愛と友
失ったものは簡単には取り戻せない。
だから、代わりのもので穴を埋めた。
本当はどうすればいい? どうするのが正しい?
いや、俺は答えが欲しいんじゃない。
ただ不安なだけなんだ。
正しさが欲しいわけじゃない。
俺が欲しいのは幸せだ。
失った幸せを、ただ埋めて欲しいだけなんだ。
*
出会いがあれば、別れもある。そうやって割り切ることができれば、どんなに楽だろうか。
「夕くん、はい」
「ありがと」
佐々木さんが差し出したミートボールを受け取る。相変わらず佐々木さんは俺におかずを一品作ってくれる。俺の分の弁当も作ろうかと言ってくれたが、さすがにそれは申し訳なかったし、弁当を作るのはもう日課にもなっていたから、あまり変えたくもなかった。
「どう?」
「愛の味がする」
「もう、恥ずかしいな」
俺と佐々木さんの仲は至って順調だった。俺は佐々木さんと一緒にいて十分過ぎるほど幸せだし、佐々木さんもこれといった不満はないように見える。
「あの、さ」
「なに?」
ただ、それも見ようによっては見せかけのものだったのかもしれない。
「あのさ、俺が京といることは、そんなにいけないことなのかな」
口が滑った、と言えばそうなのかもしれない。だが、ここ数日で感じている間違いなく本物の思いはいつか表出してしまったのではないか、と思う。
「ダメだよ。だって、夕くんは私と付き合っているんだから」
「そうだよね、ごめん。忘れて」
ちょっとした一言。だけど、このときはっきりしたことがある。
佐々木さんと一緒にいるなら俺は京とは一緒にいられない。京と一緒にいたいなら、佐々木さんとは別れないといけない。
これは二択だ。俺は今二択を迫られている。
あやふやにしてきた事を目の前に突き付けられたようだった。
俺は佐々木さんと付き合う時、こんなことは全く考えていなかった。あの時から、京は俺の傍から離れるつもりだったんだろうか。俺は京から離れる決心なんて、まったくなかったのに。
その日から、急に日々が(仮)の付いた、刹那的なものに思えた。
何をしていても、何かを思っても、それはいつか無くなる無意味なものに思えた。
*
夕くんが私と城ケ崎さんの間で心が揺れ動いているのは分かっていた。
でも、それは最近になってからの話ではない。初めからだ。
私は夕くんに告白するとき、フラれてもいいと思って告白した。夕くんが城ケ崎さんと仲がいいのは知っていたから。嫌というほど。
『俺と、付き合ってください』
夕くんに言われたときは、この世界の幸せをすべて手に入れたような気持ちだった。
夕くんと一緒にいる間は幸せでいっぱいだった。それこそ、溺れるような幸せだ。
好きな人と一緒にいる、ただそれだけのことが私の見える世界を一変させた。ああ、今まで生きてきた世界はモノクロの世界だったんだな、とその時初めて気付いた。
『俺が京といることは、そんなにいけないことなのかな』
良いわけがない。城ケ崎さんはスラっとしていて、まるでモデルみたいな人だ。顔は小さいし、足は長い。あんなの、反則だ。比べられたら勝てっこない。
それに、夕くんと城ケ崎さんは一年生の時から仲が良かった。少しでも夕くんと長く一緒にいたい。そうすれば、城ケ崎さんより長く一緒の時間を過ごしたことになるから。
「私と城ケ崎さん、どっちか選んで」
そう言ったら、夕くんはどう答えるだろうか。
いや、分かり切ったことだ。
だったら、訊かなきゃいけない。
もう、背伸びをするのはおしまいだ。
*
真綿で首を絞められる感覚、と言えばいいだろうか。俺と佐々木さんの関係はそのようなものだった。いずれ破綻することは、見る人が見れば明らかだったのかもしれない。
しかし、実際には幸せな時間もあった。きっと、初めから一貫した不幸なんてものはないんじゃないだろうか?気付いたら、あのときから不幸が始まっていた、あの時から俺はずっと不幸だ。なんて言うのは、後だから言えることで、きっと初めは自覚症状なんてないのだ。今が不幸だから、過去も不幸になる。そう思えてしまうのだろう。
「ねえ、夕くん。どっちか選んで。ダメだよ、はっきり選んでくれなくちゃ」
そこにあるのは怒りだろうか、恨みだろうか。それとも嫉妬だろうか。俺は選ばなくてはならない。けど、選べない。卑怯なのだ。どうしても、自分から何かを破綻させることなんてできない。自分の手を汚さずに、成り行きに任せて消滅させる方を選んでしまう。
本当は、答えはずっと前から決まっているのではないだろうか? 心の中ではそんな思いが首をもたげていた。今、決心するのではなく、かつての自分を思い返す事こそが、俺が取るべき行動なのではないだろうか。きっと、その先に二択に対する答えが待っているはずだ。
俺はこの期に及んでも、今の自分ではなく、過去の自分というある意味他人とも思える存在に決断を託そうとしていた。
しかし、それしか手段はない。人間の心を不死身のものと思わないでくれ。心は死ぬし傷つきもする。頼むからそれだけは許してくれ。もう、自分の手で心を気付付けたくはない。
「できないよ」
漏れるようにして口から言葉が吐き出される。これが本心というものなのだろうか。自分のことでありながら、まるで幽体離脱したかのように自分という存在の成り行きを俺は見つめていた。
「京と離れるなんてできない」
佐々木さんの感情が揺れ動くのが伝わってくる。きっと、感情の波が荒れ狂い、すぐに感情を言語化できないのだろう。それとも、すでに用意された答えを出しあぐねているのだろうか。俺から漏れだした不格好な答えを聴いてもなお、佐々木さんはしばらく沈黙を保っていた。
「私は夕くんの気持ちが本物だったって信じてるから」
それは、お互いの体内に入り込んでは呪縛を残す甘い毒だった。あの時間、あの感情は嘘にはならない。嘘にならなかったものは残り続ける。例え忘れたとしても、二人の間では虚構になりえないのだ。かつてあったこと、それは心のどこかに眠り続ける。いつか眠りから覚め、お互いを求めあうその時のために。
「私、夕くんが城ケ崎さんのことが気になってるって分かってた。それでも、夕くんのことが好きだから。この気持ちに嘘なんて付けないから、夕くんに告白したの」
「夕くんがいいって言ってくれた時、本当に嬉しかったよ。絶対、城ケ崎さんより私の事を好きになってもらえるように頑張ろうって思った」
「でも、夕くんの特別はずっと城ケ崎さんのものだった。本当は、私より城ケ崎さんと一緒にいたかったんでしょ? ごめんね。私、夕くんを苦しめてた。別れよう? きっと、その方が良いよ」
「だって夕くん、時々すっごく苦しそうな顔するんだよ? 知ってた? とっても辛そうで寂しそうな顔。私、夕くんがあんなに悲しそうな顔してるとこもう見たくないよ。だから、さようなら。大好きだよ」
佐々木さんが俺を置いて去っていく。ドアが閉まった途端、立っていられなくなり、膝が折れると同時に感情の波がどっと溢れ出し、視界が歪んだ。荒れ狂う感情に包まれて全身が震え、嗚咽が漏れる。別れがこんなにも辛いものだとは思わなかった。俺の中にこんなにも激しい感情があるなんて知らなかった。何があっても、悲しいなんて思うことはないと思っていたから。
「夕!」
やがて声もなく涙がコンクリートの床を濡らした頃、ドアが力強く開け放たれた。足音が近づいてくる。手がぎゅっと包み込まれ、体温が伝わると、何か心の敏感な部分がゆっくりと溶けていくような心地がした。
*
「なんで夕は優しくするんだろ」
浴槽に浸かっているとき、口からこぼれた一言。どうしても一人でいると、夕のことを考えてしまう。夕のことを考えると、なんだかもやもやしてきて、気持ちが口から出てしまう。
「京ちゃん」
洗面所から母さんが声をかける。ああ、嫌なことを聴かれてしまった。思わず言ったことを取り消したい衝動に駆られる。
「その、本当は言っちゃいけないんだけど、言うね」
「いや、言っちゃいけないなら言わない方が」
「夕くんが前に教えてくれたの。なんで京ちゃんのお見舞いに行ったのかを」
母さんは私の制止を無視してどんどん話続ける。いつものことだ。
「夕くん、中学のときに京ちゃんに助けてもらったことがあるんだって。憶えてない? 夕くんが同じ野球部の子たちにいじめられてるときに、京ちゃん、庇ったでしょ?」
「んーそんなことあったっけなー」
いまいち憶えてない出来事だ。確かに、中学の野球部は素行が悪くていつもケンカばかりしてたけど、夕を庇ったことなんてあっただろうか。
「思い出せない?」
「あー、多分、夕がボウズだったから思い出せないのかも」
「そっかあ、今は長いもんねえ、夕くん」
「でも、なんとなくあった気もする。夕、助けたくなる感じだし」
思わず笑ってしまう。なんで夕が優しくするのか、答えは簡単だ。夕は優しいのだ。優しすぎるから心配になる。壊れてしまいそうだから、助けたくなる。
「私、夕が好きだ」
「私も好きよ。ああいう子」
どこまで気持ちに正直になっていいんだろう。私は夕と一緒にいたい。でも、それが誰かを傷つけることになるならと、気持ちを抑えていた。
でも、気持ちは伝えよう。これはずるいだろうか? 今のところ、私は夕と付き合いたいとかは思わない。そういう気持ちはまだ分からないから。付き合ってない女が夕と一緒にいるのは悪いこと? 答えは私には分からない。答えなんて出ない気もする。
迷ってる場合じゃない。気持ちを伝えるんだ。一緒にいたいって、ただそれだけの気持ちを。
放課後、私は下駄箱の前で夕を待つことにした。
まだ夕は来ていない。心の準備をする。あー、なんでこんなに緊張してるんだろ。試合の時より緊張してる。手汗もひどい。
足音が近づいて来る。思わず音がする方を見てしまう。
「あっ」
出てきたのは佐々木さんだった。少し目が赤いが彼女は凛と私を真っすぐ見つめ、目線を切ると有無を言わさぬ様子で私の横を通り過ぎた。
「夕くんなら屋上にいるから。行ってあげて」
佐々木さんはすれ違いざまにそう言い残して、颯爽と立ち去って行った。その様子は溢れてしまいそうな気持ちを精一杯堪えようとしているようだった。
「よし」
覚悟を決めて屋上へ走り出す。気持ちを伝えるために。
*
「夕!」
京の声がしたとき、驚きより安堵のほうが大きかった。温かな拠り所がある感覚が胸に広がった。
「京、ごめん」
「いいって。さぁ、帰ろう」
手を引っ張られて立ち上がる。もう片方の手で涙をぬぐう。
「ほら」
俯いていた顔を上げると、京がハンカチを差し出していた。
「京のくせに」
京から手渡されたハンカチで涙を拭うと、また涙がこぼれてきた。
「夕は泣き虫だなー」
京が抱きしめて頭を撫でる。京の匂いに包まれると何だかほっとして、そこに京がいることが幸せだった。体温を求めた身体はぎゅっと手繰り寄せるように身体を抱きしめ、それに応えるように細くやわらかな指は俺の頭をゆっくりと撫でた。
「私、夕と一緒にいたい。付き合うとかは今はできないけど、一緒にいたい」
京は珍しく改まった様子で話した。きっと、京も決めたんだろう。
「うん、俺も京と居たい」
京が泣きそうな顔で笑う。
もう手放してはいけない。この大切な、友人の笑顔を。
*
「夕ぅーあそぼーぜー」
「課題は終わったの? また補修になるよ?」
「まったくー夕はお母さんみたいだなー」
勉強ができない京に勉強を教えるため、俺は城ケ崎家にいる。春乃さんに頼まれたから来たのだが、京は早速遊びたがっている。やればできるはずなのに。そこそこは。
「ほら、あと少しなんだろ? 早く終わらせなよ」
「夕はいじわるだなぁーいじわるだぁー夕ぅー」
「千種はこんな風になっちゃダメだぞ」
「うん! 分かってる!」
一方、同時に宿題を始めた妹の千種は姉とは違い、テキパキと片付けてしまった。今はごねている姉をよそに絵を描いている。
「ちきしょー、千種がどんどん夕に影響されて歪んだ大人になっていってる」
「京はもうちょっと妹を見習って勉強したほうが良いよ」
「あーそういうのが一番やる気失くすんだよなー分かった、分かった、やりますよー」
嫌々ながらも、言われたらやるのは京の良いところかもしれない。俺が勉強を見るようになってからは、いくらか成績も上がっているみたいだし。
「よぉーし! 終わった! 夕! 遊びに行くぞ!」
「うん」
さっきまで生気を吸い取られているかのような顔をしていたのに、課題が終わった途端、京は勢い良く立ち上がって俺を外に引っ張っていった。
「なにするの」
「キャッチボール!」
「また?」
「いいじゃん! やりたいんだから!」
俺は京に白球を放る。
いつまで続くかわからない日常。
それでも、俺が選んだ日常だ。
何か他の結末もあったのかもしれないけど、俺はこのくだらない日常を愛そうと思う。
甘い友人と佐々木さん 桂木 狛 @koma_shiba
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