序・メカニカル・ホロウ
高校生湊井槙奈、車を隠し持っていた。
実際隠していたのかは定かではないが、床が突然円形に沈んだかと思えば、その床が車を乗せ、元の場所に戻ってきた時はさすがに「こんなところから車が出てくるものか」と目を
そして擦ろうと言っても、左目には擦ることも凝らすことさえ不要になってしまった。やはりこれは、
「『これは自分の目なんかじゃあない』、かな? 当たり前だ、それはあなたの延髄に繋がってコードを延ばして瞼の裏に収まってるだけで、依然わたしの発明品だよ。あなたのものではない」
槙奈は気持ち悪いほど心中を見透かしてくる。元々ぼくのことを心身ともに支配するつもりでこの「グランス」を移植した、という彼女の言葉の信憑性もまた依然として高いのはこのせいだ。どういった原理かは知らないが、義眼を通してぼくの内面をモニタリングでもしているのかもしれない。
「さ、乗った乗った」
槙奈は迷いなく右側の運転席ドアに手をかける。不用心に乗り込む前に、「グランス」を使ってこの車輌について詳らかにしておくのが良いだろう。考えずとも、仮にもまだ女子高生である彼女が運転すると言い張るこの乗用車が疑わしくないわけがない。
車種:ユアレグ、フィルブランク製。2005年2月2日神奈川平塚工場製造。ナンバー:羽津木500・よ・11-34。ユーザー1:湊井槙奈。
「お、こいつを視たね。『ユアレグ』だなんて、悪趣味だと思わないか? 『your leg』で『あなたの足』って、わたしの足はまだここに二本揃ってるっちゅーのに」
ぼくはなるべく彼女の視界に入らぬよう運転座席の真後ろの座席に乗り込みながら、解析を続けた。先ほどの空間と違って挽かれる情報を制御する必要のない空間だ、かなりの心労がほぐされていく。
「ユアレグはフィルブランク製の、アタッチメント保有者向けの遠隔操作式の乗用車のことだろう。なぜそんなものに乗る」
「え? まあ、持ってるのがこれしかないから、かな……。特に深い意味はないよ、アタッチメントをつけていなくても運転はできるし」
「この車種は、同じフィルブランク製のアタッチメントについたシリアルナンバーで認証する仕組みになってるはずだ。[付けていない]人間が運転をするには、相応の改造が必要になる」
「あらあら、随分詳しいね」
これでも研究者としての専門分野だ、基本中の基本の知識として押さえていて当然の範疇である。
「まあ別によいじゃない、わたしが何を運転しようと」
確かに、本題から逸れてしまうのはそうだ。ぼくにとって本当に必要な情報はこの鋼鉄の箱ではなく、先ほどの問答の続きである。つまり、ぼくはまた情報制御の枷を足首に嵌めざるを得なくなる。
「きみとフィルブランク社に特別なパイプは無いんだな?」
「ああ、もしかしてマッチポンプじゃないのかと疑ってるのかな? 襲わせた挙句きみを救い出す体で、その実実験台としてきみを利用している、みたいな」
「無いよ、わたしは本当に偶然きみを見つけただけ。利用しようとしているのは否定しないけど」
槙奈は変わらずあっけらかんと答える。思惑まで話しておいて経緯に関しては偶然を言い張るというのも歪であるし、ぼくを拾ったというのは本当のことのようだ。いや、もちろんその主張していた思惑というのもフェイクかもしれないが、これ以上は彼女をつついても出てこない気がする。
「まー気持ちはわかるよ。わたしだって左目を抜かれた人間が、義眼を開発したばかりの自分の目の前に突然現れるだなんて、出来すぎてると思う」
車にエンジンがかかった。先ほどの床と同じく「ここが開くのか」という壁が大きく展開し、車体は公道に出る。そして槙奈は本当にぼくの目の前で、アタッチメント保有者がしているような遠隔運転をしていた。「グランス」の情報制御にも慣れてきた頃合いだが、残念ながら局所的に情報を拾うという器用なことはまだ手に余る。アタッチメントを付けていない彼女が一体どういう仕組みでこのユアレグを操っているのかは、ついに不明のままだった。
「とりあえず、あなたの倒れていたところにもう一度行ってみようかな。何か思い出すかもしれないし」
カーナビに目的地が設定された。羽津木市姑獲鳥町のとある路地。
「大学と程近い」
「ああそっか、あなたあそこの研究員だったね。だとしたらこの倒れてた場所にあんまり意味はないか……」
「どうして?」
「研究室に行ったところまでは憶えてるんでしょ? だとしたら、帰り道に襲われてここで捨てられたと予想するのが自然だと思うけど」
「でもこの道は、ぼくの家とは反対側だ。とすると、襲われた時は少なくとも帰宅途中じゃなかったってことになる」
「なるほどねえ。じゃあつまり襲われた場所は『羽津木大学構内』ってのが一番濃厚かな。犯人は大学内であなたを捕まえて左目を頂戴して、この路地に捨てたと」
カーナビの目的地が「羽津木大学羽津木キャンパス」に切り替わった。目的地まであと三分です、だそうだ。
「さっきの倒れてた路地から大学までだと、徒歩五分ほどか。わざわざ離れた場所に捨てるのはわかるけど、この程度の距離だと焼け石に水だ」
目的地に到着。車は緩やかに止まり、エンジン音も綺麗にフェードアウトしていく。何かに反射して、煌々とガラス窓が照っている。焼け石に水とは確かにそうで、さすがにこの燃え方だと、
「あれ、あなたの大学だよね」
水垂れ程度では到底鎮火しないだろう。
「なんで燃えてんの?」
ぼくと槙奈が「目」にしたのは慣れ親しんだキャンパスではなく、そのシルエットを朧げに孕んだ、炎の城だった。そびえ立つ城。その尖った火の形。雅な月明かりに代わって、夜に沈む街を照らさんと張り切るその様は、飛び散る火の粉で民家の幾つかを仲間に引き込んでいる。スカイスクレイパーならぬシャドウスクレイパー、セーラームーンではなくオーバーヒート。温度は900度前後。建物内には二名ほど人影が。
「嘘だろ」
「本当みたいだ。サイレンが聞こえてきた」
その赤いサイレンもまた闇夜を切り裂き、こちらへ向かってくる。はしご車とポンプ車。しかし赤いだけの軽車両もそのサイレンとけたたましい音と共に紛れてやってきた。
何かと思えば降りてきた消防士の中には、肘や手首の先の無い腕に、大きな燻し銀のアタッチメントを付けた人間が大勢いた。およそ手の形状ではなく、それこそポンプ車のポンプの口そのもののような、大きな円形の穴。彼等はポンプ車から伸びる幾本もの細長いホースを引きながら、大学の奥へ奥へ、炎との距離を詰めていく。
「一斉、放水始め!」
太い怒号が聞こえてきたと思えば、彼らの「手」からは大量の水流。水塊と言ってもいいかもしれない。鋭い火の柱が巨大な水の拳で殴られ、灰色の溜め息をついて去っていく。
現れるのは真っ黒に煤けた大学校舎。それは大々的な焚書のようだ。表現も研究も開かれているからか、松明はたやすく投げ込まれてしまうこともままあるようで。
そして表現も研究も、昔から引火しやすい。
「どう? その目であれはどう見える?」
「あの!すみません、中にまだ人が!」
「わかりました!上部への放水と並行して救助!」
「ちょっと、聞いてる?」
ぼくはしばらく槙奈の言葉を無視するようにした。消防隊員に叫ぶのに必死だったということもあるが、彼女の濁った氷のような声は、この「グランス」の無機的な視界を励起させてくるのだ。
研究成果が水泡に帰す。大量の放水を受けて、その文字通り泡と消えてしまう。アタッチメントの拡張技術、欠損部分を埋める工事車両、身体欠損者の精神分析、そして、アタッチメントの存在と幻肢痛の関係の研究だ。その全てが燃えてなくなってしまうという実感が、ようやくこの身体に追いついてきた。ダメだダメだ、真野島教授の助手になって三年、積み上げてきたものが目の前でただの刹那の夜の暖となってしまう。救えなかった少年も、突き放してしまった仲間も、傷一つ付かなかった自分ができるはずだったことも、すべてが綯い交ぜになって灰色の灰になる。今の自分から切り離されてしまう。なくなる。自分の一部だとさえ思っていたものが、自分と違うところで、自分にはどうしようもない災厄に焼かれている。残るのは決して燃え滓や煤けた木材などではなく、やり場のない喪失感だ。
もう爛々と瞬く大きな炎を直視できない。キャンパスの白いタイルを眺め立ち尽くすのみ。ぼくの成果物は、決してぼく自身というわけではなかった。
すると突然、左の視界がブラックアウトした。
「見たくなさそうだからシャットダウンしてやったんだけど、どう?」
そういうことか、という場違いな気づきがあった。ぼくが左目を失ったのと同じように、ぼくの研究成果、ぼくの居場所はこの身体からねじ切られてしまったのだ。これがずっとぼくが考えあぐね続けてきた、「身体を失う」ということなのだと。
湊井槙奈は、ぼくにこれをもたらした。何が悔しくて、高校生に研究の答えを教わらなければならないのだろう。
「槙奈」
「何? ってか下の名前」
「ありがとう」
「あ、うん」
俯いたままのやりとりは小さくなっていく業火に見守られ、感じる熱も夜の冷気に消え入っていった。欠落が確かに在ったことを、ここで「目」の当たりにした。
ファントム・リム シアターグローブ @CHQ
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