第207話 次代



 深い眠りは、遠い天から地へ滴が落ちていくようにも思えた。

 丁寧に濾されて生まれる滴が、ぽたりと音を立てる。

 しばらく間を置いて、またぽたり。

 光をわずかに含んだその滴は、やがて純白の石筍を生む。

 その丸みを帯びた頂きに、また新たな雫が落ちる。

 ――そういう夢を、見た。



                 ※



 目を覚ますと、主の間は既に明るかった。

 サァリはぼんやりとした意識で隣を見る。

 そこには珍しく、彼女の夫がまだ眠っていた。昔は彼女よりも早く目覚めていなくなってしまうことの方が多かったが、仕事がないせいかもしれない。

 じっとその顔を見ていたサァリは、不意に不安になって体を起こした。

「え、死んで……ないよね……?」

 夫の肉体は、紆余曲折の末に彼女の同族から人間に戻ったのだ。まさかとは思うが、致死量を超えて生気を吸い上げてしまったのではないか。

 不安になってそっと首に触れてみると、ちゃんと脈がある。サァリは深い安堵の息を漏らした。

 そのまま彼を起こさぬように、胸の上に顔を横にして埋める。心地よい心音を聞きながら目を閉じる。


 同じものが自分の内にもある。

 まるで不思議にも思えるが、きっとこれは必然だ。

 だからもう一つのことも――



「サァリーディ?」


 頭の上にかかった声に、サァリは飛び起きそうになった。

 だがもう大人なので、ゆっくり顔を上げるに留める。

 髪を下ろしている彼女と目が合った夫は、何か言いかけて、けれどすぐに視線を逸らす。何を言いかけたのかは分かるし、何故目を逸らされるのも、サァリには手に取るようにわかる。彼はそういう人間だからだ。

 だから彼女は体を起こすと、何を言うより先に顔を寄せて夫に口付けた。

 ついばんだ唇が離れると、彼は赤くなった顔を片手で隠す。


「サァリーディ……何か言ってくれ……」

「言っていいの? 昨日の夜のこととか?」

「言わないでくれ……すまなかった……」

「謝るようなことないのに」


 そういう夫を篭絡するのも好きなのだから気にする必要はない。

 ただあまりやりすぎると彼が申し訳なさですり減ってしまうだろう。何事もほどほどにしなければ。

 それに――他のことでも彼を傷つけさせることは二度とない。


「大丈夫。私がちゃんとするから」


 人である彼と契った。

 それは、彼がサァリの約定の楔になったということだ。

 つまり彼からは「何にも属していない人間」という属性が失われた。

 地の底で、あの神を封じた刃が綻んだのは、そのせいだろう。

 神が約定を結ぶのは人間だけだ。神と繋がっている人間は、神の眷属となり純粋な人間の枠には当てはまらない……ということだろうか。

 なら、あれを打ち払うのは自分の役目だろう。


 顔を隠していたシシュは、妻の言葉に眉を寄せた。


「サァリーディ? どういうことだ?」

「何でもない。ゆっくり寝てていいよ」

「待て。その感じは何かあるだろう」

「ないってば!」

「サァリーディ、駄目だ」


 話を打ち切って逃げようとしたサァリの腰に、腕が回される。

 二十五年の間に「妻から目を離すとまずい」と相当身に染みたのか、彼は真剣なまなざしでサァリを見据える。


「何かあるだろう、ちゃんと言うんだ」

「う、いつもと逆……」

「サァリーディ」


 彼の呼ぶ真名に、魂が震える。

 痺れるような甘さは、彼女が抱える約定だ。

 この繋がりのために彼女は人の世にいる。人との営みを愛する。

 サァリは夫の腕をすりぬけられないと分かると、諦めて息をついた。


「あなたが根の神に差してきた刀、多分抜かれました」

「……ああ」


 人間となった彼が、己の命を賭して打った楔が抜かれた。

 シシュはそれで全てを悟ったらしく、サァリから手を離すと体を起こす。


「分かった。すぐに支度しよう」

「早い」


 相も変わらず、彼は最前線で戦う気でいるのだ。

 その迷いのなさに惚れ惚れする。シシュは眉を寄せて彼女を見た。


「時間を置いてもよくないだろう」

「んー、普通にしてたら私がいる限り地上まで上がって来られないよ。前回も私と人間の約定が綻んだから、そこを突かれたわけだし」

「ああ、あれはそういうことだったのか」

「そう」


 ただだからと言って向こうも大人しくはしていないだろう。

 以前ぼんやり地上に興味を持っていた時とは違う。サァリとシシュは、いわば神の興味を正面から跳ねのけたのだ。何らかの反発心を抱かれていてもおかしくはない。


「だから、ちゃんと準備してから殺しに行こう」


 二度同じことはさせない。

 否、一度で充分だ。あの神はいわば、サァリと同様にシシュを殺したも同然なのだから。その贖いをさせねば。


 戦意にきらきらと目を輝かせる妻をシシュは驚いて見ていたが、重く頷く。


「分かった。ちゃんと守る」

「あと、自分の役目は終わったから死んでもいいとか思わないでね!」

「分かった」


 反射で答えたらしいシシュは、少しの間の後聞き返した。


「終わった?」


 心当たりがないらしい彼に、サァリはふっと微笑む。

 美しい顔を彼に寄せて囁いた。


「旦那様、わたくしの胎には御子がいますわ」


 夢で見た。

 新しいものが、力が、存在が築かれていくところを。

 客取りの儀において、人間と交わって神は次の神を得る。

 その条件を、サァリはようやく満たしたのだ。


「それは……」


 呆然としてしまったシシュは、我に返ると妻をじっと見つめる。

 たっぷり数秒の間のあと、その白い頬に触れた。


「ならなおさら、あなたを守らねばな」

「自分も守って!」

「分かっている」


 いつになく迷いのなさを込めて返す彼を、サァリは意外に思う。

 以前の彼ならてっきり「なら自分はもういいか」などと言い出しかねないと思っていたのだ。

 けれどシシュは、頬に触れた手で妻の銀髪を梳くと言った。


「一人にはしない。ちゃんと傍にいる」


 彼女のために。彼女が生む子を守り育てるために。

 言外のそんな思いを込めて、彼は約束する。


「これは……嬉しいな。サァリーディ」


 そう言って彼が珍しく笑ったので、サァリは夫に見惚れてしまった。




                 ※



「あ、私とあなたの子供だけど、ミリヤみたいに育つとは限らないからね!」

「そういうのは巫の育て方が影響するんじゃないだろうか……」

「信用してないみたいに言うのやめて!」

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