美術館にて、ささやかな休日を
御手紙 葉
美術館にて、ささやかな休日を
僕はその美術館から出てきた瞬間に、何かを忘れたような気がした。それは当たり前にあったものが、突然心にぽっかりと空洞を開けたような、あるはずのものがないような違和感だった。立ち止まってその感覚をよく吟味してみる。何を忘れたのか、思い出そうとしたのだ。しかし決して僕は、忘れ物をした訳ではなかった。
それなら、意識的なものか、と思った。その日の僕は美術館で毎度やっていたことを何もやらなかったのだ。それは一体、何なのだろう? そう思ったが、やはり答えは出なかった。僕は深く息を吐き出してあきらめると、そっと歩き出した。そこでふと、横を通り過ぎた老夫婦が、「すごくいいわね、これ」と囁いているのが聞こえたのだ。
何気なく見ると、その夫婦は各々の手に小さな封筒を握っていた。そこに入っているものをわずかに抜き出しながら、見せ合っている。僕はやっと、その違和感の正体に気付いた。そうだ、今日はポストカードを買うのを忘れていたのだ。
この美術館で絵を見る度に気に入ったポストカードを一枚だけ買っていくのだ。二枚でもない、三枚でもない――、一枚でないとそれは駄目なのだ。それを今回は、全くと言っていいほどに失念していた。
その日の僕は出てくる頃には絵のことを忘れかけていた。ふとした瞬間に考え事をしながら、重い感情の渦に、取り込まれてしまっていた。
せっかく美術館に来たのに、勿体ないな……僕はそう思ってふと足を止めながら、そっと身を翻した。再び美術館へと入ったのだ。そして、チケットを買うと、額縁に入った絵の前へと進み出たのだ。
楽しい一時をもう一度、味わおうじゃないか。それは確かに馬鹿らしかったが、休みの日ぐらい好き勝手に好きなことをしながら、満喫したっていいじゃないか。そう思いながら、まばらな館内を歩いた。
少し勿体なくて、そして楽しまない方がもっともっと勿体ないのだ。贅沢な一日だが、僕にとってはこれぐらいが、ちょうど良かった。贅沢な一日、ということで、こんな日があってもいいんじゃないか? と思ったのだ。
美術館にて、ささやかな休日を 御手紙 葉 @otegamiyo
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