金魚の恩返し

遼千 尹

透明な世界を泳ぐ赤と白の僕――

 この街は人が死んだ時だけ、不吉な風が吹くと言われている。何故、そう言われているのか分からない。ただ、五十年前にはもう語られていたらしい。ご主人が聞かせてくれたのに、全く理解が出来なくて悲しいな。


 僕は金魚。ただ、狭く薄いガラスの世界を泳いでいる。水草と酸素を供給するポンプだけの寂しいガラスの世界でもご主人と一緒にいられるなら、それはとても幸せな気分になれるんだ。だって、夏の縁日で僕を掬ってくれたご主人が僕の模様を綺麗だと言ってくれたのが、ずっと忘れられない思い出だから。


 ご主人は家と家族を失い、毎日の日銭を工場で稼いでいる。古い機械油と埃の匂いをさせて、物が乱雑に置かれた狭い部屋に僕とご主人、一人と一匹で住んでいる。何も出来ず、ただガラスの世界を泳ぐだけの僕に毎日、仕事で汚れた手で餌をくれる。いつも、ちぎったパンを入れながら、寂しそうな顔をしていた。


「ごめんな、今日もパンだよ」


 そう言って、ガラスを触る。僕が泳ぐこの狭く薄いガラスの世界は、ご主人の廃れた家業で作られたとても繊細なモノで、ちょっとしたことで割れてしまうらしい。それでも、綺麗な色と形は多くの人を魅了する。


 ある日、ご主人は気になる人の話を聞かせてくれた。その人は多くの求婚者に囲まれて、時折寂しそうな顔を見せる金持ちの一人娘。何不自由なく、身の周りをメイドがやってくれ、親に様々な物を与えられ、風吹かぬ街で人形のような扱いをされる彼女。大きな広場で、求婚者たちに毎日言い寄られていると。


 だけど、彼女は何事にも興味を持てないようだと。見たことのない物も、聞いたことのない音も、何もないらしい。朝と夕方に彼女を見守っているだけが楽しみだと笑いながら言う。


 次の日、僕に話しかけながら、ご主人は壊れた小型のラジオを直していた。広場に忘れていった彼女のラジオを届けに行ったら、彼女の求婚者たちに乱暴をされたと。その時、落として壊してしまったらしい。怒った彼女は求婚者たちを置いて、帰ってしまった。残された求婚者たちも追いかけていった。それで、ご主人は壊れたラジオを直すために持ち帰ったのだと。このラジオはジャンク放送を聞くために改造されていると言っていた。


「このラジオを彼女に渡してくるよ、待ってて」


 そう言い残し、ご主人は家を出ていった。残った僕は、ひたすらご主人の帰りを待っていた。どれだけの時間が過ぎた頃だろうか、小さな風が吹き込んて窓に吊るした風鈴を鳴らす。


 その音で――僕は分かってしまった。ご主人が死んでしまったと。僕は金魚、この狭く薄いガラスの世界でしか生きられない。どうか、ご主人に恩返しがしたい。だから、いるのか分からない神様にお願いをした。


『神様、どうかご主人が気にしていた彼女を僕が気にしてもいいですか』


 *


 ご主人と同じ姿になって、工場の行き帰りに彼女をただ見ている。毎日、朝と夕方の二回だけ。今は、それだけでいい。僕はご主人に恩返しをするために、大切なモノを代償として払った。ご主人がいつも言っていた、彼女に知らない音を聞かせること。これを叶えるために、慣れないことも我慢して頑張った。毎日、怒鳴られたり呆れられたりと、慣れない人間の身体でただ一つの目的に向かって、残された時間を生きていく。


 いつものように工場から帰る途中、広場で彼女が求婚者たちに襲われていた。僕は急いで、駆けつける。助けるためには、ちょっと危ないことをしないといけないけど、それで助けられるなら構わない。


「何をしてる!? 止めろ!!」


 そう叫ぶと、求婚者たちはわざとぶつかりながら、逃げていく。全く、何をしていたのやら。断られ続けてきたのが、腹に立ったんだろう。だからと、無理やりするのは犯罪だ。


「――大丈夫か!?」

「あなたの方こそ、大丈夫? ぶたれたりしなかった?」

「何を言ってるんだ、ケガは!?」

「私は大丈夫よ、これくらい」


 僕が心配して聞くと彼女はそう言って、気丈に振る舞う。僕は何も言えず、ただ脱いだ上着を掛ける。今の姿は、誰にも見せてはいけない。


「こういう目にあうのは、初めてではないから……」

「――……」

「私が死んだら、あなたの所に吹こうかしら」

「死ぬなんて、そんな事を言うなんて……」

「だって!!」


 僕の言葉に彼女は声を荒げる。死ぬなんて、軽々しく言ってほしくない。亡くなったご主人もやり残したことがたくさんある。それに、世界にはまだ知らないモノが溢れているから、それを見てもっと探せばいい。僕には出来ないことが、彼女には簡単に出来るのだから。


「だって、私には何も見えない。空も海も花も未来も希望も。このまま人形のように生きて、何の意味があるっていうの……!!」

「人魚! 聴いた事がないような音を聴かせたら、結婚してくれると言ってたね」


 思わず、彼女を抱いて言う。人魚。僕とは違う存在。ご主人には、彼女は人魚に見えていたのかな。僕には出来ない考え方で、見て暮らしてきた世界。毎日、ご主人が僕に聞かせてくれた彼女のことを。自分じゃ、彼女に相応しくないと言って。だから、僕が叶えてあげようと思った。初めて抱いた想いを秘めて、彼女の知るご主人を演じて会いに行く。気付かれないように祈りながら。


「それは僕にも適用してもらえるかな……?」

「――……。出来るものなら、やってみなさいよ」

「でも僕は、結婚はしてくれなくてもいい――」


ご主人が贈りたかったことを予想して、彼女の頬に手を添えて言う。答えは聞けないけど、おそらくは合っているはず。僕は真剣な表情で彼女を見た。


「――その代わり、もう2度と死にたいなんて言ってはだめだ。約束してくれ」


 彼女は驚いた表情で、僕を見上げていた。それに笑顔で返しながら、約束を言う。


「聴かせてあげるよ、必ず――……」


 *


 それから、彼女の聴いた事もないような音を用意するために、日夜仕事をして日銭を稼ぐ。


 ご主人の家業でもあったガラス工房。そこで作られていた、東方の国に伝わる風鈴というモノ。風が不吉だと言われている、この街では売れなかった綺麗なガラスの作品。紐につけられた札が風に吹かれると、先についているガラスの棒がガラスの傘にぶつかり、綺麗な音を響かせる。この風鈴の音なら、彼女もきっと聴いた事がないはず。だけど、一つだけじゃ足りない。もっと、たくさんあれば綺麗な音が生まれると信じて、僕は毎日駆けずり回った。


 その準備に手間とって、かなり遅くなってしまった。けれど、彼女に届いたはずだと思う。ただ、最後まで見届けられなくて残念だ。叶うなら、驚いた表情を見て逝きたかった。



『拝啓人魚様

 お元気ですか。

 少し時間がかかってしまいしたが、あなたを招待する準備が整いました。

 本当のことを話すと、僕はずっと前から君を知っていた。

 日銭を得る為に通う工場への坂道でみつけた君は、家業を守れず家族も失い金魚と暮らす僕にとって唯一の光だった。

 今度は僕が君に希望を還す番だ。地図を同封します。運転手に渡して下さい。

 それでは明日の午後4時、僕の家でお待ちしています』



 最後の準備をしておかなくては。モノを置いて、通り道を作っていく。部屋の天井には多くの風鈴が吊るされている。


 これで僕の恩返しはおしまい。後は、彼女が聴くだけである。何かが死んだ時だけ、この街に風が吹く。それが、人でも生き物でも。だから、僕が死んだ時に風となって、この部屋の風鈴を全部鳴らす。


 ああ、姿が薄れていく。彼女が近づいているのだろう。僕は金魚に戻り、狭く薄いガラスの世界で最期の時を待つ。


 彼女の声が聞こえる。そろそろ、部屋に近づく頃。その後を知ることなく、僕は死んだ。


 狭く薄いガラスの世界から、空へ泳ぐ僕を掬うご主人の手。会いたかった僕の好きなご主人。


『ごめんな、――。お前の恩返しは、確かに受け取った』


 ご主人、僕はとても幸せでした。あなたと過ごした日々は、大切な宝物です。僕の恩返しは、とても楽しい事でした。いつか、またご主人と一緒にいたいです。


『最後は一緒に、人魚に音を聞かせようか』



 ――なら聞かせてあげるよ、君に鮮やかな世界を。

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