第206話 結
魂とは不思議なものだと思う。
肉体よりも後に残り、肉体を動かすにも要るもの。そこには記憶がこびりついており、それら全てで人を形成する。
だから、欠けてしまうとどこかにも欠けが生ずる。それだけのことだ。
「確かに、ところどころ記憶の欠落がある、みたいだ」
『拾えなかった魂に付随していたものでしょう。すみません』
「謝ることじゃない。むしろ拾ってくれてありがとう」
街を行きながら、シシュは足元をついてくる黒蛇に言う。
氷漬けから解かれたアイリーデは、往時よりもずっと静かだ。住人が減ったことと客がいないことがその理由だろう。
けれどそれは決して寂れてしまったという訳ではない。街は再び動き出す支度をしている。
人の通りがほとんどない街並みで、多くの建物が窓を開け放っていることがその証左だろう。中からは人が働いている気配がしている。街を開く準備をしているのだ。
玄関を開け放ち、掃除をしていた茶屋の女将がシシュに気づいて声を上げた。
「化生斬りさん! ああ、いや、神供さんか。戻ったのかい!」
「化生斬りで構わないんだが」
この街の人間は、彼が人ではなかったことを知っている。
だがシシュが戻ったことは知らなかったのだろう。トーマ曰く「サァリが厳重に囲っていたから」ということらしい。月白の館から外に移り住んだ時も、昼だというのに提灯を提げた下女に案内されて、誰一人他の人間には会わなかった。サァリが何かをしていたに違いない。
そのサァリは、兄と共に先に月白に戻っている。簡単にではあるが、シシュの肉体が巻き戻ったため客取りの儀をやり直さねばならないらしく、準備をしているのだ。
準備の間シシュは「街を見たい」と言って、蛇とミリヤとアイリーデの街を歩いている。自分の体がどこまで動くのか確認したかったし、何より自分がこの街を見たかった。この街を時の流れから切り離してしまったのは、他でもない自分だからだ。
女将の声が聞こえたのか、あちこちの建物から人がばらばらと出てくる。シシュはあっという間に街の人間たちに囲まれてしまった。どう謝罪するのがふさわしいか逡巡している間に、女将が声をかけてくる。
「まさか二十五年も経ったなんてねえ」
「一人で苦労をさせちまったなあ」
「お疲れさん。大変だったねえ。ありがとう」
「あ、いや……」
自分は、謝罪こそすれ礼を言われる立場ではない、と思う。
困惑するシシュに、老いた女が苦笑する。
「あなたさんは、この神話の街を姫さんごと守ってくださったんですよ。感謝申し上げます」
「…………」
じんわりと、実感が湧いてくる。
アイリーデに残ったのはいずれも、この街を選んだ人間たちだ。
だからこうして彼らにもう一度会えたことは……きっと彼らの期待に応えられた、のだと思う。
シシュはそうのみこむと、深々と頭を下げる。
「こちらこそ長い間待って頂き感謝する。おかげで妻を一人にしないで済んだ」
丁寧な、無骨な挨拶に、街の人間たちは目を丸くする。
女将がぱん、と彼の背を叩いた。
「やだねえ、化生斬りさん、水臭い。わたしたちはみんな、姫さんが淋しくないようにここにいるんですよ」
※
街をぐるりと回って、各所でかけられたのはそんな労いの声ばかりだ。
一方シシュが自分から探したのはタギで、タギはニド・ファサの話を聞くなり「もう縁を切ったからいいんだよ。あの懐剣も捨てちまっていい」と吐き捨てた。「早く子供を産ませてお嬢を大人しくさせろ」と付け加えられたのは、当然と言えば当然かもしれない。
タギと分かれると、他の人間には見えないミリヤがくすくすと笑う。
「母様一人だけだと、また何かあった時に困っちゃうもんね」
「そう言われても、サァリーディのせいじゃないんだが」
『今代の白月は一人でもなんとかできてしまうので、一人じゃない方がいいのですよ』
まるで言葉遊びのようだが、少し前のサァリを思い出すと言わんとすることは分かる。
彼女は、あまりにも完璧なのだ。
けれどそれは彼女自身の孤立へと繋がる。一人で何もかもを負おうとしてしまう。
だからシシュはそれをさせてはならないのだ。彼は、彼女が選んだただ一人の伴侶なのだから。
月白に続く雑木林に足を踏み入れた頃には、日が軽く落ちかけていた。
シシュは、ミリヤが足を止めたことに気づいて振り返る。
黒髪の少女はひらひらと手を振った。
「わたしはここまでかな、父様」
「……そうなのか」
それが「月白にはついていかない」という意味ではないのは分かる。冬の巫である別の世界の彼女が手助けしてくれるのは、今の時点までであり、ここが別れの時なのだ。
シシュは未来の娘だと名乗る少女に向き合うと、頭を下げた。
「ありがとう。おかげで助かった」
「いいんですー。当然のことだしね。――ああでも父様、ここからは気を付けて。わたしの来た世界とずれていく可能性が高いから」
「ずれていく?」
「健闘をお祈りしまーす! 大好きだよ、父様」
シシュの質問に答えぬまま、ミリヤの姿はふっと消える。
その気ままさはサァリと母娘だと言われたら納得するものだ。
黒蛇が首をもたげる。
『言ったでしょう。吉兆のおみくじのようなものだと』
「そう言えばそうだった」
いつかの将来、彼女であり彼女でない娘を腕に抱くことがあるのだろうか。
何とも言えない実感のなさを抱いたまま、シシュは月白の門前に立つ。黒蛇がくるりととぐろを巻いた。
『わたしは中には入れないので。結界があります』
「ああ、そうなのか」
言われてみれば、この黒蛇はサァリの力によって地下に封じられていた神の残滓なのだ。長く共にい過ぎてすっかり忘れていた。
彼が黒蛇の前にしゃがみこんだ時、玄関の方から声がかかる。
「――シシュ」
その声に彼は驚く。相手が他でもない妻だったからだ。
客取りの儀だというから、てっきり主の間で待っているのかと思っていた。
真白い引き振袖姿のサァリは、艶やかな銀髪を下ろして牡丹の髪飾りをしている。赤い牡丹に見覚えがあるシシュは目を丸くした。
「それは……」
「祖母の形見なの」
サァリは微笑すると足音をさせず彼らのところにまで来る。黒蛇を見下ろす青い目が細められた。
「……ありがとう。あなたのおかげで助かりました」
『礼は不要です。わたしは、あなたという存在に焦がれているのですよ』
「それでも、お礼は言うわ。彼についていてくれてありがとう」
『彼のことは気に入っているので』
「あげないわ」
『おや、既にあなたよりもずっと長く連れ添っていますよ』
「…………」
「サァリーディ、待つんだ」
妻の青い目がうっすら光り始めるのを、シシュはあわてて留める。
元の蛇ならともかく今の小さな蛇ではサァリに消し飛ばされてしまいそうだ。シシュの仲裁に、にらみ合っていた二人はやんわりと引き剥がされた。
シシュは改めて黒蛇に礼を言う。
「ありがとう。おかげでここまで来られた」
『誰よりも、あなた自身が諦めなかったからですよ。あなたとの旅を、わたしは誇りに思っています』
黒蛇の言葉は、長く共にいた分染み入る。
言葉を詰まらせるシシュに、蛇は尻尾を揺らした。
『さあ、あなたが失いかけたものを取り戻してくるといいですよ』
黒い尻尾の指す先は、数歩下がって待っているサァリだ。シシュは頷くと妻の元へ向かう。
彼女は感情のうかがい知れない声で言った。
「ごめんね、私に付き合ってもらって」
「いや……」
シシュの変質により神供を失った彼女は、枷のない神だ。
その彼女を再び人の世に繋ぐために、彼を客として迎えなければならない。
彼は、サァリが差し伸べた手をじっと見る。
この手を取る。それだけのことをずいぶん待ち望んでいたはずなのに、あまり現実味がない。
胸に広がるのは、肩の荷を下ろしたような気持ちだ。
壊れ物を扱うように、神の手を取る。
ひんやりと冷たい温度。自分の体温はもうこの温度とは等しくないのだと思うと、少なくない喪失感が湧き出す。石畳を歩きながら、彼は確かめようと思っていたことを口にした。
「俺のことなんだが――」
最後まで言う前に、サァリはかぶりを振る。
「もう変えない。あなたが人間に戻れたのはすごいことなの。だからここから先は人のままで、私の旦那様になって」
「だが……」
「駄目。ここは譲れない。私、あなたに迷惑ばかりかけて反省しているけど、これだけは嬉しいの」
サァリの言葉はきっぱりとした、譲る気のないものだ。
その強さにシシュは口を開きかけて、だが拘泥することをやめる。
――力が惜しいわけではない。
人の身で彼女を守れるかどうか不安になるのは、ただの臆病だ。
元より自分は人の身で彼女を守るつもりであった。彼女の力を借り受けたのは、きっとここまでを超えるためのものに過ぎなかった。
今は彼女が、神でありながらただの女であることを、その孤独を、よく知っているはずだ。
だから、シシュは頷く。
「分かった。それで構わない」
「だから、もう絶対死なないで」
「…………」
彼女の願いに、是と言うことはできない。努力はするが、優先したいのはいつも彼女自身だ。
ただこれはまた、客取りを前に彼女の機嫌を急降下させるのではないだろうか。
そんなことに思い当たって無言になってしまったシシュに、サァリはくすりと笑う。
「大丈夫。私が死なせない。だからちゃんと傍にいてね」
「……もうしない。悪かった」
「まだ怒ってないでしょ!」
草履を脱ぎ、裾を上げて玄関を上がる女は優艶だ。
神秘で、瑕の一つもなく、溜息を禁じ得ない。美しい神の姿に見惚れていたシシュは、気まずいながらも付け足す。
「あと……サァリーディ……」
「なぁに? 歯切れが悪いけど」
「実は、ずいぶん長い間離れていたので……」
「うん」
「触れるのも恐れ多くなってしまったというか」
「うん?」
「自分があなたの夫であることを上手く咀嚼できないというか」
「なんで!? 記憶戻ってもそうなの!?」
何故と言われても、自分でもどうしようもない。二十五年の歳月ですっかり感情が純化してしまったのかもしれない。
靴を脱いで玄関に上がったシシュは、深い溜息をついて頭を下げる。
「そんなわけで、俺の問題に過ぎないので巫は悪くないし心変わりもしていないことを先に言っておくし申し訳ない」
「急な早口」
今言うことではない気もするが、いつ言っても怒らせそうだと思う。
ただ寝所でずっと気まずい顔で硬直してしまう予感もするので、一応先に言ってみた。
サァリは、理解しがたいものを見るようにまじまじと彼を見ていたが、ぷっと噴き出す。
「いいよ。気にしないで」
「すまない……」
気長に待ってもらう間に、なんとか染みついてしまった恐れ多さを減らしたい。
そんなことを考えて頭を垂れるシシュの顔に、サァリは顔を寄せて囁く。
「私が全部やるから。目を閉じていていいよ、旦那様」
「…………いや、あの」
「気を失わせてあげる」
「サァリーディ……」
美しい神は、彼の手を引いて二階へと導く。
悪戯めいたその笑顔はあまりにも美しく――あまりにも愛しかった。
※
朽ちる。
今まで強固な楔として彼女を貫いていた刃が、耐えきれずぴしりと罅割れた。
死者である人間の手により彼女を穿ち、この地に縫い留めていたもの。
けれど今は、その人間が別の神と約を結んだことにより……楔が緩んだ。
人間のもたらす死という形を以て彼女を留めていた約に、綻びが生まれたのだ。
「あ、ああ」
罅割れた刀が、真っ二つに折れて落ちる。
彼女は息を吐く。声を出してみる。
それは誰もいない暗い岩場に響く。
彼女はややあって、目を細めた。
「人間とは、かくも面白いものか」
【地の気】である彼女はそして、遠い地上を見上げて――愉しそうに笑った。
【第捌譚・結】
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