第89話 それでも地球は回っている

 実際にどれくらいの時間がかかったかはわからない。夜の大学へと到着した。

 校内はさすがに静かだった。バイクの走る音がやけに大きく感じた。ライトに照らされた人気の無い校舎が不気味だった。

 いつも仕事をしている建物の前でバイクを降りた。ドアはまだ開いていた。勢い良く開けて、薄暗い廊下を走った。のろまなエレベーターは上にいる。階段を三階まで駆け上がった。

 研究室にはまだ人がいた。僕の顔を見て驚いていた。

 常波教授はいない。教授室の明かりはつけたままで、いつも持ち歩いている鞄も置いたままだ。帰宅した様子ではない。どこかで休憩しているのだろうか。学食も売店もとっくに閉まっている。コンビニでも行ったのだろうか。それにしては長い。間に合わなかったのか。

 研究室を出て、廊下の窓から外を眺めた。暗い大学のキャンパスが広がっていた。

 呼んでいる。そんな気がした。階段を駆け下り、外に出た。空気がよどんでいる、息苦しい。

 暗い校舎の中を駆けていく人影が見えた。目を凝らして追いかけようとすると、最初の人影を追いかけるもう一つの姿が見えた。楽香だ。それはわかった。ということは逃げているのは常波教授だ。

 建物の向こうに消えてしまった二人を追って走った。前から広い校舎だと思っていたが、今日はその広さが恨めしかった。

 二人が消えた。しかし足音が聞こえる。くぐもった金属を踏み鳴らす音。上を見上げると非常階段を上る二人が見えた。


「待てっ!」


 叫んでから、階段に足をかけ、全速力で駆け上がった。

 階段の踊り場で、教授と楽香が対峙していた。


「楽香。待て。はやまるな」


「枢名。別に捕まえようとかじゃないの、私はただ聞きたいだけなの」


 切れ切れな息で、楽香は必死に喋っていた。


「とにかくもう罪を重ねるな」


 返事が返ってこなかった。

 常波教授が呼吸を大きく乱しながら目をむいていた。

 何かずれているような気がした。僕の考えていることと、僕の外の世界がかみ合っていないように感じた。


「枢名。危ない!」


 楽香の声が響いた。

 常波教授の手がこちらに迫っていた。手には闇夜に光る物体が握られていた。反射的にかわそうとしたが、わき腹に熱い痛みを感じた。そして、体制を崩し、階段の手すりから体が投げ出されてしまった。天地がひっくり返った。落ちてく中で、走馬灯のように記憶が甦った。筋力トレーニングをする常波教授。実年齢は意外と若く、力もある。人を殺し、マンホールに投げ込むことも可能だ。楽香が犯人ではなかった。境界の番人などいなかった。犯人は常波教授だったのだ。

 思ったより早く背中に衝撃を感じた。頭は打たなかったが呼吸が出来なくなった。意識はあるが、動けない。二人分の足音が聞こえた。楽香が逃げ、常波教授が追ったようだ。追いかけねば。頭はそう指令を送っているが、体が言うことをきかない。

 やっとのことで上半身を起こした。僕は車の屋根の上に落下していた。いつも邪魔だと思っていたアストロだ。おかげで落下距離が縮まったし、アスファルトに叩きつけられずに済んだ。ありがとう金持ち学生。

 車の屋根から飛び降り、足音が向かった方向へ走った。呼吸が苦しい。肋骨は無事のようだが、背中が突っ張る。ナイフがかすった脇腹もひりひりと痛む。触ってみると、血がぬるりと手にまとわりついた。

 楽香、疑ってすまなかった。信じてやれなくて悪かった。許してくれ。

 何故だ。何故常波教授が。僕が大きな勘違いをしていたことはわかったが、情報と情報がつながらず、頭の中でまとまりをみせない。とにかく、今重要なのは、何故ではなく、どうするかだ。頭は混乱したままだったが、とにかく足を動かした。


 二人を追っていくと、大学の敷地の端にある教会へとたどり着いた。大きな木製のドアを開けた。暗い建物の中から、人が動き回る音がする。僕は音のする方へ進んだ。

 聖堂にたどり着いた。古ぼけた灯りは闇を消し切れていなかった。ステンドグラスの中のイエスは微笑んでいるのか、悲しんでいるのか。大きなパイプオルガンは、奏者もいないのに、今にも賛美歌を演奏し始めそうだった。

 二人は木製の座席の向こうに、ステンドグラスを背景にして立っていた。息が乱れているのがわかる。まだ生きている。

 座席の間の通路を静かに歩いた。僕自身も息が乱れていたが、聖堂の中の空気を乱すと、事態が動き出してしまいそうで、無理矢理呼吸を静めながら歩いた。


「あなたが番人だったのね」


「違う。わたしは番人ではない。犯人だよ」


 動かさないでくれ。話を進めないでくれ。僕の手は、まだそこには届かない。目の中のハエも緊張してか身動きしなかった。


「地下鉄事故で何を見たの? どこにいったの?」


 常波教授の動きが止まった。


「お父さんは言ったわ、あちら側を見たって。別の世界を見たって。死ぬ直前にね」


 楽香が教授に一歩近付いた。僕も二人に近付いた。三人は三角を描いていた。


「わたしの中にはあちら側の記憶があるの。あなたにもあるでしょ。錯覚なんかじゃない。狂ってなんかいない。どんなに否定したって、目を背けたって、見た人達を殺したって、とにかくそれは存在するのよ。あなたの歩んできた道を、あなたの存在を否定するものではない。ただ受け入れれば良いのよ。」


 楽香の声が力強く響き渡った。

 常波教授が手にナイフを握り締めたまま、足を踏み出した。

 僕は教授に向かった。


「それでも…、それでも地球は回っているんだ」


 ナイフが一閃して、教授は自ら喉を切り裂いた。鮮血が噴きあがった。ゆっくりと仰向けに倒れていく教授。床にぶつかった音がやけにくぐもって聞こえた。

 楽香と二人、無言で死に行く人を見つめていた。

 ステンドグラスの中のイエスは何を思っているのだろうか。

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