最後の検診

【あらすじ】この街を去ることがきまった、売春婦の沙織。まのいし松里の診療所の医師、省吾。沙織は、最後の定期検診を受ける。





 診察室の机上に置かれた、小さくて、可愛らしくラッピングされたアネモネの花束を、省吾はぼんやり眺めていた。天窓から差す春空の光で、色とりどりの花は生き生きと明るんでいる。

 この花束は、今朝の散歩の道中で、花屋の店先に見かけて、沙織に渡そうと思いつき、買ったものである。

 省吾が開くこの診療所と契約している、まのいし松里のとあるソープランドで働く沙織は、一か月に一度、定期検診にやって来る。

 しかし、売春婦をやめて、田舎に帰るらしい。

 今日に予約されているのが、彼女の最後の定期検診である。

 診療所を九時にあけてから、省吾は気がつけばこうして、椅子に深く沈んで色とりどりの花の鮮やかさを眺めている。

 沙織の来るのは、十一時半の予定だ。

 それまでに彼は何度、花びらを眺めながら、思い出を胸に描くのだろう。

 それだけ、沙織は、省吾にとって特別なのだった。

 彼は二十四で、まだ十六だった彼女に、出会った。まのいし松里の片隅に佇む、この診療所で、彼が勤めはじめたばかりの頃である。

 女たちの性感染症の検診と中絶手術だけでなんとかなりたっているような診療所で、彼が働く理由は、彼が、この家のただ一人の、跡継ぎであるからだった。彼の父で、三代目の、それなりに長い時を経てきた診療所である。

 彼は少年の頃より、この街の女たちを、見慣れている。検診に来て明るい診療室で股を広げる女や、堕胎後に気のふれたような泣き方をする女を、深入りすることはなくとも、日常の傍らにすっと見てきた。だから、なんの抵抗もなく、この診療所を継いだ。

 しかし、当然、ぬるい仕事ではなかった。

 なにせ、女たちのなかには、彼がランドセルを背負っていた頃から知る者もいる。また、そうでなくても、小さいながらも一応は病院の跡継ぎとして生まれ、形ばかりの反抗期と形ばかりの思春期を過ぎて、難なく生家の医者となった彼である。女たちから、明らかに、軽んじられた。彼女らにとっては、省吾なぞ、子どもも同然であった。

 省吾はその頃、ことあるごとに女たちに揶揄いを受け、立ち向かおうとすれば、その反応も嗤われた。秘部に診察の眼を注ぐ時、女たちから、誘惑的な言葉を冗談めかして投げられるのである。若かったせいもあって、彼は揶揄われれば、女の股をのぞくのは、やはり気恥ずかしかった。知らず知らずのうちに赤くなる顔を、また馬鹿にされたものだった。

 そうやって、省吾が新米の医者として四苦八苦していた時、沙織も、新米の売春婦として、彼の前にあらわれた。

 はじめの出会いは、働く前の検診だった。沙織の店では、客を取る前に検診を受けるように、義務付けているのである。

 彼女は、その日、制服姿であらわれたので、省吾は呆気に取られてしまった。考えてみれば、十六だから、おかしなことはないが、場と時にあまりに似つかわしくなかった。売春婦たちしか来ない診療所に、これから街に身を沈める女が検診に来たというのに、セーラー服の白は、目にしみるように清潔だった。

 こわばる沙織を寝かせて、診療をはじめて、省吾は再び驚いた。検診など必要がない。病のあるはずがない。なぜなら、無垢のしるしが、あったのである。

 見つけて、省吾は自分が何かおそろしいことをしているように思われてきた。抱くでもないのに、十六の少女の、蕾の奥を、まざまざと見てしまったのである。

 彼の恐怖が伝わったのか、沙織は、ほとんど声も立てずに、泣き出してしまった。省吾は咄嗟に、

「ごめんね」

 と、謝ってから、残酷だったろうかと思った。謝罪は、より一層彼女を踏み躙りはしなかったか。

 しかし、沙織は濡れた瞳で天井をじっと見上げて、気丈に言ったのだった。

「いいえ、先生。見られて、恥ずかしいところなんて、ありません」

 彼女の細い手が、捲れ上がったスカートを震えながら握っていた。

 それが出会いだった。

 お互いに、街の闇に馴染みはじめたのが同じ頃だというのもあって、今では、医者と患者というよりは、古い友人である。省吾が最初に気を許しえた、この街の女が、沙織であった。

 後に彼女自身が語って聞かせたことだが、この街に流れてきたわけというのは、ありがちな、貧しさとかではないらしかった。初恋の破綻が理由だと彼女は言った。詳しくは省吾も聞いたことはないが、秘かに想っていた相手に、玩具にさせられかけたという。

 愛情を捨てるために、身でも売って生きれば心が死んでくれるだろうかとやけになって、この街に来たらしい。沙織はその話をして、

「尼さんになるみたいなものかな。今の女は、こうやって出家するの」

 と笑った。

 冗談めかしていたから、省吾もその時には笑ったが、しかし、いくらか真実にも思えた。尼寺を囲む深い山河も、まのいし松里を虚飾するネオンの光彩も、女の魂を不感にするということでは、なにも違わない。

 省吾は、スカートを握り締める沙織の美しい手が、ふっと胸に浮かぶと、きまって一緒に、彼女が売春婦となった激しい動機も、思い出した。その心ゆえに、あの初めて出会った日の沙織の美は、あったのかもしれない。

 机の上の花束に、省吾はまたそういう回想に漂いながら、そういえばある時から、沙織が

 初恋の話をしなくなったことに、気がついた。

 はじめのうちは、語るのもつらいのか、詳しくは言わず仄めかしながらではあったが、折に触れてその怨みをもらしたものだった。それが、いつからか、全くない。

 彼女の心は、望み通り、凍死したのだろうか。

 彼女がこの街に来て、もう十年である。

 女の十六から二十六という時間には、大輪の花がひらき炎がふきあげるような、あまりに目まぐるしい移ろいがある。肉体も、精神も、ほとんど生まれ変わる。

 しかも、沙織はその麗しい日々を、愛のない男との夜に捨ててきたのだ。異常で、凄惨な、発育である。

 きっと、初恋の男だけでなく、多くのものを失っただろう。堕落したといってもいいかもしれない。

 その変化が、彼女としょっちゅう会うせいで、省吾には見えてこなかったに過ぎない。

 彼女の子どもを、三回殺し、そして結果的に、子の産めぬ身体にしたのは、省吾の手である。そのことについても、ほとんど何も考えてこなかった。いつだったか、不感かもしれないと、聞かされたことがあった。それも聞き過ごした。しかし、今更ながら考えてみれば、彼女の清らかだった身体は、子どももよろこびも失ったのだ。

 沙織も、自分も、この十年で多くを失った。省吾は、なにかやるせないものを吐き出すように、静かにため息をついた。

 その時、診療所の扉の開く音が聞こえた。

 診察室の扉の向こうの、待合室から、声がした。

「せんせえ、きましたよお」

 沙織だった。甘えるような口調である。

 そういえば、こんな風に馴れた口ぶりになったのも、いつからだろう、そんなことを考えながら、省吾は診察室の扉を開けた。


   〇


 省吾にある、別離のかなしみは、沙織にはほとんどないかのようであった。少なくとも、省吾はそれを見出さなかった。

 しかし、それも当然だと思えた。売春婦をやめるのである。かなしむ方がおかしい。

 それに、なにより、流れるような生き方のしみついた沙織が、いまさら人との別れに嘆くはずもない。

 彼女の普段と変わらない振る舞いで、省吾は自分のさっきまでの物思いが、とたんに馬鹿らしくなってきた。街を去る理由も、ずっと聞いてみたかったが、どうでもいいように思えた。

 花束を、省吾も驚くほどによろこんだ沙織は、それを胸に抱いたまま、内診台に仰向けになった。いつものように、甘えて下着を省吾に脱がせてもらいながら、花びらに顔を近づけて、すうっと匂いをかぐらしかった。

 血の薄い白い頬に、淡い赤の花びらが重なると、ふと、あどけなく見えた。潤いに欠けた、疲れたような肌で見えにくいが、そもそも沙織の顔つきは幼い。それが花の生命で浮き上がったわけだった。

 赤や紫や白のみずみずしい花びらと、白いが、底に澱みの流れる肌が、溶けあう。不可思議な美しさだった。明るい、静かな、生命だった。

 思いがけずあらわれた美のせいだろうか、それとも、沙織の検診は今日で最後だという思いのせいだろうか、彼女の身体が、かつてないほど生々しく、省吾の眼にせまってきた。

 いつからか女の身体に顔を赤らめるようなこともなくなり、ほとんど機械的に、見つめ、触れてきた、沙織の秘部である。それが、なぜか今、無味乾燥の診察の対象ではなく、誘い込むような女の肉体として、感じられてきたのだ。沙織が女であると、あらためて知ったかのようである。

 省吾は、女の秘部がいかに繊細かを知り尽くしているから、指に微かに起こる震えを、どうにか気取られぬように抑えて、診察をはじめた。

 省吾はすぐに、胸を打たれた。彼女の身体は、はじめに見たのと、ほとんど変わらず、神聖だったのである。

 おぼえているのは、出会ったばかりの頃に見ただけで、仕事に慣れて機械的に処理するようになってから見たのはどんなだったか、記憶にない。だから、彼にははじめと今しか比べようがない。

 しかし、今の沙織の身体は、十年という歳月を男たちに貪られたとも、血に濡れた死児が三人も流れ出たとも、信じられない清らかさであった。十年間のけがれは、すべてが幻のようであった。長くこの街にいる女ならば、当然のようにある、色の沈みもなかった。

 不感になり、不妊になったのに、ゆがんでいないというのは、崇高な不自然だ。

 そう思い、眼の裏のやわらかくしびれるような感動にひたりながら、省吾は診察を続けた。それは、もはや診察するというよりも、美を探し求めていた。

 そして、彼は、あるものを発見した。

 なにも変わらぬ秘部で、たった一つ、無垢のしるしだけが、失われていたのである。なにもかもが清潔なまま、純潔の心臓だけが、消え去っている。

 省吾の魂は戦慄した。彼女の身体の、最も美しい秘密に触れたようであった。

 沙織の身体は、もはや枯れ果ててしまったのだと思った。

 省吾には、彼女の身体が、美しい骸に見えた。不感であり、不妊である身体は、未成熟の少女だけのものではない。老いた女たちも、そうではないか。沙織の身体は、この街で、恋も、よろこびも、生命も失って、死んだのだ。

 省吾は沙織の秘部を眺めながら、なんと清らかな身体だろうと思った。沙織を買った男たちも、沙織から流れた死児たちも、みんな幸福のうちにある。そんな祈りのような心さえわいた。

「美しい身体だ」

 省吾は、言うともなく、自然と口を開いていた。

 すると、沙織は予想外の言葉に、眼をぽっかりと大きくした。危ういほどに白い肌が、みるみるうちに、首のあたりまで薄く染まった。

「先生ったら、真面目な顔で、冗談言わないで」

 沙織は、細く呟いた。

 そして、胸に抱いていた鮮やかな花束で、はにかむ顔を、さっと隠した。

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