星合い・四

 砂糖菓子でどうにか琥琅ころうの機嫌をとってから、どれほど経っただろうか。小道に積まれた木箱に腰を下ろして涼んでいると、通りの明かりが次々と消えていった。


「雷、なんで火を消す?」

「祭りが終わったんですよ。それに、これから‘星の契り’の時間ですから。織女と牛郎の逢瀬の邪魔をしないようにするんですよ」

「逢瀬?」


 琥琅は小首を傾げる。雷禅らいぜんこそ驚いた。


「織女と牛郎の話、知らないんですか?」

「知らない」


 目を瞬かせる雷禅に、琥琅は即答した。


 でも仕方ないことか。雷禅は一呼吸おいて納得した。琥琅も隊商で西域辺境の城市を巡ってはいたが、人間として最低限度の教養や立ち居振る舞いを学ばせることが最優先で、伝説や風習といったことは後回しだったのである。彗華で老師が雑談のときに教えてやらなかったら、彼女がこの伝説を知る機会は皆無だ。


 だから雷禅はこれをいい機会と、清民族なら誰でも幼い頃に一度は聞かされる物語を琥琅に教えてやることにした。


 ――神代の頃、天帝に仕える織女がいた。天の宮殿にて機を織るその娘は大変美しく、また彼女が織る織物はどの機織りのものよりも素晴らしかったため、天帝の覚えめでたく、求婚する者が絶えなかった。しかし彼女は異性や身なりにまったく興味を示さず、日がな一日、織り機に向かっては機を織る日々を繰り返していたので、嫁き遅れてしまわないかと家族は心配していたのだった。

 そんなある日、家族に勧められて宮殿の庭院を散策していた彼女は、天帝の御苑で牛を飼う青年――牛郎と出逢い、恋仲になった。双方の家族ははじめこのことを快く思っていなかったが、二人の幸せそうな様子を見て考えを改めるようになる。天帝も二人の婚姻には大いに賛成したので、二人は晴れて夫婦となることができた。

 しかし、牛郎に恋焦がれていたある娘はそれを快く思わなかった。織女を妬み、彼女に恥をかかせて婚姻を白紙に、できるなら織女が死んでしまえばいいと考えて、織女がいつも使っている糸に呪いをかけた。織女はそれに気づかず、その糸で天帝に献上する織物を織ってしまう。そのため、その織物で作られた服を天帝の妾妃がまとおうとすると、たちまちあたりは水で溢れてしまった。妾妃の侍女がただちに服を燃やすと洪水は止んだ。

 これに怒った天帝は織女を打ち首に命じたが、牛郎が助命を嘆願したため天河への配流に罰を減じ、その代わり、天の後宮にあふれた水を一人小さな桶で汲み、天河へ流すことを命じた。

 だが、牛郎が妻を想って仕事に手をつけられず、子供たちが泣き悲しんでいるのを見た天帝は憐れんで、年に一度だけ、二人が一夜を過ごすことを許したのだった――――


 雷禅が伝説を語り終えた後も、琥琅はしばらくの間、何も言わずにいた。視線を動かし、物語の意味を自分なりに理解しようとしているのだろう。琥琅のささやかな成長を喜び、雷禅は彼女が口を開くのを待った。


 やがて、琥琅はぽつりとつぶやいた。


「…………なんで、どっちも、会いにいかない?」

「会いたいなら会にいけばいい……ですか。貴方らしい感想ですね」

「だって、待ってても会えない」


 くすりと笑んだ雷禅に、琥琅はそう即答した。

 本当に、琥琅の感想はどこまでも竹を割るように明快だ。情緒の欠片もなく、幼子の単純さしかない。


 羨ましいと、雷禅は少しだけ思う。どれほど血にまみれ死を振り撒こうとも、琥琅の心は無垢なままだ。頑是ない子供のように素直でまっすぐで、偽ることを知らない姿勢は、見ていていっそ清々しい。どうしようかと迷ってばかりでなかなか動けない自分とは大違いだ。

 子供らしすぎて雷禅を筆頭とする周囲に迷惑をかけまくっているのも事実だが、それでもこの素直さは美徳であると、雷禅は思っている。


 自然と雷禅の頬から笑みがこぼれた。


「……貴方なら、どんなに遠くに離れていても、諦めないで会いにいくのでしょうね」

「当然。絶対、雷のとこ、行く」

「……は?」


 一瞬何を言われたかわからず、雷禅は硬直した。その顔を、いつ間にか天河を見るのをやめた琥琅が無表情で見上げてくる。


「雷?」

「……なんで、僕なんですか」

「雷、一緒がいい」

「……」


 いやだから、と雷禅は言おうとしたが、言葉にならなかった。


 わかっている。これは純粋な好意と絶大な信頼の表れであって、恋愛感情などでは決してない。いきなり雷禅の名が出てきたのは、きっと祭りの途中ではぐれていたことも影響しているのだろうと思う。


 わかっているが、それでも頬や耳が熱くなるのはなぜだろう。どうしてこうこの人は、とんでもない科白をさらりとのたまわってくれるのだろうか。


 えもいわれぬ感情が、じわりと体中に広がっていく。嬉しさも切なさも、苛立ちも恥ずかしさも詰まった熱はくすぐったくて、ひどく優しい、凶暴な気持ちが生まれてくる。


 その気持ちから逃げたくて、雷禅は琥琅から目を逸らした。


 乞巧奠は元宵節のように夜遅くまでする祭りではなく、月が沈み始めたら終わりだ。明々と夜を照らしていた灯りを消し、牛郎と織女の逢瀬の邪魔をしないようにする。いくつかの灯籠の火は灯っているがそれは後片付けのためで、祭りを華やかに彩るためではない。


 店が閉まり、灯りが消え、人の波が遠のいていく。空を見上げれば上弦の月が煌々と輝いていて、天河の畔で一年ぶりにまみえた二人を隠すかのようだ。

 賑々しい祭りの余韻はまだ雷禅の中にあったが、それ以上に、琥琅と二人きりでいるという幸福が彼を満たしていた。今はもう手をつないでいるわけではなかったが、それで充分だった。


 帰路に就く人々の波が引くまで、もう少しだけこうしていたい――――。雷禅はそう幸福に浸っていたのだが、しかし幸福に酔いすぎてか、ぼんやりしているうちにうっかり変なことを考えてしまった。


 これって牛郎はどっちなんだろう。


 当然雷禅は、このあまりにも阿呆な疑問を瞬時に頭の中から抹消しようとしたが、一度思いついてしまったことはなかなか消せないもの。むしろ消そうとすればするほど、脳裏にこびりついていくものである。


 冗談ではない。琥琅が牛郎で自分が織女なんて、いったいどこの笑劇だ。琥琅が織女だったとしても、牛郎が待っている側なのだからやはり話にならない。芝居だろうと何だろうと、普通なら男が女を迎えに行くものだろう。

 しかしこれまでの自分たちの関係とつい先ほどの琥琅の科白を鑑みる限り、どう考えても琥琅が迎えに行く側である。先日の妖魔退治とて、囚われたのは雷禅でそれを助けにきたのは琥琅だった。そもそも琥琅はその場にじっとしている性質ではない。


 自分に武芸の才がないのも琥琅が男前すぎるのも仕方ないことなので諦めているが、こうして改めて考えてみると、もう泣けるというより脱力する。ここまで情けないのか自分。己のあまりの情けなさに、雷禅はもういっそ穴の中に入ってしまいたい気分だった。


「雷? どうした?」


 自分の一言で雷禅が浮き沈みすることなど露ほども考えない琥琅は、能天気にも雷禅の顔を覗きこんでくる。素直さは美徳だが、このどうしようもない鈍さは罪だと思う。

 内心では沈みつつ何でもありませんと答え、雷禅は立ち上がった。


「琥琅。通りもだいぶ空いてきたみたいですし、そろそろ帰りましょう」

「ん」


 いつかの逢瀬とは違って琥琅は素直に頷き、立ち上がった。無造作に雷禅の手を握る。


「雷、どっち?」

「こっちですよ」


 通りと路地の奥を交互に見比べる琥琅に雷禅は苦笑しつつ、彼女の手を通りへ向けて引いてやった。

 人通りが少なくなった通りは、歩けば歩くほどに静かになっていく。綜家の邸があるのは高級商店が並ぶ一帯なので、自然とそうなるのだ。家に帰りつく頃には、きっといつもの夜のような静寂を取り戻しているだろう。


 いくつかの筋を通り、完全に人気がなくなったのを見計らって琥琅は紗をとった。釵を抜き、髪紐を解いて、義母や馴染みの使用人の手によるものだろう髪をばさりと無造作に下ろす。軽く頭を振っている様子は心なしか嬉しそうだ。ようやく髪を下ろせたからだろう。釵と結い紐をなくさないといいのだが。


 結局祭りの終わりまで琥琅が往来にいられたことに、雷禅は内心では驚いていた。琥琅のことだから、途中で帰るとか言いだすと思っていたのだ。だけど人が多いだの何だのとぶつくさ言いつつも、彼女は一度も帰るそぶりをみせなかった。食欲が不満を凌駕しただけかもしれないが、これもまたわずかな進歩なのかもしれない。


 何にせよ、祭りを少しは楽しんでいたようだから、それでいいのだろう。


乞巧奠きこうでんが終わってしまいましたから、次は新嘗祭しんじょうさいですね」

「祭り、まだある?」

「ええ。西域辺境じゃそんな感じしませんけど、他の地域じゃそろそろ収穫の季節ですから。――琥琅はまた祭りに行きたいですか?」


 雷禅が期待を胸に問うと、琥琅はまたしても衝撃的なことを言ってくれた。


「ん。今度、白虎も」

「……」


 ええ、そうでしょうね。期待した自分が馬鹿でした。雷禅は心底思った。

 従者思いなのはいいが、これはこれで困る。雷禅は琥琅と二人きりで祭りを楽しみたいのだ。甘ったるい感情を理解しない虎娘に、口が裂けたってそんなことは言えやしないが。


 ‘人虎’に淡い夢を見てしまった自分に呆れながら長息をついて気を取り直し、雷禅は言った。


「琥琅。今度もし祭りではぐれてしまっても、ちゃんとその場で待っててくださいね。今回みたいにすぐ会えるとは限りませんから」

「……雷、探してくれる?」


 小首を傾げて琥琅は問う。今更になって雷禅は気恥ずかしくなった。が、前言撤回なんてできるはずもない。


「ええ。僕が琥琅を探しますから、待っててください」


 言って、雷禅はそうだったと気づいた。

 隊商にいた頃、人間の気配を嫌って天幕の中に籠りがちな琥琅の世話を焼いてやるのは雷禅の役目だった。教養や立ち居振る舞いを教えてやるのも、天華てんか義叔父おじと共同でおこなった。中原へ商談に向かってから彗華に帰ってくるまでも、それはさして変わらなかった。

 そう、神連しんれん山脈で夜の川へ案内してやったときも、雷禅が手を引いてやったのだ。


 そうだ、自分は琥琅に守られてばかりだけど、何もできないわけではないのだ。


 剣胼胝がある気紛れなこの手は、つないでもすぐに解けて別のものを掴もうとする。ならば、そのたびにつなぎ直せばいい。剣を握っていても食べ物を握っていても、いつかはそれらを手放して空くのだから。

 人の世をおそれ、関わるたびに戸惑う彼女が迷子にならないように手を引いてやる。きっとそれが、自分の役目なのだ。


「うん、待ってる」


 琥琅はそう首肯し、雷禅の腕に抱きついてきた。

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光を見つけに ―清国虎姫伝 番外― 星 霄華 @seisyouka

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