ファントム・リム

シアターグローブ

序・パーフェクト・ラック

 ウユニ塩湖、という観光名所がある。湖面が空を美麗に反射して、上下のシンメトリーが作り上げられる光景は圧巻だ、とどこかで写真と合わせて読んだのだが、しかし今のぼくの眼前の景色はまさにそのウユニ塩湖と真逆、世界の美しさを保つために生まれた皺寄せが見えていた。青空の反射する曇りなき湖面は美しい。しかし美しいものが美しいのは、相反した醜悪な光景というものが、醜いものと定義されるからこそである。


 しかして左右に世界が分かたれたのだ。半分は赤で、半分は青。最悪なことにシンメトリーでもない。非対称は美麗を損なう特性であるとでも言うようである。


 右の青は水溜まりだ。あるいは水面に反射する街灯の色、その下の濡れたアスファルト。妖しい光は癒しさえ与えてくれる。確かにこの目で優しい寒色、冷たい感触を捉えている。その確信が、心地のいい微睡みさえも誘う。


 反対側。


 左の赤は空洞だ。ブラックホール。赤だというのにブラックというのも可笑しいが、しかし赤黒いという意味ではあながち間違いでもない。もう無いものを求めて迸る情熱の炎であり、盲目そのもの。虚空そのものが瞼の下に収まっている。


「きみ、大丈夫?」


 左目が、なくなっていた。








 再び目を開けると、視界は二つには分かれていなかった。


 暴力的な情報に満ち満ちた、鋼鉄の檻。今度はいくつもの縦に伸びた柵が、世界を割っている。そんな短冊のようになってしまった世界を、目を凝らしてよく見ようとした時だ、その時、頭の奥と何かが繋がる感覚がした。


 視界に“GLANCE”と読み取れるロゴが中央に大きく表示されてから、システムUIが四角いフレームの隅に整理されていく。フレームの捉えるものは例外なくその名称をあばかれ、内部をけられ、情報へとかれて、頭の中にとめどなく流し込まれる。

 これはなんだ。日付。現在時刻。現在地。天気。気温。湿度。体温。サーモグラフィ。空気中の酸素濃度グラフ。頭上の蛍光灯の製造時期。壁のタイルの原産地。FillBlankアクセス。検索。通話。連絡先。カメラ。ライト。無線LANスポット。設定。ユーザー:煤木ススキ焚也タクヤ


「お、もう起動してるじゃん。わかるー?」


 仰向けのぼくの顔を覗き込んで手を振る少女がいた。名は湊井ミナトイ槙奈マキナ、というらしい。墓見岸ハカミギシ高校所属・3年生。1990年10月5日生まれ。住所:東京都羽津木市根無丘2丁目3番地9号ルートレスヒルズ302。一級アタッチメント技士資格所持、2004年6月22日取得。身長164センチメートル、体重5


「あ、余計な情報まで見ようとしてるでしょ。ダメダメ」


 左目を手で覆われた。さっきまで波のように押し寄せてきていた膨大な“情報”は視界から消え、殺風景な手術室が立ち現れた。否、彼は初めから病床に横たわり、そこから動くことをしていなかったのだ。


「これは何だ」


「あなた、左目がぶっこ抜かれちゃったのは覚えてる? それを直してやったの」


「直した?」


 槙奈の手をどけて、改めて自分の手で触れてみる。不思議と無の代わりに瞼の内側に収まったそれを触ることに抵抗はなく、ひんやりとした感覚が返ってきた。


 そしてまた、インフォメーションの嵐だ。あれはこう、それはこう、そんなことを幾度となく仕入れては挽き砕いていく。思わずそのまま左目を、今度は自分の手で覆い隠してみるものの、その嵐が止むことはなかった。ではなぜ、先ほど槙奈の手でこの苛烈な情報は遮断されたのか。


「『グランス』。わたし設計のオリジナルのアタッチメント。これしか助ける方法が無かったから、文句は無しね」


「この視界はその『グランス』のせいなのか」


「そう。最初はきついかもしれないけど慣れてちょーだいな」


 この情報の渦に「慣れろ」、とはまた大きな壁が立ちはだかったものだ。情報量の少ないであろうこんな部屋にいる今でさえ、「どうでもいいこと」に溺れそうなのに。


「それで、なんであんな所で倒れてたの?」


 槙奈はようやくこちらに顔を向けた。高校生にしても随分幼い顔をしており、これで一級アタッチメント技士と言ってもにわかには信じ難い。


「わたしだけあなたのこと知らないのは不公平でしょ」


「煤木焚也。羽津木ハヅキ大学大学院の研究員だよ」


「タクヤ、ね。よろしく」


 手を差し出してきた。年上にも物怖じしない真っ直ぐな瞳に串刺しにされたような気分で、ぎこちなく彼女の手を取り、体を起こす。


「倒れていた理由は分からない。いつも通り研究室に顔を出したところまでは覚えてるんだが、その先は記憶がない」


「ふーん、まあいいや。じゃ、しばらくこっちでゆっくりしてて」


 唯一部屋に取り付けられていた扉が開かれる。


 その先に広がっていたのは、鉄の壁で囲まれたガレージだった。埃っぽい空気で満ち、光を入れる窓がどこにもついていない。ここは地下なのだろうか。現在地、つまりはGPS機能から割り出される地図上の座標は判っても、自分を取り巻く「ここはどこなのか」の情報までは判らない。


「待て。いろいろ聞きたいことがある」


「どうしようかなあ。実はあなたを助けたのはわたしの独断でさ、貴重な戦力を譲った上に情報漏洩とか、さすがに首が飛ぶ案件なんだよね」


 ぼくが煤けた黒いソファに腰掛けると、彼女も正面にある木製の椅子に座った。

 煤けた黒いソファ、木製の椅子。なるほど、抑制する意志があれば、挽かれて入ってくる情報の制御がある程度は可能であることに気づく。

 落ち着け、研ぎ澄ませ。今視界にある情報ではなく、現状を解決するための情報、今までの生活に戻るための情報を探すのだ。それは、砂浜の中から塩粒を見つけ出すことのようだ。文字通りの玉石混淆。普段の生活におけるインターネットリテラシーに似ているようで、実際はもっと複雑である。文字ではなく、データではなく、この肉体で見聞きしたことしか、今は信じることができない。


「なら話せる範囲でいい。ここはどこだ」


 まーいっか、と吐いて槙奈は脚を組み直す。


「ここは『魁導旗カイドウキ』の隠れ家。魁導旗は第三セクター、NPO法人の皮を被った反アタッチメント文化組織で、わたしはそこの参謀兼開発担当。当然トップがいるから、首が飛ぶってのはそういうことだよ」


 槙奈が指差したその先には、向かって右側の壁、黒く大きな旗が掲示されている。意匠としてアレンジされているものの、確かに「魁導旗」と読める紋章が描かれていた。しかも、強烈なデジャヴを感じ取れる。


 この市には身体のどこかしらを失った市民が、全体の約七割を占めている。彼らに必要なのがアタッチメント、欠損部分を埋める画期的な鋼鉄のバリアフリー・マシン。


「普段は身体欠損者のための医療開発費を募る非営利団体だ。一度は募金活動をしているところを見かけたことはない?」


 見かけるどころか、大々的に広告まで打っているところである。まさか反社会的勢力の隠れ蓑だったとは、さすがにこの「グランス」も教えてくれる情報ではない。つくづく痒い所に限って手の届かない孫の手とでも言うのか、じれったいが過ぎる。


「『戦力』っていうのは、どういうことだ」


「現に付けてるんだからわかるでしょう。その情報解析能力、何人分の斥候の仕事ができると思う?」


 斥候。つまり比喩でなければ文字そのままの「武力」を彼女らは有し、尚且つ行使しているということの裏付けだ。


「反アタッチメントを名乗っているのに、アタッチメントを戦力にするのか」


「意趣返しだよ。自身の依り立つ揺り籠で、彼らを滅ぼしたい」


 本当に彼女が女子高校生なのか、自分でも怪しくなってきた。確かに制服と思われるセーラー服は着ているものの、ところどころが汚れているし、身長もやや高い。何より先ほどの悪辣に歪んだ発言と表情は、無垢たる少女のものとはとても思えなかった。


「当のきみは健常者みたいだが」


「ああ、わたしは身体のどこも失っていない。それ故にアタッチメントがおぞましいんだよ」


 そう言ってプリーツスカートまでひらひらとめくって見せる。先は体重見られたくなさに視界を覆ったのに、とんだ矛盾だ。


「最も重要なことだ。なぜぼくを助けた」


「え? いやあだって、わたしだって善良な市民ですから? そりゃ片目を失くして倒れている人なんて見かけたら助けもしますよ~」


 さすがに嘘だろうということは、厭な汗をぬぐい、視界を制御しながらでも自明なことだ。助けることだけが目的なら、貴重な戦力と謳ったこの「グランス」を、あっさりと部外者のぼくに移植するわけがないのだ。

 ぼくの猜疑心が伝わったのか、槙奈は人当たりのいい弓なりの目から、またあの悪い笑みを浮かべる。どちらの表情も作れてしまう器用さは、羨ましさすら感じる。


「貸しを作るだけにしては、そっちのリスクが段違いなようだ。ぼくに何をさせたい」


 槙奈はその悪い笑みのまま、蠱惑的な声色で言葉を連ねる。


「正直に話すと、あのフィルブランクより先手を打ちたかったんだよ。あなたにフィルブランク製のアタッチメントが埋め込まれる前にその『グランス』を渡して、いい駒に使おうと思った。というか、今でもそのつもりだ」


 フィルブランク。アタッチメント開発・製造を一手に担う一大企業の名前だ。反アタッチメント組織であれば彼らこそ目の敵と言っても過言ではないだろうが、「先を越す」、とはどういうことだろうか。


「その辺は喋れないけど、ほら、『FillBlankアクセス』ってショートカットがあったでしょ? あれがヒント、って言っておこうかな」


 これ以上は話すことがない、とでも言うように槙奈は立ち上がり、濃紺のスカートを翻して元の手術室の扉へと向かう。実は既に彼女を「目」で追うことにも痛みが伴っていた。いや、まだだ。この痛みに折れるには早い。だって、まだ塩粒を見つけていない。ぼくが今後湊井槙奈と、ひいてはこの組織とどう関わることになってしまうのか、ぼくのように非フィルブランクのアタッチメントを付けた人間に違法性はないのか、そして何より、どうすればこの「グランス」を外してしまえるのか。推理に必要な情報が出揃っていない。やはりこの義眼は必要な情報に限って、発いてはくれないようだった。


「申し訳ないがタイムアップだ、そろそろうちのカシラが帰ってくる」


 スカートが綺麗に翻り、槙奈が振り返ったことがわかる。こうして見ると、彼女は膝まで隠すスカート丈とロングヘアーで、いわゆるスケバンめいたビジュアルをしていた。およそ非正規・ノンライセンスのアタッチメントを開発してしまうマッドサイエンティストには見えないし、寧ろそのミスリードが狙いなのかもしれない。いや、そもそも人体補強器具を独自に作る女子高生なぞ、そうそういるものでもないのだが。


「車で送るから、続きはそっちで話そうか」


 車。今彼女は車と言ったか。もはやこの視界のせいで聞こえてくる言葉でさえ精査が難しくなってきている。


「ああ心配しないで、わたしは運転しないから」


 しかしその不意に崩した表情だけは、年相応の子供が垣間見えた。ぼくの生身の右目が捉えた、確かな「情報」だった。




































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