第90話 あちらへ
「楽香大丈夫か」
返事はなかった。
「すまなかった。勘違いをしていた。お前を疑ってすまなかった」
僕の言葉は虚しく上滑りしていた。楽香には全く届いていなかった。
「やっぱりあちら側はあるのよ」
楽香がつぶやいた。目が輝いて、口元はほんの少し微笑みをたたえていた。そして夢遊病者のごとく、ふらふらと出口へと歩き始めた。
常波教授の死体を前に、警察に連絡すべきか、楽香を追うべきか迷った。僕は楽香を追った。
「どこに行くんだ」
「あちらへ」
そんなものはない。そう言葉が出かかったが、発することが出来なかった。あるのか? 実在するのか? 常波教授は、平地天回は、地下鉄事故の生き残りは何をみたのだ?
あるのかもしれない。何度も否定した考えがまた浮上してきた。足元が不安定になってきた気がする。
何かに引き寄せられるように僕らは歩いた。いつも歩いているような、何度もみたような景色。どこでもあって、どこでもないような景色。
夜がいやに青い。空気が東京ではないくらい、日本ではないくらい澄んでいた。
目の中のハエが大きく動き出した。僕の視界を縦横無尽に飛び回る。まるで踊っているようだ。
空間が歪んでいた。近付いている。あちら側が。
僕らは一枚のマンホールにたどり着いた。
マンホールの蓋はどこかで見たような模様だった。これは狭間竜樹の胸にあった刺青と同じ模様だ。あれは家紋ではなかった。
楽香が鍵を取り出した。マンホールの鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。かちりと大きな音がして、鍵が開いた。手でずらしてマンホールの蓋を開けた。中は黒に近い青が満ちていた。
頭がくらくらする。景色が歪んでいるのに、空に浮かぶ満月だけはやけに丸い。
僕らは目を見合わせた。楽香は月に照らされて白く輝いていた。とても美しかった。
楽香は軽く僕に頷くと、マンホールに吸い込まれていった。
音がしない。静寂が世界を包んでいた。
マンホールに入った。
中は暖かくも冷たくもない液体に満たされていた。それでも呼吸は出来た。まるで母親の胎内の中で、羊水に浸かっているようだった。
楽香が液体の中を漂いながら僕を待っていた。
まわりは何もなく、どこまでも透明な黒に近い青が広がっていた。とても静かで、僕達以外に動くものは感じられない。
(ここをずっと降りていけば、あちら側にたどり着ける)
声帯を振るわせるのではなく、別の方法で会話をしていた。
(行っちゃ駄目だ。そっちには行っちゃ駄目だ)
(何を言っているの。皆待っているわ。早く行こう)
あちら側の記憶が頭をよぎった。マクロ、ロイトの顔。美しい景色。法則の違う世界。この先にはあれが待っているのか?
(何故迷っているの? あなたのいるべき場所はあちら側でしょ)
楽香は何故あちら側に行きたがるのか。それはマクロが生きて待っていると信じているから。
(何やっているの。枢名が来ないなら。わたし一人でもいくわよ)
行くのか。戻るのか。
(行かないでくれ。俺と一緒に丸い世界で暮らそう)
僕の想いを精神に乗せて楽香へと渡した。
(俺は楽香のことが好きだ)
楽香は悲しそうな顔をした。とてもとても悲しそうな顔をした。
そして楽香は下へと降りていった。あちらへと。
僕は小さくなっていく楽香をずっと見つめていた。楽香の姿が、透明感のある黒に近い青の向こうへ消えていく。
戻ってきてくれ。振り向いてくれ。行かないでくれ。
僕の方を一度も振り返ることなく、楽香の姿は見えなくなった。
しばらくの間、そのまま漂っていた。
僕はゆっくりと上に戻った。
全身ずぶ濡れでマンホールから這い出た。外はどんよりとした空気が漂っていた。アスファルトに寝そべって空を見上げた。月は相変わらずまん丸のままだ。
立ち上がって水を吐いた。むせて何回も咳き込んだ。
咳が止まると、僕はずぶ濡れの服で歩き始めた。重力がやけに重かった。
ポケットの中の携帯電話が鳴り始めた。濡れた携帯電話を取り出し、通話ボタンを押した。
「枢名? わたしよ、楽香よ。あったよ。やっぱりあちら側はあったのよ」
電話はそこで切れた。ポケットに携帯電話を戻すと、僕はまた歩き始めた。
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