福音の調律者

@s0212073

第1話 白銀の巫女

【0】


廃墟の町の一角。

崩れかけた建物が軒を連ね、辺りには壁の一部と思しき破片が散乱していた。

深夜のため人気はないが、そもそもこの場所を訪れようとする物好きなどそうそういないだろう。

それ程までに、辺りには不気味な雰囲気が充満していた。

そんな場所に、複数の影が飛び交う。

影は全部で五つあり、一つは人の形をしている。

残りの四つはほとんど同じ形で、獣のようなシルエットだ。

暫く獣の影が人の影を襲っていたが、その動きが一旦止まった。

数メートル距離を置いて、人影も同時に立ち止まった。

月明かりの下に五つの姿が露わになる。

人影の方は二十代の若い青年で、右手に白銀の剣を握っている。

獣の影は四匹の狼の群れだ。

しかし狼の姿はどれも異質だった。

姿形は普通の狼のそれだが、毛色は墨を被ったように真っ黒だ。

また目元の辺りから赤い筋が背中にまで伝い、血管のように幾筋にも走っている。

しかもその赤い筋は不気味に明滅していた。

「四匹か。」

青年が呟きながら、剣を両手で握って狼の出方を窺っていた。

「GRRRRRRR…!」

狼たちは最初、すぐには飛びかからずに青年を威嚇していたが、先頭の狼が青年を引き裂かんと、正面から襲いかかってきた。

それに対して青年は、剣を上段に構える。

すると先頭の狼が突然、青年の右側に体をスライドさせた。

その動きに合わせて、後方にいた一匹が青年に向けて前足を振りかざす。

だがその爪が肉を裂くことはなかった。

狼の凶暴な爪が青年の顔に迫る直前、彼は左足を軸に回転しながら、狼の右側へ移動していた。

爪の攻撃から逃れた青年は回転の勢いそのままに、狼の首を一気に斬り落とした。

首を切断された狼は、地面に落ちる直前に霧となって霧散した。

「まずは一匹。」

直後、霧散した狼を挟んで反対側にいたもう一匹が、霧に乗じて青年の首を咬み千切らんと、飛びかかってきた。

青年は剣で斬り返すが、狼はその一撃を牙で受け止めた。

その隙にもう一匹の狼が青年の後ろから迫って来る。

狙うは青年の首だ。

背後の狼が跳躍して、彼に牙を向ける。

刹那、狼の顎に何かが命中した。

直撃したのは、青年が腰に差していた鞘だった。

彼は狼をギリギリまで引きつけて、一気に鯉口を押し下げていた。

その勢いで、鞘尻の先端が狼の顎を射抜いたのだ。

狼はそのまま上空に打ち上げられる。

一方青年は押し下げた鞘を逆手で引き抜き、剣を押さえていた狼の腹部に打ちつける。

鞘の攻撃で怯んだ狼は、思わず剣を口から離した。

自由になった剣で、青年が狼の脳天を突き刺す。

「二匹。」

貫かれた狼が霧散すると同時に、青年は体を反転させると、先程打ち上げた狼に剣を振り上げる。

「三匹。」

刀は狼の体を両断し、そのまま霧散させる。

発生した黒い霧を剣で振り払うと、まだいるはずの一匹の姿がなかった。

青年は鞘を腰に収めながら息を殺し、耳を澄ませる。

直後、地面から地鳴りのような音が聞こえてきたかと思うと、青年の足下から長い蔦のようなものが現れた。

蔦は青年の右足に巻きついた。

青年が周りを見渡すと、姿を消していた一匹が彼の背後五十メートル離れた辺りから、尻尾を地面に突き刺していた。

どうやらこの蔦はあの狼の尻尾のようだ。

彼の身動きを封じた狼が口を開けると口から黒い球体が出現した。

狼はそれを弾丸のように放った。

その攻撃に対して青年は狼に向き直りつつ、剣を持ってない左手をかざした。

その瞬間、彼の左手の空間が歪み始め、気がつけば何もなかった青年の左手には、いつの間にか漆黒の銃が握られていた。

全長は約30cmで、遊底に横向きの十字架が描かれている。、

またそれに絡むようにして薔薇の蔦が施されていた。

十字架も蔦も、血のように紅くデザインされている。

「四匹。」

青年は銃口を狼に向けて、二度引き金を引いた。

一発目の銃弾は迫ってきていた黒い球体にぶつかり、お互い消滅した。

そして連続で撃った二発目は、その勢いのまま狼の頭を撃ち抜き、霧散させた。

「…ふぅ。」

青年が一息つくと、手にしていた剣と銃の周りの空間がゆがんだかと思うと、次の瞬間には消失していた。

そのタイミングで、彼の上着のポケットから携帯の着信音が鳴り響いた。

携帯を取り出して着信相手を確認すると、『空(そら)守(もり)士道(しどう)』と出ていた。

「はい、もしもし。」

「あぁ、零か。お疲れさん。今日のところはどうだ?」

「お疲れ様です。ちょうど現れていた分は倒したところです。」

零と呼ばれた青年―――時代(ときしろ)零(れい)は電話の相手、空守士道にそう報告する。

「分かった。お前ばかりに負担をかけてしまってすまないな。」

「大丈夫です。それにこれは、俺のやるべきことですから。」

「……。」

零の言葉に士道は沈黙する。

「士道さん?」

「…いや、何でもない。」

「?」

不完全燃焼ではあるが、零はそれ以上追及しないことにした。

「そういえば朱音がこの前、お前の帰宅が遅いと心配していたぞ?」

士道が突然、話題を切り替えた。

「それはだって、霧がこの時間に出るんですし、しょうがないですよ…。」

「そうは言っても、あいつは事情を知らないしな。」

士道が電話の向こうで苦笑した。

零が溜息を吐く。

「とりあえずもういないみたいですし、そろそろ帰ります。」

そう言って零は電話切ろうとする。

「あぁそうだ。明日は私が見回ろう。零はゆっくり休むといい。」

「…いいんですか?」

零としては非常に有難いが、申し訳ない気持ちになる。

「心配するな。それに明日お前は仕事もあるだろう?」

「それはそうですが…。」

「ここ最近は零に任せっぱなしだからな。私の家もお前と同じで、この世界を守る義務がある。」

「…分かりました。ならお言葉に甘えることにします。」

一瞬躊躇った零だが、ここは素直に受けておくことにした。

「それじゃあ俺はこの辺で。」

「あぁ、気をつけてな。」

お互いにそう声をかけて、零が電話を切る。

ふと彼の視界に、建物の壁に貼られたポスターが映った。

それは恋愛映画のポスターのようで、『2020年5月公開』と銘打たれていた。

「そういえば、あれからもう五年も経つのか…。」

零が夜空を見上げる。

「俺は…本当にこのままでいいんだろうか…。」

空には綺麗な満月が、雲の隙間より顔を覗かせていた。






【1】



幼い頃、両親からある昔話を聞かされた。

その昔、世界は混沌で支配されていた。

混沌は自然を意のままに操り、嵐や津波、噴火、地震など天変地異を引き起こして、人々を恐怖に陥れた。

 人々はどうすることもできず、逃げ惑うしかなかった。

いつ世界が滅んでもおかしくない状況の中、二人の勇者と巫女が混沌と相対した。

闘いは熾烈を極め、幾日も続いたという。

長い死闘の果てに、勇者と巫女は見事混沌を討ち果たした。

だが強大な力を有する混沌を、完全に消滅させることはできなかった。

 また混沌が残した爪痕により、世界は崩壊の危機に瀕していた。

そこで巫女は一族に伝わる秘宝と勇者の力で、世界を二つに分断した。

そして分かたれたことで発生した次元の狭間に、混沌を閉じ込めて封印したのだ。

封印は成功し、滅びかけた世界は二つに分けたことにより、均衡を取り戻した。

また封印は形を変えて、今なおこの町に存在している。

自分たちはその子孫で、封印を見守るのが務めだ、と上機嫌な父に言われた。

その話を聞いて、自分は父に尋ねたことがある。

封印が解ける日は来るのかと…。

父は酒を飲みながら、そうなったら父さんたちが世界を守らないといけないな、と笑いながら言った。

父の隣で母は、こうしてずっと平和に暮らしていたいわ、と嘆息していた。

結局のところ、封印が解けるかどうかについては、はぐらかされたような感じだ。

だがもし自分の生きている時に封印が解けたとしたら、自分はどうすべきなんだろう。

その勇者と同じように、世界を守ることができるだろうか。

幼いなりにあれこれ考えたが、答えが出ることはなかった。

 それから時は流れ、父から聞いた話は記憶の彼方へ追いやってしまい、すっかり思い出すことはなくなっていた―――――。




          ♰




―――――ピピピピピピピピピピピ。

「ん……。」

 目覚まし時計が部屋に響き渡る。

「…うるさい。」

 零はベッドに体を入れたまま、鳴り続ける目覚まし時計を止めた。

 そして再度目を瞑り、二度寝を敢行しようとする。

 だが今度は携帯のアラームが鳴り響いた。

 零は手を伸ばして静かにさせたが、先程まであった眠気はすっかり覚めてしまった。

「…諦めよう。」

観念してベッドから立ち上がる。

そのまま閉め切っていたカーテンを開けた。

 外と室内の明るさの差に一瞬目を細めたが、すぐに慣れてきた。

「雨か…。」

 外では太陽の姿はなく、雨が降っている。

 それも土砂降りと言ってもいいくらいの、気持ちのいい降りっぷりだ。

 苦い顔をしていると、ふと部屋のベランダに黒猫がいることに気づく。

 猫はその場から動かず、ただじっと外を眺めていた。

雨宿りでもしているような雰囲気だ。

 確かにこの雨じゃ満足に出歩くこともできないだろう。

 そんなことを考えながら、零はしばらく猫を観察していたが、黒猫は最後まで彼の存在に気づくことなく、目の前を通り過ぎていった。

「…わざわざ目の前を通らなくてもいいだろ。」

 一日の始まりから憂鬱になってしまった。

「支度するか…。」

 零は寝室を出る。

 そのまま彼はリビングの隣にある和室へと足を運んだ。

 するとそこには大きな仏壇が置かれていた。

 仏壇には四十代と思しきの男女の写真が並んでいる。

 また写真の両脇に位牌が二つ飾ってあり、『時代進之霊位』『時代琴音之霊位』とそれぞれに書かれていた。

 零はその前に正座すると、線香に火を灯し、手を合わせた。

 彼の両親は五年前に既に亡くなっている。

そのため彼は現在一人暮らしをしているが、住んでいるのは実家ではなく、親戚が管理しているマンションだ。

零は両親への挨拶を済ませると、朝食を食べるために和室を出る。

 そのままキッチンまで行き、冷蔵庫から昨晩の夕飯の残りを取り出して温めた。

料理を口にしながら、携帯で今日の天気を確認する。

「…ついてない。」

どうやら今日は一日中雨のようだ。

零は雨の予報に憂鬱な気分になった。

雨は嫌いだ。

外はじめっとした空気になって気持ち悪いし、外に出るのを控えたくなる。

それに雨だと物思いに耽ることが多い。

「あ、やばっ。急がないと仕事に遅れる。」

携帯に映る時計を見ると、時刻は七時を回っていた。

「今日は食材の買出しを頼まれてたんだった。」

零は喫茶店で働いている。

お店の開店は十一時からだ。

買った食材に仕込みも考えると、そろそろ出ておきたい時間ではある。

零は一気に朝食を平らげて、残りの支度もそそくさと終わらせた。

「行ってきます。」

 そして家を出る直前に誰もいない空間に声をかけ、彼は自宅を出る。

 彼が住んでいるのは、とあるマンションの一室だ。

部屋は五階建ての中で三階にあり、そこそこ新しい。

そして彼がお世話になっている知り合いが管理するマンションでもある。

 階段を降りてロビーに着くと、玄関口で一人の女性が零に背中を向け、なにやら作業をしていた。

 零がその人に挨拶しようと近づくと、向こうも彼の存在に気付いた。 

「あぁ、零か。おはよう。」

 女性は零に気付くと、作業の手を止めて彼に向き直った。

「おはようございます。朱音さん。」

 そう零が挨拶した女性は空(そら)守(もり)朱音(あかね)と言い、零の母親の妹だ。

家系的には叔母にあたる。

身長は高く零と同じくらいで赤みがかったブラウン色の長い髪は大雑把に後ろで結わいていた。

しかし決して粗野な感じはなく、肌も綺麗に整っている。

今は五月の大分暖かくなり始めた時期だ。

そのため、朱音の服装もそれに合わせて黒い半袖のシャツに、下はスキニーを穿いている。

少し切れ長な目も相まって、『クールなお姉さん』という印象だ。

これだけ綺麗なのだから、きっと男は引く手数多だろうと零は初めて朱音と会った時にそう感じた。

しかし朱音自身、そういった恋愛ごとに興味がないのだそうだ。

学生時代の頃は、それこそ多くの男から言い寄られていたが、その数々の告白や誘いを朱音は「興味ない」の一言で一蹴していたと、生前の母が大笑いしながら話してくれた。

そのためか現在も結婚はせず、独身のままでいる。

そんな朱音は、現在二十七で、零は二十だ。

年齢が近いこともあり、零から見れば叔母というより姉という感覚が強い。

幼いころはよく可愛がってもらったものだ。

「こんな朝早くからどうした?」

そんなことを考えていると、朱音が声をかけてきた。

「今日は静音(しずね)さんに買い出しを頼まれているので。」

「なるほどな。」

静音というのは、目の前にいる朱音の姉だ。

零は現在、静音の営む喫茶店で働いている。

彼はとある理由で、働き口は極端に少ない。

しかし静音は進んで、自分の店に零を招いてくれた。

仕事先がてんで見つからなかった零にとっては、非常にありがたいことだ。

「朱音さんこそ、ここで何をしていたんですか?」

零は気になっていたことを尋ねた。

彼からしてみると、朱音がこんな朝早くに何かしているのは珍しい。

管理人としての時間は九時からのはずだ。

「実はこの天井が雨漏りしていてな。ちょっとした応急措置をしていたんだ。」

そう言って、朱音が天井のとある箇所を指差す。

その部分を見ると、天井の一部にチューブがついている。

そのチューブの先には、バケツが床に置いてあった。

「ちゃんとした補修は業者に頼むが、それまでこのままというのも気持ちが悪くてな。」

「いつもお疲れ様です。」

「なあに。これでも一応ここの管理人だからな。責務はちゃんと果たすさ。」

零は朱音のこうした積極的に行動するところをとても尊敬していた。

両親を亡くして、兄弟の行方もわからずに、独りになっていた自分をこの人はここまで守ってくれたのだ。

そう思うと、彼女にできる限りの恩返しをしてあげたいと思う。

「何か困ったことがあればいつでも言ってください。力になりますから。」

朱音はその言葉に驚いたような表情を浮かべたと思ったら、すぐに顔を俯かせた。

「あの、どうかしましたか?」

零は心配になって尋ねると、朱音は物凄い速さで彼に近づき、ガシっと両肩を掴む。

「零よ…。」

すると朱音はバッと顔を上げると、

「結婚しよう!」

「はい?」

興奮したように鼻息を荒げていた。

というか何故か鼻血を出していた。

「いや意味が分かりませんし、あと鼻血拭いてください。」

いきなりの言動に、零はドン引きしていた。

「おおっと、私としたことがつい興奮してしまった。」

朱音は我に返ると、零の両肩から手を放し、鼻血を拭いた。

「だがプロポーズされてしまっては、鼻血の一つも出てしまうのはしょうがない。」

「いやあのですね…。」

 そこで零の時が止まる。

「ちょっと待ってください。今なんて言いました?」

 朱音は不思議そうな顔をする。

「だからプロポーズされてしまっては、鼻血が出てもしょうがないと…。」

「は?」

「ん?」

朱音の唐突な発言に、零は眉根を寄せた。

「誰が誰を?」

「零が私を。」

朱音は自分と零を交互に指差した。

「プロポーズなんてしてませんけど。」

「はっはっは。そんなに照れなくてもいいだろう。」

零は否定したが、彼女は全く信じていない様子だ。

「照れてませんし、そもそも告白すらしてないじゃないですか。」

「…そうなのか?」

彼のきょとんとした表情を見て本当だと思い始めたのか、朱音がおそるおそる尋ねる。

「そうですよ。」

「何だと!」

朱音は目を見開いた。

「先程お前は『力になる』と言ったではないか!」

物凄い剣幕で迫ってきた朱音に、零は思わずたじろぐ。

「え、えぇ。言いましたけども…。」

「それは遠回しのプロポーズなのだろう!」

「何で!」

どこをどう捉えたらプロポーズの言葉になるのか。

「力になるというのは、一生支えていくという意味で言ったのだと思っていたのだが?」

「重っ!」

曲解に曲解を重ねた朱音の発言に、零は頭が痛くなってきた。

朱音は昔からどこかのネジが外れているのか、今のようにに時々、訳の分からないことを言ってくる。

(からかっているんだか、そうでないんだか…。)

零は顔に手を当てた。

「とにかく、俺はプロポーズなんてしてませんからね。」

語弊の無いよう再度否定する。

朱音はぶすっと頬を膨らませていた。

「まあ今回はそういうことにしておこう。」

どうやらまだ納得はしてないようだ。

零は深々と溜息をつく。

「それはそうと、お前昨日も帰りが遅かったな。」

「うっ…。」

 いきなり話題を変えられ、かつ内容が内容だけに零は言葉に詰まる

昨日は見つからないよう静かに帰宅したはずだが、バレていたようだ。

「ここ最近ずっとそうだが、何しているんだ?」

「えーっと…。」

零は視線を逸らす。

霧との戦いについて、朱音は知らない。

そもそも知っているのは零と士道の二人だけなのだ。

話してしまえば、きっと朱音は心配するだろう。

これ以上戦うのをやめさせようとするかもしれない。

(でもこれは俺の使命で、償いだから…。)

士道と相談して、この件は他言無用ということになった。

「…き、昨日は士道さんのところに行っていてたんですよ!」

「兄さんのところ…?」

 何とか捻りだした言い訳に、朱音は疑いの眼差しを向ける。

「たまたま時間ができたみたいで、稽古をつけてもらっていたんです!」

 零は冷や汗をかきながら、なんとかそれっぽく説明する。

 朱音はじっと零を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。

「…後で兄さんに聞いておくか。」

 何とかこの場は逃げきれたようだ。

(士道さんに口裏合わせてもらわないとな…。)

 零は心の中で嘆息する。

ふとフロントに置いてある時計を見ると、時刻は八時を過ぎていた。

「それじゃあそろそろ行ってきます。」

そう言うと、朱音は柔らかい表情を向けた。

「あぁ。気をつけて行ってこい。あまり遅くなるなよ。」

「分かりました。今日は早く帰ります。」

 幸い今日の見回りは士道が受け持ってくれたので、仕事が終わればすぐに帰れる。

零はエントランスを出ると、傘を差して仕事場へ向かった。




          ♰




 ここは桜城市。

商業と観光の両面で盛えた都市だ。

 この町は大きく三つの地域に分かれている。

 一つ目は高層ビル群や観光施設が密集しているメインエリア。

 三つのエリアのうち、最も東にある、桜城市の顔とも言うべき地域。

 エリアの中心に商業ビルがいくつも立ち並んでおり、それを取り囲むようにアミューズメント施設が建てられている。

 中心にある商業ビル群には多くの企業が入っており、中には大手企業も存在する。

 さらに巨大なコンベンションセンターなども充実しているため、ビジネス目的で海外から多くの外国人が訪れて日夜会議が行われている。

 また商業施ビルの周りにはテーマパークやショッピングモールがあり、その施設の大きさから世界的に注目されている観光スポットとして有名だ。

 何せ全てを遊び尽くすのに、二日かかると言われている。

ビジネスマンだけでなく、多くの観光客もこのエリアへ足を運ぶこともあって、昼間は様々な人でごった返している状態だ。

 夜になるとビジネスマンが減り、徐々に人通りは少なくなってくるものの、遊びに来た人々の波が衰えることはない。

ショッピングモールは遅くまで営業しており、かつ月に何度かイベントが開催される。

その時はお祭りのような活気に満ち溢れ、老若男女関係なく一様に盛り上がる。

ホテルなどの宿泊施設もこの周辺に建てられているため、夜通し遊び倒す者も少なくない。

昼夜問わず多くの人で賑わっていることから、このエリアは別名【眠らない町】とも呼ばれている。

 二つ目は住宅が軒を連ねるレジデンスエリア。

 桜城市の中心に位置しており、大抵の人がここに住んでいる。

 ここにもショッピングモールはあるが、メインエリアとは違って生活用品を主に取り扱っており、生活に関するものは全てここで手に入る。

 さらに教育施設もこのエリアに建設され、桜城市のほとんどの学生が通っている。

 反対に娯楽施設は少なく、あるにしてもせいぜいショッピングモールに入っているゲームセンターぐらいものだ。

 そうした性格のためか、このエリアに足を運ぶ観光客は少ない。

 しかも夜の九時頃には、ほとんどの店が閉まっている。

 空いているのはせいぜい居酒屋やバーといった疲れたビジネスマンを労ってくれる店ぐらいのものだろう。

まさに人が住むための地域だ。

 残る最後のエリアはスラムエリア。

 零が昨日、狼の形をした霧と戦っていたのもこのエリアだ。

 桜城市の西側にあり、先のメインエリアやレジデンスエリアとは対照的に、エリア全体に活気がない。

 それにはそこに住む人々や、環境に起因する。

 ここに住む人の大半は元犯罪者や失業し、家を失ってしまった人々で占めている。

 その人たちは帰る家もなく、野宿をしている者がほとんどだ。

もちろんスラムエリアにも住める家がないわけではない。

一軒家こそ少ないものの、アパートやマンションは建っていて、そこに住んでいる者はいるのだ。

 しかし職に就けず、家賃を満足に払うこともできないため、野宿を強いられている人たちが後を絶たない。

 職に就けないのは偏に【スラムエリアの住人】という枷のためだ。

 スラムエリアの治安の悪さは桜城市に住んでいれば、誰もが耳にする。

 犯罪自体は少ないものの、暴力事件などは毎日のように起こっており、人によってはレジデンスエリアやメインエリアで犯罪を犯す者もいる。

 犯罪を犯したことのないスラムエリアの人々は、自分たちがやっているのではないと言いたくもなるのだが、他エリアの人からしてみれば、そう簡単に納得できるものではないだろう。

 そのレッテルが貼られているため、職を探せど、雇ってくれるような企業やお店は非常に少ない。

スラムエリアの住人が働いているというだけで、嫌な顔をする客は少なからずいる。

経営側としても、客足が減ってしまうことを恐れているのだ。

零が職探しに困っていたのも、これに起因する。

多くの悪評が飛び交うエリアのため、メインエリアの人は言わずもがな、レジデンスエリアに住む人もまず近づくことはない、煙たがられている地域だ。

 桜城市はこの三つのエリアで構成されている。

 しかし三つに分かれているとは言っても、公に区画整備といったことはされていない。

 むしろ市ができた当初はこういった分別などなく、一つ町となっていた。

 だがメインエリアに商業ビルが建ち始め、周りに娯楽施設が増えてくると、人口は次第に東へ流れてしまった。

そして自然と地価は上がり、満足に稼ぐことができない者は行き場を失って、西へと追いやられた。

 このような背景から、今の桜城市は成り立っている。

そんな町の中で、零の住んでいるマンションはスラムエリアにあたる。

それもスラムエリア内でもレジデンスエリアがすぐ隣にあり、治安は比較的良いと言われている。

 また彼の仕事場はレジデンスエリアにあり、自宅からは歩いて十五分ほどの距離だ。

零は今、スラムエリアとレジデンスエリアの狭間にある路地をちょうど歩いている。

ここはエリアが分かれる前、様々な飲食店が入っており、多くの人で賑わっていた。

しかしメインエリアが町の中心になり、ここまで足を運ぶ人も減っていってしまった。

その結果、閉店する店が相次ぎ、今ではここで営業している店はない。

またスラムエリアに隣接しているということもあって、住んでいる者もいなくなってしまった。

そんなすっかりもぬけの殻のとなった区画を、零は迷うことなく歩いていく。

「この道を歩くのもだいぶ慣れたもんだ。」

この区画は非常に入り組んでおり、似たような路地が多い。

「最初は自分がどこにいるか全く分からなかったからな。」

ここを使い始めたときは、だいぶ苦戦したものだ。

何せ行きたい方向へ進んでいたはずなのに、いつの間にか家へ戻ってきてしまうのだからたまったものではない。

しかし地理を把握できれば、他のルートよりも断然早い。

零は歩き慣れた道を進みながら、朱音のことを考えていた。

(あの人も相変わらずだな。)

そう思いつつも零自身、嫌な気はしていない。

朱音に引取られた頃は、あの冗談な物言いによく助けられていた。

彼女のおかげで今の自分がいるということもあってか、むしろ先程のやり取りが心地いいとすら思っている。

(まあもう少し抑えてほしいと思わなくもないけど。)

とはいえ昔からあの性格ということを考えると、ほとんど期待できないが。

零が諦めたように肩を落としていると、ふと路地の異変に気付く。

「何だ…?」

異変というより、違和感といった方が正しいかもしれない。

何やらただならぬ気配が、路地の奥からひしひしと肌に伝わってくる。

零は差していた傘を閉じると、意識を前方へ集中させながら、ゆっくりと気配のする方へ歩いていく。

気配は突き当りのT字路を右に曲がったところから感じ取れる。

動く気配はない。

どうやらその場から動く気はないようだ。

それとも動くことができないのか。

(どちらにしても油断はできないな…。)

零は突き当たりに着くと、息を殺しながら気配のする方を見つめる。

「なっ…。」

するとそこには、一人の少女が傘も差さずに倒れていた。

年は零と同じか、少し下に見える。

「おい、大丈夫か?」

零が近づいて声をかけると、少女は零に気付き、俯けていた顔をハッと顔を上げた。

その少女は人間離れしたような整った顔立ちをしており、腰まで伸びている長い髪も息を飲む程に美しい銀髪だ。

またその髪は雨に濡れたことで光輝いて見える。

彼女は第一ボタンの辺りにブローチが付いている黒いブラウスを着ており、下は臙脂色の短めなスカートを穿いていた。

どこかお嬢様を思わせる風貌だ。

零が見惚れているところに、彼女の深い藍色の眼が彼を捉える。

その眼は、一点の濁りもなく澄んでいた。

同時に彼女の儚げな印象をより一層強めている。

「助けてください!」

少女は零を認めるや否や、必死の形相で零に助けを求めた。

突然の彼女の叫びに、零は戸惑う。

すると、奥の曲がり角から二人の男が出てきた。

二人とも黒いスーツに黒いサングラスと、さながらヤクザかマフィアのような恰好だ。

どちらも背は高く二メートルは優に超えている。

だが気になる点は、二人の顔だ。

双子なのかどちらもスキンヘッドで、しかも遠目から見ても非常に骨格が似ている。

サングラスで目が隠れいているとはいえ、まるで鏡に映し出されたようなレベルだ。

零は不思議と違和感を覚えた。

(何だ?こいつら…。)

そうして警戒していると、突然片方の男が零に向かって駆け出した。

そしてそのまま勢いで、零へ右ストレートを放ってきた。

「おぉっと。」

 零は右手の甲で拳をいなす。

「いきなり襲い掛かってくるなんて、随分ご挨拶だな。」

 その言葉に答えることなく、その後も男は連続で拳を打ち込んでくる。

 だがそれらを零は全て紙一重で躱していく。

 そして最後の右拳の一撃を避けると同時に、男の右側へ移動してガラ空きの懐に拳を放った。

「ん…?」

男は声も出せず、その場に崩れ落ちた。

(今の感触…。)

零が倒れた男を一瞥していると、いつの間にか背後からもう一人の男が両手をハンマーのように振り下ろしてきていた。

しかしその攻撃を、零は振り返ることなく片手で受け止めると、勢いを利用して男を前方へ投げた。

そして宙で逆さまになっている男に向けて掌底を打ち込み吹き飛ばす。

男はそのまま後ろの壁にぶつかり、地面に倒れ伏した。

二人の沈黙を確認して、零が息を吐く。

(それにしてもこいつら…。)

 倒した男たちに違和感を感じていたが、今はそれよりも優先するべきことがある。

「立てるか?」

零は少女へ近づくと手を差し伸べる。

彼女は一瞬ぼーっとしていたが、すぐに我に返った。

そして一度、自分の足を確認したが、零へ向き直ると力なく首を横に振った。

見ると、少女は足を投げ出したような格好で倒れている。

どうやら足を怪我して動けなくなっているようだ。

(こうなったら、この子には申し訳ないけど…。)

零は少し考えると、少女の首と足に手を回して一気に抱き上げた。

彼女の体はとても熱くなっていた。

「悪いけど、少し我慢してくれ。」

少女は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに目を瞑り、零に身を預けた。

(少し急いだ方がいいな…。)

伝わってくる熱だけでも、大分弱っているように感じる。

零は彼女を抱え直すと、そのまま方向転換し、来た道を戻り始めた。




          ♰




「よし、着いた。」

 五分ほど走ったところでマンションの入口にたどり着いた。

零は走っていた勢いを緩め、抱えていた少女を見る。

「大丈夫か?」

零が声をかけるが、彼女は目を閉じたまま動かない。

(意識はなさそうだな。)

少女はぐったりしており、とても苦しそうな表情をしていた。

両手が塞がってしまい傘を差せなかったため、ここに来るまでの間も雨に打たれ続けていた。

すぐにでも彼女を休ませてあげないと、体がもたないかもしれない。

零は再び歩き始め、マンションの中へと向かう。

 ロビーに入ると、零が出かける前に作業をしていた朱音の姿は見えない。

 管理室の中も確認するが、気配はない。

どこかへ出かけているみたいだ。

(困ったな…。)

朱音にこの少女の介抱を手伝ってもらいたかったのだが、不在なのであればどうしようもない。

(ひとまず俺の部屋に連れていくか。)

朱音が戻ってくるまで、このままにしておくわけにもいかない。

零は自分の部屋へ急いだ。

このマンションは六階建てで、零の部屋は三階にある。

いつもなら歩いて上る階段を、少女に気を配りながら速足で上っていく。

零は自分の部屋へ入ると、すぐに寝室へ向かい、抱えていた少女をベッドへ降ろす。

「さて、どうするか。」

零は改めて彼女を見つめた。

自ら輝きを放っているかのような長い銀髪。

浮世離れした顔はまるで、絵本の中から出てきたと思うくらいに整っている。

朱音も十分すぎるほど美人だが、少女は同等か、もしくはそれ以上かもしれない。

お嬢様然とした服装であることも相まって、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。

(レジデンスエリアに住んでいる子だろうか。)

恰好からして、スラムエリアに住んでいるとは考えにくい。

となると、レジデンスエリアかメインエリアになるのだが、彼女は金銭的なものは一切持っていない。

メインエリアからスラムエリアまでは車で約二時間はかかるため、歩けるような距離ではない。

となるとレジデンスエリアの住人である可能性が高い。

だが例えそうであったとしても、先程の男たちは、なぜ彼女を追っていたのか。

(もしかしてこの子は本当にどこかのお嬢様で、家出しようとしたところへ、家の人が追いかけてきていた?)

 となると、彼らはこの子のボディーガードかもしれない。

(もしそうなら非常にマズイ…。)

 いくら彼女に助けを求められたとはいえ、これは傍から見たら、誘拐なのではないだろうか。

(とはいえ、あんな風に言われたらなぁ。)

 正直、零としてはあの場で見て見ぬふりをするという選択肢が頭になかった。

 むしろ彼女があのまま追っ手に捕まるということに対して、言い知れぬ不安を覚えていた。

(とにかく連れてきてしまったんだから、今さらぐだぐだ考えていてもしょうがない。)

 零は頭の隅に引っかかっている不安を取り払うと、まず自分のやるべきことを考えた。

 少女は見るからに弱っている。

 彼女を家へ運ぶために抱き上げた際、体が熱くなっていたから、恐らく熱も出ているだろう。

 となれば栄養のある食事が必要だ。

(後で何か温まるものを作らないとな。)

 何を作るかは後で考えるとして、他にやらなければいけないのは着替えだ。

濡れた服を着せたままだと、体調がさらに悪化しかねない。

 なので取り急ぎ少女を着替えさせなければいけないのだが…。

「何でこういう時に限って朱音さんはいないんだよ…。」

 零は思わずぼやいた。

少女は先程よりも少し落ち着いたのか、苦しそうな表情はしていない。

だが一向に起きる気配がないので、彼女自身に着替えてもらうことができない。

そして頼みの綱の朱音はタイミング悪く不在。

となれば零が着替えさせる以外に選択肢はない。

零自身そのことは十分に分かっている。

しかし寝ている女性の服を脱がせる行為に、とてつもない罪悪感を抱いてしまう。

(しかもこんな綺麗な子の服を脱がせるなんて…。)

零はその後、五分ほど葛藤していたが、やがて諦めた。

「できるだけ見ないようにしよう…。」

服はとりあえず使っていない自分の服を着せることにする。

そして、いざ少女の来ている服を脱がせようとする。

すると、とある部分に視線が集中してしまった。

 彼女の服はずぶ濡れのため、シャツの中が透けて見えている。

そこには淡い水色のようなものが少女の程よく育った胸を包んでいた。

途端、零は急激に意識してしまい、手も震えてきてしまった。

(これは不可抗力、これは不可抗力。)

零は落ち着ちつかせようと心の中で暗示を唱えながら、意を決して彼女の服へ手を伸ばした。

「お前は何をしてるんだ…。」

「ううぉーふ!」

直後、背後から声をかけられ、思わず飛び上がる。

「朱音さん!何でここに!」

振り返ると、そこにはあきれ果てた顔をしている朱音が、壁に寄り掛かるようにして立っていた。

「お前が出掛けた後、姉さんたちに挨拶しようと思ってな。勝手に部屋へ上がらせてもらっていた。」

管理室にいなかったものだから、てっきり外出していたと思っていたが、どうやら零の部屋にいたらしい。

慌てて寝室に向かったため、気付かなかった。

「そしたら急に眠くなってしまって、思わずソファーで寝てしまった。」

「勝手に入らないでください…。」

 零は未だ激しく動揺している自分を悟られないよう、必死に心臓を落ち着ける。

 そんな彼のぼやきに、朱音は気にした様子もない。

「まあいいじゃないか。別に見られて困るようなものなんて…。」

 ふと零の背後へ視線を向けると、

「…すまん…あったな…。」

 すぐに視線を逸らした。

「え!待って!なんかすごい勘違いされた気がするんですけど!」

 零がそう言うと、朱音は気まずそうに頬をかく。

「いや、そうだよな…。うん、零も男の子だもんな…。」

「何を考えているか知りませんが、少なくとも朱音さんが考えているようなことはないです!」

 このままだと今朝のようにまた変な誤解を生みかねないので(既に生んでいる気もするが)、必死に否定する。

「そうなのか?てっきり人形で慰めてしまうくらい、色々溜まってしまっているのかと思ったぞ。」

「んなわけないでしょ!」

 何てことを言い出すんだこの人は。

「まぁ冗談は置いといて…。」

「最初からやめてください…。」

 零のぼやきを気にすることなく、朱音は真剣な顔つきになった。

「その子は?」

「あぁ。実は……。」

零は少女が倒れていたこと、追われていたことをかいつまんで話した。

「…なるほどな。」

話を聞いた朱音は何事か考え込む。

「それにしても大分憔悴しているみたいだな。」

「はい。それに濡れた服のままだと悪化すると思うので、すみませんが彼女の着替えをお願いしていいですか?」

 朱音がいるのであれば、頼むに越したことはない。

「了解した。」

 朱音は二つ返事で了承してくれた。

「ありがとうございます。それじゃあ俺は彼女が起きた時のために何か作ってきます。」

 零は立ち上がると、キッチンへ向かおうとした。

「…ちょっと残念とか思ったか?」

「見てたなら最初から声かけてください!」

 零は気恥ずかしくなって、そそくさと寝室を後にした。




          ♰




夜も更け、活動している人間も滅多にいないであろう時間帯。

空は雲に覆われ、冷たい雨が滝のように降り注ぐ。

時には雷も鳴り響き、夜闇に閃光が走る。

そんな大荒れの天候の中、一人の少年が蹲って倒れている。

まだ成人前の幼い顔には幾重にも傷がついているのが見える。

さらに傷は顔だけに止まらず、肩、腕、腹、足と至るところに負っていた。

「うっ…。」

ボロボロの少年は自力で起き上がることができず、ただひたすら雨に打たれていた。

彼から数メートル離れた先には三つの人影が浮かんでいる。

三人の内、二人は中年の男女で跪いて座っており、その二人を見下ろすかのように一人の男が立っている。

男は長身痩躯で、その容姿から三十歳前後に見える。

髪は腰まで届かんばかりの長い黒髪だ。

そして服装はその髪色と同じ黒い服を着ている。

しかし彼の特筆すべき点は、その手にしているものだろう。

黒髪の男は手に大きな太刀を持っているが、それは不気味な雰囲気を醸し出している。

形状は刀の形をしているが、その色は黒ずんだように赤黒い。

まるで人間の血を啜ったような色だ。

「父さん…母さん…。」

少年は痛みをこらえながら、視線の先にいる中年の男女へ呼びかけた。

しかし激しい雨のせいで、その声が彼の両親へ届くことはない。

「……。……!」

少年の父親が黒髪の男に対して、何事が話しているが、少年には全く聞き取ることができない。

しばらく男は話を聞いている様子だったが、おもむろに持っていた大太刀を少年の父親へと向けた。

「…やめろ…。」

男の動きを見た少年は、これから彼がやろうとしていることに気付き、どうにかして立ち上がろうとする。

だが傷だらけの体は思うように動いてくれない。

「やめてくれ…。」

 焦りばかりが募っていく。

両親は動く様子がなく、これから起こることを受け入れてしまっているように見える。

「嫌だ…父さん…母さん…。」

その時、少年の父親は彼へ視線を向けると、何事か語りかけた。

少年はやはり聞き取ることができなかったが、父が何を伝えようとしていたのか、彼の慈愛に溢れつつも、寂しげな表情を見て察してしまった。

そして黒髪の男は少年の父親へ向けていた大太刀を振り上げた。

「やめろ―――!」

次の瞬間、雷が轟き、虚空に三筋の閃光が走った――――。




         ♰




「ん…。」

 一時間ほどして、少女は目を覚ました。

「ここは…?」

 彼女は体を起こして、辺りを見渡す。

 部屋は綺麗に片付いており、余分なものは一切置いてなさそうなシンプルな部屋だ。

「今のは…夢…?」

 先ほどの少年の光景は何だったのだろうか。

考え込んでいると、ふと置いてあった鏡に自身が映り込んでいるのに気づく。

鏡に映る少女は上下とも黒単色のシンプルな部屋着を着ている。

明らかに自分の服でないことがわかるくらい、ぶかぶかだ。

 何故ここにいるのか思い出そうとしていると、

「おぉ、起きたか。」

 少女は声がした方に目を向けると、そこには零が鍋の乗ったトレイを持って部屋の入口に立っていた。

「気分はどうだ?」

 彼は鍋を机に置きながら少女へ尋ねた。

「…大丈夫…です。」

 少女は戸惑いながら答えた。

「良かった。顔色もだいぶ良くなってきたな。」

 彼女の言葉に零はホッとする。

 少女は神妙な面持ちで零を見つめていた。

「…あのっ。」

 すると、

 ぐぅ~~~~~~~~。

 突然、部屋に気の抜けた音が響いた。

 零は驚き、思わず少女に視線を移す。

 音が鳴った先では、少女が顔を真っ赤にして俯いていた。

 そんな少女を見て、零が苦笑した。

「そうそう。お腹が空いてるだろうと思って、さっき飯を作ってきたんだ。」

 零は持ってきていた鍋をトレイごと彼女へ差し出した。

「口に合うかわからないけど、食べなきゃ体が持たないからな。」

「あ、ありがとうございます…。」

 少女は恥ずかしそうにトレイを受け取ると、鍋の蓋を開けた。

 中にはおかゆが入っており、とても香ばしい匂いが部屋に充満する。

「いただきます…。」

 少女は置いてあったレンゲでお粥をすくうと、匂いに導かれるように口に運んだ。

 口に含んだ途端、少女は目を見開いた。

「…あ…。」

 温かく、何もかも包み込んでくれるような優しい味。

 加えて何か懐かしい気分にさせられる。

 形容しがたい感覚が彼女の心身に染み渡った。

「…あ…れ…?」

 突然自分の頬に熱い何かが伝うのを感じた。

 触れてみると、それは涙だった。

「え!もしかして泣くほど不味かったか!」

 少女の涙に零は驚き、慌てた。

 そんな彼に少女は必死に首を横に振る。

「…違うん…です…。」

 彼女は必死に涙を抑えようとするが、どんどん溢れ出てきてしまう。

「とっても…おいしく…て…。」

 零はしばしきょとんとしていたが、やがて泣きじゃくる少女を優しい顔で見つめた。

「不安だったんだな。」

 そして少女の頭に手を乗せると、安心させるような手つきで彼女を撫でた。

「よく頑張ったな。」

 そう言われた瞬間、少女の中でこらえていたものが一気にくずれ落ちた。

「…ぁぁぁああああ…!」

 少女はまるで、やっと両親を見つけた迷子のように泣きじゃくった。

 零は彼女が泣き止むまで、ひたすら頭を撫で続けた。

 



          ♰




「…ご馳走様でした。」

 程なくして、彼女は泣きやみ、零の作ったお粥を完食した。

「お粗末様。口にあったようで何より。」

零は少女から空になった鍋を受け取ると、机に置いた。

「そういえば自己紹介がまだだったよな。」

 ふと思い出したかのように手をたたいた。

 ドタバタしていたせいで、お互いまだ名前すら知らない。

「俺は時代零。君は?」

 零の問いかけに、少女は少し考え込んでいたが、やがて口を開いた。

「…シオン…。」

 ふいに少女はそう答えた。

「…シオンといいます。」

 それはやっと絞り出せたような、そんな声音だった。

「シオン、か。よろしくな。」

零はそう言うと、鍋と一緒に持ってきていたポットとマグカップを手に取った。

そしてポットの中身をマグカップに注ぎ、少女へ手渡した。

 マグカップには紅茶が黄金色に輝いていた。

 シオンは受け取った紅茶を一口飲んだ。

「…おいしい。」

 彼女が顔を綻ばせる。

「それはよかった。」

 気持ちもだいぶ落ち着いてきたようだ。

「あの…ここはどこでしょうか…?」

 シオンはある程度心に余裕が出てきたのか、今の状況を知りたいようで、恐る恐る問いかけた。

「ここ?ここは俺の家。」

 零はそう答えながら、自分に入れた紅茶をすする。

「あ、いえそうではなくて…。」

 どうやら彼女が知りたかったのは違うことらしい。

「ひょっとして、この家がどこにあるかってこと?」

 零が尋ねると、シオンは首を縦に振った。

「ここはスラムエリア。もっと正確にはレジデンスエリアとの境界線辺り。」

「………?」

 零はわかりやすく答えたつもりだったが、彼女の表情を見る限り、全く伝わってなさそうだ。

「もしかしてシオンは観光客か?」

 だとしたらエリアのことを知らないのも、無理はない。

 だがシオンは肯定も否定もせず、押し黙っていた。

「すまない。いきなり不躾だったな。」

零が頭を下げると、シオンは慌てて否定した。

「ち、違うんです。答えたくない訳ではないんです。」

途端、徐々に彼女の顔が暗くなっていく。

「…思い出せないんです。」

シオンが続ける。

「どこから来たのか、どうしてここにいるのか、全く思い出せなくて…。」

「そうだったのか…。」

零はその時、彼女を追いかけていた男たちのことを思い出した。

「ということはさっきの奴らも?」

シオンが頷く。

「どうして私を追ってくるのかわかりませんでした。」

「なるほど。」

どうやら零の考えている以上に問題は深そうだ。

「あの時は、本当にありがとうございました。」

 少女が深々と頭を下げた。

「あそこで零さんが通りかからなかったらどうなっていたか…。」

「気にしなくていいって。」

 零は頬を掻きながら視線を逸らした。

「そうそう。シオンの服は今リビングで干してるから、乾いたら着替えるといいよ。」

「はい、わかりま…。」

そこでふと、シオンは自分の着ている服を改めて思い出す。

サイズ違いのこの服は恐らく彼のものだろう。

だがシオン自身、自分で着替えた覚えはない。

 そもそも気絶していた自分が着替えることなどできるわけがない。

となると誰かが着替えさせてくれたのだろう。

今、ここにいるのは零だけな訳で…。

そこで、シオンの思考は停止した。

「ん?どうした?」

零が不思議そうにシオンへ声をかけた。

「零さん…これ…。」

 シオンは着ている服に手をかける。

「あぁ。ここには俺一人で暮らしているから、シオンにちょうどいいサイズに服が無くてな。」

 零が申し訳なさそうな顔をする。

「あ…えっと…そうではなくて…。」

 シオンの顔がどんどん赤くなっていく。

 さらには目の端に涙が滲んできていた。

「大丈夫か?」

 零はまた熱がぶり返したのかと思い、心配そうに声をかけた。

 だがシオンは首を横に振って否定する。

「その…きが…え…。」

「着替え?」

 零の疑問に対して、シオンが頷く。

「着替えって…。」

 何のこと、と続けようとした時、零はそこでようやく理解した。

 彼女がどうして赤面しているのかを。

「待って待って!着替えさせたのは俺じゃないから!」

 零は慌ててシオンの勘違いを訂正させようとする。

 彼女は今にも泣きだしそうな顔だ。

 余程恥ずかしいのだろう。

「零、遅くなった。聞き込みが思いの外手間取って…。」

その時、朱音が部屋に戻ってきた。

そして部屋の中を見た朱音は、

「…零。」

心底可哀そうなものを見る目で零を見つめた。

「何であんたは間の悪い時に限って現れるんだよ!」

零はそう突っ込まずにはいられなかった。

「それはお前、タイミングを見計らっていたに決まっているだろう。」

「とんでもなくタチ悪いですね!」

零が頭を抱える。

「え、えっと…。」

突然の朱音の登場にシオンは目を白黒させていた。

「私は朱音。この子の叔母だ。」

「シ、シオンです…。」

シオンは戸惑いながらも自己紹介する。

「その服は私が着せたんだ。だから心配するようなことは何もない。」

「そうだったんですね…。」

誤解が解けると、シオンはホッと胸を撫で下ろした。

そこへ疲れた顔の零が朱音を見る。

「それで、結果はどうだったんですか?」

「結果…?」

シオンは首を傾げる。

「寝ている間、君のことについて朱音さんに調べてもらってたんだ。追いかけてきていた奴らも含めてね。」

零が説明する。

「結論から言うと、特になしだ。」

朱音がキッパリと答える。

「スラムエリアはもちろん、レジデンスエリアでも知っている者はいなかった。」

朱音はお手上げというような素振りを見せる

「やっぱり観光客かもな。」

 朱音がそう推測する。

どうやらその線が一番濃厚だ。

シオンを見ると、彼女は申し訳なさそうな顔をしていた。

そんな彼女に、朱音はあえて明るい笑顔を向ける。

「まぁ記憶が戻るまでここにいればいいさ。幸いこのマンションはガラガラだからな。」

朱音を見て、シオンも少し顔を綻ばせた。

「そういえば零は行かなくていいのか?」

思い出したように朱音は零に言った。

「何がです?」

「仕事。」

時計を見ると、時刻は既に十時を回っていた。

「しまった。もうこんな時間か。」

 買い出しに行く予定だったが、この時間だと厳しそうだ。

 零はメッセージで静音に連絡する。

 するとすぐに返事が来た。

『必須の食材ではないので、今日は無くても構いません。』

 その言葉に零はホッとする。

「それじゃあ朱音さん、シオンのことお願いします。」

零はいそいそと食器を片付ける。

それを見たシオンは少し逡巡している様子だったが、やがて口を開いた。

「あ、あの!」

急に聞こえた少々強めの声に零や朱音だけでなく、本人も驚いていた。

「あ、えっと…その…。」

シオンは気まずそうに下を向く。

するとそれを見た朱音は何かを察したような顔をした。

「零、シオンをお店に連れていったらどうだ?」

「え?」

零は驚いた。

「ここにいては何も思い出せないだろうし、外を歩いていれば思い出すこともあると思うんだが?」

「確かにそうかもしれないけど…。」

先程のシオンを追いかけて来ていた輩を思い出す。

「何かあったらお前が守ってやれ。」

朱音が零の肩をポンと叩く。

「簡単に言ってくれますね…。」

「零も男なんだから、それくらいの甲斐性は見せないとな。」

零は溜息をつく。

「でもシオンは足を怪我してますし、あまり無理させない方がいいんじゃないですか?」

「シオン、足の具合はどうなんだ?」

朱音が尋ねると、シオンはベッドから立ち上がって足の感触を確かめた。

「歩く分には大丈夫そうです。」

シオンの答えに、朱音は満足そうな顔だ。

「なら決まりだ。シオンだって零について行きたいんだろう?」

「…ご迷惑じゃなければ。」

シオンは恥ずかしそうにしながら、上目遣いで零を見つめる。

その仕草に零はドキッとした。

「…わかりました。」

零は観念して、シオンを連れて行くことにする。

本人が行きたがっているなら、無理に断る理由もない。

「それじゃあさっそく行くか。」

「はいっ。」

彼女は返事をすると、着替えるためにリビングへ向かった。




          ♰




シオンが着替えた後、零は仕事先へ向かっていた。

道中、彼らに出くわすかと危惧していたが、結局出会うことはなく、すんなりと辿り着いた。

「ここが俺の働くお店。」

零がそう言うと、シオンは目の前にある建物を見る。

レンガ造りのこぢんまりした建物で、壁には看板がついている。

看板には【Café Blossom】と書かれていた。

「静音さんっていう朱音さんのお姉さんが経営してる。」

「朱音さんの…お姉さん…。」

零が説明すると、シオンが興味深そうに店先を眺める。

「朱音さんって何人兄妹なんですか?」

ふいに彼女が零に尋ねた。

「朱音さんのところは四人兄妹だな。一番上の長男に朱音さん含めた三姉妹。」

士道の下に零の母である琴音、静音、朱音の順だ。

「そうなんですね。」

シオンが感心したように頷く。

「まぁとりあえず入るか。」

そう促すと、零はお店の扉を開けた。

「静音さん、おはようございます。」

零が店内へ声をかけると、一人の女性が店の奥から出てきた。

「おはよう零ちゃん。」

その女性――静音はおっとりした様子で零に挨拶する。

静音は長い髪を左右で纏めつつお下げにしており、それが彼女の柔らかい雰囲気をより際立たせている。

朱音とはまた違ったタイプだ。

「買い出しの件、すみませんでした。」

 零が頭を下げて謝罪すると、静音は気にした風もなく首を横に振った。

「いいのよ。無いなら無いで、お客さんにはそう説明するから。」

 そう言って優しい笑顔を見せる。

「あら、その子は?」

彼女はすぐにシオンの存在に気づいた。

「は、初めまして。シオンといいます。」

シオンは緊張しているのか、少し肩が上がっている。

「あなたがシオンちゃんね。私は静音。あなたのことは朱音ちゃんから聞いてるわ。」

どうやら既に朱音が連絡していたようだ。

「零ちゃんが初めて女の子を連れ込んだって騒いでたから。」

「ちょっと待ったー!」

とんでもない発言が出てきた。

「違うの?」

「違う…いや違くない!けど語弊ありすぎでしょ!」

零が必死な様子の傍らで、シオンは首を傾げていた。

「違いませんよ?」

「シオン!」

突然の死角からの一言に、更に動揺する零。

「そうなの⁉」

静音の目がキラキラと輝いた。

「はい、だって零さんは追われていた私を助けてくれたんです。」

シオンが一点の曇りもない表情でそう説明する。

そんなシオンを見た静音は手で顔を覆った。

「え、あの、どうかしましたか!」

シオンが慌てた。

「…なんて純粋な子…!」

「あんたたちが汚れ過ぎなだけですから。」

静音の呟きに、零は即座に突っ込む。

「?」

当の本人は、結局よく分からなかった。

「それよりそろそろ開店準備しないとですよ。」

零が静音を促すと、彼女はいつもの優しい表情に戻った。

「そうね。それじゃあ零ちゃんはいつも通り仕込みをお願い。」

「わかりました。」

零は頷くと、シオンへ向き直る。

「シオンはすまないけど、店内のテーブルで座っててくれるか?」

「気にしないでください。ここまで連れてきて頂けただけでも十分ですから。」

彼女はそう言って、端の席に向かおうとした。

「ちょっと待って!」

静音が突然制止する。

「シオンちゃん、せっかく来てくれたんだからここで働いてみない?」

「え?」

シオンが驚く。

「で、でも私ちゃんとできるかどうか…。」

「大丈夫。それにシオンちゃん可愛いから、お客さんも笑って許してくれるわよ。」

シオンはどうすればいいか分からず、零を見つめる。

その目はやってみたい気持ちが半分、不安な気持ちが半分といった感じだ。

「静音さんがいいならやってみるのもいいと思うぞ。」

零がそう言うと、シオンは決心がついたのか、両手にぐっと力を込めた。

「…でしたら働かせてもらっていいですか?」

「大歓迎よ!」

静音はシオンを抱きしめる。

「とりあえず着替えましょ。シオンちゃんにぴったりのサイズはあるはずだから。」

静音は喜び勇んで、シオンをバックヤードへと連れて行った。

「さて、俺も着替えるとしますかね。」

二人を見送った零も着替えて開店準備をすることにした。




          ♰




「お待たせ〜。」

零が料理の仕込みをしていると、静音が厨房に顔を出す。

「随分遅かったですね。」

二十分はかかっていたのではなかろうか。

「いや〜シオンちゃんが可愛くてつい、ね。」

静音が照れたようにペロッと舌を出す。

「全くあんた達は…。」

さすが姉妹というべきか、いたずら好きという点では朱音とよく似ている。

「それでシオンは?」

いるのは静音だけで、シオンは見当たらない。

「ほらほらシオンちゃん。ちゃんと似合ってるから大丈夫よ。」

どうやらすぐそこにいるらしい。

「あの、でもまだ心の準備が…。」

「いいからいいから。」

静音に強引に手を引かれ、シオンがわたわたと厨房へ入ってきた。

「――――!」

零に見られた途端、シオンは顔を真っ赤に染めた。

Blossomの制服は落ち着いたカーキ色をベースにしてメイド服っぽく仕上げている。

スカートは膝下五センチになっており、裾はフリルによって花のように広がっている。

彼女の容姿と相まって、神秘的な雰囲気を醸し出していた。

また長い髪は一つに纏めて、左側へ垂らしている。

そのためうなじが見えてしまい、彼女の色っぽさが際立っていた。

「どう…でしょうか…?」

シオンに上目遣いで尋ねられ、零はようやく我に返った。

「あ、あぁ。似合ってると思うぞ。」

その言葉に、シオンはホッと胸を撫で下ろす。

「良かったです…。」

シオンはそう言って、はにかんだ笑顔を向ける。

その表情に、零の心臓は更に跳ね上がった。

「おやおや?零ちゃんどうしたのかな?」

シオンの隣で、静音がニヤニヤしていた。

「いいからあんたは仕事してください!」

零は逃げるように仕込みの続きを始めた。

「あらら。怒られちゃった。」

静音が肩をすくめる。

「それじゃあ私たちも開店準備をしましょうか。」

「あ、はい。」

静音に連れられて、シオンはフロアへと向かった。




          ♰




開店後、お客さんの流れは終始落ち着いたものだった。

シオンは初めこそ緊張してぎこちない動きだったが、すぐに慣れていき、スムーズに案内できるようになっていた。

夕方になって店が閉店すると、シオンが一息吐いた。

「お疲れ様。初めてであんなに動けるなんて凄いわね。」

静音が労いの言葉をシオンに向ける。

「ありがとうございます。」

心なしかシオンの顔は疲れ気味だ。

「後は私でやっておくから、シオンちゃんはもう上がっちゃって。」

店は閉まったが、まだ閉店作業が残っている。

シオンが疲れているのに気付いた静音はそうシオンに声をかけた。

「え、でも…。」

まだ仕事が終わってないのは初めて働いたシオンでもわかる。

「シオンは病み上がりなんだから、あまり無理するなよ。」

と、零が厨房から顔を出す。

尚もシオンは逡巡していたが、

「…わかりました。」

そう答えると、少しフラつきながらバックヤードへ向かった。

(やっぱり今朝の疲れが残ってるよな。)

今は下がってるが、熱も出ていたし、少し無理させ過ぎたかもしれない。

隣で静音が申し訳なさそうな顔をしていた。

「ごめんね、零ちゃん。」

彼女もシオンの体調に気づいたようだ。

シオンを誘ったのは自分ということもあってか、余計に落ち込んでいる。

「いや俺も軽々しく許可してしまったんで…。」

 シオンのことを考えれば、ああなることはわかりきっていたことだった。

 それに気づけなかった零は心の中で自身を叱る。

 そこへ突然、来客を告げる鈴の音が聞こえた。

「すみません、今日はもう閉店してしまって…。」

 そこまで言って、静音が言葉を止める。

来店して来たのは一人の男性だ。

 静音より少し年上に見える。

 白い高級そうなスーツを身に纏い、短めの金髪は綺麗に後ろへ撫でつけられている。

 百八十センチはありそうな高身長も相まって、爽やかなイケメンといった感じだ。

「やぁ静音さん。元気だったかい?」

 男は明るいノリで、静音へ声をかける。

「…何か御用ですか?」

 対する静音は、心底嫌そうな顔を隠そうともせず、刺々しい態度だ。

 だが男はどこ吹く風といわんばかりの様子で、静音に近づく。

「そんな顔しないでくれよ。君と僕の仲だろう?」

男は舐めるような視線を静音へ向けた。

「あなたと仲良くなった覚えはありませんが。」

 静音はそんな男の発言をばっさり切り捨てる。

 彼女の態度に、流石の男も肩をすくめた。

「まぁいい。それより例の話はちゃんと考えてくれたかい?」

(例の話?)

 男の言葉に零は疑問を浮かべる。

「前にも言ったはずですが、私はBlossomを閉めるつもりは一切ありませんから。」

 静音が即答した。

「けれどこんなところじゃ大した売り上げはないだろう?」

 静音は唇を噛み締める。

 Blossomの経営状況については零も知っており、結論から言えばあまり芳しくない。

「例えそうでも、このお店は絶対に閉めないわ。」

 静音は鋭い目つきで、男を睨みらつける。

「…わかった。今日のところは引き下がってあげよう。」

 男は尚も食い下がろうとしたが、静音の堅い意志を感じ取り、降参といった感じで両手を上げた。

「また後日、話し合おう。」

 そう言うと、男は踵を返す。

「………。」

 去り際、男が零を睨みつけた。

「…何か?」

「…ふん。」

 零の問いかけに応じることなく、男は店を出て行く。

「はぁ~。ごめんね零ちゃん。」

 男がいなくなると、静音がどっと疲れたように息を吐いた。

「いえ、それよりさっきの男は?」

 零は別のことが気になっていた。

「あの人は西園寺克彦。西園寺グループの御曹司よ。」

「西園寺グループ?」

聞いたことのない名前だ。

零はあまりニュースを見ることがないため、そういう情報には疎い。

「全国にレストランやカフェをチェーン展開してる大企業よ。しかもレストランだけじゃなくて、ITや社会福祉のにも力を入れているの。」

 静音は突然携帯を取り出して弄り始めた。

 そしてとあるページを零に見せた。

そこには『ロボット業界に革命!新型ロボットの開発!』と銘打った記事が掲載されていた。

読んでみると、どうやら体の不自由な老人などに向けて作られた商品のようだ。

「最近だとこの介護向けロボットを開発したのが記憶に新しいかしらね。」

「へぇ。」

世の中にはそんな大成功した企業もあるのかと、零は感心した。

「そんな大企業が、どうしてこのお店に?」

先程、店を閉めるという話が出ていたし、この土地に自分たちの店をオープンさせるつもりなのだろうか。

「…実は以前から、ここを取り壊して向こうの店に来ないかって勧誘されてるの。」

 苦々しい顔で静音が答える。

「狙いは静音さんってことですか。」

思い返してみれば、克彦の静音を見る視線はビジネスマンのそれとは違っていた。

「あまり考えたくないけどね…。」

静音は嫌悪感で身を震わせる。

(相当毛嫌いしてるな。)

こんなあからさまに、人を嫌う態度を示す彼女は珍しい。

「まぁ何があっても、この店を潰すつもりはないわ。」

静音は努めて明るく振る舞う。

「じゃないと零ちゃんが無職の引きこもりになっちゃうからね。」

「無職にはなりますが、引きこもりになるつもりはありませんよ。」

静音の冗談に、零はいつも通り返す。

「…どうかしましたか?」 

そこへシオンが着替えを終えて戻って来た。

どうやら今のやり取りは聞こえていないらしい。

「いや、何でもないよ。」

シオンには余計な不安をさせたくないので、零は軽く躱そうとしたのだが、

「…そうですか。」

何故か彼女はしょげてしまった。

「あー!零ちゃんがシオンちゃん苛めたー!」

「え!いや、何かごめん!」

零は思わず謝罪する。

「零ちゃんは酷い男だね〜。」

「えー…。」

静音はシオンを抱きしめながら、そんなことを言う。

零としては納得がいかない。

「まぁでも、ホントに大した話じゃないのよ。明日お願いしてる買い出しの追加分を話してただけだから。」

「あ、そうなんですね。」

シオンは静音の嘘に納得する。

どうやら静音も彼女に気を遣ったようだ。

「そうだ!」

突然静音が手を叩く。

「シオンちゃんはこの町のことまだよく分からないんだよね?」

「?そうですけど…。」

シオンは何故そんなことを聞くのだろうと、首を傾げた。

「零ちゃん、明日シオンちゃんにこの町を案内してあげたらどうかな?」

「はい?」

零はポカンとする。

「だってシオンちゃんはこの町のこと知らないじゃない?いい機会だと思うの。」

 確かに静音の言う通りではある。

「いやでも、俺明日シフト入ってますよね?」

記憶違いでなければそのはずだ。

「最近はずっと閑古鳥が鳴いてるし大丈夫。」

静音はそう言ってウィンクした。

「買い出しはどうするんです?」

「朱音ちゃんに頼むから平気。」

「それ、朱音さんが迷惑でしょうよ…。」

零がそう言うと、静音は徐(おもむろ)に携帯を取り出してどこかへ電話をかける。

「あ、もしもし朱音ちゃん?ちょっとお願いがあるんだけど…。」

 相手は朱音のようだ。

その後、何事か話すと電話を切った。

「オッケーだって。」

「マジですか…。」

この強引なところも朱音にそっくりだ。

 零は溜息を吐いた。

「シオンはどうしたい?」

「あ、はい…。」

 静音のペースに乗り切れていなかったシオンは戸惑っていた。

だがすぐに申し訳なさそうな顔で、零を見つめる。

「その…零さんのご迷惑じゃなければ…。」

「じゃあ決まりね。明日は思いっきり楽しんできなさい。」

 静音はとても上機嫌だ。

「それじゃあ零ちゃんも着替えちゃいなさい。後は私に任せて、明日のためにもシオンちゃんを早く休ませてあげてね。」

静音が零を促す。

 本当は最後まで片づけをするところだが、オーナーがこう言ってくれているし、何より

シオンが心配だ。

「わかりました。厨房の片づけは終わってるので、すみませんが後はお願いします。」

「えぇ。わかったわ。」

 零は頭を下げて、自分も着替えに向かった。




       ♰




 着替えを終えて、零とシオンが店を出ると、雨は上がっていた。

 マンションへ帰る道すがら、シオンは多くの人の視線の的だった。

 銀雪を思わせる煌びやかなプラチナブロンドの髪に、シルクのようにきめ細やかな真っ白い肌。

 瞳はサファイアのように深い青色をしている。

 誰が見てもシオンの容姿は幻想的だと思うだろう。

 午前中は雨が降っていて傘を差していたから、彼女の顔は隠れてしまっていたが、今は彼女を遮るものはない。

すれ違う誰もがシオンに釘付けだった。

 シオンは周りからの視線に戸惑っていたが、スラムエリアに近づいていくと、次第に人影も少なくなりホッとしていた。

 そのタイミングでシオンが口を開く。

「あの、今日はありがとうございました。」

「?何でお礼?」

 いきなりの感謝の言葉に零は疑問を浮かべた。

「…私の我儘を聞いてくださったので。」

「我儘?」

「お店で働くことと、明日のお出かけのことです。」

 そのことか、と零からしてみれば何でもないことだった。

「別に気にしなくていいぞ。むしろ今日はいきなり働かせて悪かった。」

いくらシオンがやりたかったとはいえ、もう少し気遣うべきだった。

「れ、零さんが謝る必要ないですっ。」

シオンが慌てて、両手をぱたぱたと振る。

「働きたいといったのは私ですし、それに良い経験になりました。」

「…そうか。」

シオンの笑顔に零は頬を緩ませる。

「明日のことも、静音さんには悪いけどいい機会だと思ってる。」

「いい機会…ですか?」

「そう。シオンの記憶のためにも、他の場所へ連れて行くべきだとは思ってた。」

ただ零としては仕事があったので、タイミングを見計らっていたのだ。

その意味では、静音の提案は正直有り難い。

「ひとまず明日はメインエリアに出かけよう。」

「メインエリア…ですか?」

シオンは首を傾げる。

「東側にあるこの町の中心部分でな。何かきっかけがあるかもしれないと思ったんだ。」

スラムエリアやレジデンスエリアと違って、多くの人で賑わうエリアだ。

 それに彼女自身、非常に目立つ容姿をしている。

情報がある可能性は十分に高い。

「それにあそこならシオンも楽しめると思うし…。」

そこで零の動きが止まる。

同時に右腕をシオンの前に出し、彼女の動きも制した。

「どうかしましたか?」

シオンは尋ねたが、彼は怖い表情で道の先を見つめている。

何事かと思い、シオンも釣られて前を見ると、思わず息を飲んだ。

視線の先には、今朝シオンを追いかけていた男二人が、行く手を阻むようにして立っている。

彼らは特段変わった様子はなかったが、今朝と違うのは二人とも刀を所持していた。

彼らを見たシオンは身を縮こませて震えていた。

そんなシオンを零は庇うようにして立つ。

「随分物騒なものを持ち出してくるじゃねえか。」

零がそう言うも、男たちは最初にあった時と同じく、何も喋らない。

「シオン、少し離れていてくれ。」

零は背後にいるシオンに声をかける。

シオンは零の服の裾を強く掴んでいたが、彼の言葉に何とか頷くと、道の端にゆっくりと移動した。

「さて…。」

 彼女が離れたのを確認した零は二人の男に視線を戻す。

相手が武器を持っている以上、こちらもそれなりの対応をしなければいけない。

零は身を低くして、相手の出方を窺う。

男たちも一度やられている相手であるためか、警戒しているようだ。

暫く睨み合いの状態が続いた。

離れたところでこの状況を見ていたシオンは、零が圧倒的に不利だということはわかっていた。

男たちが武器を所持しているのに対して、零は武器になるようなものを持っていない。

だがそれでも、彼は身を挺して自分を守ってくれている。

何もできない自分が、心底歯痒かった。

(でも今は…。)

下を向いている時ではない。

今の自分にできることは零を信じることだけだ。

ならば何があろうと、彼を信じよう。

シオンは心に固く誓った。

長く続くかに思われた睨み合いは、すぐに終わりを迎える。

どこかでカラスが鳴いた瞬間、最初に動き出したのは片方の男だ。

零との距離はおよそ十メートルは離れていたが、一足飛びで距離を詰めてきた。

彼の眼前に迫るや否や、刀を上段から一気に振り下ろす。

刀は零の脳天を切り裂いていく―――――かに思われた。

しかし刃はキィィィーンという甲高い音によって遮られる。

シオンは何が起きたのか理解できなかった。

彼女の視界の先では零が両手を上げているだけだ。

だが零の両手が見えない壁でも作ったかのように、男の振り下ろした刀はそれ以上先に進むことができない。

そんな中、零が静かに口を開く。

「そっちがその気なら、容赦はしない。」

すると零の両手と男の刀との狭間の空間が歪み始めた。

歪みは数秒続き、やがて収まった。

「え…?」

シオンが困惑の表情を浮かべる。

歪んでいた場所には、いつの間にか白銀の剣が現れていた。

どうやらあの剣が男の一撃を防いだようだ。

攻撃を防がれた男は突然剣が出現したことに、特に驚いた様子はない。

むしろ防がれた原因がわかるとすぐに、返す刀で零の顔面へ刺突を仕掛けた。

だが零は顔を僅かに逸らすことで、その攻撃を紙一重で躱す。

「遅い。」

零はそう呟くと、先程の刺突で隙ができた男の懐に飛び込んだ。

勢いのまま、零が剣を振るう。

それは一瞬の出来事だった。

気づけば男の上半身に、Xを描くように二筋の傷跡ができていた。

彼はそのまま地面に崩れ落ち、そのままピクリとも動かない。

「…殺したんですか…?」

シオンが不安そうに尋ねる。

「『殺した』っていうより、『壊した』っていう方が正しいな。」

零はあっけらかんと答える。

「どういうことですか…?」

シオンは訳が分からず重ねて問いかけた。

「こいつら、ロボットだぞ。」

「え!」

零の発言を聞いて、シオンは倒れている男を、よくよく観察してみる。

すると、肩まで走った傷によって中身が見えており、中には人間の身体にあるはずのない機械の部品がギッシリと詰め込まれていた。

「本当だ…。」

どうやら零の言っていることは事実のようだ。

「でもどうしてこの人たちがロボットだってわかったんですか?」

彼はどうやって、そのことに気づいたのか。

「シオンは俺が最初にこの男を殴った時のこと、覚えてるか?」

「はい…。」

「その時、人間にしてはありえない感触がしたからな。おかしいとは思った。」

男の鳩尾を殴った時、筋肉してはやたら硬いと感触だった。

「最初は不思議に思ってたけど、たまたまロボットの話をした時があったからな。すぐに確信した。」

静音に見せてもらったロボット業界の記事。

それを見た時、この男たちがロボットだとすれば殴った感触の説明もつくと、零は考えた。

「零さん!危ない!」

 そこでシオンが突然声を上げる。

いつの間にか、零の背後にもう一人の男が忍び寄っていた。

肉薄した男は刀で零の右脚を狙った。

彼の動きを止めるつもりなのだろう。

「バレバレだな。」

零は振り返ることなく右脚を後ろへ振り上げると、迫り来る刀を踵で蹴り飛ばした。

男の刀が空へ舞い上がる。

「今朝と全く同じ動きじゃ読まれて当然だ。」

そしてガラ空きになった胴へ、零は剣を一閃する。

その一撃で、男の身体は上半身と下半身が真っ二つになり、仰向けに倒れた。

そこへ空へ上がった刀が男の胸を貫くようにして落ちる。

「ふー…。」

零は剣を一振りして、腰に差していた鞘に収めた。

「怪我はないか?」

放心状態のシオンは、零に声をかけられて我に返った。

「あ、大丈夫です。」

彼女の返事を聞いて、零がホッとした顔をする。

「とりあえず…。」

零は振り返ると、倒れている二体のロボットに視線を向ける。

「おい、見てるんだろ?」

零が急に声をかけた。

「零さん?」

シオンが不思議そうに彼を見る。

「こいつらロボットだったろ?てことは裏で操ってる奴が必ず居るはずだ。」

そうなると、その人物こそが彼女を狙っている黒幕ということになる。

零はロボットへさらに言葉を続ける。

「何故シオンを狙う?」

『…お前には関係のないことだ。』

突然ロボットから音声が流れた。

その声は機械を通しているためか、男か女か判別がつかない。

『…これ以上その女に関わるな。どうなっても知らんぞ?』

声の主はシオンから零を突き放そうとする。

シオンが零の服の裾を掴んできた。

その手は僅かに震えていた。

「悪いがそれは無理な相談だ。」

零がシオンの手に、そっと自分の手を重ねる。

シオンは思わず零を見上げた。

『…ふん。』

声は零の返答が気に食わなかっようで、プツッと回線が切れる音がした。

同時に二体のロボットが急に溶け出し始めた。

零が舌打ちする。

「やられた…!」

恐らく調べられないよう、壊されると一定時間後に発動する仕掛けを作ったのだろう。

そこにあるのは、既に金属であることすらわからない何かだ。

「…しょうがないか。」

零は肩を竦めながら嘆息する。

「あの…零さん…。」

呼ばれて零はシオンを見る。

彼女は身を震わせながら、スカートの裾を両手でキツく握りしめていた。

「ごめんなさい…。私のせいで…。」

シオンが頭を下げる。

自分のせいで、目の前の恩人が危険な目に合うことが、シオンには辛かった。

今回は無事だったが、次もそうだという保証はない。

「これ以上…零さんに迷惑をかける訳には…。」

いかない、と言おうとしたところで、彼女は自分の頭に何かが乗っかるのを感じた。

顔を上げると、零がシオンの頭を優しく撫でていた。

「そんなこと言うなよ。」

零は優しい口調のまま続ける。

「誰だって大なり小なり人に迷惑をかけるんだ。迷惑をかけない人なんていやしない。」

「でも…!」

自分ばかり迷惑をかけていて、何の役にも立てていない。

そんな自身を、シオンは許せなかった。

(どうすっかな…。)

零は思案する。

今日一日でシオンが真面目な子だというのは、よくわかった。

なので迷惑なんて気にするなと言っても、彼女の性格上、無理な話だ。

もっと別の言い方をする必要がある。

(…そうだ!)

零は思いつくや否や、早速シオンに提案する。

「それじゃあシオン。今後もし俺が困ってたら、シオンが俺のこと助けるっていうのはどうだ?。」

「零さんが困っていたら、ですか…?」

「そうそう。」

これならばお互いがお互いに迷惑をかけるという名目が成り立つ。

安直な説得だが、彼女にはこれが一番いい方法だろう。

「私に…できるでしょうか…。」

シオンはまだ不安そうな表情だ。

「できるかどうかじゃない。やるかやらないかだ。」

「やるか…やらないか…。」

シオンは零の言葉を反芻する。

彼女は俯いて考え込んでいるようだったが、しばらくして顔を上げた。

その目に不安の影はなかった。

「…わかりました。零さんに何かあったら、私が必ず助けます。」

「あぁ、頼む。」

ようやくシオンが納得してくれた。

零が表情を緩める。

「よし、そろそろ帰るか。あまり遅いと朱音さんが心配するからな。」

「…はい!」

零が促すと、シオンは今まで見せたことのない満面の笑みで頷いた。

その笑顔は、夕陽によってより美しく、より幻想的に見えた。





【2】



メインエリアのとあるコンベンションセンター内。

また時刻は既に零時を回っているため、ビル内に人の気配は全くない。

その最上階のフロアの複数ある部屋のうち、一つだけこの時間でも『使用中』となっている部屋があった。

部屋は明かりをつけておらず、六台のモニターの明かりだけが、室内を照らしている。

室内には二人の男がいた。

一人はスーツ姿の男でデスクの椅子に座って画面をチェックしている。

その後ろにはもう一人の男が部屋の壁にもたれかかるようにして、腕を組みながら立っていた。

その男は室内であるにも関わらず、黒いロングコートを羽織っている。

ちなみにこのビルの最上階は、どんな会社の社員でも役員以上の者でないと、足を踏み入れることすらできない。

そういう意味ではどちらも若く、三十歳前後ではなかろうか。

ロングコートの男が、スーツ姿の男の様子をしばらく見ていたが、やがて口を開いた。

「それで、あの女は捕まえられたのか?」

彼の問いかけに対し、スーツ姿の男は振り返ることなく答える。

「…まだだ。だが場所を突き止めることはできた。後は隙を見て襲撃するだけさ。」

「そうか。」

六つある画面の一つには、二人の男女の姿が映っている。

「…楽しみだ…。」

ロングコートの男はその画面をじっと見つめながら、そっと呟く。

「何か言ったか?」

「………。」

スーツ姿の男はよく聞き取れず、聞き返したが、ロングコートの男は黙ったまま答えようとはしない。

彼は舌打ちを鳴らすと、

「まぁいい。それより分かってるだろうな?」

振り返り、ロングコートの男を睨みつけた。

睨まれた当人は、肩を竦める。

「分かっているさ。女を捕まえたら、一つだけ望みを叶えてやる。」

「…ふん。」

スーツ姿の男はその言葉を聞くと、再びパソコンのモニターへ向き直った。

ロングコートの男はその光景を眺めていたが、すぐに視線を逸らして一歩後ろへ下がった。

すると、ロングコートの男の周りに黒い霧が立ち込め始め、あっという間に彼を飲み込んだ。

しばらくして黒い霧がなくなると、室内に残っているのはスーツ姿の男だけだった。




          ♰




次の日の朝。

昨日シオンと別れ際に今日のことについて話し合い、昼前に出かける約束をしていた。

なので朝早く起きる必要はないのだが、その前に零はとある場所へ出かけていた。

彼が向かった先は静音や朱音の実家、空守家だ。

空守の家はレジデンスエリアの中心に位置している。

昔から存在する由緒ある家系ということもあって、その土地の広さは想像を絶する。

何せ門戸から家の玄関まで十分近く歩かなければならない。

家屋が敷地の中心にあり、それを囲うようにしていくつかの建物が屹立していて全体的に和風な造りだ。

その広大な敷地の一角で早朝にも関わらず、打撃音が鳴り響いていた。

家屋の西側にある修練場だ。

ここは以前、門下生を招いて稽古をつけていた場所だ。

だが時代が変わり、徐々に武術をやりたがる子も減ってしまった。

現在はあまり使われていない。

その修練場では今、零と彼より一回り大きい男が木刀を手にして打ち合っていた。

「…ふっ!」

零が男の右脇腹目がけて刺突を放った。

その攻撃を男は体を傾けて軽々と避ける。

刺突で前のめりになった零は、その勢いを利用しながら、下から上に打ち上げるような回し蹴りを打ち込む。

男はすぐさま反応し、自分の顔に迫ってきた零の左脚を右腕で弾き返そうとする。

 だが零の回し蹴りは男の頭上を越えて、空を切った。

 零は回し蹴りの勢いで宙返りの状態になる。

そこから彼は体をひねって横回転を加えると、回転斬りを繰り出した。

 狙うは男の右脚だ。

 しかし男は零の剣撃に合わせて、その場で跳躍した。

 そして男の木刀による一撃が、零の腹部に襲い掛かる。

「くっ…!」

 間一髪のところで、零は自身の木刀で弾き返した。

 そのまま数歩後退して、男と距離を取る。

 数秒の沈黙が場を支配した。

次の瞬間、零が男の視界から消える。

「…!」

男は驚き、目を見開く。

気づけば、零がギリギリまで身を低くしながら、再度男に接近していた。

不意をつくことに成功した零は、男の顎に狙いを定めて一気に斬り上げる。

それに対して、男は瞬時に木刀を逆手に持ち替え、迫り来る攻撃をガードした。

しばらく鍔迫り合いが続いたが、突然男が一歩後ろへ下がる。

零の体は押し返してくるものがいなくなったため、当然前のめりになる。

その一瞬の隙を男は見逃さなかった。

引いた一歩を素早く前へ出し、上段から木刀を振り下ろす。

零は態勢が悪い中、何とかガードに成功した。

攻撃を防がれた男は、続けざまに左脚を振り上げる。

 零は右腕で直撃は防いだものの、勢いに勝てず、後方へ蹴り出されてしまった。

 吹き飛ばされながらも、零は空中で態勢を整えつつ着地した。

 すぐに立ち上がると、零は男の次の攻撃に備えて木刀を構える。

一方、男は零を蹴り飛ばしただけで、追撃する素振りはない。

「…いい動きだ。」

 男が口を開く。

 その声を聞いて、零は構えを解く。

「ありがとうございます。でも俺の目標は当主である士道さんを超えることですから。」

 士道と呼ばれた男は柔らかい表情で零を見る。

「もうとっくに私より強いと思うが?」

「そんなことはありません。だって士道さんはまだ本気出してないですよね?」

「…どうかな?」

 士道は微笑むだけで、答えらしい答えは言わなかった。

 零の目の前にいる男、空守士道は空守家の現当主にあたる。

 零の母、静音や朱音は彼の妹だ。

 長男ということもあってか、誰に対しても柔らかい笑みを崩さない。

 また基本的に和服を着ており、坊主頭なのでお坊さんによく間違えられる。

 しかし先程の零との打ち合わせの通り、歴とした武闘家である。

 筋骨隆々という程ではないが、贅肉のない引き締まった体つきだ。

 そして長年の鍛錬の賜物なのか、齢四十五にも関わらず、三十代前半のような顔をしている。

「十五年間稽古をつけてもらってますけど、士道さんが真剣な表情になったことは一度もなかったです。」

 零は不満そうに唇を尖らせる。

 彼が稽古をつけてもらうようになったのは、十歳の頃にたまたま士道の演武を見たのがきっかけだ。

 両親に連れられてこの家に来た時、士道の姿に憧れて稽古をつけてほしいと駄々をこねた。

 当初、両親は困っていたが、士道は零が妹の子供ということもあって、快く受け入れてくれた。

 以来、ほとんど休むことなく士道のところに通っている。

士道の予定もあるため毎日という訳にはいかないが、多い時は二日に一回は来ている。

(それにしても…。)

士道は零の成長の早さに内心驚いていた。

幼い時の零はただ直向きに剣を振っていたが、今は違う。

(変わったのは進と琴音が亡くなった日からだったな…。)

彼の両親は五年前に何者かに殺害された。

二人を殺された零は茫然自失としていて、誰とも口を利くことなく、抜け殻のように日々を過ごしていた。

その後一ヶ月程経ったところで、ようやく静音や朱音と話すようになった。

そして彼は士道の元に再び現れて、また稽古をつけてほしいと頭を下げた。

それからというもの、零は驚異的な早さで腕を上げてきている。

まるで何かに追い立てられるように。

果たさねばならないことがあるかのように。

(私を超えるのも、そう遠い未来じゃないだろうな。)

それは剣を交えていた士道が一番よく分かっていた。

「昨日は見回り、ありがとうございました。」

 士道が物思いに耽っていると、零が声をかけてきた。

「気にするな。これは剣士の末裔である時代家だけじゃなく、巫女の末裔たる空守家の役割でもある。」

「剣士の…末裔…。」

 零が修練場の小さな窓から、空を見上げる。

「俺は…先祖みたいに強くなれるでしょうか…。」

「どうしたんだ?急に。」

 士道が不思議そうな顔をする。

「五年前、俺は軽率にも混沌の封印を解きました。混沌は今こうしている間も、この世界のどこかで暴れているかもしれません。」

 零が唇を噛み締める。

「封印を解いてしまった者の責任として、時代家の使命として、霧だけじゃなく混沌そのものを倒さなければならない。」

 今スラムエリアに出没している霧は、封印を解いた際に生じた混沌の瘴気だ。

 本体ほどの力はない。

「一刻も早く、俺は強くなりたい…。」

「零…。」

 士道は零の焦りを感じ取っていた。

 この成人したばかりの少年には、一体どれだけの重責と後悔の念が圧し掛かっているのだろうか。

 士道が静かに拳を握りしめる。

「突然変な話をしてすみません。」

 零が頭を掻きながら、笑って誤魔化した。

「いや、大丈夫だ。」

 士道も彼に同調するように表情を緩めた。

「それじゃあ俺はこの辺りで失礼します。」

 そう言って、零はそそくさと片付け始める。

「もう終わりでいいのか?」

「はい。今日はこの後に予定があるので。」

「そうか。」

士道はふとある事を思い出した。

「そういえば朱音のところに今、女の子がいると聞いたんだが…。」

「もしかしてシオンのことですか?」

士道が頷く。

「その子については朱音に頼まれていてな。こちらでも色々調べているんだが、今のところはさっぱりだ。」

難しい顔をしながら、士道は状況を説明した。

「…そうですか。」

「引き続き調査は続けるつもりだ。何かあれば連絡する。」

「ありがとうございます。」

士道が手伝ってくれるのであれば大丈夫だろう、と零は思う。

代々続く空守家ということもあり、彼の横への繋がりは非常に広い。

中小だけでなく、大企業の社長や役員と定期的に会合を行なっていると聞く。

そんな巨大なネットワークを持つ士道が協力してくれるなら、シオンについて何か分かるかもしれない。

「シオンのこと、よろしくお願いします。」

「あぁ。任せておけ。」

零は頼り甲斐のある返答を聞くと、修練場の扉を開けて、空守家を後にした。




          ♰




自宅に戻った零は体を洗い流し、身支度を整えていた。

気づけば、時刻は午前十時半を回った頃。

「そろそろ行くか。」

 零は腰を上げて家を出る。

 シオンとの約束にはまだ少し時間はあるが、手持ち無沙汰になっていたので早めに出ることにした。

 シオンは今、管理人室に一番近い部屋に住んでいる。

 何かあった時に、朱音がすぐ対応できるようにするためだ。

 最初は零の隣で…という案もあったが、女の子ということも考えてこの結果になった。

 待ち合わせ場所にしていたマンションのロビーへ向かうと、既にシオンがいた。

「あ、おはようございます。」

 彼女は零に気づくと、恥ずかしそうにしながら挨拶した。

 今日のシオンは袖口にフリルのついた紺色のブラウスを着ていた。

 下はボルドーカラーのフレアスカートを穿いていて、どちらもシンプルなつくりだが、彼女の髪や肌に非常にマッチしている。

 とても上品な雰囲気を放っていた。

「悪い。待たせたか。」

「い、いえ。私も今来たところです。」

 シオンは慌てて首を振る。

 随分緊張しているようだ。

「その服はどうしたんだ?」

「これは朱音さんが昔着ていたものらしくて、今日のために貸してくださったんです。」

「そうなのか。シオンによく似合ってるぞ。」

「…!あ、ありがとうございます…。」

 零が何気なく感想を言うと、シオンは顔を真っ赤にさせて俯いてしまった。

(なんかこっちまで恥ずかしくなってきた。)

 零は明後日の方向を向いて、頬を掻いた。

「と、とりあえず行くか。」

「は、はい。」

 零が促すと、シオンはとてとてとついてきた。

「ここからメインエリアまでは距離があるから、ひとまずレジデンスエリアまで歩いて、そこから地下鉄に乗ろう。」

「地下鉄…ですか…?」

 シオンが首を傾げる。

「この町の下に走っている乗り物のことだ。乗ってしまえば速いんだが、スラムエリアまで繋がっていないから、レジデンスエリアまで歩かないといけないのが面倒だけどな。」

「そんなのがあるんですね…。」

 シオンが目を大きくして感心していた。

「まぁ乗ってみれば色々わかるさ。とにかくまずはレジデンスエリアへ向かおう。」

「分かりました。」

 そう言って、二人はレジデンスエリアへと向かった。




          ♰




「わぁ…。」

 メインエリアへはレジデンスエリアまでの徒歩も含めて、四十分ほどだ。

 シオンは地下鉄の構内や乗り物がとても興味深かったのか、終始目を輝かせていた。

そしてメインエリアに着くや否や、シオンはさらに感嘆の声を上げる。

「零さん見てください!大きな建物がいっぱいあります!」

 彼女は興奮した様子で、あちこち見回していた。

 その姿は年相応の少女らしいものだ。

(今回の主な目的はシオンの記憶の手がかり探しだったけど…。)

 あんなにはしゃいでいるシオンを見てしまうと、水を差すのが邪推な気がしてしまう。

(まぁ楽しそうだからいいか。)

 零はそう考えることにした。

「そういえばシオンは自分の服って着てたの以外持ってないよな?」

「そうですね。私の服は着てたのだけです。」

 シオンを見つけた時、彼女は持ち物らしい持ち物持っていなかった。

「それなら最初は服を買いに行こう。服が少ないと色々不便だろうし。」

「え、でも…。」

 そうシオンに提案したが、彼女は少し遠慮がちだ。

「私、お金持ってないです。」

 零は彼女がそう言うだろうと、何となく察していた。

「そのことか。実は静音さんから提案されたんだけど、シオンは昨日Blossomで働いてたろ?」

「え?は、はい…。」

 シオンは唐突な話に戸惑いながらも頷く。

「だから本当は昨日働いた分の給料をもらうべきなんだ。」

「あっ…。」

 確かに昨日働いていたのは、紛れもない事実だ。

「でもすぐに給料を出すことはできないから、代わりに何か買ってあげてほしいって静音さんに言われたんだよ。」

「そうだったんですね。」

 シオンは納得した。

(まぁそんな話はしてないけど…。)

 零は心の中で嘯く。

(こうでも言わないと、絶対気にするからな。)

 そのため、尤もらしい理由をでっち上げたのだ。

 零は段々シオンの扱いが分かってきた。

「それなら見に行きたいです。」

「了解。」

 シオンの言葉に頷くと、ショッピングモールへと向かった。

 メインエリアのショッピングモールは一つしかなく、その分かなり広い。

 中には映画やレストランをはじめ、多様な店が入っている。

「すごい人ですね…。」

 ショッピングモールに入ったシオンは目を白黒させていた。

「世界的にも有名なショッピングモールらしいからな。」

 ここで一日遊び倒す観光客も少なくない。

「時間はたっぷりあるから、色々なお店を見て回ろう。」

「はい。」

「とりあえずは服からだな。」

 零は近くの案内掲示板を確認した。

 シオンもそれにつられて掲示板を見る。

 どうやらフロアごとに名前があるようだ。

「洋服が売っているお店ってどこなんですか?」

 シオンにはフロアごとの名称がちんぷんかんぷんだ。

「このアパレルフロアってところだな。」

 零の指差した先を見つめる。

「お店がいっぱいあります。」

 名前を数えただけでも、ざっと三十くらいはあるのではなかろうか。

「まぁ全部見る必要はないから、行ってみて気になったところだけ入ろう。」

「そうですね。」

 二人は早速アパレルフロアへと向かい、店を巡り始める。

「色んな種類のお店があるんですね。」

 和洋問わず、様々なタイプの服があちこちの店先に展示されている。

「国内のものだけじゃなく、海外ブランドの店舗も入っているらしいぞ。」

「へぇ…。」

 零の話を聞いているのかいないのか、シオンはしきりに首を動かしながら、目をきょろきょろさせている。

(まぁいいか。)

 零はそんな彼女を見て、苦笑した。

 するとシオンがある店の前で立ち止まった。

「シオン?」

 彼女の視線の先を見ると、着物を着ているマネキンが飾られていた。

 シオンはそれをぼーっと見つめている。

「気になるなら入ってみるか?」

 零は試しに聞いてみる。

「え、いいんですか?」

「シオンの服を買いに来てるんだから、良いも悪いも無いだろ?」

 そう話していると、店員が中から出てきた。

「いらっしゃいませ。何かお気に召したものがございましたか?」

 店員は接客スマイルで、シオンに尋ねる。

 だがシオンは突然声をかけられて、戸惑っているようだ。

「すみません、少し店内を見させて頂いてもいいですか?」

 零が助け舟を出す。

「かしこまりました。ご試着もできますので、何かありましたらお声がけください。」

 そう言い残して、店員は別のお客さんのところへ向かった。

 シオンはほっと息を吐いた。

「ありがとうございました。」

「気にするな。ああいう風に来られたら、最初は戸惑うもんだよ。」

 零は彼女の頭をポンポンと叩く。

「それより中に入って色々見てみよう。」

 そう促して、シオンと共にお店に入った。

 店内は全体的に和風な内装で、着物だけでなく和柄の洋服も扱っているようだ。

 シオンは店内をぐるりと一周して、最終的に展示されていた着物を試着するということになった。

 零は試着室の前でその着替えを待つことにした。

店内をぼーっと眺めていると、携帯が軽く震えた。

 画面を確認すると、静音からのメッセージを受信していた。

『シオンちゃんにお洋服を買ってあげてね。お金は後日払います。』

 どうやら同じことを考えていたようだ。

『欲望に任せて、変なことはしないように!』

「するか!」

 思わず携帯に突っ込んでしまった。

 今度は朱音からメッセージが入った。

『お土産はケーキを頼む。』

「…断れねぇ。」

 静音の提案とはいえ、買い出しを代わってもらったため流石に断れない。

「後で良さそうな店探すか。」

 そう考えていると、再び静音からメッセージが来た。

『私はモンブランで!』

「図々しいな!」

 零が額に手を当てて、溜め息を吐く。

「あの、零さん?」

 気が付けば、シオンが不思議そうに零を見つめていた。

「あぁ、すまん。着替えはどう…。」

 彼女を見た零は息を呑んだ。

「ど、どうでしょうか?お店の方に手伝って頂いてやっと着れたのですが…。」

 シオンが試着したのは黒い着物に、無数の花がちりばめられているデザインのものだ。

 花の種類は様々で、一つ一つ淡い色で彩られている。

 また裾や袖口には青い波模様も描かれていて、総じて上品な印象を与える作りだ。

 シオンは異国情緒溢れる容姿をしているが、着ている着物は最早、彼女のためにあつらえたのではないかと思わせる程に似合っていた。

 さらに銀髪は着物に似合うよう、上に纏めて編み込んでいる。

「とってもお似合いです…!」

 店員はシオンの着物姿に涙を流していた。

「あの…零さん…?」

 シオンが心配そうに零を見つめる。

「あ、あぁ。すごく似合ってる。」

 彼女の眩しさに、茫然としていた零は何とか声を絞り出した。

 その言葉を聞いて、シオンは笑顔を見せる。

「それなら良かったです。」

 彼女の笑顔に零の心臓は大きく跳ね上がった。

 そして先程の静音のメッセージを思い出す。

 あの着物をはだけさせたら、シオンの艶やかで真っ白な肌が…。

(待て待て!俺は何を考えてるんだ!)

 必死に首を振って煩悩を掻き消す。

「どうかしましたか?」

 シオンに尋ねられて、悶々と考えていた零はビクッとした。

「な、何でもない!」

 零が慌てて誤魔化す。

 そこへ試着を手伝ってくれた店員が、別の着物を持ってきた。

「あの、よろしければこちらも試着してみませんか?」

「え?」

「というより試着して頂けないでしょうか!」

 どうやらもっとシオンの着物姿を見たいようだ。

 シオンはどうしたものか思案していたが、やがて分かりましたと頷いた。

「ありがとうございます!」

 店員は泣いて喜んでいた。

 しかしその後も店員の勢いは止まらず、最終的に十着くらいの着物を試着させられたシオンだった。




          ♰




 着物のお店では結局何も買わなかったが、別のお店で彼女に似合う洋服をいくつか購入した。

 シオンは買い物の間、終始楽しそうにフロアを歩き回っていた。

目新しい物がたくさんあるからか、あちこちの店を行ったり来たりしていた。

アパレルショップ以外にも雑貨やCDショップを見て回った。

店内へ入る度にシオンは目をキラキラさせて、子供のようにはしゃいだ。

そんなウィンドウショッピングを兼ねた買い物もあっという間に時間が過ぎ、気づけば日は沈みかけ、世界をオレンジ色に染め上げていた。

今はショッピングモールを出て、地下鉄に乗るため駅に向かっていた。

シオンは零の前を上機嫌で歩いている。

零はそんな彼女を見て頬を緩ませた。

「零さん、今日は本当にありがとうございました。」

シオンが足を止めて、零に向き直る。

「零さんのおかげで、今日一日とても楽しく過ごすことができました。」

「俺は何も。ただここに連れて来ただけだよ。」

シオンが手に下げていた買い物袋を抱きかかえる。

 しかしその表情は、何故か憂いを帯びていた。

「…私はこんなに幸せでいいんでしょうか?」

「どうしたんだ急に?」

零が不思議に思って尋ねる。

「時々考えるんです。記憶を失う前の私は何だったんだろうって…。」

シオンの手が震えていた。

「もしかしたら人殺しとか悪いことをしていたんじゃないか…そう思うと自分が怖くなってしまうんです。」

先程までの楽しそうな雰囲気が一転、シオンの顔に暗い影が差す。

「零さんや朱音さん、静音さんとの時間はとても楽しいです。でもその一方で、楽しい分だけ知らない自分に対する恐怖が膨らんでいくんです。」

得体の知れない自分が怖い。

その感覚は徐々に、しかし確実に彼女の心を蝕んでいた。

「私は…本当にこのままでいいんでしょうか…?」

彼女の問いかけに、零は腕を組んで考え込む。

しばらく沈黙が続いていたが、ふいに零が視線を上げた。

「悪いんだけど、この後ちょっと行きたいところができたんだが、行ってもいいか?」

突然の誘いにシオンは困惑した。

「は、はい。大丈夫ですけど…。」

「よし、それじゃあ早速行こう。」

零はシオンを促して地下鉄には行かず、バス停に向かった。

そのまま目当てのバスに乗車する。

「あの、どこに行くんですか?」

「それは着いてからのお楽しみってことで。」

シオンが尋ねるも、零ははぐらかして教えようとはしない。

バスに乗ってる間も零は黙ったままで、シオンはどうしていいか分からずに居心地悪くしていた。

「着いた。降りるぞ。」

零がそう言って席を立つ。

シオンも慌ててバスを降りた。

「え、ここは…。」

バスを降りて目に入った光景に、シオンは言葉を失った。

そこはいくつもの墓が並ぶ、墓地だった。

「いきなりこんな所に連れてきてすまない。」

「い、いえ…。」

シオンが戸惑いながらも言葉を返す。

「こっちだ。ついてきてくれ。」

零はそのまま奥へと進んで行く。

シオンは零の服の裾を掴みながら、零の後をついていた。

 墓地の中は庭園のような作りで、大きな木は無く、開けた空間が広がっている。

墓地というより広場のような印象だ。

五分ほど歩いたところで、零が足を止めた。

 シオンも慌てて足を止める。

「これは…?」

シオンが不思議そうに目の前の墓石を見る。

お世辞にも綺麗とは言い難い不恰好なものだ。

「俺の両親の墓だ。」

零が落ち着き払った声で続ける。

「五年前に他界して、昨日が命日だったんだ。」

彼はその場にしゃがんで、両手を合わせると暫く目を閉じた。

 シオンも零に倣ってお参りする。

「…どうして私をここに…?」

シオンは零が目を開けたタイミングで、気になっていたことを尋ねた。

「ここなら周りを気にせず話せると思ったんだ。」

零は立ち上がると、シオンに向き直った。

「両親が死んだのって…俺のせいなんだ。」

「えっ…?」

零の言葉にシオンは目を見開く。

「俺が殺したに等しいことをした。」

「どういう…ことですか…?」

零が右手を広げて前に出すと、剣を出現させた。

「当時の俺は反抗期でさ。よく親に反発してたんだ。」

零がポツリポツリと語り始める。

「両親に色々言われるのが嫌で、夜遅くまで出歩いたりしてた。俺はもう大人だ、一人前なんだってそう思ってた。」

彼は逢魔時の空を見上げる。

「そんなある日、スラムエリアで喧嘩してた俺に一人の男が近づいてきた。そいつは俺を見てこう言ったんだ。『お前の望むものを叶えてやる』って。」

夕陽を浴びている彼は、今にも消えていしまいそうな雰囲気だ。

「最初は怪しいと思ったけど、その時の俺は強い自信があってさ。何があっても大丈夫だと思って、ついてったんだ。」

零が皮肉の混じった笑みを浮かべる。

「案内されたのはスラムエリアのある場所で、そこには剣が一振り刺さっていたんだ。」

「もしかしてその剣は…。」

 零が頷く。

「その刺さっていた剣だ。」

右手に持っていた剣を見つめながら、零は続ける。

「男に促されて俺はこの剣を抜いた。そしたら抜いた場所から黒い霧が溢れてきて、俺はその霧に飲み込まれた。」

彼は剣を握っている手に力を込めた。

「そこから先は全然覚えてない。気がついたら両親が男に剣を突きつけられていた。」

あの光景だけは五年経った今でも、鮮明に覚えている。

「俺も両親もボロボロの状態で、満足に動くこともできなかった。男はそんな両親をとても楽しそうな顔で殺したんだ。」

零はその時、見届けることしかできなかった。

「両親を殺した後、男が俺に近づいてきてこう告げてきた。『これがお前の望んでいだことだ』って。」

自分の傲慢さが両親を殺したのだ。

「これが俺の過ち。」

「……。」

最後まで話を聞いていたシオンは、どう言えばいいか分からず押し黙っていた。

「変な話をしてすまなかった。」

「いえ…。」

零はシオンに視線を戻した。

「まぁ何が言いたいかというと、俺は人殺しのようなものだから、幸せを手にする資格がないってことだ。」

「そんなことありません!」

シオンは強く否定した。

「零さんは幸せになるべき人です!」

「人殺しだとしても?」

「零さんは人殺しじゃありません!」

シオンが真っ直ぐな瞳で零を見つめる。

「零さんのご両親は、その男の人に殺されたんです!だから零さんが殺したわけじゃないです!」

「シオン…。」

零は彼女の強い眼差しと言葉に驚いていた。

「それに零さんは見ず知らずの私を助けてくれました!」

彼女の瞳から涙が零れ落ちる。

「危険を顧みずに…守ってくれました!」

スカートの裾をぎゅっと掴む。

「他にも……おいしい…ものを…食べさせて…くれたり……今日だって…楽しいこと…たくさん…教えて…くれました…!」

涙は収まることなく、ボロボロと彼女の頰を伝う。

「零さん…が…幸せに…なる資格がないなんて…こと…ないです…!」

シオンは涙でぐしゃぐしゃになりながらも、零に訴えかけた。

「だから………そんな悲しいこと言わないでください!」

シオンの叫びに、零は目を閉じる。

「…ありがとう、シオン。」

零は目を開けてシオンに近づくと、彼女の頭を撫でた。

「そんなこと言われたの、初めてだ。」

「私…零さんには…幸せになってほしい…です…。」

 シオンは両手で涙を拭う。

「でもさ、それならシオンも同じじゃないか?」

「…え…?」

シオンが零を見上げる。

「前のシオンが例え人殺しだったとしても、それで幸せになっちゃいけないなんてことはないだろ?」

「それは…。」

確かに零の言う通りだ。

「それに今のシオンは真面目で優しい人だってこと、俺は知ってるし、そんな子が幸せにならないわけがない。だからさ…。」

零はシオンの目を見つめる。

「自分が幸せになっていいのかなんて悲しいこと、言わないでくれ。」

その瞬間、シオンは自分の心が軽くなったような気がした。

複雑に絡んだ糸がほどけていくような、そんな感覚。

「本当に…いいんでしょうか…?」

「人の幸せは誰かが勝手に決めるものじゃない。本人の気持ち次第だ。」

するとシオンの瞳から再び涙が溢れ出した。

「ありがとう…ございます…。」

そんな彼女を零は軽く抱きしめる。

「シオンは泣き虫だな。」

「すみ…ません…。」

謝りながらも、シオンは零にしがみつきながら暫く泣いていた。







【3】



次の日の朝。

零は既に起きて朝食を食べていた。

今日は士道との稽古は休みだが、仕事のシフトが入っている。

(昨日休んだ分、しっかり働かないと。)

その後、手早く身支度を済ませて部屋を出た。

一階へ降りると、見知った顔がロビーを掃除していた。

「おはよう、シオン。」

声をかけられて、シオンが振り返る。

「れ、零さん!お、おはようございます!」

彼女は零に気づくと、慌てた様子で身だしなみを整え始めた。

心なしか顔も少し赤い。

(まぁ昨日泣いてるとこ見られたから、恥ずかしいんだろうな。)

昨日は墓地を出てから帰宅するまで、シオンはずっと黙ったままだった。

マンションに着いて、ようやく口を開いたが、簡単な挨拶だけでその場はお開きになった。

「あ…えっと、その…。」

シオンは顔を俯かせて、何やらモジモジしていた。

「大丈夫か?顔も少し赤いし、熱とかあるんじゃ…。」

もしかしたら本当に調子が悪い可能性もある。

そう思って、零はシオンの額に手を当てた。

すると、シオンがビクッとしてそのまま硬直した。

シオンの顔がみるみる赤くなっていく。

「だ、大丈夫です!」

シオンがバッとその場から飛び退く。

「お、おう。」

彼女の勢いに零は思わずたじろいだ。

シオンは手に持っているモップを強く握りしめながら俯く。

このままだと彼女が動きそうになかったので、話題を変えることにする。

「そういえばシオンはどうして掃除してたんだ?」

朱音さんに頼まれたのだろうか。

「あ、えっと…昨日朱音さんにご迷惑をおかけしたので、そのお手伝いです。」

「なるほどね。朱音さんは?」

「ここにいるぞ。」

零が背後を振り返ると、ペンを持ちながら腕を組んでいる朱音がいた。

「朱音さん、何してるんです?」

「デスクワークだよ。そんなことより昨日はどうだったんだ?」

「どうとは?」

「昨日シオンがやたら上機嫌で帰ってきたから、何かあったのかと思ってな。」

零は昨日の墓地の一件を思い出した。

シオンに視線を移すと、当の本人は赤い顔のまま、いそいそと掃除をしている。

「本人の不安を、少しは取り除くことができたんだと思います。」

「…そうか。」

朱音が安堵したような顔をした。

「それはお前自身もじゃないか?」

「え…?」

彼女の言葉に零は驚いた。

「上手くは言えないが、今のお前は昨日までとは雰囲気が違う気がする。」

「そうですか?」

「あぁ。スッキリした顔をしているぞ。」

「…そうですね。」

零が自分の手を見つめる。

「今までの自分を懺悔できたからかもしれません。」

「…零…。」

朱音は何事か言おうとしていたが、結局言わずに口を噤んだ。

「それじゃあそろそろ行ってきます。」

「あぁ。気をつけてな。」

零は朱音に一礼する。

「シオンもあまり無理するなよ。」

「あ、はい。気をつけて行ってきてください。」

その言葉に頷いて、零はBlossomへ向かった。




          ♰




「零ちゃん、お疲れ様。」

閉店後、厨房の片付けを終えて着替えを済ませたところで、静音に声をかけられた。

「お疲れ様でした。」

今日のBlossomも終始落ち着いていた。

客も数える程しか来ていなかったので、昨日のことについて零は静音に根掘り葉掘り訊かれた。

零は当たり障りのない話をして、墓地での件は隠した。

また今日はシオンが来ないことについて、静音は残念そうにしていた。

彼女が来ていたら、静音の矛先はきっとシオンに向いていただろう。

もちろん一緒に働けないことを残念がってもいたのだと思うが。

「どうかしましたか?」

 顎に指を当てて考え込んでいた静音に、零が尋ねる。

「シオンちゃんって今、朱音ちゃんのところにいるんだよね?」

「えぇ。そうですけど…。」

それがどうしたのだろう、と零は首を傾げる。

「一昨日バックヤードにこれが落ちてたの。」

静音が手を差し出してくる。

差し出された手には、真っ白なブレスレットがあった。

ブレスレットには宝石が埋め込まれており、鮮やかな藍色をしている。

一見して、高価なものであることが見て取れた。

「一昨日あそこ使ってたのって私とシオンちゃんだけだから、きっとあの子のものだと思うの。」

確かにシオンに似合いそうな装飾品だ、と零は思った。

「本当は昨日、朱音ちゃんに渡そうと思ったんだけど、お願いするの忘れちゃってね。申し訳ないんだけど、帰ったら彼女にこれを渡してくれる?」

「分かりました。」

零は静音からブレスレットを受け取ってポケットに仕舞う。

「そういえばシオンちゃんの調子はどう?」

静音は心配そうな面持ちだ。

一昨日の疲れた様子を見ていたから、気になったのだろう。

「大丈夫ですよ。昨日もそうでしたけど、今朝も元気そうでした。」

「それならよかった。」

零の言葉に静音は安堵した。

そんな時、店内に着信を知らせる音が鳴り響いた。

「あ、ごめんね。ちょっと出てくる。」

静音はそう言って電話を取りに、バックヤードへ向かった。

「…帰るか。」

置いてけぼりになった零は、店を出ようとした。

「…何ですって!」

突如響いた静音の叫びに、零は眉根を寄せる。

バックヤードへ向かうと、そこには顔面蒼白の静音が唇を震わせていた。

「静音さん…?」

零は恐る恐る声をかける。

彼の存在に気づいた静音は今にも泣き出しそうな顔をしている。。

「零ちゃん…どうしよう…!」

静音がいきなり零にしがみつく。

「静音さん、落ち着いてください。」

零は訳が分からず、ひとまず静音を落ち着かせる。

「何があったんですか?」

静音がまたパニックにならないよう、零もゆっくりとした声音で語りかける。

「朱音ちゃんと…シオンちゃんが…。」

静音は溢れそうになる涙を必死に抑えながら、何かを訴えかけようとしている。

「朱音さんとシオンがどうしたんですか?」

 静音の態度からして、何か良くないことが起こっているのは想像に難くない。

 零自身も焦る気持ちを抑え、静音の言葉を待つ。

「…西園寺克彦に…攫われた…。」

「まさか…!」

 零は唇を噛み締める。

「…あの男はなんて?」

 湧き上がる感情を制御しながら、静音に問いかける。

「『返してほしければ僕の元に来い』って…。」

静音の言葉を聞き、零は拳を強く握りしめる。

「…場所は?」

「…スラムエリアの、セントラルドームって…。」

「…!」

零は驚きを禁じ得なかった。

だってそこは…。

(封印のある場所じゃないか…!)

「…零ちゃん…。」

静音はどうしていいか分からず、泣き出してしまっていた。

零は一度深呼吸をすると、彼女の肩に手を置いた。

「静音さんはひとまず、士道さんに連絡を取ってください。」

「…分かった。」

静音は涙を拭いながら、彼の言葉に頷く。

「零ちゃんはどうするの…?」

「…二人を助けに行きます。」

「なら私も!」

零が首を横に振る。

「奴の目的は静音さんですから、連れて行くことはできません。それに例え静音さんが行ったとして、二人を解放してくれるとは限らないです。」

相手の出方がわからない以上、安易に静音を連れて行くのは危険すぎる。

「二人は必ず助けます。静音さんはここにいてください。」

「…うん。」

零は静音が首を頷くのを確認すると、すぐに店を飛び出した。

(くそ…!)

 心の中で舌打ちをしながら、全力で商店街を駆け抜ける。

スラムエリアへ向かう道すがら、零は克彦に対する怒りを感じると同時に、あることを考えていた。

シオンが攫われたことについてだ。

 朱音を連れ去ったのは、静音を脅すためだというのは分かる。

克彦は大企業の御曹司、静音は政財界で有名な空守家だ。

彼の力をもってすれば、静音と朱音の関係などすぐに調べられるだろう。

零が克彦を見たのは一回だけだが、静音によればこれまでに何度も来ていたという。

その度に静音は彼の誘いを断り続けていた。

だからこそ、しびれを切らしてこんな暴挙に出たのだと考えられる。

しかしシオンまで連れ去るのは腑に落ちない。

克彦は彼女とは面識が無いはずだ。

 昨日シオンがいる時に一度だけ来店してきたものの、本人はバックヤードにいたため、直接は会っていない。

静音を脅したいなら、朱音を拘束するだけで十分なはずだ。

仮に克彦とシオンが昔からの知り合いで、彼女を迎えに来たということであれば納得はいく。

それにしたって朱音とともに連れ去ったという言葉はおかしい。

(…シオンまで狙う必要があった…?)

そう考える方が自然だ。

(…そういうことか…!)

零はそこまで考えて気づいた。

どうしてシオンまで狙われたのか。

(シオンを狙っていたロボットはあいつの差し金か…!)

だとすれば…。

(シオンが危ない…!)

零は焦りを募らせながら、全力でスラムエリアへ向かった。




          ♰




「ん…。」

自分の頰に水滴が落ちてきて、シオンは目を覚ました。

「ここは…。」

彼女は体を起こそうとしたが、うまく動かせない。

見ると、鎖で両手を後ろ手に縛られていた。

シオンは最初どうにか鎖を解こうとしたが、複雑に絡まっているため、すぐに自力では無理だと悟る。

しかし何とか体を起こすことはできた。

周りを見渡すと、そこは開けた場所だった。

どうやら大きな建物の屋内のようで、上はドームの状の屋根がついている。

広々としたフロアの中で一際目を引くのは中心部分で、そこには六芒星の紋様が地面に描かれている。

シオンはどうしてか、見覚えがある気がした。

この光景を、どこかで見たような…。

「起きたか。」

それを思い出そうとしているところに、一人の白いスーツを着た男が近づいてきた。

「だ、誰…?」

「別に誰でもいいだろう。」

シオンの問いかけを、男は冷たくあしらった。

「う…。」

すると、シオンの隣で呻き声が聞こえた。

「朱音さん!」

「シ…オン…。」

そこには所々暴行を受けたであろう朱音の傷ついた姿があった。

そこでシオンは気絶する前のことを思い出した。

確か数人の黒服姿の男たちがマンションに来て…。

「大丈夫ですか!」

「あぁ…大丈夫だ…。」

朱音は苦しそうだったが、意識はあるようだ。

「連れて行こうとしたら抵抗されたんでな。少しばかり手荒くさせてもらった。」

「西園寺…克彦…!」

朱音は上体を起こすと、克彦を睨みつけた。

克彦は特に気にした様子もなく、朱音を見下ろす。

「狙いは静音姉さんか…!」

「へえ、よく分かったね。」

克彦がひゅ〜っと口笛を吹く。

「前々からお前の話は聞いてたさ。とんでもなくしつこくて、鬱陶しいってな。」

「まぁあれだけ足繁く通ってたし、しょうがないかな。そんなところも可愛いけどね。」

朱音の皮肉も克彦には全く通じなかった。

それどころか、より静音への熱を強くした気がする。

「…どうしてシオンまで巻き込んだ…!この子は関係ないはずだ…!」

朱音が克彦に怒りの眼差しを向ける。

途端、彼はめんどくさそうに肩をすくめた。

「別に僕はどうでもよかったんだけどねー。こいつを連れてきたのは頼まれただけさ。」

「何だと…?」

朱音が眉根を寄せる。

「誰だそいつは?」

「そんなとこまで話すわけないじゃん!何言ってんの!」

克彦は腹を抱えて笑った。

「…そっちがお前の本性か…!」

静音に対する態度とは随分違う。

朱音はその態度にイラっとしたが、すぐに小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「はっ。確かにこんな奴じゃ静音姉さんも靡かないわけだ。」

「…あ?」

克彦の表情に苛立ちが混じった。

「こんな頭の弱いお坊ちゃんに好かれて静音姉さんも可哀想だな。」

「てめぇ…!」

克彦がプルプルと震え出した。

「お前なんかに姉さんは絶対に渡すものか。」

「調子に乗ってんじゃねぇ!」

突然、克彦が朱音の腹を蹴り上げた。

「がっ…。」

「朱音さん!」

シオンが堪らず叫ぶ。

「自分の立場が分かってんのか!お前は静音を釣るための餌なんだよ!その餌がペラペラ喋るんじゃねえ!」

克彦はそう怒鳴りながら、何度も朱音を蹴り続ける。

彼女の腹を、顔を、足を、体の至る所を…。

白いスーツが返り血で汚れてもなお、蹴るのを止めなかった。

「はぁ…はぁ…はぁ…。」

克彦は肩で息をしながら、朱音を見下ろす。

幾度となく全身を蹴られた朱音は、ピクリとも動かない。

恐らく意識もほとんどないのだろう。

「朱音…さん…。」

シオンはボロボロになった朱音を呼びかけることしかできなかった。

「…そうだ。」

克彦が下卑た表情で朱音を見る。

「静音の妹なだけあって、容姿は悪くないな。怪我を治せば高く売れそうだ。」

「うぁ…。」

朱音の髪の毛を掴んで、そのまま引っ張り上げる。

「その前に、一度慰めてもらうとするか。」

克彦は動けない朱音を仰向けに倒すと、その上に覆い被さった。

「何するんですか!」

「何って見れば分かるだろ。」

「!」

シオンは彼に対して、吐き気を催す程の嫌悪感を抱いた。

克彦は沈黙したシオンを放置して、朱音のシャツを一気に捲り上げる。

黒いレースのついた下着に包まれた、朱音の豊かな胸が晒け出された。

「中々いい体してるじゃん。」

そのまま朱音のレギンスパンツをも剥ぎ取ろうとする。

「やめてください!」

シオンが制止の声を上げる。

「…なに?」

突然止められた克彦が不機嫌そうな顔をした。

「それ以上、朱音さんに触らないでください!」

「…どうして僕がお前の言うこと聞かなきゃいけないわけ?」

克彦が溜息をつく。

「それともなに?お前が慰み者にでもなってくれるのかな?」

「!」

シオンは一瞬躊躇った。

だが朱音の姿が目に入ると、覚悟を決めた表情で克彦を見る。

「…私が代わりになります。だから朱音さんにはもう手を出さないでください。」

「へえ、面白い。」

克彦は朱音の上から退いて、シオンへと近づいた。

「よく見ればお前も可愛い顔してるじゃないか。」

克彦が舐め回すような視線で、シオンを見る。

シオンは今すぐ逃げ出したい衝動をこらえて、彼を睨みつける。

「売るには勿体無いから、僕のペットにしてあげるよ。」

「な…!」

克彦の言葉にシオンは驚愕する。

(この人は…。)

なんて最低な人なんだろう。

人を人とも思わない自分勝手に振る舞う独裁者。

これからそんな男に蹂躙されてしまうことが、どうしようもなく嫌だった。

この男の何もかもが、シオンを不快にさせる。

だが朱音を助けるためにも、これ以外に方法がない。

克彦の手が彼女の頰に触れる。

同時にシオンの体に鳥肌がたった。

「綺麗な肌をしてるな。ますます欲しくなってきた。」

手は頰を伝って、唇に当たった。

「…零さん。」

シオンは震えながら、自分を支えてくれた人の名を呼ぶ。

克彦の唇が彼女の唇に触れようとした。

その時、広場内に爆発音のような音が響き渡る。

克彦もシオンも驚き、音がした方を見ると、壁の一部が破壊されて大穴が開いていた。

そして穴の奥から、歩いてくる音が木霊する。

「待たせたな。」

現れたのは剣を腰に携えた零だった。

「零さん…!」

シオンは彼の姿を見て、表情を明るくした。

一方克彦は舌打ちをして、零を睥睨した。

「どうしてお前がここに来る?僕が呼んだのは静音だぞ。」

「そう簡単に静音さんを連れて来るわけないだろ。」

零がシオン達に近づいていく。

「零さん!朱音さんが!」

そこで零は朱音が傷ついてぐったりしていることに気づく。

着ていた服もはだけさせられて、素肌が露出していた。

「…朱音さんに何をした?」

彼は怒気のこもった声音で問いかける。

問いかけられた克彦はふんっと鼻を鳴らした。

「少しうるさかったから、黙らせただけだ。」

「なんだと?」

克彦はニヤニヤした笑みを浮かべた。

「それにこいつは顔がいいから売るつもりでな。その前に手をつけておくんだよ。」

彼はなおも言葉を続ける。

「そうしたらこの女が、自分が身代わりになるから助けてやってくれって言うもんだからさ。」

そう言いながら、克彦は左手でシオンの髪を引っ張って持ち上げる。

「いたっ…。」

「シオン!」

零はシオンを助けようと駆け出そうとするが、

「おぉっと、動くなよ。」

無数の黒服の男たちが、銃を手にして零を取り囲んでいた。

「一昨日のと同じだと思うなよ。」

どうやらこの男たちもロボットのようだ。

「…お前…!」

「あはは!言い様だな!」

克彦は楽しそうに零を嘲笑する。

「てめぇはそこで、こいつらが犯されるのを見てることしかできないんだよ!」

「零さん…。」

シオンが不安そうに零を見つめる。

「西園寺克彦。」

「あぁ?なんだよ?」

零は顔を俯かせていて、二人からは表情が分からない。

「…今すぐシオンから手を離せ。殺すぞ。」

「は?そんな状況でどうやって僕を殺すって?」

零の言葉に克彦はシオンを掴む手を緩めない。

それどころか、更に零を挑発した。

「やれるもんならやってくれよ。」

「…二度は言わない。警告はしたぞ。」

零がゆっくりと身を低くして、居合の構えを取った。

克彦は苛立った様子で、右手を上げる。

「剣一本で何ができるっていうんだよ。」

「やめて!」

シオンの叫びを無視し、克彦は右手を振り下ろした。

ロボット達が一斉に零をめがけて銃弾を放つ。

銃弾が雨のように、彼の体に降り注ぐ。

「…へ?」

やがて銃撃が収まると、克彦が気の抜けた声を上げる。

彼の視線の先には、剣を抜き放った態勢の零の姿と、最前列にいたロボット複数体の倒れている姿があった。

倒れているロボット達はそれぞれ複数の弾痕がある。

「…何が起こった?」

彼には状況が全く理解できなかった。

確かにロボットの銃弾は、零に撃ったはずだ。

だが銃弾は零に当たることなく、最前列にいたロボットに命中していた。

「どうした?そんな狐につままれたような顔をして。」

「…!ふざけやがって…!」

彼の言葉に、克彦は悔しそうに歯ぎしりした。

「数で押し潰してやる!」

克彦が合図を出すと、ロボット達が銃を仕舞い、刀を取り出した。

そして一斉に零へと攻撃を仕掛ける。

零はその動きに対して、構え直すこともなくじっと立っているだけだ。

「零さん!」

シオンが彼に向かって叫ぶのと同時に、刀が零に迫る。

その瞬間、零がその場で身を低くして足を滑らせながら回転する。

その回転を利用して、振り向き様に背後の男を斬り裂いた。

零は斬られたロボットがいたスペースに入り込んで、その奥にいたロボットを続けて突き刺す。

「な…何なんだってんだよ…これは…!」

克彦が驚きを隠せずにいた。

ロボットが複数まとめて襲いかかっても、零はその攻撃をいなしながら一撃の元に次々と斬り伏せていく。

「こ、これならどうだ!」

零はふと狙われている感覚に襲われる。

気配を辿ると、広場の高所にスナイパーライフルを持ったロボットが彼を狙っていた。

「いくら銃弾を弾くことができても、剣じゃあの距離は届かない!」

「確かにこれじゃ届かないな。」

零は、ロボット達をある程度破壊したことで生じた空隙の中で、足を止めた。

そして剣を持っていない左手を、スナイパーライフルを持ったロボットに向ける。

 左手の空間が歪み、漆黒の銃が露わになる。

零は銃口を高所のロボットに合わせると、一気に引き金を絞った。

放たれた銃弾はそのまま、ロボットの額に直撃し貫通した。

 ここまでの動きはわずか数秒。

「…嘘だろ…?」

克彦は呆然と立ち尽くしていた。

「さて、次だ。」

零は再び動き出し、残りのロボットを破壊していく。

全てのロボットを破壊しきるまで、彼が動きを止めることはなかった。

数分後、零の周りにはガラクタになったロボットの部品が無数に散らばっていた。

「何なんだよ…こいつ…。」

克彦は一歩後ずさる。

「どこへ行くつもりだ?」

「ひっ。」

いつの間にか彼の背後に零が立っていた。

そして克彦に向かって剣を振るうと、彼の肩口を斬り裂いた。

「…ぁぁぁああああ!」

克彦が堪らず叫びながら、その場で転げ回った。

「い…痛い…痛い…。」

そんな克彦を零は冷たい目つきで見下ろす。

「俺は警告したはずだ。」

零は克彦の前に立つ。

「嫌だ…死にたくない…。」

克彦はすっかり怯えた表情になり、顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた。

「今更死にたくないなんて、随分勝手な奴だな。」

零は握りしめた漆黒の銃を克彦に向ける。

「地獄で後悔するといい。」

そして引き金に手をかけた。

「ダメです!」

シオンが突然、零の左手に覆い被さる。

「シオン…?」

「人を殺しちゃダメです!」

彼女は涙ぐんだ眼差しで零を見つめる。

「こいつは最低な男だ。」

零の目は暗い炎を宿している。

「そんな奴を、シオンは許せるのか?」

「許せるわけありません!」

シオンが叫ぶ。

「でも、零さんが人殺しをするのを見るのはもっと嫌です!」

「…。」

零は静かに、彼女の言葉を聞いていた。

「だから、もうやめてください…!」

シオンの訴えを聞くと、彼は暫く目を閉じていた。

「…分かった。」

零が銃をその手から消失させる。

目を開けると、そこには優しい表情の零がいた。

「零さん…!」

「こいつの処遇は別の人に任せよう。」

「はい!」

いつもの零が戻ってきたことに、シオンは安堵した。

「すまないが、シオンは朱音さんのことを頼む。」

零は二人を拘束している鎖を剣で断ち斬って、朱音の介抱をシオンに託した。

「お前に聞きたいことがある。」

その間に零は克彦にある事を尋ねた。

「お前がシオンを攫ったのは何か別の目的があるんだろ。その目的はなんだ?」

「ち、違う!僕は頼まれただけだ!」

克彦が必死に弁明する。

「頼まれた?誰に?」

「そ…それは…。」

「私だ。」

その時、靴音が広いドーム内に木霊する。

零は声のした方に視線を向けた。

「…お前は…!」

零が驚愕の声を上げた。

現れたのは黒いロングコートを着た高身長の男だ。

「ノワール…!」

零は再び刀を出現させる。

「ほう。よく覚えていたな。時代の息子よ。」

ノワールと呼ばれた男は目深に被ったハットを取り、一礼した。

腰まで届く濡れ羽色の長髪が、顔の横にかかる。

「よく覚えていた…だと…?」

零が体を震わせる。

「零さん…?」

シオンの呼びかけも、今の零には聞こえない。

「忘れるわけがない…!」

彼は身を低くし、剣を構えた。

「俺は…あんたを倒すために生きてきたんだ!」

零はノワールに向かって駆け出した。

瞬時に肉薄すると、突進の勢いでノワールに向かって斬りつける。

その攻撃にノワールは避けることなく、左手を手刀にして剣を受け止めた。

一撃を手刀で止められた零は目を見開く。

「中々のスピードだ。だが私に傷をつけるにはまだまだだな。」

「…そんなこと、やってみなけりゃわからない…!」

剣の攻撃を止められた零だが、すぐさま左手に銃を出現させて、ノワールに数発の銃弾を撃ち込んだ。

しかしノワールは迫り来る弾を、空いている右手で悉く弾き飛ばした。

「剣と銃の両方を使った戦い方か…面白い。」

「…ちっ!」

その後、零は剣を何度も振るいながら、隙あらば連続射撃した。

だがノワールは斬撃を素手で受け止めつつ、降り注ぐ銃弾を全て防いだ。

「興味深いが、こんなものなのか?」

「…なら、これはどうだ…!」

零が一歩後退したかと思うと、突然ノワールの目の前から姿を消した。

「…!下か!」

いつの間にかノワールの懐に詰め寄り、彼の顎を狙って宙返りしながら蹴り上げた。

すんでのところでノワールが左腕でガードしたため、直撃はしなかったものの、彼は蹴りの勢いで吹き飛ばされた。

空中で態勢を整えて地面に着地したが、ノワールは左腕を軽く押さえていた。

どうやら先程の一撃で、左腕が折れたようだ。

だがノワールは腕を折られてもなお、涼しげな顔だ。

「剣と銃に加えて、格闘とは本当に面白い戦い方をする。しかも私の呼吸に合わせるとはいいセンスだ。」

先の零の動きは姿を消したわけではない。

相手の呼吸に合わせて素早く身を低くすることで、相手には一瞬消えたように見せることができる。

「驚いたな。誰かに教わりでもしたか?」

「あんたに話す義理はない…!」

零がノワールとの距離を一気に詰めた。

そして彼の剣がノワールの顔に迫る。

「そんなに焦ることはないだろう。」

だがその一撃が届くことはなく、突然出現した赤黒い大太刀に阻まれていた。

「なっ…!」

「何を驚いている?お前の剣や銃と変わらないはずだが?」

ノワールは大太刀で零の剣を打ち上げると、そのまま薙ぎ払った。

零は態勢を崩しながらも銃身で攻撃を防いだが、薙ぎ払いの勢いが強く、後方の壁に吹き飛ばされた。

「ぐっ…!」

「零さん!」

シオンが零に駆け寄ろうとする。

「来るな!」

零はシオンに強くそう言い放つ。

「どうした?もう来ないのか?」

ノワールがゆっくりと大太刀を上段に構える。

「では今度はこちらから行かせてもらうとしよう。」

そう言うと、ノワールは瞬時に零の目の前に移動して、閃光のような突きを幾度となく繰り出した。

零はどうにか躱そうとするが、捌ききれずに体のあちこちを刺されていく。

雨のように続いた刺突が止むと、息をつく間もなく下からの斬り上げが零を襲う。

その攻撃は零を上空に吹き飛ばした。

ノワールは間髪入れずに跳躍して彼の頭上に移動すると、一気に斬り降ろした。

その追撃を受けた零は、今度は地面に叩きつけられる。

「かはっ…。」

零の口から血が溢れる。

「お前の力はよく分かった。」

ノワールはゆっくりと地面に降り立った。

「もう少しまともに戦えると思っていたが、どうやら見込み違いだったようだな。」

「うるさい…。」

零は体をフラつかせながら、何とか立ち上がった。

そこへ剣の切っ先が、彼の右胸を貫いた。

それをノワールがゆっくりと持ち上げる。

「期待外れだ。」

そう言い捨てると、剣を横に振るって零を放り出した。

零は為す術なく投げ出され、転がった。

「零さん!」

「大丈夫…だ…!」

 シオンの前に投げ出された零は何とか立ち上がろうとするが、体に力が入らない。

「時代の息子…私はお前にも用があった。」

「なん…だと…?」

ノワールが手のひらを零に向ける。

「何を…。」

その時、零は自分の中で何かが蠢くのを感じた。

「な…んだ…?」

 それはやがて鋭い痛みへと変わった。

「あ……く……!」

 呼吸もままならず、必死に左胸を押さえる。

 左胸から腕にかけて激痛が走った。

 何とか右手で左腕の袖を捲り上げる。

「な…!」

 自身の左腕を見た零は驚愕した。

 腕には身に覚えのない黒い痣のようなものが、手の先にまで蔦のように刻まれていた。

この様子だと痣は胸にまで巡っているだろう。

「それが何か、知りたいか?」

「な…に…?」

 零はノワールを見上げる。

「その痣は、お前の中に混沌の力の一部が入っている証拠だ。」

「…ふざけるな…!」

 ノワールの言うことが信じられず、零は睨みつける。

「私もほら。この通りだ。」

 そう言って、彼がコートをはだける。

 するとその体には、零のものと同じ痣が張り巡らされていた。

「ここの封印を解いた時、お前は瘴気に飲み込まれた。その時に力の一部がお前に流れ込んだのだよ。」

「……!」

 五年前を思い出す。

 ノワールの言う通り、確かに零はあの時に瘴気に飲み込まれていた。

「当時のお前はその力を制御できずに暴走していた。そこにお前の両親のご登場というわけだ。」

「まさか…。」

 零は虚ろな表情で地面に視線を向ける。

「両親を傷つけたのは…俺…?」

「そういうことだ。」

 ノワールが平然と言い放つ。

「そして今のお前は、どうやら力をある程度まで使いこなしているようだな。」

 ノワールにそう告げられ、零は左手に握っている銃を見つめる。

 漆黒の銃身に、紅く輝く十字架とそれに絡まる蔦の刻印。

 この力は剣を抜いた時に得たものだと錯覚していた。

 だが実際は違った。

 しかも両親を傷つけたのはノワールではなく自分だった。

 その事実が零の心をさらに深い闇へと落としていく。

「その力は所有者の強さに応じて成長する。お前の中で大分育ったようだ。」

 茫然と膝をつく零にノワールが近づいていく。

「今からその混沌の力を頂く。」

 ノワールは零に手を伸ばす。

 そこにシオンがノワールの手を遮るように立ちはだかった。

「シ…オン…?」

 零は自分の前に立つ少女を見上げる。

「邪魔だ、どけ。」

「どきません。」

 シオンは強い眼差しでノワールを見返す。

「お、おい!」

 すると今まで傍観していた克彦が、ノワールに駆け寄る。

「お前の言う通りにやったぞ。約束通り僕の望みを叶えてくれ。」

 ノワールが彼を一瞥する。

「そうだったな。だがそれは無かったことにしてもらおう。」

「は!ふざけ…。」

 言葉は最後まで続かなかった。

 ノワールの拳が、彼の頬を直撃していた。

「お前は醜い。思わず吐き気がするほどだ。」

 克彦は錐揉み状に回転して壁に激突すると、そのまま意識を失った。

 ノワールは再度、シオンに向き直った。

「まぁいい。それならお前から先に済ませるとしよう。」

 ノワールがゆっくりと大太刀を上へ持ち上げる。

「シオン…逃げろ…!」

 零が手を伸ばすが、シオンはその場から動かない。

「今度は私が、零さんを守ります。」

 シオンが零に笑顔を向ける。

「!」

 ノワールがシオンへ大太刀を振り下ろす。

 思わずシオンが目を閉じる。

 その瞬間、零がシオンの前に出て、大太刀を剣で受け止めた。

「零さん…?」

「ほう?」

 零は左半身の痛みに顔をしかめがらも、何とかこらえていた。

「ありがとうな、シオン。」

 また大事な人を失うところだった。

 今は過去の感傷に浸っている場合ではない。

「シオンには触れさせない!」

「面白い。」

その時、後ろから見えない何かがノワールを襲った。

それは彼に命中すると、そのまま天井のドームを突き破って屋外へ吹き飛ばした。

「大丈夫か?」

すると攻撃が飛んで来た方向から一人の男が現れた。

「士道さん…!」

「遅くなってすまなかった。」

 零が安堵の息を漏らす。

「傷は大丈夫か?」

「俺は…大丈夫です。それよりも朱音さんを…。」

 士道は頷くと、朱音の容態を確認した。

「…今のところは大丈夫そうだが、急いで病院に連れていく。零も早く…。」

「行かせると思うか?」

 いつの間にかノワールが士道の背後に立ち、大太刀を振りかざしていた。

「しまっ…。」

 士道は咄嗟にガードするも、耐えきれずに押し出されてしまった。

「ぐっ…!」

 ノワールは士道に攻撃すると同時に、零を蹴り上げた。

 二人は壁にぶつかる直前に何とか踏み止まることはできたものの、シオンと離されてしまった。

また先程の士道の攻撃のせいか、ノワールのハットが無くなっていた。

ノワールの顔が露わになると、零は自分の目を疑った。

目の前に立っている男が、どうしても隣にいる士道と同じ顔に見えるのだ。

「お前は…宗士…!」

その士道はノワールの顔を見て驚愕していた。

「知ってるんですか?」

「私の…双子の弟だ…。」

士道が拳を握りしめる。

「幼少期だった頃、お前の母親でもある琴音が生まれる前のことだ。家のごたごたのせいで、あいつは別の家に引き取られた。」

 自分の知らない空守家の内情を聞いた零は、唖然とした。

「宗士、お前はこんなところで何をしてるんだ…!」

「宗士…か…。懐かしい名だな。」

 宗士と呼ばれたノワールは、士道を見ても特に表情を変えることはなかった。

「その名前は当の昔に捨てた。」

「どういう意味だ?」

「家を追い出された時、両親の伝手で、俺はレジデンスエリアの知らない夫婦に預けられた。」

 彼は昔を思い出すように空を仰いだ。

「後々気づいたことだが、恐らく両親はその夫婦に、俺が成人になるまで資金援助をすると約束していたんだろう。毎月お金が振り込まれていたよ。」

 零と士道はただじっとノワールの話に耳を傾けていた。

「そこはまさに地獄だった。毎晩毎晩、男は飲んだくれて、女は遊んでいた。俺を育てる気は微塵もない。しかも二人の機嫌が悪いと何度も殴打されて、酷い時は溺れ死ぬギリギリまで、冷たい水風呂に沈められた。」

 拳を握りしめながら、ノワールは続けた。

「それでも、必ず両親が迎えに来てくれると信じていた。だがどれだけ待てども両親は来なかった。そして一年が経った頃、俺は耐えきれずに家に帰った。」

 きっと両親は自分を歓迎してくれるだろうと、そう思っていた。

「しかし現実は違った。家に着いた俺に、父であるあの男は『お前は誰だ?』と、そう言い放った。そして門が閉められる直前に士道…お前が楽しそうに遊んでいる姿を見た。」

 そう言いながら、士道を睨みつける。

「その時にようやく気づいた…俺に居場所は無いのだと。」

「それは違う!少なくとも私は…。」

「黙れ!」

 宗士が声を荒げる。

その顔には怒りと憎悪が込められていた。

「お前に俺の気持ちがわかるか!温かい家族愛に囲まれたお前に!」

「……。」

 士道は何も言えなかった。

「全てに絶望した後、俺はふと母が昔話していたことを思い出した。この地に眠る混沌についてだ。」

宗士は一呼吸置いて、気持ちを落ち着けながら話を続けた。

「そしてそこの時代の息子に剣を抜かせた。」

 零は歯噛みする。

「おかげでこうして混沌の力を手に入れることができた。」

宗士が左腕を何でもないように振っていた。

(左腕が…!)

「折れた腕もこの通りだ。」

 全ては宗士の掌の上だった。

「ならどうしてシオンを狙う…!」

 封印を解くのが目的なら、既に達成されている。

シオンを狙う理由がない。

「…この封印は二重に掛けられているんだよ。」

「なに…?」

 すると宗士が士道に視線を向けた。

「士道さん…?」

 零が訝しげに士道を見る。

「士道、お前ならその封印の解除方法が分かるだろう?」

 士道は額に汗をかいていた。

「…『空守家の人間の血』…。」

「……!」

 零が驚愕する。

「しかも空守家の中でも、血筋に選ばれた者でなければならない。」

 宗士が士道の言葉に捕捉する。

 ということは、シオンは…。

「それはあり得ない!」

 士道が強く言い放つ。

「シオンという名は、空守の家系上でも見たことがない!」

「それはそうだろう。」

 宗士が冷ややかに答える。



「この娘はこの世界の人間ではないのだから。」



「なっ…!」

 突然の真実に、零が信じられないといった表情でシオンを見る。

「私が…空守の…人間…?」

 彼女はまだ状況を理解できていない様子だ。

「…そういう…ことだったのか…!」

 士道が何かに気づいたようだ。

「流石は空守家当主。ここまで言えば気づくか。」

「…零はこの封印について、どこまで知っている?」

「え…それは…。」

 いきなり士道に質問され、零は戸惑ったものの何とか思い出そうとした。

「時代家と空守家の先祖が封印したって…。」

 士道が頷いた。

「その話には続きがある。」

「続き…?」

 士道が言葉を続ける。

「封印は世界を二つに分断してしまう。どちら側からも監視が必要だと判断した巫女は分家の者を剣士の傍に置き、本家である自分はもう一方の世界から監視することにした。」

「その分家が士道さんたちで、本家がシオンってことですか…?」

「そういうことだ。」

 零の問いかけに答えたのは、宗士だった。

「時代の息子が封印を解いた時、向こうの世界への穴が開いた。それは針のような小さな穴で、とても人間が出入りできるようなものではなかった。」

宗士が六芒星に向かって、手をかざす。

「だから俺はこの力を使って、少しずつ穴を広げた。そしてついに人が通れる大きさにした途端、この娘が現れた。」

宗士の手から黒い霧が放たれる。

すると六芒星の中心に、黒い穴が現れた。

「あっ…。」

 シオンが声を漏らす。

 なぜこの場所に見覚えがあったのか。

 この世界に来た時、自分はこの場所に倒れていたのだ。

「きゃっ…。」

「シオン…!」

 突然、宗士がシオンの腕を掴みながら、六芒星の中心に運んだ。

「後はこの封印陣に本家の血を、垂らすだけ…。」

「させん!」

最初に動いたのは士道だった。

宗士の行為を阻止しようと、一気に駆け出した。

「無駄だ。」

宗士が士道の方向へ、手を横に振ると、地面から黒い棘のようなものが無数に伸びて、士道を襲う。

士道は無数の棘を、避けつつ破壊していくが、まんまと時間を稼がれてしまった。

「これでようやく…。」

「まだだ!」

気がつけば、零が背後から宗士に向けて上段斬りを仕掛けていた。

「邪魔をするな。」

宗士が振り向きざまに回し蹴りを放った。

零は吹き飛ばされて激しく転がっていく。

「零さん!」

零を攻撃した隙に、シオンが宗士の手から逃れた。

そのまま零に駆け寄ろうとする。

「ダメだ!シオン!」

その叫びは間に合わなかった。

「え…?」

シオンは自分の体に違和感を感じた。

視線を下に落とすと、大太刀が彼女の胸を貫いていた。

宗士がシオンの体から大太刀を引き抜くと、シオンがその場に崩れ落ちる。

「シオン!」

倒れる直前、零が駆け寄って彼女を抱えながらその場を離れた。

そして彼女の溢れ出た血が封印陣に撒き散らされた瞬間、全体が赤く輝き始め、裂け目から大量の黒い霧が噴き出した。

「そうだ!俺はこれを待ってたんだ!」

宗士が歓喜の声を上げて、黒い霧を全身に浴びた。

「くそ!」

士道が刀を抜いて、黒い霧に向けて一閃した。

刀から衝撃波が発生して黒い霧にぶつかるが、霧はものともしない。

暫く宗士を包むように渦巻いていた霧だが、徐々に薄れていき、宗士の姿が露わになっていく。

その姿を見て、士道が唇を噛み締める。

「…宗士…!」

視線の先には赤黒いオーラのようなものを纏った、宗士の変わり果てた姿だった。

頭からは黒い角のようなものが生え、腰からは尻尾のようなものが伸びている。

背中には右側のみに翼があり、正に悪魔の様相を呈していた。

「実にいい気分だ。」

宗士は自分の手を見つめる。

「これが混沌の力…!」

 宗士は歓喜に打ち震えていた。

「シオン、しっかりしろ!」

 その宗士から距離を取った零は取り乱した表情でシオンに呼びかける。

彼女からの反応はない。

また呼吸がひどく浅く、徐々に体温も下がっていた。

 零にはどうすることもできなかった。

「…ごめん…。」

 シオンを強くかき抱く。

 彼は自責の念に駆られていた。

「俺は…また…。」

 両親も、シオンも守れなかった。

零の瞳から涙がこぼれる。

「零…さん…。」

するとシオンがうっすらと目を開けて、彼の頰に手を当てた。

「泣か…ないで…ください…。」

「シオン!」

 彼女は笑っていた。

「零さんは…悪く…ないです…。」

「でも!俺は君を守れなかった…。」

 零は自分が許せなかった。

「私は…零さんを守れたでしょうか…?」

「あぁ…君は俺を守ってくれたよ…。」

「それなら…良かったです…。」

 シオンが満足そうな表情をする。

「零さんのおかげで…たくさん…楽しい思い出が…出来ました…。」

 彼女が零の頬を撫でる。

「お仕事も…お出かけも…本当に…幸せでした…。」

「ならまた働こう!静音さんも歓迎してくれる!」

 零がシオンの手を強く握る。

「出かけるのだって、今度はシオンが好きなもの何でも買ってやる!」

 彼女の手はとても冷たかった。

「だから…頼むから生きてくれ…!」

 シオンの顔に涙が落ちていく。

「それは…楽しみですね…。」

 シオンはとても嬉しそうに笑った。

「零さん…大好きです…。」

 そして零の手から、彼女の手が滑り落ちた。

「…シオン…?」

 零は茫然としていた。

「嘘…だろ…?起きろって…。」

 呼びかけても、彼女はピクリとも動かない。

 シオンの心臓は、完全に止まっていた。

「…ぁぁぁぁあああああああああああああ!」

 零の泣き叫ぶ声が屋内に響き渡る。

宗士が動かなくなったシオンを一瞥した。

「ふむ。つい殺してしまったが、本家の選ばれた人間は貴重だから、殺すのは勿体無かったな。」

彼は特に気にした様子もなく、淡々としていた。

「まぁいい。力は手に入れたのだから、これで…。」

そこへ一発の拳が、彼の頰にめり込んだ。

宗士は吹き飛ばされ、壁を貫通していった。

一瞬前までいた場所には、士道が拳を振り上げた状態で立っていた。

「宗士…私はお前と、どうにかして分かり合えないものか、心のどこかで考えていた。」

士道が沈痛な面持ちで、拳を握り締める。

「だがこれ以上、お前を野放しにするわけにはいかない。」

「ならどうする?」

宗士がゆっくりとした足取りで戻って来た。

彼は士道の攻撃を受けるも、ダメージを受けた様子はない。

士道が鋭い眼差しで、宗士を睨みつける。

「…お前を殺す。」

「ほう。」

宗士は冷たい笑みを浮かべた。

「面白い。やってみるがいい…。」

その言葉を宗士が言い終わらない内に、士道が衝撃波を放った。

宗士はその攻撃を、自分の大太刀にぶつけて相殺する。

その時には既に、士道は宗士に接近していた。

宗士の背後から刀で斬りかかりつつ、後ろ蹴りを重ねる。

宗士は士道に向き直ることなく、その攻撃を大太刀で受け止める。

すると宗士が士道に向けて左手をかざし、その手から野球ボールくらいの黒い球体を出現させた。

「!」

士道が咄嗟にその場から離れる。

同時に宗士がその球体を放つ。

球体は士道には当たらず、床にぶつかった。

その途端、球体が巨大化し、突風を巻き起こしながら、物凄い勢いで瓦礫などを飲み込んでいく。

突風は一瞬だったが、球体が消えた後の場所にはポッカリとクレーターができていた。

(なんて出鱈目な…。)

士道の頬に汗が流れる。

 彼の想像以上に混沌の力は驚異的だった。

(このままでは打つ手がない…。) 

 士道の攻撃を軽々と受け流す上に、直撃してもかすり傷一つつかない。

「そんなものか。」

 宗士が再び、黒い球体を出現させた。

「俺を殺すんじゃなかったのか?」

 嘲るような表情で、士道を見る。

(とにかく今は、時間を稼ぐしかない…。)

 彼が立ち上がるのを信じて…。 

 士道は刀を構え直すと、目の前の脅威に全神経を集中させた。




          ♰




 零は肩を落とし、小さく震えていた。

腕の中では、シオンが眠ったように事切れている。

「…シオン…。」

涙は止まることなく溢れ、シオンの顔を濡らしていく。

「俺は…君のおかげで前を向いて歩こうって思えるようになったんだ。」

零が彼女の頬を撫でる。

「君と出会う前は、両親を死に追いやった自分が許せなかった。」

自分があの時拒んでいれば、二人が死ぬことはなかった。

当時は、自殺することも考えていた。

だが士道や静音、朱音が支えてくれたことで、何とかここまで生きることができた。

それでもやはり心のどこかで、自分はいつ死んでもいいと思っていた。

「そんな時、君と出会った。」

零が額を彼女の額に重ねる。

「出会ったのは偶然だったけど、色々なことを話していく内に、少しずつ自分の中で何かが変わっていくのを感じたんだ。」

それは後悔と向き合えるようになったことかもしれない。

自分の過去を誰かに話したことはなく、士道たちにさえ、零は話そうとしなかった。

「俺は…逃げていたんだ…。」

話せば、それは自分のせいだと言われてしまうような気がして。

自分が幸せになるなどあり得ないことだと、そう考えていた。

だがシオンは違った。

彼女は零が幸せになるべき人だと、真っ直ぐな瞳で言い放った。

その言葉は、彼の冷たく荒んだ心に深く沁み渡り、今もなお温めてくれている。

目を閉じると、その言葉とともにシオンの笑った顔を思い出す。

「そうか…そうだったんだな…。」

零は気づいた。

「俺は…君のことが好きだ…。」

自分の中で、いつの間にかシオンがとても大きな存在になっていた。

 零は目を開ける。

「なぁ…起きてくれよ…。」

そう語りかけるも、目を閉じた彼女から反応はない。

「俺には…シオンが必要なんだ…!」

 そう強く願った時、突然彼からまばゆい光が溢れ出した。

 その光は彼の胸ポケットから発されている。

 零は恐る恐る胸ポケットから光を発している物を取り出した。

「これは…。」

 ここに来る前、静音から預かったブレスレットだ。

 それは自ら輝きを放っており、シオンに近づけると、より輝きを増した。

「もしかして…。」

 零はそのブレスレットを彼女の手に握らせた。

「頼む…シオン…!」

 徐々に強くなった光はやがて、二人を包み込んだ。




          ♰




「くっ…!」

 士道が宗士に肩口を切られ、思わず後退する。

「はぁ…はぁ…。」

 宗士の怒涛の攻撃を何とか躱してきたものの、全てを避けることはできなかった。

 体の至る所に傷を負っていて、もはや満身創痍の状態だ。

「どうした。もう終わりか?」

 宗士は大太刀を振って、こびりついた血を払う。

「逃げてばかりいないで、少しは反撃してきたらどうだ?」

 そう言って、再び黒い球体を出現させた宗士。

 士道が唇を噛み締める。

(あの球体…想像以上に厄介だ。)

 速さはそこまでではないが、巨大化する上に突風を巻き起こすため、思うように体を動かすことができない。

 加えて宗士の剣捌きが士道と同等かそれ以上の域に達している。

(混沌の力で、身体能力が底上げされていると見て間違いない。)

 球体と剣捌きに、士道は防戦一方にならざるを得ず、これ以上ない厳しい戦いを強いられていた。 

(だが太刀筋は段々慣れてきた。後は…。)

あの球体をどうするか。

そう思案しているところに、宗士が肉薄し剣を振りかざす。

士道はその攻撃を刀で弾き、カウンターを入れる。

しかし弾かれた勢いを利用して、宗士が士道の顔に蹴りを放った。

士道は後退して何とか避ける。

そこへ宗士が手に出現させていた球体を放ち、追撃した。

球体を逃れようと、士道はさらに後ろへ下がろうとするが、

「…!」

いつの間にかもう一つの球体が士道の後ろから迫っていた。

「一つしか出せないと思ったか?」

宗士が冷たい笑みを浮かべるのが見えた。

(しまった…!)

士道は何もできず、ただ目を閉じるしかなかった。

その瞬間、二つの球体がいきなり消滅した。

宗士が首をかしげる。

「…どういうことだ?」

すると、士道の後ろから一本の矢のような形をした光が宗士の腕に命中した。

光はそのまま彼を吹き飛ばした。

士道は何が起きたのか分からず、呆気にとられていた。

「士道さん!」

「零?」

背後から零が駆け寄って来た。

「大丈夫ですか?」

「あぁ…何とか…。」

その時、矢が命中した腕を押さえながら、宗士が零を睨みつける。

「貴様、何をした!」

球体を二つ出現させ、零と士道に向かって放つ。

だが零たちの背後から現れた二本の矢によって、球体はまたも消滅した。

「これ以上、二人を傷つけさせません。」

そう言って、ゆっくりとした足取りで近づいてくる者がいた。

「貴様は…!」

宗士が驚愕の声を上げる。

士道も自分の目を疑った。

現れたのは、先程宗士に殺されたはずのシオンだった。

「どういうことだ…?」

士道が零に問いかける。

「それについては後程説明します。まずは…。」

零は宗士に剣を向ける。

シオンが零の隣に立って深呼吸すると、目を閉じた。

すると彼女の背後に複数の光の矢が現れる。

「シオン、いけるか?」

「はい。」

零はシオンが頷くのを確認するや否や、宗士に向かって走り出した。

「ナメるな!」

宗士が無数の球体を放つ。

「させません!」

それに対して、シオンが光の矢で迎撃する。

球体は全て光の矢によって消滅した。

そこへ零が斬りかかる。

宗士は危なげなく防いだが、零はそのまま息つく暇もなく連続で斬撃を放っていく。

(こいつ…どうしてこんなに速くなっている…⁉)

先程の戦いでは宗士が圧倒的に上だった。

それが今は、零が宗士を圧倒している。

「認めない!」

宗士が零の刀を打ち上げた。

ガラ空きになった零の胴へ、宗士の剣が迫る。

「刀だけじゃないぜ?」

零が銃を出現させて銃弾を数発撃った。

 頭に血が上っていた宗士は、避けきれず腹に被弾した。

「このっ…!」

 宗士が大太刀を振りかざしたところで、零が急に後退した。

 そして入れ替わるようにして、シオンが光の矢を放つ。

「鬱陶しい!」

 宗士が球体を無数に出現させ、矢を次々に消していく。

「後ろがガラ空きだ。」

 零が背後に回り、宗士の心臓を狙って刺突を放った。

 宗士はギリギリのところで反応し、心臓への一撃は免れたが、右胸に零の剣が深く突き刺さった。

「ぐっ…!」

 宗士が大太刀を振り回すと、零はすぐにその場から離れた。

「くそっ…!」

 零とシオンのダメージが効いてきたのか、思わず宗士が膝をつく。

「貴様…なぜ…。」

 宗士がシオンを睨みつける。

「確かにあの時、私の心臓は止まっていました。けれど、まだ死んでいたわけではありません。」

 シオンが左腕についているブレスレットに視線を向ける。

「零さんが持ってきてくれた、このブレスレットのおかげです。」

「それは…界域(かいいき)の福音(ふくいん)…!」 

 そう驚きの声を上げたのは、士道だった。

「空守家の先祖が身につけていた、世界の調和を保つブレスレット…。」

 士道の言葉にシオンが頷く。

「これは空守家の家宝として、本家を継ぐ者に代々受け継がれてきました。」

 彼女はブレスレットをそっと撫でた。

「君…もしかして記憶が…。」

 士道がそう言うと、シオンが彼に笑みを向ける。

「私は…空守詩音。空守家本家の当主です。」

そして彼女は宗士に視線を移した。

「本家当主の名にかけて、あなたをここで断罪します。」

「…ふざけるな。」

宗士が身を震わせる。

「ようやくここまで来た…今更邪魔はさせん!」

 彼の全身を黒い気が包み込む。

「詩音、頼みがある。」

零が真っ直ぐな瞳で詩音を見る。

「ここは俺に任せてくれないか?」

「零さん…。」

彼はそのまま言葉を紡ぐ。

「俺は…過去との決着をつけたい。これで償えるわけではないけれど、いつまでも後ろを向いてばかりでいられない…。」

「…分かりました。」

詩音が頷く。

「それでは零さんに私の力を少しお渡しします。」

詩音が零の手を取り、目を閉じた。

すると、何か温かいものが彼の中に流れ込んでいく。

それはほんの一瞬のことだった。

彼女は目を開けて、零に微笑んだ。

「ありがとう、詩音。」

零はそう言って詩音から手を放した。

右手に剣を持って、彼は宗士と対峙した。

「さて、最終局面といこうじゃないか。」

「…操り人形風情が…!」

宗士が零を怒りのこもった眼差しで睨む。

「俺は…お前を倒して前に進む…!」

先に動いたのは零だった。

詩音から受け取った力のおかげで、体が軽い。

一瞬で宗士の懐に飛び込んだ零は一気に斬り上げる。

それに対して宗士は大太刀で受け止める。

互いが互いの攻撃を弾き、捌き、避ける。

一進一退の攻防が続いた。

だがその打ち合いは長くは続かなかった。

「うっ…!」

宗士の剣撃を跳ね上げたところで、零が突然体がぐらついた。

「…はは。なるほどな。」

宗士がニヤリと笑う。

「身体能力は上がったようだが、傷までは癒えてないようだな。」

彼の言う通りだった。

詩音はあくまで、力を増幅させただけにすぎない。

(本来の界域の福音であれば、人の傷を癒すことなど容易いはず。)

恐らく詩音がまだ人の傷を癒す程まで、力を使いこなせていないのだろう。

士道はそう結論づける。

零は膝をついて俯いていた。

「…あの世で両親と仲良くやるがいい。」

その宣告とともに、宗士が零に向かって大太刀を振り下ろす。

零は視線を上げると同時に、攻撃を剣で受け止める。

「俺は…まだ死ねない…!」

 そして何も手にしていない左手を、何かを握るように構える。

 すると左手の空間が歪み始め、やがて収束した。

「大切なものを…守るために…!」

 そこには一本の藍色の剣が握られていた。

「銃ではない…だと…!」

驚愕している宗士を、零は藍色の剣で斬り上げる。

剣はそのまま彼の腹部に直撃する。

宗士は腹部を押さえながら数歩後ずさった。

零は攻撃の反動で鋭い痛みが全身に走り、一瞬ひるんだが、体をフラつかせながらも、何とか立ち上がった。

「そう簡単に…負けるわけにはいかないんだよ!」

零の二振りの剣が宗士を交互に切り裂く。

しかし混沌の力が増幅したのか、宗士の体が硬質化していて致命傷にはならなかった。

(それなら…手数で押し切る…!)

零は宗士を上に打ち上げて、自身も跳躍した。

そして二本の剣で高速の斬撃を放つ。

何度も斬り裂きながら、時に蹴りや拳打を打ち込む。

無数の攻撃に宗士はガードすることすらできない。

「これで…!」

零が宗士の上に回り込むと、ドームの天井を蹴って宗士に肉薄する。

「死ぬのは…貴様だ!」

 宗士が零の眼前に、球体を作り出した。

 この攻撃を受ければ、零自身ただでは済まない。

(だがこの好機を逃すわけにはいかない!)

 零は両腕で球体を受け止める。

 球体が触れた部分から、徐々に溶けていく感覚を感じた。

 詩音からもらった力が無ければ、一瞬のうちに全身が消滅していたことだろう。

 零は決死の覚悟で球体を突き抜けた。

「はぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーー!」

そして宗士に刃を突き立てる。

 スピードの乗った渾身の一撃は宗士の心臓を貫通し、そのまま彼を地面に叩きつけた。

 その勢いで宗士の落下地点を中心に、地面が大きく陥没した。

「がはっ…!」

 宗士がたまらず吐血した。

 そして彼の体から、黒い瘴気のようなものが抜けていき、完全に消えたところで人間の姿に戻った。

「く…ぁ…。」

 零は痛みに顔をしかめながらも、何とか立ち上がった。

 球体を受け止めた両腕は焼け爛れたようにボロボロで、見るも無残な姿だった。

また全身の至る所にダメージを負っていて、彼自身立っているのがやっとだ。

その倒れる寸前の体に鞭打って、詩音のところへ歩み寄る。

「零さん…。」

 詩音が手を伸ばす。

 零はその手を取ろうとしたが、途中で躓いてバランスを崩してしまい、詩音に寄り掛かる格好になった。

 詩音は一瞬驚いたが、すぐに温かな笑みを浮かべると、彼を優しく抱きしめた。

「お疲れ様でした。」

 その言葉に零の全身から力が抜ける。

「これ…で…少しは…前…に…。」

 零は最後まで言い切ることなく、気を失った。

「大丈夫です。零さんなら…きっと…。」

 詩音が零の背中を撫でる。

 士道は二人を見守ると、倒れている宗士に近づいた。

 そして彼の側で膝をつく。

「馬鹿…な…なぜ…。」

 息も絶え絶えの中、彼は自分が敗れたことを受け入れられない様子だった。

「宗士、すまなかった。」

 士道が頭を下げる。

「士…道…?」

 宗士が彼に視線を向けた。

「お前をそんな風にしたのは、元はといえば私の責任だ。」

 士道は両手を強く握りしめる。

 そんな士道の様子を、宗士は暫く茫然と眺めていた。

「…俺はただ…幸せになりたかった…。」

「宗士…。」

 宗士が視線を天井に向ける。

「だが…幸せになりたいと…思えば思う程…幸せから遠ざかってしまった…。」

 彼の瞳から涙がこぼれる。

「何が…いけなかったんだろう…な…。」

 その言葉を最期に、宗士は目を閉じた。

「……。」

 士道は何も言えず、ドームから望む夜空を見ることしかできなかった。







【4】



「んん…。」

 頭に感じる優しい感覚で、零は目を覚ました。

「零さん、おはようございます。」

 すぐ側では詩音が柔らかい眼差しで、零を撫でていた。

 零はこの心地よい感覚に身を任せたい衝動に駆られたが、いつまでもこうしているわけにもいかない。

 諦めて身を起こすことにした。

「ここは…?」

 ひとまず状況を把握しようと、詩音に尋ねる。

「ここはレジデンスエリアにある空守家所有の病院だそうですよ。」

 詩音が簡単に説明した。

「俺はどのくらい眠ってた?」

「二日くらいです。」

「…マジか。」

 零は自分自身に呆れた。

(いくら激しい戦いだったとはいえ、まさか二日眠ってしまうとは…。)

 回復したらトレーニングを見直さねば、と思う零だった。

「そういえば朱音さんは?」

 あの時は命に別状はないようだったが、やはり心配だ。

「朱音さんもこの病院の別の部屋にいます。とはいっても怪我もほとんど完治しているそうで、数日したら退院できるそうです。」

「そうか…よかった…。」

 零が安堵の息を漏らす。

「それから西園寺克彦さんも、今は別の病院に入院してますが、命に別状はないとのことです。」

「そういえば…。」

 宗士の登場ですっかり失念していたが、彼もまた今回の首謀者の一人だ。

「ああいう奴ほど結構しぶとく生き残るもんなんだなぁ。」

「あはは…。」

 詩音が苦笑いする。

「お、やっと起きたのか。」

「士道さん。」

 部屋の入口に士道が姿を現した。

「具合はどうだ?」

「流石に二日も寝たので元気ですね。」

「そうかそうか。」

 士道が可笑しそうに笑う。

「零ちゃんが起きたの⁉」

 士道の後ろから静音が顔を覗かせた。

「よかった~~~~!」

「静音さん⁉」

 突然静音が零に抱きつく。

「西園寺克彦に酷いことされたって聞いて、凄く心配だったの。」

 零が士道に視線を向けると、彼は首を横に振った。

 どうやら宗士のことについては秘密のようだ。

「それは静音さんのせいじゃありませんから大丈夫ですよ。」

 零が静音の頭を撫でる。

「ありがとう、零ちゃん。」

 彼女はぐずりながらも微笑んでいた。

「…あの!」

 詩音が突然声を上げる。

「どうした詩音?」

 心なしか顔が少し険しい。

「わ、私も…その…零さんのために頑張りました!」

「お、おう。」

 それは零が一番よくわかっていた。

 彼女がいなければ、自分は死んでいただろう。

「で、ですから…その…。」

 すると今度は急に小さくなって、もじもじし始めた。

 零は訳が分からず首を傾げる。

 だが静音は何かに気づいたようで、しきりにニヤニヤしていた。

 そして零の耳元に小声で話しかける。

「詩音ちゃんの頭を撫でてあげて。」

「え?」

「いいから早く!」

 零は静音の言うことが分からなかったが、とりあえず言われた通りにしてみることにした。

「ありとう詩音。よく頑張ったな。」

「あっ…。」

 零が頭を撫でると、詩音は顔を俯かせた。

 やっぱり嫌だったのでは、と零が彼女の顔を覗いてみると、

「えへへ。」

 何やらとてもデレデレした顔をしていた。

その表情に零はドキッとした。

「そ、そういえば士道さん。少しお話があるんですけど…。」

 零は恥ずかしくなって、慌てて手を引っ込めた。

そして静音を横目で見る。

その目線の動きに士道は頷いた。

「静音。先に朱音の様子を見に行ってやってくれないか?私は零と少し話をしてから向かう。」

「おっけー。そしたら詩音ちゃんも一緒に行こう。」

「あ、はい。」

 二人は朱音の様子を見に部屋を出た。

 足音が聞こえなくなったのを確認すると、士道が口を開く。

「さて、お前が気になっているのは、あの裂け目のことか?」

「えぇ。」

 零は宗士との死闘の後、すぐに意識を失ってしまった。

「結論から言うと、まだ穴は開いたままだ。」

「やっぱり…。」

 封印が解けてしまっているのだから、考えてみれば当然の話だ。

「念のため、うちの者に監視してもらっているが、今のところ混沌が現れるような動きはない。」

「…ちょっと待ってください。」

 零が疑問符を浮かべる。

「混沌はもう消滅したんじゃないんですか?」

 気絶する寸前、零は宗士の体から混沌の力が消えていくのを確かに感じた。

 士道が首を横に振る。

「あれはまだ一部なのだそうだ。」

「あれで全てじゃない…⁉」

 零が驚愕する。

「というか『だそうだ』ってどういうことですか?」

「実はあの後に色々調べていたら、詩音のブレスレットを通して、向こうの世界と連絡が取れたんだ。」

「向こうって詩音のいた世界ですか?」

 士道が頷く。

「そんなことができるんですね。」

「まぁ世界の調和を保つといわれている代物だからな。他に私たちの知らない力があってもおかしくない。」

 士道自身もあのブレスレットについて深い知識はなく、おおまかなことしか知らない。

「とにかくそのおかげで、詩音の母親と話すことができた。」 

 その話によれば、どうやら宗士が取り込んだのはほんの一部でしかなく、大部分はまだ次元の狭間に眠っているとのことだ。

「だから再度あれを閉じる必要があるのだが、零の持っている力はもう封印としては使えないらしい。」

 あの剣は、あくまで力を具現化させたものを時代家先祖の能力によって封印に使用したのだという。

 そのため、元々あの力自体に封印する能力はない。

「とはいえ現状であれば、まだ界域の調べの能力だけで、穴を閉じることができるのだそうだ。」

 これ以上裂け目を放置しておくと、また混沌の力が噴出しかねない。

「だとすると詩音は…。」

 士道が視線を逸らす。

「本家の当主として、元の世界に帰るだろう。そして裂け目を閉じてしまえばもう二度と会えることはない。」

「そう…ですか…。」

 何となく気づいてはいた。

 彼女は別の世界の人間。

 帰るべきところがあるのだ。

 零の俯きがちな表情に、士道は言葉を返すことができなかった。

「…医師を呼んでくる。少し待っててくれ。」

 そう告げて、士道は部屋を後にする。

 独りになった病室はとても静かだった。

 零はふと病室の窓の外を眺める。

 空は厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな空模様だった。




          ♰




 それから数日が経過した。

 零の体も順調に回復していき、今日無事に退院することができた。

病院を出ると、詩音が出迎えてくれて、一緒に帰宅の途にに就く。

自宅に戻ると、詩音は「何か温かいもの作りますね」と言い、キッチンへ向かった。

零が入院している間に、静音から教わったのだそうだ。

待っている間、零は風呂に入って体を洗い流すことにした。

病院ではしっかり入ることができなかったので、自宅の風呂は心地良かった。

早速、体を洗い流そうとすると、扉をノックする音が聞こえた。

「零さん、大丈夫ですか?」

どうやら零が心配で様子を伺いに来たようだ。

「あぁ、問題な…。」

「失礼しますね。」

突然、詩音が浴室の扉を開けて、中に入ってきた。

「詩音⁉」

零が動揺する。

彼女は自分の体をタオル1枚で隠している。

そのタオルから伸びる素足は、余分なものがないかのように、細すぎず太すぎないといった具合で、シミのようなものも一つもなかった。

また肌は雪の様に真っ白で、付着した水滴が光を反射し、詩音の艶やかさに拍車をかけている。

そして程よく成長した彼女の胸は、巻いているタオルを内側から押し上げていた。

全体的にスラリとした体つきで、けれど出るところは出ているといった感じだ。

「あ、あの…。」

詩音が零の視線に気づき、恥ずかしそうに顔を仄かに赤くする。

「あんまりじっと見られますと…。」

「わ、悪い!」

零が慌てて前を向く。

同時に自身の下半身を持ってきていたタオルで隠した。

「ど、どうしたんだ急に?」

詩音は先程までキッチンで料理していたはず。

「いえ、その…折角なので、零さんの体を洗って差し上げたいと思いまして…。」

折角って何だ、と思う零だが、緊張しすぎてそれどころじゃない。

「ダメ…でしょうか…?」

「そんなことはございません!」

思わず声が裏返ってしまい、何故か敬語になってしまった。

「それじゃあ…失礼します。」

そう言って、詩音が背後で座る気配がした。

程なくして、零は背中にタオルを当てられるのを感じた。

「痛くないですか?」

「だ、大丈夫。」

「それならこのまま続けますね。」

改めて手を動かし始める詩音。

(落ち着け…俺の心臓…!)

零は別のことを考えて、何とか心を落ち着かせようとする。

「ん…しょ…んっ…。」

背後から詩音の一生懸命な声が聞こえてくる。

それがどうにも艶めかしく聞こえてしまい、零の鼓動は更に加速した。

また時折触れる詩音の指の柔らかさが、彼をよりドギマギさせる。

(誰か助けて…!)

零の理性は崩壊寸前だった。

だが次第に詩音の手の動きが遅くなっていったと思いきや、詩音が口を開く。

「零さんは…聞きましたか?」

「え…?」

唐突な質問に頭が追いつかない。

「聞いたって…。」

何を、と言おうとしたところで、彼女の声音に影があることに気づく。

零はそれで一気に落ち着いた。

「…裂け目のことか?」

「はい…。」

詩音の手が完全に止まる。

「士道さんから聞いたよ。封印には詩音の力が必要だって。」

詩音は無言で、タオルを持つ手をぎゅっと握る。

「いつ、向こうに帰るんだ?」

「…明日の朝です。」

「…そうか。」

恐らく一日でも早く穴を封印した方がいいという判断なのだろう。

ということは、今日が詩音と過ごす最後の日ということになる。

あまりにも急な話に、零は何も言えなかった。

「…空守本家の当主として、また向こうの世界を守る者として、私は帰らなければなりません。」

「…あぁ。」

零もそのことは十分に分かっていた。

「でも…私は…。」

心なしか詩音が震えているような気がした。

「…すみません。今の話は忘れてください。」

そして再び零の背中を洗っていく。

零は彼女の言おうとしたことが、何となく分かるような気がした。

それは多分、彼自身も思っていたことだからだ。

それ以降、お互い何も言わず、タオルを擦る音だけが風呂場に響くのみだった。




          ♰




翌朝。

零は詩音を連れて、再びスラムエリアのセントラルドームへと向かった。

到着すると、既に士道が先に来ていた。

他にも何人かいるが、恐らく空守家が雇っている者だろう。

「来たな。」

士道が二人に近づいていく。

「おはようございます、士道さん。」

「おはよう。二人とも心の準備はもういいか?」

「えぇ。」

「大丈夫です。」

零と詩音がそれぞれ短く答える。

「分かった。それじゃあ詩音、始めてくれ。」

「はい。」

詩音はゆっくりと裂け目に近づく。

目の前まで来ると、目を閉じてブレスレットに意識を集中させた。

すると裂け目の真上に白い靄のようなものが現れる。

やがてそれは、一人の女性を映し出した。

その女性を見て、零は誰かに似ているような感覚を覚えた。

「そういえば、零は会うのが初めてだったな。」

士道が靄に映る女性に視線を向ける。

「あの方は詩音の母親にして、空守本家の先代当主だ。」

零はそれを聞いて腑に落ちた。

雰囲気がとても詩音に似ていたのだ。

「初めまして、時代零さん。私は空守蓮音。そこにいる詩音の母親です。」

蓮音が深々とお辞儀をした。

「こ、こちらこそ初めまして。」

零はぎこちなく同様にお辞儀をする。

「私は貴方にお礼が言いたかったの。」

「お礼…ですか…?」

蓮音が頷く。

「貴方がこの子を助けてくれなければ、きっと大変なことになっていたでしょう。心からお礼を言うわ。」

「いえ、俺はそんな大したことはしてません。」

恥ずかしそうに頭を掻く零を、蓮音は優しい表情で見つめる。

「詩音。良い人に出逢いましたね。」

「はい。零さんはとても誠実な方です。」

詩音が胸を張って答える。

「ではそろそろ、封印を閉じましょう。またいつ混沌が現れるか分かりませんから。」

蓮音は先程までの優しい表情から一転し、真剣な表情を見せる。

「その界域の福音で一本の光の糸を作り出し、裂け目に流してください。それをこちらで導いて門を形成します。」

「……。」

詩音は背後の零に視線を向ける。

「詩音…?」

「どうしました?」

そして決心したような表情で蓮音を見上げる。

「お母様。一つお願いがあります。」

「何ですか?」

「…私をこの世界に居させて頂けませんか?」

「詩音⁉」

零が驚く。

「…それは何故ですか?」

詩音の言葉に、蓮音は表情を変えることなく、問いかける。

「我儘だということは分かっています。でも…。」

詩音が胸に手を当てる。

「私は…零さんたちと一緒に居たいんです!」

彼女の訴えに、蓮音は暫く無言だった。

「…貴方は自分が空守家の当主であることを自覚していますか?」

「自覚しています。」

「その上で、その世界に居たいと?」

「はい。」

「その選択がこちらの世界を滅ぼすことになったとしても?」

「それは…。」

詩音が言葉に詰まる。

「貴方のそれは、無責任な発言に他なりません。」

蓮音の言葉に詩音は言い返すことができず、顔を俯かせる。

そこに零が詩音の隣に立った。

「俺からもお願いです。」

「零さん…?」

 零が頭を下げる。

「詩音をここに居させてやってください。」

零の嘆願に、蓮音は目を丸くする。

「…貴方にはとても感謝しています。けれど…。」

「俺には…詩音が必要なんです。」

零が顔を上げ、蓮音を真っ直ぐに見つめる。

「詩音がいたからこそ、自分は今こうして前を向くことができています。」

詩音の存在が、彼に勇気を与えた。

「だからどうか、詩音を連れて行かないでください!」

零が深々と頭を下げる。

詩音もそれに倣い、頭を下げた。

暫く蓮音は無言で二人を眺めていた。

「貴方たちは知らないかもしれませんが、脅威は混沌だけではありません。」

「どういうことですか?」

 蓮音は一冊の書物を手にしていた。

「これはその昔、巫女と勇者が共に戦っていたことが記録されているものです。」

 それを開きながら、蓮音は続ける。

「これによれば二人が戦っていたのは混沌だけではなかったようです。」

「そんな…。」

 詩音の顔が驚愕の色に染まる。

「これから封印を戻すとはいえ、一度は解けてしまったものです。今後どのような影響が出るのか全く予想がつきません。」

 それに当時は存在していた勇者の力も今はない。

「分かって頂けませんか?」

 零が悔しそうに唇を噛み締める。

 そこに意外な助け舟が現れた。

「それなら尚更一緒にいたほうが良いのではないでしょうか?」

「士道さん?」

士道が蓮音から視線を逸らすことなく言葉を紡ぐ。

「それに現時点で混沌の脅威に晒されたのはこちらの世界のみで、そちらは今のところ影響はないようだ。」

「……。」

 蓮音は士道の言葉をじっと聞いていた。

「それに本当は封印を一時的に解いて、そちらに行くことは可能じゃないですか。」

「貴方!それは言わないと約束したはず!」

 蓮音は慌てた様子を見せた。

「お母様、それは本当なのですか?」

 士道の言葉を聞いて、詩音が尋ねる。

「…確かにそれは可能です。」

 蓮音は苦々しい顔をしていた。

「ですがそんな軽々と封印を解いてしまえば、混沌が真に目覚める可能性は十分にあります。私はそれを危惧しているのです。」

「それはそうですが、今の二人を離してしまうと、混沌以外の脅威に立ち向かえないと思いますが?」

 士道の説得に蓮音はたじろぐ。

「お母様、お願いします。」

「お願いします。」

 零と詩音が再び頭を下げる。

蓮音は苦悩していたが、やがて嘆息した。

「全く…二人して頑固なんだから。」

そう言う蓮音は、苦笑していた。

訳が分からず、零と詩音は顔を見合わせる。

「分かりました。そこまで言うなら、貴方たちを信じることにします。」

「お母様…!」

詩音がパッと表情を明るくする。

「私だって母親ですもの、あなたのお願いを聞いてあげたいと思ってるのよ。」

そこには我が子を思う母親の姿があった。

「ただあなたは私の娘であると同時に、空守を預かる身でもあるの。だから私個人の感情で流される訳にはいかなかった。」

蓮音の中で、それは辛い選択だったのだろう。

その葛藤は零には想像もつかなかった。

「けれど確かに、今の貴方たちは一緒にいるべきなのかもしれないわね。」

 すると蓮音が零に視線を向ける。

「それに零さんを見ていたら、何だか不思議と大丈夫な気がしてきたの。どうしてかしらね。」

「その気持ち…何となく分かります。」

詩音も隣にいる零に視線を移す。

「零さんからは、とても温かいものを感じるんです。それが何かは具体的には分かりませんが。」

「そう…。」

蓮音が慈愛に満ちた眼差しで、娘を見つめる。

「零さん、娘のことよろしくお願いします。」

「え、あ、はい。」

今の会話の流れがサッパリだった零は、突然話を振られて、慌てて居住まいを正す。

「いつか貴方と直接会うのを楽しみにしています。」

そして蓮音は何やら含みのある笑みを浮かべた。

「ふふ。こちらへ来る時は、ちゃんとした挨拶をする時かしら。」

「お、お母様⁉」

詩音が顔を赤くする。

「それじゃあ詩音。封印はお願いするわね。」

そう言い残して、蓮音の映像が切れた。

零が肩の力を抜くように息を吐く。

「士道さん、ありがとうございました。」

 士道が助けてくれなければ、どうしようもなかっただろう。

「俺は本当のことを言ったまでだ。」

 対する士道は飄々としていた。

「何にせよ、ここに残れるようになってよかったな。」

「…お母様のバカ…。」

零が詩音に話しかけるも、本人は何事か呟いていて聞こえていない様子だ。

「詩音?」

「ひ、ひゃい⁉」

詩音の顔色を伺うように、零が彼女の顔を覗き込むと、詩音は体をビクッとさせた。

「大丈夫か?」

「だ、大丈夫です!」

詩音は零から視線を逸らす。

「そ、それより早く裂け目を閉じちゃいましょう!」

そう言って彼女は早速、封印に取りかかった。

封印を行なっている間も、詩音は終始顔を真っ赤にしていた。






【5】



―――――ピピピピピピピピ。

「…うるさい。」

零が目覚ましを叩くように止める。

布団の温もりを満喫したい欲求を堪えて、何とか起き上がった。

「…仕事に向かうか。」

零は欠伸をしながら、身支度を整えていく。

裂け目を封印してから、数日が経過していた。

封印は問題なく完了し、今のところ異常も見られていない。

だが士道曰く、当分の間はあの近辺含めて監視していくとのことだ。

何かあってもすぐに対処できるようにするためだろう。

(俺も時折、様子は見に行くことにしよう。)

零はそう考えながら自宅を出て、マンションのロビーへ向かう。

「あ、おはようございます。零さん。」

ロビーに到着すると、詩音が待っていた。

「おはよう詩音。そういえば今日は詩音も入ってたな。」

「はい、そうです。」

詩音はこの世界に残ることが決まったため、本格的にBlossomで働くことにした。

それを聞いた静音は泣いて喜んでいた。

住む場所については変わらず、朱音のマンションに住んでいる。

ちなみに二人には詩音のことを、大企業の社長令嬢という設定で、士道が説明した。

静音も朱音も、士道は顔が広いことを知っているので、すぐに納得した。

記憶が戻ったことについても話しており、二人とも自分のことのように喜んでいた。

「それじゃあ早速向かうか。」

零は促したが、詩音は何故かその場から動かない。

「詩音?」

彼女は何やら考え込んでいる様子だ。

零がそのまま待っていると、やがて詩音がゆっくりと口を開いた。

「…あの、お母様と話した時のことなんですけど…。」

「詩音の母親と話した時?」

詩音が頷く。

「お母様を説得する際、零さんは私を『必要な存在』と仰っていました。」

「…あー。」

確かに言った。

「あれはどういう意味ですか?」

詩音が真剣な眼差しで零を見る。

心なしか、目が潤んでいるようにも見えた。

「えーっと…それはだな…。」

零は答えに窮する。

そのことを今伝えるには、心の準備が足りなかった。

どうにかして誤魔化せないか悩んでいると、

「おや?二人ともまだいたのか。」

朱音が腕に包帯を巻いた状態でやって来た。

「朱音さん、怪我の具合はどうですか?」

零が朱音の包帯を見て、心配そうに尋ねる。

「もう大丈夫だ。これだって医者にうるさく言われるから巻いてるだけで、実際はもう治ってる。」

そう言いながら、朱音が腕を振り回す。

「それよりも、お前たちはこれから逢い引きか?」

朱音が悪戯っ子のような笑みを浮かべる。

「え⁉いや、そんなことは…。」

詩音は真に受けてしまい、顔を真っ赤にした。

「これから仕事だって、朱音さん知ってて聞かないでください。」

零が溜息を吐く。

「まぁそう言うなよ。面白い反応も見られたんだからさ。」

朱音がチラリと詩音を見る。

詩音は朱音の冗談に気づいたのか、頬を膨らませていた。

「朱音さん、ヒドイです!」

「悪い悪い。」

悪いと思ってなさそうな様子で、朱音が笑う。

「そんなことより、そろそろ時間がマズイんじゃないか?」

時計を見ると、確かにいい加減出ないと遅刻する時間になっていた。

「気をつけて行ってこい。」

「はい、行ってきます。」

「朱音さんも安静にしていてください。」

二人はマンションを出ると、早足で歩いていく。。

「零さん。」

詩音が零に視線を向けた。

「これからきっと、たくさんの危険が待ち受けていると思うんです。」

「そうだな。」

 蓮音の言うことが本当であれば、明日にでも現れるかもしれない。

「なのでこれからは、私も士道さんのところに稽古をつけてもらいに行きます。」

 私も、ということは、詩音は零が稽古に行っていることを知っているということだ。

零は彼女に士道に稽古をつけてもらっている話はしていない。

 恐らく朱音辺りが話したのだろう。

「それなら今度からは一緒に行くか。」

 零がそう提案する。

「お互い強くなって、この世界…果ては向こうの世界も守っていこう。」

「はい、約束です!」

 彼女は鼻歌でも歌わんばかりに上機嫌だった。

「私今、とても幸せです。」

すると詩音は数歩先行したかと思うと、振り返って零に向き合う。

「これからもよろしくお願いします!」

そう告げた詩音の表情は、これ以上ないくらい華やいだ笑顔だった。

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福音の調律者 @s0212073

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