夢の花
【あらすじ】女の夢を花に秘めて売る店があるという。花の匂いをかげば、女たちの夢が、男のなかに咲くという……。
街の者から〈辺境〉と呼ばれる、とある雑居ビルがある。その通称には、〈偏狂〉というふくみもあり、風変わりな店ばかりが潜んでいる。
『ねむり』も、その一つである。
女を知らぬ者しか、客となるのを許されない。
そして、女の身体ではなく、女の夢を売る。
この店をひらく老婆が、どこかから拾ってきた生娘を毎夜ぐっすりと眠らせて、その夢を白菊の花に沁みつける。そして、花を初心な男たちに売る。男たちが、その花の生き生きしい香りを眠る前にかげば、少女たちのみた夢を、彼らもみることができるのである。話したこともない少女の、無防備な魂にだけ、触れられるのだ。
一人の青年が、今夜はじめて、夢を買った。
彼は自宅に帰ると、すぐに寝支度をした。花の匂いを吸いこみ、枕元に活けておいて、眠りに入る。
見渡すかぎり野原が広がっている。小さな湖がある。一人の少女が、仰向けでぷかぷかと、心地よさそうに浮かんでいる。顔にはぼんやり薄靄がかかっていて表情が読み取れない。この夢の主だろうか。未成熟のほっそりとした身体は、ときおり水に浅く沈んで、また浮かぶ。白い肌は濡れて水滴が弾ける。空からふる日の光で明るんでいる。
青年は、湖が、彼女の幼い頃に死んだ父であると、知っていた。花の匂いは、夢の映像だけでなく、夢の心も教えてくれるらしかった。
「ねえ。パパ」
「どうした?」
「いい気持ちね」
「そうだね」
気まぐれに吹く静かな風は、野原の幼い草たちを撫で、湖の水面を微かに揺らす。
「あたしね、こうしてると、色んなこと忘れていくの。うれしいことも、かなしいことも、みんなみんな。とっても幸せなの」
彼女は、夢を売る幸福を言っていると、彼にも分かる。夢はきまって、花に移ると、少女の胸から消え去るのだ。そして、夢を男たちに明け渡すようになってから、いつのまにか、いくつもの思い出も消えている。
夢を失うとは、すべてを失うことなのかもしれない。
「いつか、パパのことだって、わすれるのかも」
少女は、安らかに微笑む。胸の奥がさらさらと清められて、なにもなくなるような、さみしい解放が、青年にもしみじみと響いた。
水面がふわりと波打った。まるで、少女の美しい黒髪を、そっと撫でるように。
湖は、水底まで、澄んでいた。
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