第3話
成就した恋だったが、いつもの日常と変わりなかった。ただちがうのは、父と母に気づかれないよう、視線を交わすことだ。そうすると、一瞬だったが、エイミーが微笑んでくれる。ハリーはそれだけで胸がいっぱいになった。
夏季休暇が終われば、また寮生活がまっている。短い夏の日々をふたりは慈しむように過ごした。
六月の終わりごろ、母が主婦友だちと町へ観劇に出かけた。それをいいことに、居間で恋人たちは向かい合って紅茶を飲んだ。
「いつもは奥さまのお伴をするの。今日はお友だちがいらっしゃったから、お留守番できてよかった」
メイド服のエイミーが居間で紅茶を飲む光景は、違和感いっぱいだ。彼女が奉公を始めた日から、今日まで見た記憶がない。母が目撃すれば、かんかんに怒るはず。
――この背徳感がたまらないなあ……。
ハリーはおのれの顔がにやけるのが、自分でもわかった。
「母さん、見かけによらず劇が好きだろ。それもこてこてのメロドラマが。晩餐のとき、またくどくど感想を語るぞ」
「熱中できる趣味があるのは、いいことですわ。鬱憤晴らしができるもの」
「まあ、そうだね。父さんは無口だし、僕はデキが悪いしで。あはは……」
「卒業されたら、弁護士になられるのでしょう? デキが悪いなんて思いません」
「母さんたちは官僚になれって言うんだけど、それこそ競争率が高いじゃないか。運良くなれても、同僚はいいご身分の連中ばかりだし。気後れしてしまう。弁護士の資格だけはなんとか取って卒業するさ」
「そのあとは……」
と、エイミーは眉間を曇らせる。
――結婚。
あの過干渉の母のことだから、縁談をいくつも持ってくるはず。そして「早く後継ぎを」とプレッシャーをかけるが目に浮かぶ。
「心配するな。僕は結婚しない。ずっとこの家にいるよ」
そう言いながら、ハリーはエイミーの手を取った。そっと唇を落とす。
「ハリーさま……」
頬を赤らめるエイミー。しかし彼女から愛の言葉がもれることはなかった。
翌朝、ハリーは衝撃的なニュースを新聞で知る。サラエボで皇太子夫妻暗殺事件があった。それを契機に、ドイツ・オーストリア同盟軍とフランス、ロシア連合軍が戦争を始めた。そしてすぐさまイギリスも参戦し、ヨーロッパは果てしない戦場と化す。
当初はクリスマスまでに終わるはずの戦争だったが、塹壕戦のために膠着状態が続き、大量の戦死者が出た。そして、国中が高揚し、志願兵を募る。正義感に燃えた若い男たちが、次から次へ戦場へ旅立っていった。「打倒ドイツ」と叫びながら。
ハリーのいる大学でも、学生たちが目に見えるほど減っていく。クリスマスが過ぎ、年が明けると幾人かの訃報を知った。そのころなると、志願しない男たちは「卑怯者」として扱われ、肩身の狭い思いをした。
高貴なる者の義務を果たすため、ハリーはヘイウッドとともに、入隊をする。一ヶ月の訓練ののち、士官としてフランスへ出発した。
エイミーとの関係は進展がなかった。
いや、踏みとどまったというほうがいいかもしれない。
――死ぬかもしれない。
夏季休暇のときには想像すらしていなかった、おのれの死。まさかこの自分が戦地へ向かうなど今でも信じられない。
――卒業して、町の弁護士になって、エイミーが作った晩餐を食べる日々。縁談をすすめる両親を、どう説得しようか……。
そんな悩みなど吹き飛んだ。戦争の狂気が世界を包む。恐ろしい速度で。
基地に到着したあと、次は前線へ向かう。そこはいつ終わることのない、膠着状態が続く塹壕戦だった。
狭く湿った穴蔵に潜み、一週間交代で後方部隊と入れ替わる。三週間、戦闘らしい戦闘はなかった。じっと敵襲があるのを待つ。
ある日の早朝、ついにそれは来襲した。
一発の銃声が響いたかと思うと、怒涛の銃弾が大地を飛ぶ。そして閃光が走り、目の前が真っ白になった。
……気がついたら、ぽっかりと巨大な穴が開いていた。頭上を覆っていた塹壕はなく、朝日が眼前を照らす。そして、さっきまで軽口を叩き合っていた戦友がいなかった。視線を後ろにやると、吹き飛ばされた腕や足が見える。怖くて、ハリーはそれ以上、たしかめることができなかった。
「撤退! 撤退!」
だれかがそう叫び、わけもわからないまま、ハリーはライフル片手に塹壕を出た。ぬかるみのなか腰をかがめ、無事だった東がわの塹壕へ滑りこんだ。同時に爆音がした。
「やられてたまるか!」
と、気合をいれながら、兵士たちが手榴弾を投げる。近づくドイツ兵へ銃弾を浴びせる。閃光と悲鳴と血の雨と、硝煙と……。
ハリーは塹壕の隅で震える。まともに戦ったのはこれが初めてだった。指が震えるあまり発泡ができず、神に祈りながら、嵐が過ぎ去るのを待つだけである。
日が高くなるころ、戦闘が終わった。あまりにも腰抜けな自分は責められる、と思ったのだが、意外にも男たちは親切だった。
「腕を負傷してるな。ひどい火傷だ」
「ええ?」
興奮していたからわからなかったが、手榴弾が爆発したとき巻きこまれたらしい。そういえばカーキー色の服がひどく焦げている。
とたんに激痛が走った。
「あいてててっ!」
「野戦病院へ護送しよう」
衛生兵に言われるまま、涙を浮かべたハリーはトラックに乗る。負傷した兵士たちとともに、後方部隊へ移動した。
腕は無事だったが、前線へ復帰するには時間が必要、ということで、いったん帰国させられる。母国の傷兵病院で治療をするためだ。
病院を退院し、実家に帰ると、エイミーの姿がなかった。以前、手紙のやりとりをしたときはまだメイドだったが、母が言うには先月から町で働き始めたのだという。戦地へ行った男たちに代わって、缶詰工場で働いている。戦地へ送る軍需品だ。
母の手料理はまずかった。真っ黒に焦げたパイと味のないスープが食卓にならぶ。食材が不足しているのもあるが、長年、エイミーに任せきりにしていたから無理もなかった。
なかば涙目になりながら、母が言った。
「おまえが無事でよかったわ。これだけの大怪我をしたんですもの。もう戦地へ向かうことはないのでしょう?」
「さあ…………」
それしか答えることができない。正直な気持ち、療養しているあいだに戦争が終わって欲しかった。
うつむいてしまったおのれの姿で、察したのだろう。勇気づけるように母がさらに言った。
「戦争が終わったら、結婚するのよ。もっとおいしい料理が食べたいでしょ。若い妻に作らせなさい。それがいいわ」
「え?」
ハリーは胸騒ぎをおぼえる。
「エイミーは帰ってこないのかい?」
「そうね、たぶん。親戚やお知り合い、どこもメイドが去ってしまったみたい。戦争が終わっても、もどってこないんじゃないかって、いう話を聞いたのよ。工場もだけど、バスやトラックの運転手をする若い女性が、たくさんいるんだもの。大きなお屋敷ならともかく、うちみたいな中流家庭の給金なんかじゃ、我慢できないのでしょうね」
「まさか」
と言いかけるも、たしかに時代は変わった。そして、母の言うとおり、男手の足りない職場に女性たちが進出している。メイドなんて衣食住はあるものの、自由も給金も少ない。働き口が限られた以前ならともかく、魅力的な職場ではない。
――ずっとこの家でいっしょにいよう、って約束したのにな。
「わかった。考えておくよ」
あいまいな返事でごまかしたのだが、母はそれを「諾」と受け取ったようだ。翌日、親戚や知り合いへ手紙を書いて、わが息子の伴侶となる相手を探し始めた。
母は昔から行動力がある。ハリーの進学のためにと、家庭教師を探したときもそうだった。あらゆる伝手を使い、愛しい息子のために最良の道を歩ませようとする。
そんなわが母の後ろ姿を見たハリーは、ぞっとした。
――また戦場にもどるかもしれないのに、僕の未来を決めるのか?
そして思った。
――幼いときから、僕は母の言いなりだった。
と。
少年時代から両親の期待に応えようとするも、目標が高すぎて届かない。大学進学で良い結果を出せず、ようやく自由を手に入れたはずなのに、つぎは結婚……。
危惧していたとはいえ、卒業後の話だからゆっくり考えればいいか、と呑気に構えていたのがいけなかった。
塹壕戦で腕と足だけになった戦友が脳裏に浮かんだ。
――そうだよな。いつ死ぬかわからないのに。
居間で、手紙を書いている母へ向かって、ハリーは言った。背筋を伸ばしながら。
「母さん。僕、好きなひとがいるんだ。そのひとと結婚するつもりだから、縁談は辞退する」
目をぱちくりさせ、固まる母。そして、素っ頓狂な声をあげる。
「お、おまえ、いつ? だったらすぐに紹介なさい。ほら、たくさんの令嬢が看護婦になって、従軍しているっていうじゃない。そうでしょ?」
「いや。庶民だけど」
「なんですって? まさか外国の娼婦とか…………」
ハリーは呆れる。
「どうしてそう極端なんだよ。それよりエイミーが働いている工場はどこだい?」
「それなら――」
母は教えてくれたが、すぐに悟ったのだろう。帽子とコートを手にして家を飛び出した自分をとがめる。
「だめよ、ハリー! 父さんも許さないからね!」
小さくなっていく母の声。通りに出たら、運良くバスがやってきた。駆けて乗車する。車掌から切符を買ったら、まだ十代なかばぐらいの少女だった。
町外れの郊外に缶詰工場はあった。ちょうど夕刻だったので、終業時間を狙う。
ハリーは出入り口のそばで、エイミーらしき女性が出てくるのを待つ。
懐中時計を見たら、バスを降りて四十分すぎたところだった。
そのとき、なつかしい顔を見つけた。同僚らしき女性たちと世間話をしながら、工場のドアからでてくる。そのまま素通りするが、ぴたりとエイミーの歩きが止まった。
くるり、と肩越しに振り返り、彼女は言った。
「ハリーさま?」
「メイドを辞めたってきいたから、いてもたってもいられなくて」
「……」
エイミーは笑顔を見せない。
「あの、あたしはもうお屋敷にはいられません。だから、かまわないでくださいませんか」
「母さんから何か言われたのかい?」
「いいえ。ただ……」
「ただ?」
ここじゃ話がしづらいからと、ふたりは工場から離れる。道はずれで立ち止まり、あらためて彼女は言った。
「ずっといっしょにいましょう、っておっしゃってくださったのに。本当はメイドの生活が好きじゃなかったんです。あたしは自由が欲しかった。おしゃれできるお金も。ぜんぜん、家庭的な女じゃないんです。ただ、ハリーさまといっしょにいられたから――」
「え、ええ――?」
意外すぎる告白に、ハリーは素っ頓狂な声をあげてしまう。母のように。
「きみ、メイドがいやだったの? 十年以上も奉公していたのに? そ、そんな……」
「ゲランの香水、とてもうれしかった、ってあのとき言いましたよね。幻滅されました、坊っちゃん?」
「…………」
「工場で女工を募集しているって話を聞いたとき、我慢できませんでした。お給金が二倍ですもの。誘惑に負けてしまいました」
恥ずかしそうにうつむいていたエイミーだったが、まっすぐにハリーを見つめる。その青い瞳にゆらぎはない。後悔はしていない、と。
戦争は女たちを変えたが、愛しいエイミーもそうだった。
しばし沈黙があった。たがいの目を見ながら。
エイミーが踵を返す。
「さよなら、ハリーさま」
「ま、ま、待って! プロポーズしに来た意味がないじゃないか!」
「ええ?」
次はエイミーが素っ頓狂な声をあげる。母と違って澄んだ声だ。
「本気です?」
「本気も何も、また戦場へ行かなくてはならない。だから、もし生還したら、結婚しよう、エイミー」
彼女は答えない。目を見開き、じっとハリーを見つめるだけ。
「いやあ、よかった。だって僕は落ちこぼれだろ。いつも完璧だと思っていたきみの素顔を見せてくれて、うれしいんだ。これで似たもの夫婦になれるぞ。あはは…………。はは……」
スマートな会話をしたくても、頭に浮かんだ言葉がそれだった。
――やってしまった。
ハリーはあせるが、エイミーはこらえきれないように笑い出す。
「あははっ! ハリーさまらしいわっ!」
ひとしきり笑ったあと、力強く答える。
「はい。あたしを妻にしてください。そして、必ずご無事にお帰りください」
「もちろんだとも。何がなんでも生き延びてやるからな」
「信じてます」
そして、恋人同士は初めてのキスをした。
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