第3話 激情は、たぎる。

 木島きじま 志門しもん 2019年12月2日 13時0分59秒 名古屋市


 書斎の壁には王者の肖像画が壁にかけられている。もう四年も前に死んだ男が、豪勢な黄金の額縁の内側で顔をしかめている。立派な口ひげを蓄え、ワザとらしいモノクルを右目にかけた白髪の男には、この場所でしか会えない。彼には墓がないからだ。油絵の具で描かれたこの木島雅臣きじままさおみは出来た父親ではなかった。それ以前にヤクザという名詞の時点で道徳という概念からは真逆の道を歩んでいた。そして息子の志門に言わせれば、したたかな男でもなかった。カリスマは十二分に備えていたし、彼のところには自然と人が集まった。志門自身、息子としても部下としても愛情をたっぷり注がれた覚えだってある――――しかし彼は、裏の世界で生きるには甘すぎた。


 かつて貴臣会は名古屋のヘロイン市場を牛耳っていた。雅臣が五十年かけて築き上げた盤石な市場だ。平成に入って取り締まりが強くなってもジャンキーが増え続けたのは、雅臣が政界や警察にもコネクションを持っていたためでもある。だが、それも一瞬で塵となって消えた。どう足掻こうとも抗えない脅威の前に、雅臣の全てが焼き尽くされてしまった。


 一九九三年の十二月二十五日、午後七時四十八分。志門はその時の父の表情をよく覚えている。名古屋駅のタワーマンションのバルコニーから二人は空の色が変わるのを直に見た。月を押しのけて再び太陽が登り始めたかのように異常に明るい夜だった。真っ黒な雲を突き破って紫色のつぶてが真っすぐに千種に落ち、一瞬の耳鳴りと永遠にも思える静寂が街を支配した。爆発が起きても誰一人叫ばなかった。遅れてやってきた熱波で顔中が痛くなった。志門は鼻孔に飛び込んだ臭い――――人間の焼き焦げた臭いでようやく我に返り、隣に立つ父の横顔に目を向けた。父はただただ険しい顔をしていた。息を堪えているかのように微動だにせず、街を焼く巨大な炎をじっと見つめていた。志門は顔面を伝う汗の冷たさが顎の辺りで途切れたのを感じ、弾かれるようにマンションを飛び出した。街に出たときには耳をつんざく何種類かのサイレンの音がそこら中から響き、それを上回る人の叫びがどこへ行っても聞こえるようになっていた。彼は迷うことなく千種区に向かった。車は途中で立ち往生になったので乗り捨て、自分の足で走るしかなくなった。新栄を通り過ぎたころから空気が極端に熱くなり、怯んでいたところを既に駆けつけていた消防士に引き止められてしまった。結局、彼が千種区に足を踏み入れることは終ぞなかった。


 数日経ってようやく千種区に何があったのか詳しい知らせが届いた。直径六メートル程度の隕石が前触れもなく落ちてきて、街を一つ焼き払ったのだ。貴臣会の本拠地も、資金源であるヘロインの隠し工場も、ご丁寧に証拠を残さぬよう消し去ってくれた。会は当然、窮地に立たされた。多くの幹部と構成員を失い、他の暴力団が名古屋に侵入するのを防ぐなど到底不可能だ。僅かに残った雅臣と志門の部下が二年かけて資金と面子を揃えたが、街の傷はそのまま会の傷となった。癒えるにはより多大な時間が必要だと誰もが知っていた。


 事実、二十七年の歳月を要した――――そう、貴臣会は今、名古屋の裏世界のトップに返り咲こうとしている。危ない橋を渡るときはまだ来ると分かりつつも、志門は勝利を強く確信し、肖像画に目を向けたままテーブルのグラスに手を伸ばし、アブサンに口をつけた。


「ようやく変化が来たな」


「ええ、会長」


 声をかけられた部下の大谷巴おおたにともえが志門の背後から低い声で返事をした。魔女のような鷲鼻と鋭い目つきの如何にも気の強そうな女で、志門の腹心の部下だ。


「報告によると、明日にはサンプルが用意できます」


「思ったよりずっと早かったな。良い調子だ。父のやり方は古かった。俺とお前の読み通り、ヘロインやフェンタニルの時代はもうすぐ終わる」


 落ち着いた口調ながら仰々しく両手を広げて志門が言った。彼は貴臣会をどん底から引きずり上げる“ある策”を、ようやく本番と言えるステージまで進めたところだった。かつて貴臣会が名古屋を牛耳るために用いたヘロイン――――ドラッグの王。一度血に混じれば、この宇宙の如何なる言葉を以てしても書き綴れない快楽を味わわせ、引き換えに悪魔さえ背筋を凍らせるような苦痛をもたらす死の薬。その全てを隕石によって失った雅臣は、災害からしばらく経ったある日、志門に一つの相談を持ち掛けた。それはヘロインに代わる新しいドラッグの存在についての相談だ。


 『スパイス』と呼ばれるドラッグの存在は一種の都市伝説としてまことしやかに囁かれていた。カプセルに詰められた粉末とも、アンプルに満たされた液体とも、様々な噂が着々と広まっていた。確かなのは“存在する”ということだ。でなければ、志門の管轄下に僅かに残っていたジャンキーが「ヘロインを止めた」などと言えるはずがない。この新しいビジネスの機会を逃すわけにはいかない。雅臣は執念深い捜索の末、製造ルートを突き止め、確保したのだ。だが喜んだのも束の間、雅臣はおぞましいものを見たかのように顔を歪め「スパイスには関わるべきではない」と志門に言った。スパイスが巨額のカネを動かすポテンシャルを秘めていることは火を見るよりも明らかで、貴臣会を建て直すにはリスクを伴う荒療治が必要だと組織の誰もが本能的に理解していた。志門は父を思うが故に彼に反発した。このたった一度の相違が決定的な亀裂を生んでしまった――――まさか同じ組織の為に、仲間同士殺し合いをする結果に至ると誰が考えただろう。


「ここまで長かった。災害から二七年、父の死から四年。スパイスの力で名古屋は再び貴臣会が支配する。だが……」


 志門は眉間にしわを寄せて、アブサンのグラスをテーブルに置いた。たった一つの気がかりが、勢いよく進んでいたはずの足を引き留める。


「雅臣が始末したハズの“奴”が生きている。信じ難いが……この街にまだいる。そして必ず俺の邪魔をしに来る」


 決して声を荒げることは無かったが、志門が激情を抑えかねていることは明らかだった。怒り・焦燥・憎悪――――大谷は混濁した彼の心情からたった一つを汲み取る。


?」


「……ああ、怖い。心底“奴”が怖い。だが止まらんよ」


 ニタリ、と最後はイヤらしい笑みを見せて、グラスの中身を一滴残らず飲み干した。





雁賀 博 2019年12月2日 15時20分44秒 名古屋市中区 新栄


 牧野の自宅は千種の封鎖区画に最も近い場所だった。築四年とかなり新しい五階建てのマンションで、東側のバルコニーから封鎖区画を丸ごと眺められる。牧野は一度、雁賀の目が見えないことを忘れてこの絶景スポットを自慢した。


「ワンルームだが、でこのマンションも大人気でな。部屋をとれたのはほんとに偶然だ。今度のノストラダムスが迷子にならなきゃ、特等席で人類滅亡を拝める。家賃はちょっと高くついたがな」


「九九年の隕石は誤報だった。チープな映画じゃあるまいし、そう何度も同じ場所に隕石が降ってきてたまるか。で、私をここに招いたからには……」


「有意義な話をしようじゃないか」


 二人はテーブルをはさんで向かい合って座った。牧野は一枚の紙を取り出し、雁賀の前に差し出した。ペラっという音を耳にして、当然雁賀は鬱陶しそうに溜息をもらす。


「おい牧野、からかうのはよしてくれ。好きでこんな不便を背負ってるわけじゃないんだぞ」


「触ってみろ」


 牧野の口調にふざけた様子が微塵も感じられなかったので、雁賀は黙って目の前の紙に手を伸ばす。右手を動かしかけたその瞬間にある予感がした彼は、もう片方の手も動かし、人差し指と中指だけで紙に触れた。サラサラとした紙面には、よく目立つ固い出っ張りが無数に、しかし規則的に並べられていた。


「点字……」


「変なところがあったら言ってくれ」


「いや、どこもおかしくない。読めるよ」


 雁賀は両手を広げて十本の指全てを使い、行の両側から挟み込むように手を動かして一気に点字のテキストを読んだ。あまりに早いので牧野も無言のまま目を見開いて驚いていた。


「貴臣会が『ナチュラ・コープ』の工場でドラッグを?」


「それが丁度四年前の、銃撃戦の直前の話だ。俺がまだ公式に調査できてたころのデータだが、木島雅臣はナチュラ・コープの生物薬剤研究室、通称BML(Bio Medicine Laboratory)の室長と特別なコネクションがあった。ビジネスと相談役と、彼の部下の話だと肉体関係もあったとか」


「女か。名前はマサキ……どういう字を書く?」


「分からん。誰もマサキという名前しか聞いていないらしい。苗字か下の名前かも分からん。もしかしたら雅臣は男色家だったのかもな。ナチュラ・コープは中部最大クラスの外資系製薬企業。本社は港区だが、工場が大曽根にある。千種区の建設中だった工場は跡形もないだろうな」


 そこまで話した牧野は、突然黙って雁賀の顔を見つめた。肌で視線を感じた雁賀は、訝し気に「何だ」と聞く。


「何だだと? そこから先の話にまだを通してないじゃないか」


 点字を読む指は、紙面の途中で止まっていた。ほんの少しだけ触れて、そこから先に進むのを躊躇っていたのだ。そこには『雁賀の家族の死』に関する記述がなされていたからだ。雁賀自身も巻き込まれた事件の顛末が詳しく書き記されているが、証拠が不足していたため依然未解決のままとなっている凶悪な殺人事件。牧野は雁賀が手のひらを隠していると見抜いていた。紙に僅かに付着した汗が、窓から差し込む光で反射していた。


「……まだこの目がまともだったな。ゴールド劇場で映画を観た帰りのことだ。九五年の十二月二十四日、金曜の夜。『男はつらいよ』の最後の映画を観た。娘は退屈そうだったが、妻は出演作品のレーザーディスクを全部揃えるくらい渥美さんのファンだった。パンフレットの入った袋を嬉しそうに左手にぶら下げて、八歳の娘の手を右手で握っていた」


 雁賀穂子すいこ芽衣めい。妻と娘の名を示す点字を残された夫が愛おしそうに指先で撫でた。


 ――――家に帰って、クリスマスケーキを食べるつもりだった。娘が欲しがっていたゲームボーイを彼女が寝た後で枕元に用意するのが楽しみだった。だが信号を渡ろうとした瞬間、目の前が真っ暗になって息ができなくなった。妻と娘の叫び声が聞こえたが、手を伸ばして無茶苦茶に振るったが何にも触れられなかった。体が持ち上げられたような気がして、二人の声が遠ざかっていくのは距離が離されたせいなのか、それとも意識が途切れようとしているからなのか、区別ができない。次に雁賀の目が開いたのは、見覚えのない薄暗い倉庫のような場所だった。座らされた椅子の後ろで、両腕を鎖で頑丈に固められていた。目の前にはドラマでしか見たことのない目だけが開けた覆面をした大男が三人、ギラギラ光る銀色の拳銃を握って並び立っている。


 男のひとりが静かに「もう殺すか?」と言うと、リーダーらしき男が「いや、」と言って、銃を持った手で何かを指し示した。部下の二人はすぐにその方向に向かい、重たいドアの開く音が聞こえた。すると妻と娘が髪を掴まれ、コンクリートの床を引きずられて運ばれてきた。泣き叫びのた打ち回る二人をリーダーが一発ずつ蹴り飛ばした。雁賀は咄嗟に「やめろ」と叫ぶ。するとリーダーは雁賀との間に指一本入るかさえ怪しいほど顔を寄せた。雁賀の息が荒くなり、逆にまばたきができなくなった。


「よーく見ろ。よーく、見ろ。死が如何に呆気なくて、お前がどれほど無力か」


 男は後ろに下がるに妻の頭に三発打ち込んだ。そして雁賀が絶叫する直前に娘の頭に右足を乗せ、まるでペットボトルを潰すかのように強く踏みつけた。雁賀とその娘は同時に泣き叫んだ。雁賀には最早、娘を助けてくれと懇願する余裕さえなかった。その間に男は何度も何度も何度も何度も足を上下させ、いつしか娘の頭は形を失っていた。茫然とする雁賀に男たちは何度か拳を浴びせて呼びかけたが、彼の耳には届いていなかった。ようやく彼の意識が戻ったのは、ナイフで眼球を潰された後のことだった。頬を伝う熱さが、血なのか、涙なのか、それとも眼球の中の液体のものなのか、区別がつかなかった――――


「理不尽だろう? 俺もそう思う。もう味わったからな」


 それだけ言うと、男たちは立ち去ろうとした。にわか雨が降り、ふとした途端に止むように。何事もなかったかのように。


 ……そこまで語り終えたとき、雁賀の手は固く拳を作っていた。


「――――私は叫ぶのを止めた。その代わり、呼んだ」


「誰をだ?」


 牧野が問う。


「そのリーダーの男だ。『おい』ってな感じで。男は振り返って私の方を見た。だから言ってやったんだ」


 雁賀は閉じられた皺だらけの両目を二本の指で示し、それをそのまま牧野の目へと向けて言った。


「その眼を忘れない。この眼が忘れない――――」


 震える雁賀の指を見つめ、牧野は暫く口を開けられなかった。事件の話に気圧されたからではなく、彼の求めていたものが雁賀の中にあると確信したからだ。


 即ち、激情。抑圧された巨大な怒り。少しでも刺激すれば途端に爆発する破壊的な衝動。肉体という坩堝の底で赤く赤くたぎっていたのが、彼の絵になって表れていた。


 ――――報復のはじまりを、待っていたのだ。

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