星合い・三
「? 雷?」
若鳥の照り焼きを買った
照り焼きを一口食べて、もう一度辺りを見回す。しかし立ち止まることを知らないかのように琥琅の横を通り過ぎていく人々ばかりで、見慣れた青年の姿はどこにも見当たらない。
「雷?」
来た道を戻りながら辺りを見回してみても、雷禅は見つからない。照り焼きを食べ終えてもまだ見つからなかった。
絶え間ない喧騒、秋の冷えた夜気を感じさせない熱気、何種類もの食べ物の匂い、どこからか流れてくる楽の音。
立ち竦んだ琥琅は急に不快で――不安になってきた。
琥琅は人間嫌いだ。だから、本当はこんな人ごみの中にいるのは好きではない。
けれど今日は、
雷禅と一緒だという一言に心動かされたところで言いくるめられて、こんな格好をさせられたのだが、確かに祭りは楽しかった。人ごみや動きにくい恰好にはうんざりだけれど、昼のような明るさの大通りの両側に屋台が所狭しと並んでいて、美味しそうな匂いがそこかしこから漂ってきていた。開けたところでは雑技団が芸を披露していて、知らない獣を連れていたりした。そう確か、獅子。雷禅の義父の知り合いが飼っているから、連れて行ってくれるという。琥琅はそれが楽しみでならない。
――――でも今、雷禅が隣にいない。
それだけなのに、琥琅はとても心細くてならなかった。いつの間にか気にならなくなっていた周囲の喧噪や人々の熱気、首筋にかかる披帛の肌触りが、今はひどく煩わしいものに思える。心の臓の音がうるさく、痛い。
――――雷禅が、いない。
「……っ」
気分が悪くなってきて、琥琅は路地に逃げこんだ。冷たい壁に頬を押しあてて、深く息をつく。
しゃがみこみ、琥琅は膝を抱えた。
だから、人ごみの中へ行くのは嫌だったのだ。赤子の頃から神連山脈の緑濃い静寂の中、獣や人間の賊たちと生死を争ってきた琥琅にとって、人間は未だ同族ではない。異種族の群れの中に、誰が好んで行くものか。
きつく目を瞑ると、雑技団が連れていた獅子の姿が琥琅の瞼に浮かんだ。
どうしてあの獅子は、ああも泰然としていられるのだろう。異種族に囲まれて同族はおらず、孤独であるのに彼は、自分に向けられた異種族の視線や匂い、声をまったく気にせず、堂々としていた。肉を食らう獣としての威厳を忘れない姿と今の己を比べると、琥琅は情けなくて頭を上げていられない。
これではまるで、昔の自分に戻ったようだ。雷禅以外の何もかもに怯え、警戒していたあの頃に。祭りの最中に雷禅とはぐれただけなのに、それがこんなにも怖い。
こんなことになるなら、ちゃんと手をつないでおくのだった。雷禅が今よりもずっと意地悪だった頃のようにあの手を握っていれば、はぐれたりしなかったのに。買い食いなんかしなければよかったと、今更になって後悔する。
「……あれー、もしかして琥琅さんじゃないですかー?」
もうこのまま邸に帰ろうかと思っていると、不意に聞き覚えのある声がした。反射的に顔を上げると、灰白色の髪を無造作に括っただけの男と少年と、琥琅と同年代らしき青年がいる。
中原から
長身の男――
「おーすっげー、‘
「……秀瑛様、それは失礼でしょう」
「そうですよ秀瑛様。女の人が女の人の服着るのは、当然じゃないですか」
額に指を当てた青年――
そうかもしれねえけどよ、と秀瑛は口をへの字に曲げた。
「こいつは例外だろー? 旅の間中ずっと男の恰好だったし、男言葉だし。お前も、顔わかんないのによく琥琅殿だってわかったな」
「丸まってる感じとか、なんとなく、雷禅殿にくっついてるときの琥琅さんっぽかったんですよ。あんなに真っ黒い髪と白い肌の女の人も、西域辺境じゃ見たことないですし。――――それより琥琅さん、こんなところでどうしたんですか? もしかして気分、悪いんですか?」
黎綜は琥琅の前に膝をつき、心配そうに首を傾ける。琥琅は無言でこくんと頷いた。
それはいけない、と伯珪は眉をひそめた。
「ここよりも向こうの広場のほうが、気が休まるだろう。飲み物も売っているし――そういえば、雷禅殿はどうしたんだ? 一緒じゃないのか?」
「……はぐれた」
「なんかあんた、すげー子供みてーだな」
問われるまま琥琅が不機嫌に頷くと、秀瑛はけらけら笑う。秀瑛様、と伯珪にたしなめられてもまったく気にしなかった。
「だってそうだろ? 頷くだけだし、ほら、このしょぼくれたところとか。黎綜より子供っぽいぞ」
「誰が子供っぽいですか!」
黎綜が口を尖らせて秀瑛に言う。すると、旅の途中で見慣れたあのじゃれ合いがまた展開される。
それをやれやれとばかり呆れたように見やり、伯珪は琥琅に向き直った。
「ともかく、雷禅殿とはぐれたのだったら、私たちと一緒に――」
「――琥琅!」
伯珪の誘いを遮ったその声に、琥琅はばっと振り向いた。通りのほうから、人ごみをかき分けてやってくる雷禅がいる。
その姿を見た途端、琥琅はそれまで胸にあった不安や心もとない気持ちが消えていくのを感じた。彼が自分のそばにやってきたときには、ただ安堵ばかりが胸に広がる。
雷禅は、伯珪たちを見て目を瞬かせた。
「これは秀瑛殿……それに伯珪殿に黎綜殿まで。皆さんも乞巧奠の見物に?」
「ああ。まだ仕事があるというのに、秀瑛様がどうしても見たいとだだをこねた挙句、執務室から逃げようとしたからな。仕方なく、お供をすることになったんだ」
「だって、もう一週間は書類仕事ばっかりなんだぞ? それに今日逃したら、また来年まで待たなきゃなんねえし。息抜きだよ、息抜き」
秀瑛は口の端を上げ、問題ないとばかり豪快に笑ってみせる。よほどうんざりしていたに違いない。伯珪は苦笑するばかりだ。
安堵したばかりだが、彼らのやりとりを見ているうち、琥琅はなんだか腹が立ってきた。特に、雷禅に対して苛立ちが募る。
琥琅は文句を言う代わりに、雷禅を睨みつけて服の裾を強く引いた。雷禅は琥琅を見下ろすと、困ったように眉を寄せる。どうしよう、と頭を必死に回転させているのが丸わかりだ。
伯珪も琥琅の機嫌を察してか、それよりも、と口を開いた。
「雷禅殿、琥琅殿は気分が悪いようでね。邸へ連れて帰ったほうがいいと思うよ」
「え、そうなんですか?」
それは雷禅が琥琅に向けて発した問いだったようだが、琥琅は雷禅の服の袖を握ったままぷいとそっぽを向き、無言を通した。伯珪たちの困惑したような、苦笑したような気配がする。
秀瑛は喉を鳴らして笑った。
「くっくっく、お姫様がへそ曲げちまったぞこりゃ。綜の御曹司、早く連れて帰ってやったほうがいいんじゃねえの?」
「みたいですね。それじゃ、僕たちはここで。――いい祭りを」
「君たちも、いい祭りを」
そう言葉を交わし、雷禅は琥琅を促して路地の奥へ足を向けた。
喧騒から遠ざかるほど、二人の足音ははっきりと聞こえるようになっていった。琥琅の身を案じてか、歩みはゆっくりだ。つないだ手は汗ばんでいて、けれど少しも不快ではない。
本当はもう気分は良くなっていたのだが、琥琅は何も言わなかった。それは一人にされたことをまだ少しだけ怒っていたからでもあるし、気分が良くなったことを言う気になれなかったからでもある。
いくつかの小道を過ぎて、琥琅と雷禅は、さっきの通りよりは人のいない通りに続く小道で休むことにした。積み上げられた箱に腰を下ろし、通りを歩く人々を眺める。
雷禅は、情けない顔で琥琅を見下ろした。
「まだ怒ってるんですか琥琅。仕方ないじゃないですか。貴方を待つ間に別の店を見ていたら、急に横から押されてしまって、ようやく人ごみから抜けられたときには随分流されていたんです。あの人ごみだから、貴方を見つけるのは大変でしたし。不可抗力ですよ」
「……」
琥琅はそれには答えず、雷禅の手をぎゅっと握った。
「怖かった」
「………………」
少しだけ胸に残っていた恐怖を琥琅が吐きだすと、ややあって雷禅は長息をついた。口の中で何かもごもご言っているが、ちょうどそのとき歓声があがってよく聞き取れない。熱気のせいか、雷禅の頬は少しばかり赤い。
「雷?」
「いえ、ひとり言です」
雷禅はそんな嘘を言う。それを琥琅が追求しようとする前に、わざとらしげにそうだ、と袂を探る。
「さっき、お菓子を買ったんです。食べますか?」
「……」
嘘をごまかそうとしているのは明らかだったが、菓子、と聞いて少しばかり心が動いた。それを見計らったかのように菓子袋の口を開いて、雷禅は菓子をてのひらに一粒乗せて琥琅の前に伸ばす。
菓子は、赤や紫や緑、色とりどりの小さな粒だった。たまらず手にとって舌で転がすと、砂糖の味がする。ほんのりと甘くてしつこくなく、美味しい。
「……美味しい」
「もっと食べますか?」
「うん」
琥琅が頷くと、雷禅はまた差し出してくれた。それを食べてもまだ足りなくて、雷禅から菓子袋を強奪する。
そんな琥琅を怒るでもなく、雷禅はくすくすと笑った。
「
「ん」
琥琅は頷き、袋から菓子を鷲掴みして口に放り込んだ。
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