身全霊で愛におぼれた悪女だが、たまにみせる切ない表情が狂おしいほどだった、と。

 クラウドから聞かされたルーセントの評価に、ディアナは思わず件の人物を凝視してしまった。出会ってから間もないが、無表情を徹底的に崩さないこの人がこんなに雄弁に話すところなど想像がつかない。ましてや他人をほめるなんてあり得ない気がする。

 思わず眉根を寄せたディアナの気持ちが伝わったのか、やはり無表情のままルーセントが口を開く。

「観たままを報告したまでです」

「このルーセントがここまで言うんだから、よほどの演技力の持ち主なのかと思っていたんだけど、まさか目の前で観られるとは思わなかったよ。とてもいいものを観させてもらった」

 クラウドに面白そうにそう言われて、ディアナは赤面した。舞台上ならともかく、あの状況をほめられても恥ずかしいだけだ。

「――――だ」

「え?」

あまりの気恥ずかしさに目をつぶってうつむいていたディアナは、クラウドが何と言ったのか聞きとれず聞き返した。

「合格だと言ったんだよ」

「合格?」

 意味がわからないディアナに微笑んで、クラウドは話し始めた。

「さっきは証拠があると言ったけど、それは警察の上層部からの情報でね。でもあの場では報告に納得したふりをしておかないと、こちらが疑っているのがばれてしまうから」

「……どういうことですか」

 クラウドが話しだしたことがウィルにつながることだと気づいて、ディアナは表情を険しくした。

「つまりは君の言うとおりだよ」

 ディアナの気持ちをほぐすように、クラウドはにっこりとほほ笑んだ。

「機密を盗んでソマリスに売り、その罪をウィリアム・マクリードに着せようとしている人間が、我が国のどこかにいるということだ」

 きらびやかな笑顔にそぐわぬ物騒な発言にディアナは目を見開いたが、それから探るように尋ねる。

「では、ウィル……叔父の指名手配はすぐに解かれるんですね?」

「いや、それはまだだ」

 なぜと思ったのがそのまま顔にでてしまったのだろう。クラウドはディアナの返事を待たず、少しだけ憐れむような表情を浮かべ、そのまま続けた。

「残念ながらウィリアムが関与しているのは確かな事実なんだ」

「……誰かに、利用されているということですか?」

「その可能性が高いとしか言えないな。自主的に動いていることも考えられる。なにしろ大臣の娘との婚約に教授への出世だ。目がくらんでもおかしくはない」

「そんな!」

 ディアナは相手が一国の王子であることを一瞬忘れて憤った。

「ウィルはお金や出世に目がくらむような人じゃないわ。研究が誰よりも好きで、純粋に人の役に立つことを喜んでいる人なのよ」

 言ってしまってから、はっと気づいて青ざめる。

(わたしってば敬語も使わず、なんてことを)

 普通に考えたら不敬罪でつかまってもおかしくはない。

(ウィルの指名手配を解こうとして、反対に自分が捕まっちゃったら意味ない)

 思わず目をぎゅと瞑ったディアナだが、クラウドは気にした様子もなく続けた。

「だが、今の現状では彼が一番あやしいと考えている人は少なくない。実際彼はソマリスの大学に助教授として籍を置いているよ。これは事実だ。仮に利用されたんだとしても、誰かに脅されたのか、それとも操っている誰かがいるのか……どちらにしても、裏にいるはずの人物がまだ見えてこない。今の状況では簡単に手配を解くことはできない」

 とりあえず自分が捕まることは避けられたようだ。安堵感とともに、ウィルが追われている事実は変わらないという無力感が心にのしかかる。

「だが、まったくお手上げというわけではない」

 その言葉にディアナは顔をあげた。

「あの審議委員会に出て確信したことがある」

 クラウドの話を期待を持って聞きながら、一方でディアナは何とも言えない不安を感じはじめていた。この話は一介の国民に、しかもただの学生に聞かせる話なのだろうか。もっと重要な、それこそ国家の内部に関わるような内容なのでは? それなのに目の前の王子は、友人とお茶を飲みながら談笑しているように、まるで普通に見える。

 クラウドは、困惑した様子のディアナを目を細めて見やると、さらりと爆弾を投げつけた。

「僕はその人物がさっきの会議の中にいたと思っているんだ」

「…………」

 さっきの会議=高官の集まりよね。その中の誰かが、国家機密を漏洩させた?

まわらない頭でそこまで考え、ディアナの思考は停止した。腹心の部下にすら容易に話せなそうな内容を、なぜ目の前の王子様は自分に話しているのか。

 ディアナは一度立ち上がり深呼吸すると、天鵞絨の長椅子に深く座りなおした。手で触れるとまるで温かい動物の毛皮をなでているようで、少し落ち着く。あまりにも衝撃的すぎて返って頭は冷えてきた。とりあえず一番気になることを慎重に訊ねてみる。

「あの……この話って、わたしが聞いても大丈夫な話なんでしょうか」

「いや。普通の人はこんな話聞いちゃったら消されるよね」

 あ、またさらっと言った。しかも首に手をやりながら笑顔で。ディアナは顔をひきつらせながら、かろうじて笑顔を返す。

(相手は王子様よ王子様。下手な態度をとってはダメ)

「では、なぜこんな話をわたしにしたんでしょうか」

「もちろん君を巻き込むためだよ」

「え?」

「キミは叔父上を助けたいんだろう?」

「それは、もちろん」 

「じゃあ決まりだ」

「決まり?」

 まったく話の意図がつかめないディアナに、クラウドが仰々しく言った。

「ではこれからディアナ・フェンリールの臨時試験をとり行う」

――――試験?

 今までの話の流れからはまったく関係のない言葉がいきなり出てきて、またもディアナの思考は一瞬止まる。

「大丈夫、そんなに難しくないから。すぐ終わるし」

「いや、そういう問題じゃなくて」

「君の演技力なら余裕だよ」

「演技力?」

「ああ、試験内容についてはルーセントが説明するから」 

 クラウドはディアナを労わるように見つめると、極上の笑顔で言った。

「必死で頑張るんだよ。消されないように」

「…………」 

 さりげなく、いやかなり直接的に脅された気がしたが、天使のような優美さに気圧されてうなずく。

(切れ者って、こういうことなの?)

 うなずいてしまったことに後悔の念が渦巻いたが、すぐに首を振る。

(でもウィルを助けるためなんだから)

 とにかく、ここまで来たからには試験とやらに通らなければならない。

「では試験の内容について説明します」

 淡々と切り出したルーセントに、ディアナは少しだけ恨みがましげな目を向けた。


 シャルナークは春慶殿の回廊を歩いていた。先ほどクラウドから急な呼び出しをうけたのだ。

(この間の答えを聞きたいとは……兄上の戯れではなかったのか)

 あの時は失念していたが、すぐに思い出した。六年間ヴィエンダールを離れていたとはいえ、王子として国内外の政に関する情報は常に把握している。例えそれが公にされていないことであっても。

『一年前に僕が立ち上げた法務省管轄の特別機関とは?』

 法務省の長官であるクラウドが発足させた極秘機関。その存在から実態に至るまで、その内情は高官でも一部にしか知らされていないという。

(あの腹黒い兄上のことだ。切り札を増やすために創ったに決まっているが……いやな予感がする)

 シャルナークは眉根を寄せつつ早足になる。答えを聞きたいとまで言うからには、何か思惑があるのだろう。だがあの兄の考えを見極められる者は世界中探してもそういない。先の読めないもどかしさにイライラしながら回廊の角を曲がり、シャルナークははっと足を止めた。

 向かうその先にドレスを身につけた女性がいた。淡い金茶色の髪をゆったりと結いあげ、高貴な雰囲気をまとって静々と歩いていく女性。間違えるはずはない。あの後ろ姿は彼女だ。

(リディ!)

 リディアンヌはある部屋にすっと入った。シャルナークはすぐに追いかけた。なぜこんなところに彼女がいるのかなどは頭からすっぽりと抜けていた。ただリディに会いたかった。会って、言いたいことがあった。

(ソマリスに行くなとは言えない)

 婚約の話を聞いた時から考えていた。政略結婚とはいえ、彼女が決めたことだ。国同士の結婚に一王子が口を挟めないことなど百も承知している。だが、それを告げられた時に何も言わず彼女の前を去ってからずっと後悔していた。

 男として、これだけは伝えたい。

(あなたが好きだと)

 シャルナークはリディが入って行った部屋の扉を開けた。中は上等な長椅子と長卓が置かれているだけの応接室だ。一見質素だが、四方の壁に飾られている大小さまざまな絵が、部屋を温かく包みこみ、居心地のいい空間を造りだしている。

 子供の頃この部屋にリディとよく遊びに来た。彼女は西側の壁に掛けられたひときわ大きな天使の絵が気に入っていて、いつもその前に座って眺めていた。シャルナークはきらきらした瞳で絵を見つめる彼女を守る騎士のように、後ろからそっと見守っていた。

 今、大人の女性に成長した彼女もまた、その絵の前に立っている。シャルナークは一心に絵を見つめているその後ろ姿を見つめ、眩しそうに目を細めた。リディアンヌが今どんな表情をしているのか、シャルナークは気になったが、足を踏み出すのを思いとどまる。背中を向ける彼女が、それを望んでいないことを感じたからだ。

 彼女が振り返ってくれたら。その時どんな表情をしていても、気持ちを伝えよう。

 長い沈黙がおりる。振り返ることはないとわかっている。わかっていて、それでも期待した。

 部屋は静寂につつまれている。まるで時が止まったかのようだ。微動だにしない。動けばすべてが崩れてしまうかのように。

「……婚約、おめでとう」

 ついにシャルナークは苦しい気持ちを押し出すように言った。

 こんなこと、本当は言いたくない。本当に言いたいのは違う言葉だった。だが、婚約を受け入れようとしている彼女の気持ちをかき乱すことは、本意ではない。

「幸せに」

 かみしめるような一言に、一瞬リディがみじろぎした。

「リディ」

 シャルナークは一歩前に踏み出した。その時、閉じられていた扉が出し抜けに開いた。

「合格だ」

「クラウド兄上」

 シャルナークは振りむき目を見開いた。クラウドが笑みを浮かべて立っていた。後ろには側近のランスコート子爵の姿もある。

 突然の出来事に唖然としているシャルナークの横をすり抜け、クラウドはリディアンヌのそばへ優雅に歩いて行って笑いかけた。

「試験は合格だ。よくやったね」

「試験? 試験とはどういうことですか?」

 何を言ってるんだ?

 シャルナークは眉間にしわを寄せ、未だ絵の方を向いたままのリディアンヌとその横のクラウドを交互に見つめた。すると、リディアンヌが振り返った。

「――――っ」

 驚愕のあまり声をあげそうになったが、すんでのところでこらえる。

 振り向いた女はリディではなかった。確かについ今までリディと一緒にいたはずだった。後ろ姿、歩き方、仕草、すべてがリディアンヌだった。なのに今目の前にいる女はリディとは似ても似つかない。

「驚いたかな?」

 満面の笑みをたたえて成功とばかりにうなずくクラウドなど意に介さず、シャルナークは混乱する頭を押さえ、冷たい目で女をにらみつけた。

「お前は誰だ」


 するどい声で問われ、ディアナは困惑していた。状況はよくわからないが、目の前にいる黒髪の青年がかなり怒っていることはわかった。

(ルーセントさんに言われた通りにしただけなのに)

『これからある女性に会ってもらいます。あなたはその女性の仕草を完璧にまねて、彼女のふりをしてある男性に会ってください。その男性にあなたをその女性であると思わせ、ある言葉を言わせれば合格です』

 促されるままに、ディアナは女性――ランスコート公爵令嬢と紹介された――に会い、子供の頃の思い出や現在ソマリスの王太子と婚約中であることなどを聞きながら、彼女の雰囲気や癖、身体の動きを心に記憶していった。

 隣をちらっと見れば、クラウド殿下は満足そうに青年を見ている。どうやら彼の思い通りの展開ではあったらしい。

(とりあえず問われたからには名前を名のった方がいいのかな。でもすっごく怒ってるし……)

 どうしようか逡巡していると、青年がふっと視線を落とした。それだけのしぐさだったが、その藍色の瞳の奥に、抑えようのない怒りと落胆を感じとったディアナはこの試験を受けたことを少しだけ後悔した。いや、本当はこの青年と話をしている途中で気づいていたのだ。彼は自分が演じている人物であるリディアンヌ嬢に恋していると。

 本当に言いたかったことを抑えて祝いの言葉をつぶやいた彼の表情は、見なくても切なさが伝わってきた。振り向いてはいけないとわかっていたが、さびしさまじりの穏やかな声で「幸せに」と言われた瞬間、振り向きたい衝動にかられた。

 知らなかったとはいえ、結局だましたようになっている今の状況に居心地の悪さを感じながら、でも謝るのもおかしいし……と考えていると、シャルナークが氷のような表情で近づいてきた。

 思わず身体をひくと、彼は凍える声で言った。

「最低な女だな」

 その一方的に咎める視線に、傷つきながらも反感を覚える。自分が演りたくて演ったわけじゃない。

「こっちの事情も何も知らないくせに、自分だけ被害者みたいな顔しないでよ」

 思わずそう言ってしまってから、はっとする。ここは王宮だ。しかも限られた人しか入ることの許されない慶春殿だ。この青年がここに出入りできる人間なら、かなりの身分だということだ。

(かなり若いわよね)

 おそるおそる見上げる。つややかな黒髪が落ち着いた雰囲気をまとわせているが、まだ二十にも届いていないだろう。すらりとしているが線は細くなく、かっちりした体つきは、武術を学んでいるように思わせる。端正な顔立ちだが、今はその表情は硬くこわばり、憂いをおびた藍色の瞳は怒りで細められている。眉根は深く寄せられたままだ。

(うわ……さらに怒ってるかも……ん? 黒髪に藍色の瞳……?)

 最近どこかでその特徴の人物の話を聞いた気がする。状況にあせりを感じつつも思い出そうとした時、クラウドが割って入った。

「まぁまぁキミたち。初対面で仲が深まるのはいいことだけど、それくらいにしておこうか。話も進まないしね」

「――――どういうことですか、兄上」

(兄上?)

 ディアナは思わず二人を交互に見た。そう言えばさっきも言っていた気がする。

(まさか――――)

「そう、紹介がまだだったね」

 クラウドは静かに憤っている青年の肩に手をおいて、ディアナに向き直った。

「これは僕の弟、シャルナークだ」

 シャルナーク。――――それは。

(……だ、第三王子――――!?)

 ディアナは睨まれていることも忘れて凝視する。第三王子ということは、アレクシオンとは兄弟で、つまりは。

(――この人がアレクシオン王子の双子の兄!?)

「全然似てない……」

 心の中で思ったことを呆然と口に出してしまい、ディアナは慌てて口をつぐんだが、二人には聞こえていたようだ。シャルナークは不満そうな顔をし、クラウドはため息をつく。

「そう、僕とシャルは残念なことに似ていないんだ。アレクは僕と似ているのに。僕としてはこの美しい銀髪と碧い瞳がシャルとお揃いならうれしかったんだけどね」

 ディアナは双子のシャルナークとアレクシオンが似ていないと言う意味で言ったのだが、どうやらクラウドはシャルナークと自分が似ていないという言葉にとってくれたようだ。アレクと顔見知りであることを知られずに済んでほっとしたが、シャルナークはますます不機嫌そうな顔になった。よほどお揃いという言葉がいやらしい。

 クラウドは確かに麗の王子の呼び名を持つアレクシオンと似ている。アレクは銀髪をさらりとなびかせたまさに眉目秀麗な青年だ。青の瞳はいつも輝いていて、まさに絵物語から抜け出た王子様のようだった。

(中身は残念極まりなかったけど)

 クラウドの発言も相まってさらに険悪な雰囲気と化した中、一人楽しそうなクラウドがディアナとシャルナークの肩をとんとんと叩いて言った。

「というわけで、今回の任務は二人で組んでやってもらう」

「は?」

「任務とは? 初耳ですが」

 眉をひそめたシャルナークと、事情を全く呑み込めず戸惑うディアナに、クラウドは特大の爆弾を落とした。

「それはそうさ、今から話すのだからね。シャル、きみとこの彼の二人で、あることをやってほしい」

「「彼?」」

(彼ってどういうことですか!?)

 驚いてディアナを見るシャルナークの不審な視線がいたたまれず、クラウドに焦って目で問いかけるとクラウドはディアナの肩を抱き寄せるとにっこり笑って言った。

「この子は男の子なんだ」

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