花街でうまれた女

【あらすじ】まのいし松里に生まれて、娼婦たちを母として慕い育った十四歳の朱音。ある日彼女は、親友の恋人である少年に、キスをしようと誘われる。花街のけがれは、女になりつつ朱音を、どのように彩るのか。





 朱音は、まのいし松里の寿司屋の娘である。

 この街には、昔ながらの遊郭が、かつての佇まいのまま建ち並ぶ界隈があり、その片隅に、寿司屋はある。女たちが幾世代にもわたって身を売り、街を去り、ある者は野垂れ死んだ、その永い年月を、この店は眺めてきた。建て替えをしたことのない古い店だから、遊郭と同じく、汚辱を受けたように色褪せている。

 客は、街に来た男か、それに連れられた女だけである。土地柄でもあるが、それだけで十分に店が成り立つので、どこかへビラをまいたりすることもなく、そのせいでこの街の、それも遊郭の界隈でしか知られぬ現状があるのかもしれない。

 仕出しの注文があれば、遊郭へ、配達もする。客が女と食うために頼むこともあれば、女たちの夕餉でもある。ここらの遊郭は、かつて、非合法でうまれたこともあって、長屋風の狭いつくりの家が多く、ろくな台所もないところがほとんどなのだ。

 寿司を、歩いて届けるのは、朱音の五歳の頃からの仕事である。父ひとり、娘ひとりの家だから、物心ついた頃から、家の仕事は朱音の生活そのものだった。

 朱音は、遊女たちや、路上に立って客引きをする婆やたちから、可愛がられて育った。

 父の他に身内のない彼女は、遊女を母のように、婆やを真実の祖母のように慕った。

 婆やは、子や孫がいても可愛がれぬ境遇であるし、遊女たちも、家庭などというものから切り離した身のせつなさで、朱音を愛玩した。みんな、美しいぬいぐるみのように、朱音を可愛がったのである。愛するというよりは、甘やかしたのである。

 朱音は、気やすい、無条件のやさしさに抱かれ、それを無垢に受け入れて育った。本当の母ではないという、さわやかなたよりなさは、かえって、朱音の甘えを深くした。どれだけ甘えても、底まで通じ合えない。肉親のまがまがしい愛憎もない。そういう安堵から、朱音は、女たちに、身体いっぱい甘えられた。彼女が生い立ちのわりにあどけなく、クラスメイトたちからすらも子どものように扱われるのは、そのためであった。

 朱音の母が、この街で遊女であったことは、誰もが黙っている。

 母は、身を売って生きてきた傷で、夫や娘を愛することができなかった。不感となった自らの心を憂いて、まだ幼かった朱音の眠る部屋で、首を吊った。朱音の、一歳の誕生日のことだった。そのことを唯一知る父も、朱音に、なにも教えていない。

 朱音は、この淫らな街で、悲惨な死を遂げた母から、産まれた。そして、なにも知らぬまま大きくなった。

 いまや、子どもと女の結び目というべき、十四歳である。

 彼女は、この街の奇跡のように、清冽な少女に育った。


   〇


 時代錯誤の提灯で、街が赤々と華やぐ初夏の夕刻、朱音は今夜一度目の配達で、店を出た。

 路地に立って客を引く婆やたちが、

「朱音ちゃん、お疲れさん」

 と声をかけるのに応えて、

「うん、すみれのおばちゃんも、お疲れさま」

 とか、

「桃屋のおばちゃんもお疲れさま」

 と、躍るようにあちこちへ大きな眼をやりながら、朱音は歩いて行く。一人の少女が、街には不似合いの清廉なセーラー服姿で、婆やたちと親しげに挨拶を交わして過ぎて行く。男たちは、それを、怪訝そうに眺めた。

 婆やたちは、名乗りたがらない者が多いから、朱音はかわりに店の名前で彼女らを呼ぶのである。

 過去には遊女として響かせた芸名も、もはや持たず、しかしこの街では心の慣れとして本名は忍ばれるのだろうか。

 そんな風に朱音は考えたことがあったが、答えは出なかった。

 この街の者たちと長く交わりながら、しかしみんな朱音を汚濁に染めぬようにと、あまり多くを語らない。朱音も、そういう近くて遠い関わりに、幼い頃から慣れて、問い質したりしない。

 今夜の朱音は、みんなに気取られぬように心がけながら、いつもより早足であった。

 片手に寿司盆を、そして胸中に、恋にまつわる悩みを、持て余しているのである。足が急ぐのは、配達を持っていく葵という家の、由梨という遊女に、それを打ち明けたいがためであった。

 誰にも打ち明けずにいられるならそうしたい、恋の話を、彼女が由梨にのみ打ち明けるのは、由梨が過去の多い女だと、薄ら他の女たちから伝え聞いたことがあるからだった。

 そういうことを、隠そうとはしても、しかし言葉の裏に滲んでしまうこともある。朱音も、いつしかそれを聞き逃さない歳になっているし、今夜は、そういう女にこそ秘密を打ち明けてみようという企みさえ抱くのだ。

 葵の二階の一間で、由梨は煙草を吸いながら漫画を読んでいた。

 朱音が戸を引いて入ると、由梨は漫画から目を離さず、はだけた薄紅の浴衣もなおさないで、

「ああ、朱音ちゃん。ありがとお」

 と、ぼんやり言った。

「由梨姉、それなに読んでるの?」

 朱音がそう言いながら、机の上に盆を置いて、醤油皿と箸まで用意してやると、由梨はやっと身を起こした。

「しらない」

 由梨ははやくも箸を握り、漫画を畳に置いた。朱音がそれを拾い上げる。

「しらないって、しらないで読んでたの?」

「うん。お客さんが置いてったのよ」

「漫画を? しかもこれ、少女漫画じゃん」

「変な人よね」

 由梨は、ひとごとのように気のない返事をして、寿司を食べ始めた。それを傍目に、朱音は、例の相談をどう切り出すものかと迷いながら、なんとなく漫画を開いてみた。

 ちょうど、男女の接吻の場面が、開かれた。

 朱音は、これだ、と思い、すぐに由梨にそのページを見せた。

「見て、これ」

「なあに?」

 寿司を頬張りながら、由梨がちらと目をやる。

「それがどうしたの。興奮したの?」

「もう、ばか」

「ふふ、冗談よ。でも、それがなんなの」

「あのね」

 朱音は、少し息をついてから、開いたページを指して、言った。

「クラスの男の子とね、明日、これするの」

 一瞬の沈黙の後、由梨が、ぷっとふきだした。

「なによ、その宣言は」

「宣言じゃないよ」

 朱音は、薄い肌を赤く染めながら、強がるのか、由梨と同じように笑って見せた。

「今日ね、その子に言われたの。明日、キスしようって。朝の学校で、誰もいないうちに」

 それから、朱音は、今日一日じゅう胸に抱えてきた秘密を、たどたどしく話し始めた。

 その少年とは、朱音の親友である伊織の、はじめての恋人である。

 朱音と伊織は、いつも手を繋ぎながら歩いているような仲の良さで、女どうしの恋ではないかとからかわれるほどである。そんな相手の男であるから、朱音は、彼を怨むような想いを抱いたことも、ないではない。恋のよろこびをいまだ知らない少女には、親友の恋人は、友情の敵であろう。

 少年にとって、朱音がどんな存在であるか、そんなことは朱音には分からない。

 ただ、真実なのは、今朝登校すると教室には偶然その少年しかおらず、なんということはない話をしていると、突然彼が朱音の細い肩を抱き、顔を寄せたということだった。朱音が咄嗟に身を翻すと、彼は真剣な表情で、明日こそはと、誘ってきたのだった。

 朱音の相談とは、つまり、キスするべきか、どうか、ということだった。それはほとんど、して許されるのか、どうか、と言うのと同意であろう。

 しかし、そういう自分の本心には、彼女は気付かなかった。少女の清潔が、自分のなかに、そのような疼きを、発見できないようにしていた。

 朱音は、話すうちに何度もキスという言葉を口にするのがこそばゆく、赤らめた肌を、いっそう鮮やかにした。ようよう話し終えて、こころもち俯くその顔を、由梨は微笑みながら眺める。

「やっぱり朱音ちゃんはもてるんだねえ」

 朱音の顔に、ますます恥じらいの色が出た。由梨がくすくす笑うので、朱音は、わざと照れさせて、からかっているのだと気付いた。

「まじめに聞いてよ。人が相談してるのに」

 いじけるような、鋭い声音が、朱音の口から飛び出た。

 実際、朱音には、重大なことであった。

 少女の接吻など、ありふれたことである。また、その相手が親友の恋人であるというのも、悲劇などではなく、喜劇にすらならない。接吻なんてものが、愛情の枝葉ほどの意味も持たない、ただ好奇心ばかりの溢れる年頃のことである。浮気という言葉にもあたらない。そもそも、伊織と少年の交際だって、児戯にすぎぬであろう。

 しかし、箸が転ぶだけで笑い、自分の身体の発育に未来の夜を想う、多感な時期を生きる朱音には、重すぎることなのだ。肌を桜色にしながらも、打ち明けねばならないほどに。

 朱音の、切実な様子に、由梨は微笑みを抑えた。胸の内では、より深い、よりあたたかい微笑みを浮かべたかもしれない。今のように堕落するずっと前の、清らかだったころの自分を想って――。

「朱音ちゃんさ」

 彼女が、ふざけるふうではなく、口を開いた。朱音は、横へ向けていた顔を、誘われるように戻す。

「その男の子とキスするって、もう決めてるんでしょ」

 思いががけない言葉に、朱音は、息をのんだ。そして、すぐ、必死に打ち消すようにぶんぶんとかぶりを振った。

「ちがうよ! だって、伊織の彼氏だもん」

 由梨は、朱音の激しさをなだめるような、静かなやわらかさで答える。

「でも、朱音ちゃんね、さっき、わたしに言ったじゃない。その漫画見せながらさ、明日クラスの男の子とキスするんだって」

 朱音は、はっとした。反論しようにも、由梨の口ぶりが、せめるようでも、追いつめるようでもないので、はばかられた。

 由梨は重ねて、

「朱音ちゃんは、もう、その子とキスするって決めてるんだよ。わたしに相談なんて、しなくていいの」

 相談なんて必要ないと言われて、朱音は、もう言葉がなかった。

 黙り込んで、しかし少ししてから、それでも聞きたいことがあるというように、朱音はぽそぽそと言葉をもらした。

「でもね、由梨姉。わたし、はじめてなのに、いいのかな……伊織の彼氏としちゃって」

 聞きようによっては、悪魔の言葉である。親友への心を捨てる罪を忘れて、自己の美しさを守るようである。

 しかし、彼女は続けてこう言った。

「伊織、いつもあの人との話ばっかりしてるのに……」

 それは、まぎれもなく、朱音の純粋の言葉だった。

 朱音は、自分の唇の潤いが、けがれることを怖れるのではない。その初々しい唇に色彩を与える、少年の唇が、親友の愛によって潤っていることに、たじろぐのだ。

 少年へ与えられた、親友の愛を、かすめとるようで、朱音は心がいたむ。朱音は、愛を与え合うことで人は光を与るのだと、少女心で、漠然と信仰している。だから、二人が育んだ生命の泉で、路傍の自分が口を潤すのは、なによりの罪のように思えるのだった。

 不安がる朱音に、由梨がまたなにか言葉をかけてあげようとした。

 その時、不意に、窓の外から声がした。

「由梨、お客さんだよ」

 葵の婆やの声だった。

 由梨は、はっとしたように、がらりと窓を開けて、

「はあい。ちょっと待ってえ」

 と返し、素早く、浴衣の裾をなおす。そして、唇に軽くティッシュを押し当てて、部屋の片隅に転がっていた消毒液の容器を手に取った。

 朱音も、慣れた手つきで慌ただしく机の上を片付けて、空になった盆を持ち、立ち上がった。

「じゃあ、行くね。由梨姉、ほんとにありがと。すっきりした」

 靄のかかったような面持ちのまま、そう言って、部屋を立ち去ろうとす朱音に、

「待って」

 と由梨は声をかけた。

「あのね、わたしは、キスしていいとおもうよ」

「え?」

 ぱっと、顔を仄かに華やがせた朱音に、由梨はうなずいた。

「キスなんて、なんでもないことよ」

 やさしく、素っ気なく、そう言ってから、由梨は口紅をさっと塗り直して立ち上がり、窓の外へ顔をつき出した。そして、下で待つ客の男にむかって、さっきまでと別人のように、艶めかしい声を出す。

「おいでなんし。早くあがってきてちょうだい」

 朱音は、由梨の言葉や、あがってきてからのことには、顔を赤らめたりしない。乳吞児の頃より慣れ親しんだ風景である。

「じゃあね。またくる」

 湯路の背中に、軽い挨拶をかけて、朱音は部屋を出た。階段で、客の男とすれ違っても恥じらうようことなく、勝手口を出た。

 そして、裏道に出た朱音は、何気なく、部屋を振り返ってみたのだった。すると、明かりがはやくも、豆電球の微光に変わっていた。

 キスなんて、なんでもないという、由梨の言葉が、胸に浮かんできた。

 朱音は、スキップして、家に帰った。

 提灯の、毒っぽい光彩が溢れる街に、制服のスカートの紺色が、ひらひらと走っていく。


   〇


 もじもじして、教室を去っていく少年の後ろ姿を、朱音はぼんやり見送った。

 あっけないものだったと、彼女は思った。キスなんてなんでもないという言葉に、浮足立っていたことすら、可笑しいような気がした。

 窓の向こうが快晴だから、影が濃いように見える教室の真ん中で、少年は自分から誘ってきたくせに、無口に立ちすくんでいたのだった。しょうがないから、朱音から、餌をついばむ小鳥のように首を伸ばして、接吻をした。強張る心はなかった。好奇心が勝っていた。

 しかし、してみると、本当になんでもなかった。肌と肌の触れあう感触があるばかりだった。朱音は、無感動なのが不思議で、もう一度してみた。やはり、なんでもなかった。

 三度目は、少年にかわされた。女のように、紅い頬をしていた。

「なんだか、つまんないね」

 朱音が、爽やかに笑いながら口走った言葉に、少年の答えはなかった。

 少年はしばらく黙ったまま、教室を去った。

 ひとりになった朱音は、張り合いのぬけた感じがして、そばの机に腰かけた。そして、手持無沙汰で、なんとなく、さっき少年の唇と触れた、自分の唇に指を滑らせた。

 初心な純真を失うほどにもなかった、淡いキスを想いながら、朱音は、そういえば、とひとり胸に呟いた。――そういえば、キスをしたけれど、唇と唇のほかに、どこにも触れていない。指はお互いの唇の感触を知らないし、それより深い場所なんて、触れるどころでもなかった。

 連想は、遊女たちに可愛がられて育つうちに、しらずしらず彼女の倫理が常人と離れているあかしだろう。はじめての接吻に無感動なのもそうだが、相手の匂いの忘れぬうちに、そういえば肌はどこも触れていないなどとは、並みの少女なら考えない。

 どれだけ、女たちが朱音に自らの翳を染み込ませぬように気をつけようと、昔から腕に抱かれ、髪を梳かれるような近しさでは、とても無理なことである。

 しかし、朱音がそう連想しながらも、妖しい熱を身体におこさないのは、彼女がまだ少女だからであった。

 まだ、女たちの蠢く街の色彩に、染まりきってはいない。接吻に、子どもらしい好奇心しか働かせぬような純粋さでは、染まりきる素地がない。開いた花弁は光を透かすが、蕾は閉じたままなのと同じことだ。彼女を取り囲む汚辱の波は、せいぜい、倫理を狂わせる程度のことしができないのである。

 朱音の危うい連想は、だから、清純だった。

 愛を知らないから、親友の恋人と接吻をしても、魂の純潔は少したりとも傷つかなかった。

 接吻で愛が芽生えないのは、愛なく交わる男と女を、見慣れているからだとも言えた。

 つまり、花街で育ったことが、朱音を清らかにしたわけだった。

 そんな美しい矛盾に、朱音はもちろん気付いていない。

 彼女は、光のおぼろげな教室に佇んで、接吻をした自分の唇を、物珍しそうに撫でていた。

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