第2話 真実の眼は、語る。


 雁賀 博 2019年12月2日 11時49分6秒 名古屋市中区 大須新天地通り


 ゲームセンターやパソコンショップの喧騒、ちょっとした食べ物屋の食欲をそそる彩り豊かな香りから僅かに距離を置き、決して賑やかではない新天地通りの端に立てられたレンタルギャラリーで、雁賀博は個展を催していた。いつか故郷の街にどっしり腰を据えてアトリエとギャラリーを開くのが夢だったから、一歩近づけたと思えて気分がよかった。幸い彼の作品は根強いファンに恵まれたから、小規模でもお客は来てくれた。盲目の天才抽象画家なんてテレビで持て囃された頃と比べたら静かだったが、彼はが大嫌で、本当に絵画が好きな客だけ来てくれれば良いのにとさえ思っていた。その代わり、リピーター客とは話がつい弾んでしまい、あとを弟子に任せてギャラリーを飛び出し、コメダ珈琲に乗り込んでシロノワール(※コメダ珈琲のオリジナルデザート。バカでかいデニッシュにソフトクリームが乗せてある)をつつきながら夜まで話し合ったこともあった。


 牧野弾まきのだんはそんな中でも特に異彩を放つ男だった。雁賀は初めて出会った日のことが忘れられない。牧野はギャラリーのベンチに座っていた雁賀に向かって「これを描いた奴は飽きないんですかね」と言った。まるでそこにいる人間が誰なのかも分かっていないような口ぶりだったので、雁賀は驚きを誤魔化すように聞き返した。「何故そう思うのですか?」と。すると彼は「全部同じ絵だからですよ」と答えた。今度こそ雁賀は心から驚愕し、人生で初めて私の絵を理解できる人間が現れたのではないだろうかと考えた。しかし雁賀は悪戯心ではなく、ごく真面目な使命感にも似た心情で牧野を推し量らんとした。


「抽象画なんて素人が筆を適当に動かしても描けますよ」


「それは違います」牧野は即答した。


「この……雁賀って人は現実にある二つのものしか描いてない。いや、その片方は限りなく抽象化されているが、それはもともと形が無いものなんでしょうね」


「……それは何です?」白杖を顎に当てて問う。


「心っていうか、本人の気持ち」


 無責任な疑問形ではなく、自信に満ちた断言だった。更に牧野は畳みかけるように続けた。


「ここに並べられた絵はどれもこれも、人間の“目”が描かれています。同じ人間の。これは誰でも見つけられるが、それが現実にあるものだと誰も気づいていません。何故ならからじゃないでしょうか。俺にはなんとなく分かります。ここに映し出された感情は、この目に向けられた激しい感情なんです」


 間違いではなかったが、敢えて“正解”ともしなかった。雁賀はキャンバスに絵の具を乗せるとき、確かに強い感情を込めていた。しかし彼自身もその正体を分かっていない節があったからだ。ただ筆を持って乱暴に手を動かしていただけなのではないだろうか? 雁賀は胸の内で自問する。唐突に外部から突き付けられた答え合わせのために、雁賀は自分が茫然としていることに気づかなかった。その後二人はすぐに打ち解け、雁賀はいつものように弟子に店番を任せ、大須の街をぶらぶらと談笑しながら散歩していた。


 牧野は警察官だった。階級は巡査長で、もうじきキャリアまでのし上がれるという所で上司といざこざを起こし、謹慎中の身だった。


「四十? 見えないな」


「ははは、目が見えないのにどの口が言うんだい? 先生こそとても還暦目前には見えないな。もしや絵描きってのは、どいつもあんたみたいに背筋のピンとした元気な爺さんばかりなのか?」


「いいや、私が一番弱っちいさ。プロの絵描きはみんなデッサンを描きながら絵筆で宇宙人エーリアンを半殺しにできる」


「それは良い。俺らは遂にお役御免。空飛ぶ画家がカンフーで人を救う時代だ」


 雁賀はフレンドリーな性格だと自負していたが、彼が思うほど他人は雁賀を身近に感じてはいない。あくまで彼はテレビや雑誌のページを飾る有名人であり、たとえ目の前にいたとしても遠いところにいる人物でしかない。下手をすると人間によく似た画家という別の生き物のように無意識に考えている人もいた。だから雁賀は客人と話すとき、どう振舞っても自身と他者の間に薄くて固い“膜”があるように思えた。相手の顔が見えないからと、勝手な理由で咀嚼して無理やり納得したつもりだったが、喉の奥に蓄積した居心地の悪さが、いつか胃液と混じって出てくるだろうと確信もしていた。


 しかし牧野と出会って、ようやくあの破れなかった“膜”の正体を看破した。この男は今までの客と違い、雁賀のことを本当に知らなかった。かと言って大嫌いな“みいはあ”でもないのだから、“有名画家・雁賀博”ではなく、“年上の男・雁賀博”として殆ど変わらない目線で話しているのだ。どんなに見えなくても、今までの客が揃いも揃って尊敬の眼差しを向けていることは感じられた。つまり、その微妙な目線の違いの為に、自分だけ高いところに無理やり上らされたような錯覚をしていたのだ。


「ところでダン、聞くタイミングを失っていたんだが、どうして私のギャラリーに?」


 聞かれた牧野は「あー」とか「んー」とハッキリしない。雁賀は急かしたりしなかったが、彼の態度に違和感を覚えていた。特別変なことを聞いたつもりではない。なんとなく立ち寄ったとか適当な答えが返ってくるとばかり思っていたし、そうでなかったとしても絵画に元々興味があるというなら猶更嬉しかった。しかしこの牧野に限っては、そんな一般的な回答ではない特殊な事情があると察知できてしまった。


「あんたの絵に描かれた目、見覚えがある」


 躊躇いを含ませて恐る恐る牧野が切り出した。


「何年か前、ヤクザの銃撃戦が栄の方であったの覚えてる? テレビ局の前でドンパチおっぱじめたアレだよ」


 雁賀は無言だったが、明確にその事件を記憶していた。中天ちゅうてんテレビ前の路上で暴力団構成員八人が六対二に分かれて撃ち合う事件が勃発したのが、ちょうど四年前の夏の出来事だった。暴力団の名は『貴臣会きじんかい』、名古屋に拠点を置き、殺し・誘拐・ドラッグ・武器密売などなど金さえ積めばなんでもあり。銃撃戦そのものは会長の木島雅臣きじままさおみの死に伴って後継者をめぐる内輪もめが原因とされている。


「それが私の絵とどう関係がある」


「その……何言ってんだ? って馬鹿にするくらいのスタンスで聞いてほしいんだ。俺はあの事件から貴臣会絡みの事件の担当部署に入った。俺には家族がいないから仕事だけが生きがいで、貴臣会をぶっ潰すことが俺の存在意義とさえ思ってる。無論、構成員のことはもちろん、判明したあらゆる関係者の顔も名前もしっかり頭に入ってる。絶対に忘れない自信がある。そしてあんたの描いた絵は……」


「貴臣会の構成員のソレに似ている?」


 先を読まれた牧野はやるせなさそうに無言でうなずき、直後に雁賀が全盲ということを失念していたと気づき「ああ」と声に出して肯定し直した。それからしばらく互いに無言になった。楽しげだった二人を打って変わって不穏な空気が包み込む。何度か唾を飲みこんで、堪え切れなくなったように牧野が沈黙を破る。


「なあ先生は……」


「断っておくが、私は貴臣会の関係者ではない。調査にも協力しない」


「待て待て待て! まだ何も言ってないだろう」


「言うまでもない」


 カツンと白杖の先をアスファルトにぶつけ、雁賀はあからさまに憤る。


「私は画家だ。目が見えないことと絵が描けること以外に特別なことはできない。銃撃戦に立ち会ってもいない」


「でも」突然に牧野の声のトーンが低くなった。立ち去ろうとした雁賀もピタリと動きを止める。


 雁賀は光を湛えることのない目で睨みつけるように、眉間にしわを寄せた。対して牧野は永遠に開くことのない彼の目を決して怯まずに見つめていた。今度は僅かな躊躇いもなく問う。雁賀の光を奪った忌まわしき事件を――――


「先生の家族は、貴臣会に殺されたんだろう?」


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