星合い・二
辺りを見わたす限り、どこまでも人の波が続いている。閑静な住宅地から大通りへ一歩足を踏み入れた
「……なんか、例年以上に人が多いですね。妖魔の脅威が去って、
「……」
「そう不機嫌にならないでくださいよ
雷禅は苦笑し、琥琅をたしなめた。
秋に入って初めての上弦の月を迎える今宵行われているのは、
先代西域府君の悪夢が去り、復興を始めた矢先に妖魔の災害に見舞われ、西域辺境の都たる
だからこそ皆、こうして浮かれ騒ぎ、景気づけをして、嫌なことを忘れてしまいたいのだろう。お祭り好きなのは彗華の土地柄である。先代西域府君が更迭された日も、
「ここで突っ立っているわけにもいきませんし、とりあえず歩きましょう。琥琅だって、祭りに行くのは初めてでしょう?」
「ん」
雷禅が促すと、琥琅は素直に頷いた。
灯籠があちこちで色とりどりに灯され、通りは昼間のように明るい。ひきもきらぬ人々を狙って露店がいくつも立ち並んでは客寄せをし、辻では芸人が芸を披露して喝采を浴びている。酒楼や飯店からは楽が流れてきて、喧騒に溶け込んでもう楽の音に聞こえない。
道行く人々は誰もがそれなりにめかしこんでいるが、特に若い女性の装いは華やかだ。流行りの鮮やかな色調の身なりに煌めく装身具。横切るときに化粧の匂いがし、歩搖が涼やかな音をたてる。きっと男たちを虜にしようと、時間をかけて準備したに違いない。庶民にとって祭りは、重要な出逢いの場なのだ。ましてや今宵は離れ離れの夫婦が逢瀬を交わす夜だから、艶めいた雰囲気が先立つのは当然のことだった。
少し肌寒い夜気も、通りを歩く人々やらその数だけある興奮やらのおかげか、感じないどころかむしろ熱いくらいだ。祭りの熱気が街に満ち満ちていて、その場にいるだけでのぼせてしまいそうになる。
琥琅はいつもなら、長すぎる裾や袖だと動きにくいからと言って女装を嫌っているのだが、今宵は雷禅の義母に言いくるめられ、質素ながらも女の装いをしている。
金糸の刺繍がされた翡翠色の襦と素色の裙、朱の衫。ぬばたまの黒髪は浅緑の結い紐で軽く結い上げ、挿す花釵は花弁に紅玉をあしらった金細工だ。はた迷惑な美貌は、披帛を上手く使って上半分を隠している。
姿だけ見れば、友達や家族、あるいは恋人と連れだって祭りを楽しむそこらの若い娘とそう変わりない。それでも通り過ぎる人ごみから、もしかしてとこの風変わりな娘の素性に気づく声が時折聞こえるのは仕方ないだろう。綜家の‘人虎’が顔を隠したがり、御曹司のそばを離れたがらないことは、すでに彗華の噂になっているのだ。
「雷、あれ何」
琥琅が雷禅の袖を引いたので、そちらを見やった。
露店と露店の間だ。小さな老婆が、布を敷いた台の上に小さな籠を伏せている。
「ああ多分、蜘蛛占いですね。籠の中に入れた蜘蛛を使って、芸事とか裁縫が上手くなれるかどうか、占ってもらうんですよ」
織女が織る織物は、天帝やその妾妃たちも絶賛するほどの出来栄えだったと言われている。だからこの日には古から、蜘蛛や針を用いて占いをし、軒先を五色の糸で飾り、祭壇を
占いに興味のない琥琅はすぐに関心を失い、首をめぐらせて通りを見やる。しかし見えるのは人の姿と屋台ばかりだ。
十字路にさしかかって、琥琅はまた雷禅の袖を引いて大通りを指差した。
「雷、あいつは?」
琥琅が指さしたのは、雑技団の芸だ。檻から放たれた獣が、猛獣使いの合図に合わせて助走し、青年が持つ輪の中をくぐり抜ける。
琥琅の興味を引いたのは、虎に似たあの獣だろう。ただし虎のような縞はなく、代わりに首の周りを鬣が覆っている。毛並みは羅鹿のような、乾いた大地に似た色で、瞳も同じ色をしている。
一緒に芸を見ながら雷禅は答えてやる。
「あれは獅子ですよ。ずっと西の
「ない。綜家、飼ってる?」
「いえ、さすがに獅子は飼ってませんよ。でも確か
「ん」
雷禅が尋ねると、琥琅はこくんと頷いた。常には感情を浮かべない目はきらきらと輝いていて、まるで子供のようだ。まとう空気も心なしか、そわそわしている。
「じゃあ、帰ってから義父上に頼んでみましょう。多分、承知してもらえると思いますよ」
「……!」
「ってこら琥琅!」
ぱっと顔を輝かせた琥琅に抱きつかれ、雷禅の顔はたちまち真っ赤になった。振り払おうとすれば、見ていた周囲がくすくす笑い二人をひやかすものだから、余計に顔が熱くなる。
そんな一幕があった後も、店をひやかしたり実際に買ったりしつつ、二人はのんびりと歩いた。というより、人出が多いものだからなかなか進めないのだ。それに琥琅も雷禅も夕餉を食べていなかったから、あちこちから漂ってくる匂いに我慢できず、買い食いしてしまう。特に琥琅は大食らいかつ屋台特有の食べ物を知らないので、目についた端からあれこれ買いまくるのだ。だから自然と歩みは遅くなり、食べるほうに集中してしまうのだった。
雷禅が辺りを見回っているそばから琥琅はまた食べ物に目をつけて、揚げ物をしている店に駆け寄る。無表情ながらも嬉々としたその様子に、後を追いかけながら雷禅は呆れた。
「これ、二つ」
「ん、おお…………?」
他の客の相手をしていた店主が、新しい客に気づいて応対しようとする。しかし差し出された料金を受け取るよりもまず、紗で顔を隠す若い娘をじろじろと眺め回した。太い眉根がむむ。と寄る。
「もしかしなくてもあんた、‘
「ええ、そうですよ。今日は祭りですから、無理に連れ出してみたんです」
ずいと身を乗り出してきた店主に、雷禅が琥琅に代わって答えてやる。綜家の使用人たちとすらまともに言葉を交わさない琥琅が、初対面の人間に答えるはずがないのだ。ぐるぐる唸らせるのもまずい。
ああやっぱり、と疑問が解消された店主は顔をほころばせた。
「そうだよな、綜家の‘人虎’は顔を隠してるって話だし」
「……二つ」
店主が世間話を始めそうな勢いなのを感じとったのか、不機嫌そうな声で琥琅は店主に仕事を促す。店の店主はからから笑って、狐色の丸い揚げ物を二つ琥琅に渡した。出来たてらしく、油を塗った紙に包まれた二つの揚げ物からは、湯気が立ち上っている。
それを琥琅ははふはふ言いながらかぶりつく。せっかく着飾っているのに、女性らしさの欠片もない食べっぷりだから台無しだ。――――まあ、そもそも良家の令嬢は買い食いも立ち食いもしないものなのだが。‘人虎’なのだし、考えるだけ無駄だ。
あっという間に二つ食べ終えた琥琅は、ぐいと金を突きだした。
「もう一個」
「あっはっはっ、まだ食うのかい! 食い意地の張った嬢ちゃんだなあ」
「なあに言ってやがる。そのぶん儲かるからいいだろう」
「そうそう、‘人虎’なんだから食い意地が張って当然だろ!」
琥琅の催促に店主が苦笑すれば、琥琅の後ろに並んでいる客たちが笑って茶々を入れる。微妙に失礼なものもあったりしたが、こんな場なのだからご愛敬だ。琥琅は少しも気にしていないし、そもそも彼女の食い意地の張りっぷりは弁護の余地がない。
からからと笑う店主は、おまけだと言ってさらにもう一つ多く、揚げ物を紙に包んで琥琅に渡してくれた。しかも、お代はいいと言って受け取ろうとしない。ただにしてくれるらしい。
「あんたが妖魔を退治してくれたおかげで、郊外の集落にいるうちの次男の心配をもうしなくていいんだ。このくらいでお代なんてもらえねえよ」
琥琅が目を瞬かせて不思議そうに見上げると、店主はそう、笑みをこぼした。
揚げ物を受け取り店主に礼を言い、店から離れた後。歩きながら、雷禅はちらりと隣の琥琅を見た。
琥琅は先ほどもらったばかりの揚げ物に、またかぶりついている。妖魔退治を感謝されたというのに、店主の気持ちは少しも彼女の心に響くものではなかったらしい。
仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれない。彼女にとってあの妖魔は養母の仇であり、倒すべき敵だったのだ。感謝されることをしたつもりなど、欠片もないだろう。
しかしそれでも、感謝される喜びを理解できないのは、人としてどうなのか。雷禅は何も言わなかったが、内心では複雑だった。
雷禅が思い悩んでいる間にも琥琅は食べることをやめず、おまけの揚げ物も食べてしまった。それでもまだ、食べ足りないらしい。もう結構な量を食べているはずなのだが、通りの左右に並ぶ屋台に忙しなく首を巡らせては、料理に目を輝かせている。
男女が二人で祭りに出かけるのは逢瀬であるはずなのだが、食べ歩きの世話をしているような気がする。いや、気がするどころじゃなくそのものだろう。
琥琅に甘い展開を求めること自体が間違いなのだが、それでも何だかやるせない。せっかくの逢瀬がこんな食いだおれでは悲しすぎる。せめてあとひとつくらい、雷禅にとっての救いはないのだろうか。
剣胼胝のある細い手に逃げられた自分の手が、さみしく感じられる。けれど手を繋ぎたいなんて恥ずかしくて言えないし、そもそも琥琅の手は空いていない。
次は屋台に並んで豚骨麺を買おうとする琥琅を横目で見ながら、雷禅は予想通りの展開になってしまったと、心からのため息をついた。
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