ぬかるみの人たち

【あらすじ】この街に暮らす乞食と娼婦は、時々、裏路地の片隅で寄り添いあう。





 まのいし松里は、古くから法外の地であるから、街並みが雑然としている。周到な都市計画に沿ってつくられたのではなく、あやしいものたちが勝手に棲みついて、ひしめきあってきた。

 盛り場に文化の華が咲くのは、古今東西の常である。まのいし松里にもそういう時代はあった。終戦直後には巨大な闇市としての顔もそなえていたし、ある時代には革命を志す学生たちの潜伏地であり、またある時代にはオタク文化が生まれ、消費される、日本有数の地であった。

 しかし、どんな季節にも、この街から女は消えなかった。そして、文化の風が過ぎ去ると、女たちだけが、かわらずに残っているのだ。

 そんな、この街に流れて来た時間を、雪奈は若いのによく知っている。

 コジたちから、昔話を聞くからだった。彼らは、家もなく、食いぶちもなく、世を追われてこの街のあちこちに、アスファルトの地面を寝床にして暮らしている。街の女たちが時々憐れんで渡す金で、なんとか生を繋いでいる。

 コジとは、もちろん乞食から来た呼称で、慣れ親しむうちに、この街のみんな、彼らをコジと総称するようになったのだ。

 雪奈が、コジたちと親しくなったきっかけは、一つのゲームセンターだった。

 ゲームセンターは、街の入り組んだ裏路地にある。しかしまあ、ゲームセンターとは言っても、扉も、壁もない。壁のないガレージとでもいうように、柱と空間があるだけだ。そこに、古めかしいゲーム台が並んでいる。

 天井はあるから、コジたちの幾人かは雨が降るとここにたむろする。そこに、ある日、まだこの街にやって来たばかりだった雪奈が、探索気分で訪れた。

 それからの仲である。

 今日は、仕事を終えると雨だったから、雪奈は立ち寄った。ゲームセンターは、コジだけでなく色んな店の女の子がくだを巻きにくる場所でもあるから、みんなに会いたいのもあったし、冬の雨に濡れながら帰るのは、身体が痛いほど寒い。

 もう朝の五時だが、細い雨の煙る空は、青く、薄暗い。

 いつも羽虫の飛び交っている韓国料理屋や、デリヘルの待機所が所狭しと並ぶ裏路地からだと、空は細長く切り取られている。ひびわれたアスファルトが音もなくそぼ降る雨粒に黒光りしている。

 ゲームセンターでは、やはり、十人ほどコジと女の子が、酒宴をひらいていた。

「あ。その人」

 雪奈もみんなにまじってカップ酒を飲みはじめ、酩酊にうつらうつらしていたが、急に、そう声を出した。

 コジの隆造がどこかから拾ってきて読んでいる朝刊を、隣から覗いたのだった。

「どないした」

 隆造が雪奈を振り返る。

 雪奈は、新聞に出ている男の顔写真を、眼を近付けて、じいっと見た。それから、書かれていることを読んだ。自分の母と妹を惨殺したとある。

「リュウ爺、あたし、この人と、この前寝た」

 信じられないというように、雪奈はぽかんとしながら呟いた。

 隆造は、雪奈の気がふれたように思うのか、怪訝そうに、

「雪ちゃん、寝たって、なんでな」

「なんでって、あたしのこと買ってくれた……」

「ああ、客かいの」

 隆造は納得するように頷く。

 二人の傍で、ライターでスルメを焼いて舐っていた、他のコジや女たちも、興味を示してきた。

 街娼のみちえが、隆造の手から新聞を取る。スルメを咥えた口に煙草も挟んで、いささかしゃべりづらそうに、

「へえ、結構色っぽい男じゃん。うち好き、こういう唇の尖った男」

「うん」

 雪奈はみちえの隣で、まだ男の写真を眺めながら頷く。

「やさしかった」

 そして、続けて、ふと思い出したように、こう言った。

「ああ、そういえば、人を殺してきたって言ってたなあ」

 みちえが、好奇心をたぎらせるように、眼を見開く。

「あんた、殺人した後のこいつと寝たの?」

「ええっと、そうみたい」

「なにそれ、すごいね。なのにやさしかったんだ」

 二人の会話に、コジの米夫が口を挟んだ。

「それにしても、殺してきたなんて、よう簡単に口割ったもんやな。見知らん女相手に」

 米夫は昔、暴力を生業にしていたという。だから、そういう心の機微にも通じているのかもしれない。

「殺しなんかしたらの、普通は言いたい相手にも言えんもんやで」

「そうなんだ……」

 雪奈は、酔いのまわった眼で、男を思い出そうとした。しかしうまくいかなかった。いくら殺人の告白をした変わった客でも、客は客で、そうおぼえていない。

 けれど、かろうじておぼえていることもあった。自分が殺してほしいと甘えたことと、男がその必要はない、お前は死んでいるようなものだと微笑んだことだった。雪奈は、今思い出しても、その言葉に慰められた。やさしい人だったように思えるのも、そのためかもしれない。

 隆造が、奪い返した新聞に目を落とし、言った。

「まあ大したもんじゃの。死ぬ前に女買いに来たなんか、粋やないか」

「死んじゃうの?」

 雪奈が聞くと、隆造はあっさり、

「まあ、せやろな。二人も、しかも身内殺しじゃ。自首したみたいじゃけど、どうやろな」

 と答えた。

「自首いうことは、この場合自殺じゃろ。自殺する前に女抱きにきたんじゃ。えらいもんや」

 隆造はそう言ってからもう一度、えらいもんや、としみじみもらした。

 雪奈は、また、慰められるようだった。きっと、笑って死んでくれると思えて、なんだか胸が温まる。一瞬でも自分のことを思い出してほしいと、淡い心も、ふっとわいた。

 みちえが、隆造につられてか、故郷の訛りをあらわに言う。

「そんなええ男なんやったら、うちのこと買うてくれたらよかったのに。うちも殺さしたったのに」

「あかんよ」

 雪奈も訛った。みちえは大阪で、隆造は広島で、雪奈は兵庫の生まれだから、微妙に言葉は違うのだが、つられてしまう。

 雪奈は、老いた女のように、静かに眉を下げた。

「あたしも殺してって言うたけど、殺しはらへんかったもん。死んでるみたいなもんやから、殺さんでいいって」

 ぽそぽそと、雪奈が慕わしくそう話すと、みんな、しんとした。

 少しして、誰か、女がぽそりと、

「いい人」

 と呟いた。隆造が頷いた。

「あほじゃの。まっぽに捕まらんでも、ここおったら、隠したったのに」

 その言葉も、雪奈はうれしかった。隆造が愛おしかった。

 静謐がうまれた。雨の音が、雪奈の耳に滲んできた。といっても、細い雨だから、さらさらと柔らかな音だけが漂っている。それを聞いているうちに、心地よい眠気が、雪奈のなかに広がりはじめる。

 雪奈は静かに、眼を閉じた。すると不意に、殺人者の男に黙祷を捧げようと、思いつきが浮かんだ。彼女は胸の前に手を合わせた。そして、胸のなかで、囁きを三度繰り返した。

 ありがとうございます。ありがとうございます。ありがとうございます。

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まのいし松里抄 しゃくさんしん @tanibayashi

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