第1話 記者は、訪ねる。

 篠原 誠司 2020年9月7日 21時53分12秒 西区浄心


 暗い嵐の夜だった。浄心の入り組んだ古い住宅街を、靴の金具を鳴らしながら走り抜け、ようやくマンションにたどり着く。篠原の住むマンションもそれなりに古く、集合ポスト前の狭い廊下にある蛍光灯がチカチカと嫌な音を立てて点滅する様は、さながらホラー映画のワンシーンのようだ。自らの苗字が書かれたポストを静かに開け、乱雑に押し込まれたピザ屋のメニューと、郵便局の求人をまとめて引っ張り出して丸め、備え付けられたごみ箱に投げ込んだ。ピザはつい三日前に食べたばかりだし、仕事は間に合っている。つい三日前に、編集長への昇進がほぼ内定したばかりだ。


 十七年前より時を遡って、これほどオカルト雑誌に追い風が吹いた時代があっただろうかと、篠原は暇があれば考えている。かつて眉唾物のデタラメ未満ばかり綴っていた『新科学マルチバース』は、今やファッション誌を遥かに凌駕する売り上げだ。ここ最近が第二次アタリショックと呼ばれるゲームソフト大不況時代というのも状況に拍車をかけ、若い人の娯楽と言ったら『オカルト』という、信じがたい状況。無論、切っ掛けは九三年の千種区に堕ちた隕石だが、波を高く大きくしたのは間違いなく彼の手がけた記事だ。現編集長の新田にったの定年退職のタイミングで、人事部の人間から耳打ちで知らせが届いた。『が近い。偉いのがお前に白羽の矢を立てたぞ』それだけで何が言いたいのか、看破するのは容易かった。


 彼は内心では馬鹿みたいに舞い上がっていて、この帰り道でも痛いほど勢いよく降り注ぐ雨にほとんど気を留めなかった。が、そんな気持ちをフッと吹き消し、意識を現実に呼び戻したのが、ポストの底に取り残されていた茶封筒の存在だった。細いボールペン字で丁寧に、篠原と差出人の名が記されている。


 篠原 誠司せいじ


 東区白壁1-1 雁賀かりが ひろし


 差出人の名は早い段階でなんとなく見覚えがある気がしていたが、思い出せなかった。だが、この封筒の出どころが記載通りだとするな――――


「名古屋拘置所……?」



  2020年9月8日 10時28分10秒 東区白壁 名古屋拘置所 面会室


 雁賀博、60歳男性の画家で名古屋市千種区出身。抽象画ばかりの個展を度々開いており、熱狂的もとい、狂信的なファンが多い。そんな男が豚箱にぶち込まれたのは先月の頭。罪状は詐欺罪だった。逮捕されたときはそれなりに報道がされたのだが、芸術方面に弱い篠原は、昨晩ネットで名前を検索してようやく思い出せた程度で、雁賀の詳細なプロフィールはもちろん、絵画の世界におけるだとかの知識もさっぱりだ。そんな縁もゆかりもない業界のワルと面会するに至ったのは、やはり雁賀から送られた手紙に理由があった。


『珍しいヒトやモノを追っているあなたへ。ここにも』


 白い便箋のど真ん中にたった一行だけ記されていた。この短い文にどれだけの情報が込められているのかと、常人ならば時間をかけて勘ぐるか、そもそも相手をしないかの二択だ。だが、篠原は違う。彼は“ある経験”から、この謎めく薄っぺらな文が、簡潔で重大な意義を携えた告白だと読めた。故に、拘置所には朝いちばんで乗り込み、すぐさま雁賀との面会を申し込んだ。


 便箋の大部分の空白のように真っ白で殺風景な面会室に案内されると、既に手紙の送り主たる雁賀博が待っていた。アクリル板一枚を挟んで篠原も腰かけ、挨拶を交わす前にほんの僅かに彼の顔を観察する。短い頭髪のほとんどが真っ白で、堀の深い顔貌は年相応に老けてはいるが、髭を綺麗に剃り、背筋をピンと張って椅子に座る姿からは、少なくとも“老いぼれ”というような印象は受けない。ただ、雁賀はまるで眠っているかのように静かに瞼を閉ざしていた。


「……はじめまして、雁賀さん。私は篠原誠司です」初めに篠原が切り出した。出来れば自分のペースで話を運びたいと考えていたからだが、彼は自分で思っている以上に答えを早く得ようとする、結構せっかちな性格なのだ。


「はじめまして、篠原さん。来てくれて本当に、本当に良かった」


 雁賀は篠原が思ったよりもずっと通りの良い、高いトーンの声で話した。瞼は閉じたままだった。


「手紙、読んでくれたんですね。突然のことで驚かせてしまいましたか。いや、申し訳ないことをしました」


「いえ、そんな。驚きはしましたけど、気にしないでください」


 取り繕ったわけではなく、素直な感想だった。ただ、雁賀に会話の主導権を握られそうな気がして、篠原は直後にその手紙の収まった封筒をカバンから取り出して、雁賀に見せつけた。


「僕のことをどこで?」


「私はですから……ああ、見えないんですよ。若いころに怪我で視力を失くしましてね。だから退屈しのぎと言ったら音楽とか朗読とか耳に頼るものが多いんです。で、たまにから面白い話を聞かせてもらうんですよ。映画とか雑誌とかのね」


 雁賀は真後ろに立つ監視役の係員を親指で指し示して言った。


「私は古い人間だが、篠原さんのとこの記事は実に興味深い」


「分かりました」


 経緯を聞いておいてどうでもよくなった篠原は、苛立っているのを誤魔化そうともしなかった。


「本題に入りましょう。あなたは僕の探している……珍しいヒトですか? それとも、モノを持っていますか?」と、篠原が問うと、雁賀は「ふぅ」と息を吹き、係員の方を振り返った。そして……


「……キミ、外してくれるか?」と、一言だけ告げると、なんと係員は無言で面会室を出て行ってしまったのだ。篠原の側に立っていた男も同じく部屋を出てしまい、篠原は流石に狼狽する。警官が囚人に従う、この施設では立場が丸ごとあべこべになっているのだろうかと篠原は考えた。そんな彼に変わらない声色で雁賀は言った。


「大丈夫。篠原さんがなんとかの罪で捕まるなんてことはありませんよ。私がしておきましたから」


「これは……驚きましたよ。確かにあなたは珍しいヒトだ。拘置所ひとつ買収するなんてアメリカのドラマみたいだ」


 篠原の口の端が吊り上がり、それを見た雁賀は「フフフ」と肩を揺らして笑った。


「ここまでで判断されては困ります。大体篠原さんあなた、もっと珍しいのに出会ったのでは?」


「んー、リアル妖怪人間に、星の王子様に、自称人魚とか見てきましたから。で、雁賀さんはその……」篠原は『何ができるのか』と問うつもりでいたが、急に言葉を詰まらせた。それが適切な言葉選びではないと、直感的に気づいてしまったからだ。


「……?」


 『待っていた』と言いたげに雁賀はニタリと歯を見せて笑み、アクリル板に顔を寄せて、こう告げた。


「ひとりで、暴力団を潰しました。ひとり残らず皆殺しにね」

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