第2話
ハリーは大学生になった。両親の熱い願いを裏切ってしまい、オクスブリッジはあきらめた。教師の強い説得もあり、それなりの大学に進学することで落ち着いた。
――よかった。エリートだらけの集団だと、僕はついていけなくなる。
がっかりする演技をしながら、ハリーは内心、安堵していた。
大学は自由だった。そして寄宿学校のような規律もなく、ハリーは勉学もそこそこに学生生活を楽しむ。ルームメイトだったヘイウッドもいたから、彼を通して友人が増えた。
そんなある日の夕食後。酒を飲みながら同寮たちと、歓談していたさなかだった。
「まだ絶賛片思い中なのか、きみ……」
ヘイウッドは呆れたように、あんぐりと口を開けた。
「彼女、結婚するって聞いていたんだが、破談になったのかもどってきたんだ」
「破談? どうして?」
「さあ。そんな立ち入ったこと、きけるわけないだろ」
「せっかくのチャンスなのに、告白しなかったのか?」
「……できないから、片思いなんだろ。しかしそれでいい。彼女をそばで見つめることができるだけで、僕は幸せなんだ。フラれたら二度と会えないじゃないか!」
「奥手すぎる。一生、その彼女を見ているだけで終わりそうだな。どこの深窓令嬢に恋したのやら……」
ヘイウッドは肩をすくめるのだが、ほかの友人らはちがった。ハリーがたのみもしないのに、あれやこれやとアドバイスをする。とくに勧めてきたのが、プレゼント作戦だった。
「花束と香水がいいぞ。愛の贈り物そのものだ。喜ばない女性を見たことがない」
――愛の贈り物。
という言葉に、ハリーの心が揺れる。
――そうか。告白をしなくても、プレゼントをすれば……。
かくして、次の夏季休暇。実家へ帰るその日、香水と薔薇の花束を買った。
エイミーはいた。庭で矢車菊にじょうろで水をやっていた。
こちらに気がつくなり、ほほ笑みが返ってくる。
「おかえりなさい、ハリー坊っちゃん」
「ただいま」
「奥さまにお伝えしますわ」
「その前に、きみに渡したいものがある。これを」
プラムピンク色の包装紙と赤いリボンでラッピングされた、小さな箱を手渡す。赤い薔薇の花束といっしょに。
「坊っちゃん?」
ハリーは空咳をした。
「……えっと。僕の気持ち」
エイミーは目をぱちくりさせ、微動だにしない。
うれしいのかそうでないのか……。
反応がない相手に、ハリーはあせりを感じた。
「ゲランの香水。世の女性はだれもが好きだってきいたから」
「まあ。そんな高級な香水。いただけませんわ」
手渡したプレゼントを、突き返される。ハリーは軽く両手を振った。
「深い意味はないんだ。きみが喜んでくれたら、と」
「『僕の気持ち』だとおっしゃったわ。困ります。坊っちゃん――いえ、若主人さま」
「エイミー……」
黒いワンピースと白いエプロン姿で、エイミーはプレゼントをぐいぐいと、ハリーに押し返す。怒りなのか困惑なのか、見たことがないほど表情をゆがめていた。いつもの素直さも愛らしさもまったくない。
ハリーは悟った。
この告白は失敗だった、と。
プレゼントを奪うようにして取りもどす。玄関ドアを開け、母にあいさつをしないまま二階の自室へ入った。
――ああ、ああ。やってしまった!
後悔しても遅かった。
――エイミーがいなくなってしまう!
自分がメイドに恋していることを知られた。それがどんな意味を持つのか、エイミーがわからないはずがない。
――メイドと雇い主が結婚だなんて、ありえない。
もし恋が成就したとしても、エイミーと結ばれるには障害が大きすぎた。まず両親が許さないだろうし、駆け落ちしたとしても次は世間体が悪すぎる。生涯、後ろ指をさされて生きていくことなど、耐えられるだろうか。
――そもそも、僕は愛されてなかった。
それが一番の痛手だった。
情けないが、ハリーは泣くことしかできなかった。
絶望のあまり、香水の入った箱をゴミ箱に投げ捨てる。あまりにも恥ずかしくて、花束を何度も踏んづけてやった。
あまりにも呆気ない失恋だった。
元気のない自分を母が心配するのだが、風邪気味だと言ってごまかした。メイドのエイミーはいつものように、朝食の給仕をし、それが終わると片付ける。次は掃除。
てきぱきと家事をこなす姿は昨日と変わらない。
居間を掃除し終えたエイミーは、庭へ出て矢車菊に水をやる。そのメイドに、窓を開けた母が声をかけた。
「エイミー、はたきをピアノの上に置いたままよ!」
すぐさま彼女は振り返り、じょうろを地面に置くと、小走りで家に入る。慌ててはたきを片づけ、母に詫びた。
「申しわけございません、奥さま。うっかりしておりました」
「おまえらしくない。次はお気をつけなさいな」
「はい」
しかし母の叱咤も空しく、エイミーは晩餐を失敗した。オーブンに入ったミートパイを真っ黒に焦がしてしまい、その夜はスープとパンだけだった。
父がため息をつく。
「今夜はえらく質素だな……」
母が給仕をするメイドへ説教をする。
「まあ、おまえ! いったいどうしたっていうの? 一日に二度もミスをするなんて」
「うっかりしておりました」
「だからそのうっかりした原因をきいているの」
「なんでもないんです。本当に、ただ、うっかりして……」
食卓でやりとりを聞いているハリーは、冷や汗をかく。
――僕のせいだ。
エイミーは顔に出さないものの、動揺している。若主人に恋されているのだから、無理もない。一日でも早く、転職して逃げだしたいと思っているはず。
目を細めた母が鋭く言った。
「……まさか好きな男ができた、っていうんじゃないでしょうね? 結婚退職するのはかまわないけれど、それまでの奉公勤めを手抜きされたら困るわ。給金を減らしたくないの。おまえは長年、よくやってくれているから」
「奥さま。少し疲れてただけです。ご心配ありがとうございます」
「そう。ならいいんだけど」
ハリーはエイミーを見なかった。視線が合いそうになるが、さっとそらす。
とてもではないが、彼女をまともに見ることができない。
翌日、まだエイミーはいた。
廊下を掃除しているメイドの姿を見たとき、ハリーはいつもとちがう何かを感じ取った。
――あれ? この匂い。
さわやかな緑と甘い花が混じった香り――そう、ロンドンの店でプレゼントを選んでいたとき、嗅いだあの香水の。
――まさか。
ハリーは自室にもどり、ゴミ箱を見た。空だった。
――そのまま捨てたんじゃなかったのか。
若主人の恋は迷惑だが、香水だけは欲しかった、とか。
しかしエイミーはそんな女じゃない。自分が十二歳のときから、彼女はわが家で働いている。ありえない。
――ならば、どうして?
掃除を終えたエイミーは、いつものように庭に出た。そのときを狙って、ハリーも表へ出る。
矢車菊へ水をやっている彼女へ、そっと問うた。
「……それ、プレゼントした香水だよね」
「ええ」
今にも消え入りそうな声で返事があった。
「迷惑じゃなかったのかい」
「たしかに迷惑です。でも、うれしかったんです」
「エイミー……」
ハリーはエイミーを抱きしめようとしたが、思いとどまる。居間には母がいるし、近所の目がある。
「水やりが終わったら、屋根裏部屋へ来て」
それだけ言い残し、ハリーは家に入った。そして階段を上り、三階へ移動する。屋根裏部屋は二つに分かれ、ドアのない部屋は物置、もう片方はエイミーの部屋だった。
物置部屋でハリーは待つ。やがて足音が聞こえ、そっとエイミーが入ってきた。話し声がもれないよう、ハリーは言った。
「よかった。僕、きらわれたのかと……」
「とんでもないです。あたしも坊っちゃんのことを」
「そ、そうだったのか。気がつかなかった。僕の片思いだと信じ切っていた」
「二年前、あたしに質問されましたよね。結婚の予定はあるのか、って」
「ああ。実家に帰ったきみは、そのまま結婚するのかと」
「そのつもりだったんです。だけど――」
エイミーに見つめられる。青い瞳は潤み、今にも涙をこぼしそうだった。
「あたし、どうしても坊っちゃんとお別れするのがつらくて。このままメイドでいることに決めました」
「ああ、エイミー」
たまらず抱きしめる。周囲の目がないから、ためらいはなかった。だが、エイミーに笑顔はない。
「だけど、坊っちゃん――いえ、ハリーさま。あたしたちが恋したこと、知られてしまえばお別れしなくてはいけませんわ。だから、このままの関係でいたいの」
「……」
エイミーは大人だった。ハリーよりもずっと。
恋仲になってしまえば、だれもが反対する。いっしょにいることは叶わない。ハリーもエイミーも、親同士が決めたそれなりにふさわしい相手と結婚させられる。
「ごめん。僕が子供だった。ずっと秘めなくてはならなかったのに」
「ううん、いいの。こうして抱きしめてくださるだけで、幸せです」
恋は成就したはずだが、とても苦かった。
――エイミーにキスしたい。
だけどハリーはこらえる。
深い仲になればなるほど、秘密を守り抜く自信がなかったからだ。
「そろそろもどらないと。奥さまに疑われるわ」
ハリーと距離を置いたエイミーは、さっと乱れたエプロンを直すと、階段を降りた。まるで何ごともなかったかのように。
ゲランの香りだけが、愛する女の存在をうっすらと残した。
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