第91話 こちらより

 その後の僕の生活は、少しの変化をみせた。本当は大きく変わったのかもしれないが、感覚が鈍化していて、変化を感じ取れなかったのかもしれない。


 常波教授の自殺により、東都大学の研究室は閉鎖された。自殺の理由は、誰しもが首をかしげ、教授の業績と人徳を惜しんだ。マンホール殺人事件との関係性は、闇の中へ葬られて終わりそうだ。教授は「あちら」を受け入れることが出来なかったのだろうか。それとも教授が境界の番人だったのだろうか。


 平地天回こと斉藤重夫は、堀の中で裁判を待つ身だ。地下鉄爆破未遂、信者の集団自殺の教唆、マンホール殺人の罪に問われることになる。精神鑑定もされるようだが、死刑は免れないとの意見は多い。魔術爆弾の存在は、表に出てくることは無かった。ただの爆弾と報道されていた。あの時、僕が阻止しなかったら、魔術爆弾は本当に爆発していたのだろうか。あちらとこちらの均衡を崩していたのだろうか。今となっては確かめる術は無い。


 桜木甲斐人の死は、世間を賑わすことが無かった。「彼方への道」との関係性も、格闘技興行への妨害も、実の息子に殺されたことも、無かったことにされたようだ。病死として処理されたらしい。


 山田は、「彼方への道」事件のコメンテーターとして、連日テレビに顔を出した。一度「彼方への道」の残党に襲われた。「彼方への道」の信者は、車に乗り込み、ビルの二階の駐車場から、下の道を歩く山田目がけて特攻したのだ。山田は直撃を逃れ、少し怪我をしただけで生き延びた。襲った信者は、重傷だったが死にはせず、逮捕された。テレビで顔を見たら、あちらの記憶の中で、魔法を使い鳥になって飛んで行った男にそっくりだった。今度は車を動かせたようだ。襲撃事件のおかげで更に注目が集まり、山田のバブルはしばらく続きそうだ。


 格闘技の興行は、これからも続いていくようだ。僕もチャンピオンとして、防衛戦をしていかねばならないが、やる気が全く起きない。王座返上も考えつつ、今は理由を付けて防衛戦を先延ばしにしている。


 呂井人が送られたであろう精神病院を調べてみようとしたが、どこへ入院しているのかまるでわからなかった。あの日、精神病院の救急車が、六本木ヒルズに出動した記録は無かった。調べてみてわかったことは、精神病院も例外なく、日本の救急車は白だということだった。黄色い救急車は日本に存在しないそうだ。呂井人もあちらへ戻ってしまったのだろうか。


 小学生時代の記憶を思い出してみる。蒔郎が崖から落ちる時、世界が歪んで見えた。あちらが近付いていたのだろうか。蒔郎の死体は発見されていない。蒔郎も帰ったのか。


 街並みの中に楽香の姿を求めてみるが、楽香の姿はどこにも無かった。マンホールの中から、髪の長い女性の死体がみつかったという話も聞かない。マクロには会えたのだろうか。


 僕は、警察に捕まることもなく、表彰されることもなく、ファイトマネーの残りでぼんやりとした日々を過ごした。もう一度病院にいってみたが、脳にも目にも障害はみつからなかった。目の中のハエはいまだにいるが、それでも特に問題はないようだ。静かにとどまっていて、暴れることはない。


 僕たちはこちらに来るとき、産道に迷い込み、使命を帯びて生まれてきたのだろうか。使命は全う出来たのだろうか。


 何かがぽっかり抜け落ちてしまったようだ。世界は何も変わらず、ただ淡々と流れてゆく。

 あの時、楽香と共に行くべきだったのだろうか。


 朝目覚めるといつも通りの天井が見えた。寝床から這い出し、台所でプロテインをジュースでとかして飲んだ。

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カナタへの蠅 裳下徹和 @neritetsu

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