第4話 報復者は、見える。
雁賀 博 2019年12月4日 19時28分53秒 名古屋市中区 丸の内
一日中アトリエから出ないことなど、雁賀にとって珍しいことではない。たった一人の弟子にとっても慣れたもので、気に留める素振りもせず、食事時になるとドアをノックして「先生も食べますか?」と声をかけるが、返事が返らない場合放置する始末だ。午後五時を過ぎた頃、弟子が帰宅するドアの開閉音を耳にして、雁賀はようやく腹の虫の訴えに気づく。描くことに熱中していると度々こんなことになっているのだが、筆を握ろうと思いもしなかったのは初めてのことだった。
目の前の真っ白なキャンバスは、雁賀には見えていない。彼は絵を描くとき、一様な闇が渦巻くまぶたの裏で、古い記憶に残っている絵の具の色を思い起こし、それがキャンバスに塗られ重なる様子を想像する。それからやはり過去の経験だけを頼りに現実の筆に現実の絵の具をつけ、想像を具現化する。本当に想像の通りになっているかなど確かめられないので、時折この行為を不毛なガラクタ製造だと声には出さず悪態をつくことがある。
自分の姿をしたドッペルゲンガーを思い浮かべ、その背中に向けて思いつく限りの罵詈雑言を浴びせた。もし今声をかけなかったら、きっとそいつは手の届かないどこかへ走り出していた。振り返ったそいつは若いころの――――妻と娘を失った日の自分の顔をしている。それまでの自分の顔しか知らないからでもあるが、その歪み切った形相を見て、ドッペルゲンガーの正体を看破した。
(こいつは私の怒りだ。あの時の私の激情だ。こいつはずっとずっと、まぶたの裏で生きていたのだ。私が最も隠したい私の本性)
言葉を失った雁賀は、ついにそいつを止めることができないと悟ってしまう。復讐したくて仕方がない。妻と子を殺したやつを殺してやりたい。地獄の果てまで追いかけ、閻魔に代わって裁きを下したい。輪廻を巡る前に尻尾を掴み、再び地獄に叩き落とし、魂を摩耗させ――――
「――――ッ!!」
弾かれたように立ち上がり、キャンバスを腕で薙ぎ払う。感触を持ちはじめた幻影を振り払うために。苛立ちと羞恥が僅かに復讐心を上回ったおかげで、雁賀はようやく、そして今日初めてアトリエを出た。弟子には必ず電気を切るよう伝えているため、部屋は真っ暗だった。全盲の雁賀にはまるで関係ないため、慣れた足取りで暗闇を横切り、キッチンに向かう。
(私は連中と違う。牧野とも、ヤクザ共とだって違う。私は画家だ。画家は絵を描くものだ)
乱暴に冷蔵庫を開いてドクターペッパーの500ミリリットルボトルを取り出し、勢いよく呷った。
「――――ああっ! あの……バカ弟子め」
弟子はどれだけ言ってもペプシコーラを買ってこないのだ。怒りのあまり雁賀は大声で叫ぶ。ペットボトルを冷蔵庫に戻し、何かデリバリーでも頼もうと思い立ったその時――――ピンポーンと、呼び鈴が鳴った。瞬間、雁賀は身を強張らせる。弟子は合鍵を持っているから勝手に入ってくる。画材の宅配は来週の予定。回覧板は今朝出したばかり。客人の顔が想像もつかない(と言ってもどうせ見えないのだが)。牧野なら……できれば帰ってもらいたいというのが本音だ。居留守を装ってやろうかとも思ったが、いくら何でも悪い方向にばかり想像力が発達しすぎだと、今日一日の自分を省みて、慌てて返事をした。
「どちらさまですか?」
十秒も経っても、一向に反応が無かった。牧野が来たのかとも思ったが、そうだとしても無反応なのは怪しすぎる。雁賀は自身の迂闊さを猛省した。電気は切っているのだからやはり居留守を装うべきだった。幸い弟子は帰宅しているから、このままドアを開けずにいても良かろうと、雁賀は誰にも聞こえない溜息をついてからリビングに戻った。
(悪戯か? こんなの初めてだな。名が売れてしまうとこういうこともあるのか)
やれやれ、と肩を竦めつつアトリエに戻るべく玄関に背を向ける。こんな調子では余計にスランプが続きそうだと、やりようのない不安が胸の内に溜まっていくのを彼は感じていた。それを発端にまた、牧野の……いや、彼自身の心の声がフラッシュバックする。復讐をしたいという本音に従うことができたなら、この気色の悪さを解消できるのだろうか――――
カチッ……
雁賀は聞き逃さなかった。プラスチックを指先で弾いたような軽い音が幾つも重なって、そう遠くない場所で確かに鳴った。雁賀はカーテンを締め切っているベランダの窓に意識を向ける。まだ音が続いている……今度はスルスル、スルスルと一定のリズムを刻んでいる。かなり近いと確信したその瞬間、窓を突き破って一斉に五人分の影が部屋に飛び込んだ!! アサルトライフルを構えた影は間髪入れずその引き金を引き、部屋のあらゆる方角に向けて一斉に掃射した。銃口に取り付けられたサイレンサーで発砲音こそかき消されているが、机や椅子を粉々に砕き、分厚い壁にも風穴を開けるその威力と、重箱の隅をつつくような射撃によって、リビングとダイニングキッチンは爆弾で吹き飛ばされたかのように殺風景な景色に変えられてしまった。雁賀が部屋を飛び出す隙など当然無い。彼の体もまた、無数の弾丸によって部屋の埃に混ぜられてしまったのだろうか。
「……他の部屋を確認しろ」
リーダー格と思しき男の声が通信機を通して他の四人に伝達される。四人は銃を構えたまま足音一つ立てずリビングを横切る。二人がアトリエを、もう二人が浴室をそれぞれ担当し、ほとんど同じ動きで部屋を破壊する。最後に合流した四人が寝室でも同じことをしてから、リビングのリーダーと合流した。一分足らずのできごとだった。だが……
「標的が見当たらない」
報告を聞いたリーダーは無言のまま、しかしすぐさま手信号で支持を送った。すぐに部隊は陣形を変え、背中合わせで円形になり、その場で銃を構えた。この不測の事態に備えた迎撃態勢だ。
「……」
さっきまで精密機械のように与えられた使命をこなしていた暗殺者たちにの動きに、あからさまな緊張感がある。“ただ殺す”か“ただ壊す”だけなら慣れた話だった。そして今回の仕事は“ただ盲目の老人を殺す”ことだった。が、彼らのうち何人かは事を始める前に“ある事態”への不安を感じていた。それはある意味で、この街で裏の仕事に就いた時点で逃れられないことだ。標的が“ただの”ではない可能性――――仕事が“ただ殺す”ではなく、“闘って殺す”になる可能性。闘わなければならない状況とは即ち相手が同じく裏の仕事をする立場にあるか、名古屋に限っては超常の存在である状況を指すのだ。
「……うッ!?」
暗殺者のひとりの体が瞬間的に消え去った! 彼の構えていたアサルトライフルだけがゴツンと音を立ててフローリングの床に落下した。
「何だ!?」
床のアサルトライフルに全員の視線と銃口が集まる。カーテンが夜風に翻り、月明りが部屋に差し込んだ。暗殺者たちは暗闇に隠されていた床の異常性にようやく気づく。ライフルの落ちているその場所だけ、光沢のある黒い液体がべっとりと付着していたのだ。闇夜に紛れる黒い戦闘服を着ていたために、暗殺者たちは同じ想像をする――――消えた彼は超常の力によってドロドロに溶かされてしまったのではないかと。その形容しがたい恐怖から成る呼吸の乱れを感じ、リーダーは冷徹に支持を下す。
「全員取り乱すな。ここからは化け物狩りだ」
「狩られるのは俺たちかも」
「無駄口をたたぐぉ」
今度はリーダーが消え去り、遂に部隊は綻んだ。副リーダーはあまりの恐ろしさに指示どころかまともに声を発することもできない。残された三人はどうしようもなく銃口をあらぬ方向に向けて射撃をする。
……そして“奴”は完全に恐怖に支配されたこの瞬間を待ちわびていた。床に広がる真っ黒な染みは連中の心情の写し鏡。その中から激情を武器にして、そいつが姿を露にする。染みの中から這い上がり、忍び寄り、一切の容赦なく命を獲る!!
「私の
豪速の一撃が暗殺者の後頭部に文字通り“突き刺さった”!! 皮膚を破り頭蓋骨を粉塵に変え脳髄が白い壁をべったりと汚す、その凄惨な一連の流れを生み出したのは雁賀の放った“拳”だった。目撃した二人の
「あがあああああッ!!」
勢いのあまり顎が裂け、暗殺者が悶絶する。しかし雁賀がにじり寄るのを目撃し、痛みを瞬時に忘れて直ちに逃げ出さんとした。が……
「あびゃッ――――」
最後のひとりは顔面を踏み潰され、下あごだけ残してフローリングの汚れになった。静寂を取り戻した夜に、少しだけ強い冷たい風だけが甲高い音を立てる。
「……やってくれたなクソカスどもめ」
雁賀は誰に聞かせた訳でもなく悪態をつき、自身が現れた黒い染み――――絵の具の中に飛び込んだ。まるでそこにぽっかりと穴が空いているかのように雁賀の体はスッと抵抗もなく入っていき、一つ下の階の空き部屋に“着地した”。その際、両足を引きちぎられながらも、床を這って逃げ出そうとしていた暗殺者の胴を計らず踏み潰した。
「……バケモノが……!!」
死を悟って怯えることを止め、ダイニングキッチンのカウンターにもたれ掛かった暗殺者のリーダーが吐き捨てた。雁賀は顔を向けもせず、壁に掛けてあった白杖を取って男の方へ一歩近寄る。
「見ても今更驚かないか」
「……ああ驚くもんか。この街にお前みたいなのはうじゃうじゃいる。まさかそいつを殺せと命令されるとは思わなかったが」
“命令”。その単語を雁賀は強く意識する。単純明快に、連中を雇った何者かがいると理解できる。
「誰の命令だ? 貴臣会か?」
「言うと思ったかよバケモノめ」
それだけ言い残して男はこめかみを撃ち抜き、自害した。ひとり取り残された雁賀は、天井の染みにめがけて思い切り跳躍し、再び自室に戻った。
「ハァ……バカ弟子になんて言い訳しようか」
遂にやってしまったと呟くつもりが、真っ先に自分の立場を守らんとする自分の卑劣さに嫌気がさし、雁賀はしおらしく埃だらけの床に座り込んだ。ずっと昔に封印した筈の“力”を再び振るう日が来ないようにと、彼は願っていた。が、こうしてその時が来てしまった。ぐったりと死体のように振舞い、このまま本当に死んでしまえないかとも思った。今すぐその手で首を捻るか、舌を噛み切れば容易く命を断てるのに、そうしない自分が忌々しくて仕方がなかった。
――――この力が“あの時”も使えたなら、家族を救えただろうか。
自問してすぐに雁賀は否定した。『私はやらない』と確信していた。“人に恐れられること”を恐れて、ある日突然沸いて出たこの力をずっと封印してきた男が、例え何度タイムスリップしたところで妻と娘を救えるはずがない。いつだって復讐できたのに、そうすることで救えた命があったかもしれないのに、目が見えないからと言って見て見ぬフリをし続けた無責任な男に、一体何ができたというのだ。
「私は……!」
無意識のうちに血が滲むほど握った拳。それを壁に打ち付けて大穴を開け、中に隠されていた光沢のある紫色の金属でできた箱を引きずり出した。形状はよくあるアタッシュケースのようだが、表面には細い線で描かれた幾何学模様が蠢いている。雁賀の手がその表面を撫でると箱の表面が真ん中から開き、入れられていたモノがふわりと浮き上がって持ち主の手に収まった。その瞬間、雁賀の脳裏に再びドッペルゲンガーが現れた。ソイツは怒りに顔を歪め、じっと動かない。……絶対に動きはしない。怒るだけの弱い自分には、何の価値もない。直後、ドッペルゲンガーを思いつく限りあらゆる手段で殺した。空想の世界でさえ二度と蘇ることのないように念入りに殺した。そうすることでようやく雁賀は、邪魔者の背中に隠されていた自分の本心を目にすることができたのだ。
「私の怒りが……見える」
ソレは短剣ともナイフとも言えない、しかし明らかに武器であった。雁賀の声に反応して血のように赤黒い光を滴らせたソレは、報復を遂げんとする者の怒りを刃に変える超常の権化。
その名は『
報復者は、みえる。 ピンクは狂乱 @room3985
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