エイミー

早瀬千夏

第1話


 その夜、寄宿学校の寮では、同級生の婚約話で持ちあがっていた。

 まだまだ先の話だと思っていたが、早いやつはすでに親同士が相手を決めている。その同級生は卒業と同時に挙式するのだそうだ。もちろん、政略結婚である。

 紅茶を飲みながら、ハリーたち六人のルームメイトは、おたがいの結婚話を質問しあった。「きみは恋人がいるのか、それとも親が決めた婚約者が?」と。

 残念なことに浮いた話はなかった。だから、自然と「好きな女性はいるのか?」に話題が変わった。

「……ひとつ上だけどね。とても家庭的なひとなんだ」

 単なる片思い。

 だから話はそれで終わる――と予想していたのだが、食いついてくる男がいる。ヘイウッドだった。

「アダムズ、きみ、重大な事実を忘れているぞ」

 彼はまっすぐにハリーを見つめ、そう言った。いつもの軽口とはちがう、真剣なそれだ。

「何を?」

「僕たちのひとつ上となると、いつ結婚してもおかしくない。ご婦人は大人になるのが早いんだ」

「言われてみれば……」

 ハリーは指摘され、残された時間がわずかなことに気がついた。家に帰ればいつもそばにいたから、それが当然だと思っていたのだ。

「その顔、意識してなかったか。だったら来週の夏季休暇で、告白しろよ。……きみ、いつもぼんやりしているから、ほかの男に取られて後悔するなよ」

「う、うん。考えてみるよ」

 ばしっと、背中を叩かれる。食べかけのビスケットがのどに詰まる。

「げほっ!」

「考える前に行動だっ! 新学期に朗報を待っているぞ!」

「……」

 まったく乗り気でないハリーだったが、ルームメイトたちは喝采する。

 ピーピー口笛を吹いてはやし立て、あちらこちら叩かれ、卑猥言葉とともに励まされる。友情というより、興味本位そのものだ。

 だが彼らを責められない。もし自分でなく、ほかのやつが片思いをしていたら、同じように好奇心を抑えられなかったにちがいない。



 ロンドン郊外の新興住宅地に、ハリー・アダムズの実家があった。一軒家を中央で区切った二世帯住宅である。中流階級がよく住んでいる典型的なヴィクトリアン・ハウスだ。

 ハリーは前庭を歩く。初夏の青い花――矢車菊がたくさん咲いていた。わが家のメイドが毎年、育てている花だ。毎年、それを見るたび、夏がやってきたのを実感する。

 正面玄関のベルを鳴らした。一分もしないうちに、ぱたぱたとなつかしい足音が聞こえ、ぴたりと止まった。そしてゆっくりと正面玄関のドアが開く。

「まあ、おかえりなさい、ハリー坊っちゃん」

「ただいま、エイミー…………」

 彼女の顔を見たら、急に恥ずかしくなった。視線をそらし、おのれの靴先を見つめる。

「お疲れになったのね。お顔が――まあ、赤いですわ。今日は暑いからかしら」

「い、いや、気持ちいい気候だ……よ」

「やっぱりお疲れなのね、坊っちゃん」

「ああ」

――何を話していいのか、わからない!

 ハリーはおのれの頭のなかで、そう絶叫した。

――ヘイウッドがおせっかいを言うから、意識してしまうじゃないか!

 目の前にいない同級生へ、八つ当たりをせずにいられない。

 エイミーはくるりと背を向け、廊下を小走りする。そして「奥さまー、ハリー坊っちゃんがご帰宅されましたわ!」と、小鳥のような愛らしい声で告げた。

――黒いドレスと白いエプロン。やっぱり、かわいい。

 わが家のメイドの後ろ姿を見つめながら、ハリーはひとり悶える。

 寝室に旅行鞄を置き、居間に下りるとお茶とスコーンが用意されていた。母が笑顔で問いかける。

「ハリー、秋から最上級生ね。どう、希望の大学には進学できそう?」

「どうだろう。がんばってみるよ」

 と、ここで母の表情が険しくなる。射るような視線とともに、説教が始まった。

「まあ、自信がないの? なんのためにあなたの父さんが高い学費を払っていると思っているの? いい、ハリー。あなたがアダムズ家を再興するの。お祖父さまの時代までは、優雅な生活をしていたそうよ。なのに親戚の借金を肩代わりしたばかりに――あっという間に没落よ。ほら、大叔父さまがひどい見栄っ張りで――」

 幼いときから聞かされた両親の嘆きである。

――またかよ。

 ハリーはうんざりしながらも、じっと耳をかたむけた。真面目に聞いている演技をしないと、いつまでも説教が終わらないからだ。

「お茶のおかわりはいかがです?」

 エイミーにそっとうながされ、ハリーはおのれのカップに紅茶を注いだ。彼女がアルコールランプで温めいていたケトルを取り、熱湯を入れてくれる。

――エイミーもうんざりしているんだろうな。

 アダムズ家の再興、の話が出るたび、エイミーは紅茶を勧めてくる。ハリーがまだ寄宿学校へ進学する前から。その紅茶はいつもと同じはずなのに、なぜか美味しく感じられた。

 カップにたっぷりの白いクリームを入れ、ひと息ついた。

 そして横目でエイミーを見る。

 金色の髪を結い、白いレースのキャップをつけている。まとまらなかった髪の毛が少しだけ、彼女のうなじで垂れていた。完璧なようでいて、隙がある姿が愛らしい。

――そこがたまらないんだよな。

 白いエプロンにはパリパリの糊でアイロンがけされ、シワひとつない。夏用のメイド服は、エイミーが給仕をするたび、ほんの少し布地がこすれる音が聞こえる。

 そして、一番好きだったのが。

――コーンフラワーブルーの瞳……。

「――ハリー。聞いているの?」

 母の呼びかけで、われに返る。

「う、うん。少し疲れてしまってね」

「そう。だったら晩餐まで休んでなさい。父さんが帰ったら、進学のこと、ゆっくりお話しましょう」

――どうしてもオクスブリッジに進学させたのか。あーあ。

 正直、勉強が好きでないハリーは、両親の過剰な期待が重かった。アダムズ家の再興などどうでもいい。小さな家だけど、家族と穏やかに暮らせるだけではいけないのだろうか。



 翌日、エイミーは忙しそうに家事をしていた。朝食の後かたづけが終わると、部屋の掃除である。はたきを手に、居間の調度品や額縁の誇りを払う。そのあとはほうきで床を掃いた。

 小さな家だが、エイミーひとりで掃除をすませるには部屋数が多い。だから、曜日ごとに場所を決めていた。月曜日は台所、火曜日は二階の寝室、水曜日は居間と客間……という具合に。

 そんな彼女をハリーはそっと見守る。わざと居間に鉛筆を忘れ、取りにもどる。

「あ、ごめん。掃除中だったのか」

 箒片手に、エイミーはほほ笑む。

「今、終わりましたわ。どうぞお過ごしください、坊っちゃん」

 と、足早に彼女は去った。

――もう少し話したかったのに。

 母がいない隙を狙い、あのことを問いたかった。

――結婚の予定があるの?

 と。

 だが、予定があったならまだしも、ない、と答えがあったらどうするつもりだろうか、と自問する。

 真面目なエイミーのことだ。若主人が自分に気があるのを知ったとたん、転職するにちがいない。

――やっぱり、言えないよな。

 じゃあ、今までどおり黙したまま、彼女の背中を見つめているだけでいいのだろうか。

――よくない。エイミーがほかの男と結婚なんて。

 手持ち不沙汰の鉛筆が意味もなく揺れる。ぶらぶら、ぶらぶら、窓に向けて。そのガラスの向こうには、矢車菊にじょうろで水をやっているエイミーがいた。

 今度こそ、と決意したハリーは庭へ出た。

 うん、と背伸びをして気分転換だと言わんばかりに、矢車菊を指でつつく。

「青い花を見たら、ああ、わが家に帰ってきたって思うんだ」

 唐突な話しかけだったが、エイミーは素直に答える。

「あたしの実家にもたくさん咲いてるんです。初めてここで奉公することになったとき、実家が恋しくて、つい植えてしまいました。それが奥さまに気に入られて、このとおりです」

「僕も好きだな」

「え?」

 水をやっていたエイミーの動きが止まる。目をぱちくりさせ、ハリーを見つめた。

「……坊っちゃんもお花がお好きだったのです?」

「そんなに驚くこと?」

「あの、昔はいたずらでよく引っこ抜いてらしたから」

 ハリーはあせる。不自然な会話だった、と。

「い、いや、その、あれは。母さんを困らせようと。花がきらいじゃなくて、勉強、勉強ってうるさいから、つい反発して……」

「まあ、そうでしたの。じゃあ、お部屋に飾っておきますわね」

「あ、ありがと…………」

 にっこり笑顔のエイミー。ハリーは赤面するのが自分でもわかった。

 そしていつもなら、距離を置くのだが、今日はちがった。母は所要で出かけている。父は仕事で不在。

 ふたりきりの今がチャンス。

「そういえばさ、エイミー」

「はい?」

「きみは、その、結婚の予定とか…………ない、の、か、な、な……」

 緊張のあまり語尾が濁る。

――ああ、ついに言ってしまった!

 心臓がばくばくするハリーだったが、エイミーはあっさりと答える。

「ありませんわ。それが何か?」

――やったぁぁぁっ!

 ハリーは心のなかで狂喜乱舞する。

「そうか。そうだったのか。いやあ、メイドが年ごろになったら、辞めてしまうから、探すのが大変だという話題が、ルームメイトとあって。その、えっと、深い意味はなくて」

「姉たちはみんな結婚しました。だから、この前、母から手紙があって、そろそろいい相手はいないのかって、書いていました」

「へ?」

 喜びもつかの間、次の会話でハリーは谷底へ突き落とされる。

「今度の休暇で帰郷します。そのとき、叔母がお見合い相手を紹介してくれるの。いいひとだったら、そのまま結婚するつもりです」

「……」

――ヘイウッドの忠告どおりだった!

 ハリーは今すぐ、エイミーの手を取り、いっしょに家を出たい衝動にかられる。

 だが行動できなかった。

 メイドと若主人の結婚など、世間は祝福しない。障害を乗り越える勇気が、ハリーにはなかった。

 そもそも、エイミーが自分を純粋に愛してくれる、という確信がなかった。


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