狸恋話

橘 泉弥

狸恋話

 時が止まったかと思った。春玲はただ立ち竦み、目の前の光景を見ていた。

 その人間が去った後も、衝撃は消えない。切れ長の目、薄い唇、華奢な身体。全てが瞼に焼き付いて離れない。

 しばらく呆けてから家に帰った。

 薄暗い穴の中でも、彼の姿が目に浮かぶ。

「お姉ちゃん、ぼけっとしてるね」

「うん。ぼけっとしてる」

 双子の弟が顔を見合わせ不思議がっているが、反応する気になれなかった。

「どうしたんだい?」

 母親が鼻を近付けてくる。

「悩み事があるなら、言ってごらん」

「違うの。何だかとても不思議な気分で……」

 あの人間の事以外考えられない。心臓の音が大きく聞こえ、顔が火照る。

「あんた、もしかして恋でもしたのかい?」

 娘の様子を見て、母親は窺うように言った。

「恋ー?」

「お姉ちゃんがー?」

 弟たちは声をあげて笑う。

「変なのー」

「変なのー」

「う、うるさいっ!」

 春玲は怒鳴った。それでも二匹はくすくす笑っている。

「で、本当にそうなのかい?」

「分からない……」

 散歩中にあの人間を見た途端雷に打たれたようになった事、彼ともっと話してみたい事を母親に話す。

「あんた、そりゃあ一目惚れだね」

 母親は鼻をひくつかせて言った。

「ひとめぼれ?」

「そう。誰かを一目見ただけで、恋に落ちる事さ」

「ふーん」

 この気持ちはそういう名前なのか。春玲は床に伏せる。自分の動悸を感じた。

「私、どうしたらいいの?」

「どうしたいんだい?」

「……」

「片恋の病は大変だよ。両想いになるか、諦めるまで治らないからねえ」

 そう言ってから、母親は険しい顔つきになる。

「でも、人間相手じゃあ覚悟がいるね。あいつらときたら、あたしたち狸を鍋の材料としか思ってないんだから」

 春玲は腹に土の冷たさを感じながら考えた。自分はこれからどうしたいのか。人間と関わる覚悟はあるのか。

 南の空にいた太陽が赤らむ前に答えが出る。例え失敗に終わろうと、この胸に湧く激しい感情を閉じ込めておく事は出来ない、と。

 次の日、色づき始めた木の葉が陽を浴びて煌めくと、春玲はそれを一つちぎって息を吹きかけた。ブナの葉はたちまち橙色の服に変わる。続いて葛の蔓を帯に、二つの団栗を靴に変え、自分も人間に化けた。

「あ、お姉ちゃんが化けてる」

「人間のとこ行くの?」

 弟たちが巣穴から出て、春玲を見上げる。

「麓の町に行くの。ついてこないでね」

「わかったー」

「いってらっしゃーい」

 二匹に見送られ、春玲は山を下って行った。一歩ごとに胸が高鳴る。あの人に会ったら何て言おう。名前を教えてもらえるだろうか。嫌われないといいのだけれど。

 町は城下という事もあり、賑わっていた。薪や秋の味覚を売る商人、作物を売りに来た農民や旅人が行き交い、活気に満ちている。

 特に行く当てもなく、春玲は大通りを歩いた。彼はどこにいるのだろう。どこに行けば会えるのか見当も付かない。町を一周したが、彼は見つけられなかった。

 もう一周、もう一周と歩いている内に日が傾く。烏が赤い空に向かって声高に鳴き飛んで行ったので、この日は帰る事にした。

 翌日も朝から人間に化けて町を歩き回る。あの人は中々見つからない。それでもいつかは会えると信じて、人々の間を彷徨う。

 探し始めて六日目、春玲は疲れ果てていた。朝から夕まで歩き続けているので寝ても脚のだるさが取れず、化けるのにも体力と精神力を使う。ふと気を抜くと耳か尻尾が出そうだった。

 彼の顔を思い出して重い身体を引きずる。

 足がもつれ、人とぶつかった。

「すみません」

 春玲は即座に謝ったのだが、相手は彼女の肩を掴んだ。

「大丈夫ですか?」

「はい。大丈夫です……」

 相手の顔を見上げて声をあげそうになる。あの人だ。ずっと探していた人間だ。

 疲れが一気に吹き飛んだ。心臓が大きく跳ねる。

「どうしました?」

 春玲の顔が真っ赤になったので、相手はぎょっとした。

「だ、大丈夫です。何でもありません」

「そうですか?」

 青年は訝しがりながらも春玲を離した。

「少し休んだ方がいいですよ」

「は、はい」

 この人を探しながら色々考えていたものの、いざ本人を目の前にすると頭が真っ白になる。

「じゃあ、僕は行きますね」

 青年が春玲の横に一歩踏み出す。

 彼が行ってしまう。そう思った瞬間、春玲は声を発していた。

「あ、あのっ!」

 青年が脚を止めて振り返る。

「何か?」

 呼び止めたはいいが、言葉が続かない。

「あ、え、えーと……好きです!」

 急いで何か言おうとして、春玲はそう叫んでしまった。叫んでからはっとする。

「あ、ありがとうございます……」

 青年は目を丸くした。それもそうだろう。偶然ぶつかっただけの見知らぬ少女に、突然好意を向けられたのだから。

 一方春玲も慌てふためいて言葉を探していた。

(何か言わなきゃ、何か……)

 お互いに向かい合ったまま気まずい空気が流れる。

「ど、どこか行かれるんですか?」

 春玲が訊く。

「はい。母の織った反物を売りに」

 青年は背中に布を背負っていた。青い無地や赤い市松、黄色い七宝など種類は様々だ。

「えーと、ご一緒してもいいですか?」

 春玲はもう、自分でも何を言っているのか分からない。

「構いませんよ」

 青年がにこっと笑ったので、春玲は完全にノックアウトされた。

 二人は並んで歩き始める。

「まだ名乗っていませんでしたね。夏央です」

 青年が名前を教えてくれたので、春玲はそれを何度も心の中で繰り返した。

「貴女のお名前は?」

「あ、あの、春玲です」

「かわいい名前ですね」

 また心臓が跳ねた。

「春玲さんは、この町に住んでいるのですか?」

 彼に名を呼ばれた事が嬉しくて、春玲の口元は緩んだ。

「私はその、この町の端に住んでいます。夏央さんは?」

「僕は隣村です。良い所ですよ」

 話している内に、胸の高鳴りは少しずつ落ち着いてきた。

 これで一安心と思っていたら、夏央が脚を止めた。

「ここです」

 そこは呉服屋の前だった。紺の暖簾に「福吽」と書かれている大店だ。

「ではまた」

 夏央は春玲に軽く頭を下げて、暖簾を潜ろうとする。

「あのっ」

 このまま別れるのは嫌だ。春玲は青年を呼び止めた。夏央は暖簾に手を掛けたまま少女を見る。

「あの、次いつ会えますか?」

 春玲は持てる限りの勇気を振り絞って言った。もう会わないと返されたらどうしようと不安になる。夏央が考えている時間が、長く感じられた。

「三日後にまた町へ来ます。この時間に この店の前で会いましょう」

「ありがとうございます!」

 春玲は勢いよく頭を下げた。

「では、三日後に」

 夏央が店に入って行くのを見送った後、その場にうずくまる。

 自分の顔が緩むのを止められなかった。喜びのあまり声をあげそうになる。

「大丈夫ですか?」

 心配そうな声がかかった。

「大丈夫です!」

 春玲は返事をしながら立ち上がり、走り出した。町を抜け山を走り、変化を解いて家に駆けこむ。

 身体が軽かった。興奮が抑えられなくて、誰もいない穴倉で大声を出す。

 そこへ家族が帰って来た。

「どうしたんだい? 叫び声が聞こえたけれど」

 心配する母親に駆け寄り、口を開く。

「あのね、あの人と話せたの! 一緒に歩いた! 三日後に会う約束までしたよ!」

「そうかい。良かったねぇ」

 母親は目を細めた。

 双子が顔を見合わせる。

「うまくいくのかな?」

「いくのかな?」

「うまくやるの!」

 春玲は断言した。

 三日後が待ちきれなかった。服にするための綺麗な葉っぱを探し、形のいい団栗をそろえる。

 彼の事を考えるだけで胸が躍り、足が軽やかになった。

 一日千秋の思いで待ち続け、やっと約束の日になった。

 人間に化けて服に変えた葉に腕を通し、麓の町へ走る。少し迷ったが無事「福吽」にたどりついた。夏央の姿はない。

 約束の日を間違えただろうか。それとも時間? もしかしたら彼は来ないのでは……。不安をあおる様々な憶測が頭の中を飛び交う。

 しかし、四半刻もしない内に夏央が店から出てきた。

「すみません、待たせてしまいましたか」

 その声を聞くだけで不安が吹き飛ぶ。

「いえ、今来たところです」

 行く当ても無く二人で並んで歩き始めた。

「どうして僕にもう一度会いたかったんですか?」

「それは……」

 春玲は口ごもる。しかしどう言えば正解なのか全く分からなかったので、正直に言った。

「貴方の事が好きだからです」

「そうですか。ありがとうございます」

 屈託のない笑顔を見て、春玲は悟った。

(この人、好きの意味が分かってない……)

 女の勘かもしれないが、今隣にいる人間は単なる好意と恋愛感情の区別がついていないと感じた。

(……まあ、一緒にいられるならいいか)

 そう自分に言い聞かせ、半ば無理やり納得した。

「どこか行きたい所はありますか?」

 何も知らない夏央が訊く。

(貴方と歩けるならどこでもいいです)

 春玲は必死にその言葉を飲み込んだ。夏央にその気がないなら、自分の気持ちを押し付けるのも失礼だと思ったのだ。

「あまりこの町に詳しくないので、案内していただけると助かります」

「分かりました」

 夏央はまず春玲を城門に連れて行った。

「一番の観光名所と言えばここですね。宗県令の城です」

 春玲は母の言葉を思い出す。確か、県令はこの土地で一番偉い人間だ。

「中には入れませんが、立派な門は見ていて飽きませんよね」

「はい」

 黒瓦屋根のついた大きな扉には、龍や蓮の彫刻がある。それらは細部まで表現されており、いつまでも見ていられた。

「次は大橋に行きましょうか」

 しばらく門を眺めてから、二人は次の観光名所に向かう。半刻ほど歩いて着いたのは朱塗りの橋だった。橋の柱に「房宋大橋」と彫ってある。

「人通りが多いでしょう。中央商店街の中なんです」

「そうですか」

 二人はそのまま商店街を歩いた。八百屋、貸本屋、食事処など、春玲には見慣れない店ばかりで楽しかった。

「そろそろ帰らなければ」

 商店街の端に来ると夏央が言った。

「また会えますか?」

 春玲は、三日前よりは気楽にそう訊ねる。

「そうですね……今度は五日後くらいでしょうか。また来ますよ」

「ありがとうございます」

「では、今日と同じように待ち合わせでいいですか?」

「はい」

 こうして二人は時々会うようになった。会話を続ける内に少しずつ打ち解けていったが、夏央は一向に春玲の想いに気付かないようだった。

 野分が吹き始めた頃、二人はまた商店街に来ていた。

「何か気になる店は見つけましたか?」

「時々見かける甘味処というのが気になります。どんな店か想像できなくて」

 人間の菓子に縁のない狸には、甘味処は未知の領域だ。

「行ってみますか?」

「でも、お金なんて持ってませんし……」

「僕が持ってますから」

 そういう訳で、二人は甘味処に足を運んだ。

 初めて人間の店に入る春玲は、恐るおそる暖簾を潜った。

「いらっしゃい!」

 妙齢の店員が二人を迎える。

 春玲はどうしてよいのか分からず縮こまっていたが、夏央は堂々と団子を二本注文した。

「はい。その辺に座って待っていてくださいな」

「ええ」

 二人は並んだ長椅子の一つに腰掛けた。

「前から気になっていたのですが」

 夏央に話しかけられ、春玲は店内を見回すのをやめた。

「貴女の耳、少し欠けていませんか?」

「ああ、そうなんです」

 春玲は自分の右耳をそっと触る。それは上の部分が丸くへこんでいた。

「子供の頃、犬に噛み千切られたんです」

「犬に?」

「はい。だから今でも犬は怖いですね」

 店員が団子とお茶を持って来た。

「はい、おまちどおさま」

「あれ? 頼んだのは二本のはずですが」

 皿に乗った三本の団子を見て、夏央が訝しがる。

 菓子を持って来た店員はにこやかに笑った。

「かわいい彼女さんを連れてるから、一本サービスよ」

 春玲は顔を真っ赤にした。はたからだとそう見えるのだろうか。嬉しいような恥ずかしいような、不思議な気分だ。

「ありがとうございます」

 夏央は何食わぬ顔をしていた。

(きっと分かってないんだろうな)

 春玲は溜息をつく。彼がそういう事柄に関して驚くほど鈍い事は分かり切っていた。齢十七と言っていたが、大丈夫だろうか。

「どうぞ」

 皿を差し出されたので端の団子に手を伸ばす。

「いただきます」

 茶色いたれのかかったそれを、よく観察してから口に入れて驚いた。今まで食べた事のない食感だ。微妙に歯につくくらいの粘りがあり、もちもちしている。山の果物とはまた違った甘さで春玲を魅了した。

「美味しいですか?」

「はい! すごく!」

 尻尾を振ってはっと気付く。

(尻尾が出てる!)

 慌ててそれを引っ込め夏央の様子を窺う。どうやら気付いていないようだったので、ひとまず安心した。

 夏央と別れて家に帰ると、食料をたくさん採って来た母が待っていた。

「あのね、今日は甘味処に行ったの。団子って美味しいんだね」

「へえ、あれを食べたのかい。あたしも一度だけ口にした事があるよ」

 彼と出掛けた事を母に報告するのも楽しい。町に行った日の夜はいつも、大満足で眠りにつくのだった。

 鰯雲が空一面に広がった日は、紅葉狩りをする事になった。それならばと春玲は自宅のある山へ夏央を連れて行く。

「この辺りには詳しいので。今日は私が案内しますね」

「お願いします」

 二人で細い獣道を歩く。自分の山を彼に紹介できると思うと、春玲の胸は躍った。

「木の根が出てるので気を付けてください」

「はい」

 山の中腹に少し開けた場所がある。紅葉を楽しみながら、まずはそこに行った。

「ここから町が一望できるんですよ」

 春玲は麓を指さした。池のように屋根が広がり、奥には黒瓦の城も見えた。

「素晴らしい景色ですね」

「私も気に入ってるんです」

 春玲は近くにあった木から柿をもいで夏央に渡す。倒れた大木に並んで座り、しばらく青空と町を眺めた。

「美味しいアケビの生る場所を知っています。行きましょう」

「そうですね」

 坂を下りながら、夏央が春玲の服に目を止める。

「そう言えば、貴女の服はいつも紅葉色ですね」

「えっ」

 春玲はどきっとした。それもそのはずで、いつも近所の木の葉を服に変えて身に付けているのだ。

「こ、この色気に入ってるんです。綺麗なので」

「そうですか。とても似合いますよ」

「ありがとうございます」

 何とかごまかせたようだった。

「ほら、あそこです」

 春玲が指さす先に、紫色の楕円形が垂れている。ぱっくりと開いた中に、白い房が見えていた。

 二人はそれをもぎ取って中身を食べる。

「本当だ。美味しいです」

「喜んでもらえました?」

「もちろん」

 夏央はもう一つ実をもいだ。

「家への土産にします」

「蔓もですか?」

 小刀で緑の蔓を切る夏央の様子に、春玲は首を傾げる。

「はい。紐になるので便利ですよ」

「へぇ」

 春に新芽を食べる以外に使い道があるなんて、知らなかった。人間は頭がいいらしい。

「椎の実も持って行きますか?」

「あるなら」

 今度は山一番のスダジイへ案内する。その木の下には大量の実が落ちていた。

 二人はかがんでそれを拾う。

「本当にこの辺りに詳しいんですね。よく来るんですか?」

「はい。家がこの近くなので」

「そうなんですか?」

 いぶかしがる夏央の顔に、春玲はしまったと思った。今のは完全に失言だ。

「麓の町の、すごく山に近い所にあるんです。だから、商店街よりもこっちの方が身近で……」

「なるほど」

 今度も何とかごまかせたようだった。夏央に隠れて胸を撫で下ろす。

 こうして二人は紅葉より秋の味覚を巡りながら、日が鶴瓶と落ちるまで遊んだのだった。

「春玲、彼とは順調かい?」

 夜、母親が娘に訊いた。

「順調って?」

「ほら、よく出掛けてるんだから、もう手は繋いだんだろうね」

「えっ」

 彼の手を握るなんて、考えた事もなかった。

(触れてみたいと思った事はあるけど……)

 夏央の手は華奢な身体と不釣り合いな程大きい。狸とは違い指が長いからか、不思議と魅力的だった。

「でも、彼が私の事どう思ってるか分からないし」

「おや、好きだって伝えたんじゃないのかい?」

「言ったけど。中々難しいんだね、恋って」

 春玲は深い溜息をつく。母親は娘を慰めるように頬ずりした。

 中秋の名月を二日過ぎた日も、夏央と町を歩く。

「ずいぶん色んな所を散歩しましたね」

「そうですね」

「飽きませんか?」

「いいえ」

(貴方と一緒ならいつまでも飽きません)

 本音を隠すのにも慣れた。例えうっかり口にしても彼はちゃんと反応をくれるのだろうが、それは春玲の求めているものではないだろう。

「でも、もうほとんどの場所に行きましたよ」

「じゃあ今度、夏央さんの住んでいる隣村にも行ってみたいです」

「構いませんよ。案内しましょう」

 言葉を交わしながら十字路を曲がる。

 数間先に白い獣を見つけて、春玲は立ち竦んだ。

「どうしました?」

「……」

 返事が出来ない。足が震え、冷や汗が噴き出す。

 犬は春玲に顔を向けると、吠えながら走って来た。

(逃げなきゃ……)

 そう思うが恐怖で足が動かない。犬はどんどん迫って来る。

(もう駄目だ)

 春玲はその場にうずくまった。

 鋭い牙を覚悟したが、攻撃はこなかった。身体が宙に浮く。

「春玲さん?」

 耳元で聞こえる優しい声に目を開けると、夏央の腕の中だった。見慣れた顔がいつもとは比べ物にならない程近くにある。

 春玲は鳴き声をあげ、慌てて腕から飛び降り四つ足で走りだした。冷静さを失った頭で町中を走り抜け、山に帰る。いつもの獣道を駆け抜けて家に飛び込む。誰もいなかった。

(やってしまった……)

 後悔しても後の祭り。愛しい人間の前で、正体を晒してしまった。きっと嫌われるに違いない。ずっと騙していたのだし、人間は狸を鍋の材料としか思っていないのだから。

 しばらくして、双子を連れた母親が帰って来た。

「どうしたんだい?」

 家の奥でうずくまる春玲を見て、心配そうに寄って来る。

「お母さん、どうしよう……」

 春玲は泣きながら母に事の次第を話した。

「お姉ちゃん失恋?」

「失恋?」

 弟たちは左右対称に首を傾げる。

「あんたたちは黙りな」

 母親が双子を諫めた。

「春玲、人間と狸は、結局は一緒にいられない存在なんだよ。残念だけど、諦めるしかないね」

「うん……」

 それはよく分かっていた。もう彼には会えない。この恋は、終わったのだ。



 木枯らしが山を吹き抜け、季節は冬になろうとしていた。

 春玲は心に穴のようなものを感じながら、冬越しに備えて食料を探す。冬毛になりたてのこの時期にたくさん食べておかないと、厳しい冬には絶えられない。

「ほら、椎茸があったよ。三匹で食べなさい」

 母親が木の根元に生えたきのこを鼻で指す。

「僕きのこ好きー」

「僕きのこ嫌ーい」

 双子はなんだかんだ言いながら素直に食べる。

「ほら、あんたも食べな」

「うん……」

 栄養を蓄えなければいけない事は分かっていたが、食欲が湧かなかった。

 夜もなかなか寝付けない日が続いていた。忘れなければと思っている彼の事ばかり頭に浮かび、心に開いた穴が痛む。

(会いたい……)

 塩辛い雫が頬を伝っていく。彼の笑顔、柔らかな口調、節くれだった手……。全てが愛しく、もう二度と会えないと考えると身を引き裂かれる思いだった。

 木々の葉が残らず散り山が眠り始めたある日、外遊びから帰って来た双子がひそひそ話していた。

「あの人間、また来てたね」

「来てたね」

 狭い巣穴なので、反対側にいてもその声は聞こえる。

「何を探してるんだろうね」

「栗かな、きのこかな」

 春玲は耳を立てて聞き入った。山に来ている人間は、もしかしたら夏央ではないかと淡い期待を持つ。

「ねえ、その話詳しく聞かせて」

 弟たちに話しかける。

「お姉ちゃん、気になるの?」

「気になるの?」

「うん。話してくれる?」

「いいよー」

「いいよー」

 二匹によると、毎日同じ人間が山に来ているらしい。草をかき分け辺りを見回し、何か探しているようだと言う。

「しゅんれいさんって言ってたね」

「誰なんだろうね」

 春玲の心臓が跳ねた。間違いない、夏央だ。

「春玲はあんたたちの姉の名前でしょうが」

「そうだっけ?」

「そうだっけ?」

「もういい!」

 左右対称な弟たちに構っている場合ではない。春玲は駆けだした。

(夏央さんに会いたい!)

 その一心で森を走る。彼が近くにいると思うだけで、自然と足は速くなった。

 北風の冷たさも感じず無我夢中で駆け回り、石につまずいて転ぶ。息が切れていた。胸が苦しく、もう走れそうにない。

 木の根元に伏せて、息を整えながら頭を冷やした。思わず飛び出してしまったが、良かったのだろうか。夏央は本当に春玲を探しているのか。正体が分かったのだから、もう関わりたくないはずだ。

「……」

 帰ろう。人間が狸に会いに来るなんて、都合のいい話だろう。狸と人間は一緒にはいられないと、母も言っていた。

 木の陰から出ようとした時、背後の藪が音を立てて揺れた。振り返ると、ちょうど人間の足が見えた。

 春玲は驚き、踵を返して走り出す。

「待ってください!」

 聞き慣れた声に足を止める。

「春玲さんでしょう? 右耳が欠けているから分かります」

 春玲は夏央に向き直った。

「探しましたよ」

 夏央がその場に座って春玲と目線を合わせる。

「冬になる前に会えて良かった」

 何を言われるのだろうと春玲は緊張する。騙していたのだからきっと怒られる。狸に化かされるなんて、人間にとっては恥ずかしい事ではないだろうか。

「ごめんなさい」

 春玲は頭を下げた。悪気はなかったにせよ生物を偽っていた事は事実だし、嫌われても仕方ないだろう。

「不愉快な思いをさせるつもりはなかったんです。ただ、貴方と一緒にいたくて……」

 夏央は黙って彼女の言葉を聞いている。

「二人で町を歩くのは楽しかったです。お団子も美味しかった。山を案内できて、嬉しかったです。犬に襲われそうになった時、助けてくれて感謝しています」

 共に過ごした思い出が脳裏に浮かぶ。それらはとても鮮やかに煌めいていた。

「もっと一緒にいたかったけど、私は狸だから……ありがとうございました。さようなら」

 夏央に背中を向ける。最後に会えて良かった。これで今生の別れ。

「どうしてそんな事言うんですか!」

 夏央が大声を出す。春玲ははっと振り返った。

「僕は何日も山を歩きました。寒くて足が痛くて、疲れました。でも、貴女に会いたかったんです」

 夏央の言葉には力がこもっている。彼の感情がはっきり伝わってくる。

「貴女がいなくなって、ようやく『好き』の意味が分かりました。何と言うか、欲の塊のような感情です。貴女に会いたくて堪らなくて苦しくて、とても辛かった。だから……」

 青年は真剣な眼差しで、まっすぐ春玲を見つめた。

「これから先もずっと、僕と一緒にいてくれませんか?」

 春玲は嬉しさのあまり胸を詰まらせた。気持ちを伝えたいのに、声が出てこない。

 頭より先に身体が動いた。愛しい人間に駆け寄り、その胸に飛び込む。夏央はしっかり抱きしめてくれた。

 灰色の空から白い雪がふうわり降ってくる。山は眠り寂しい冬が始まったが、春玲は幸せだった。

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