背中 しじゅう

 大基の部屋を引き継いで、さゆみは暮らしてきた。大基がいた時そのままの家具、そのままの食器、そのままの衣服。大基がいつ戻って来てもいいように、ずっと変えることなく、待ち続けていた。


 けれど、もう必要ない。大基は帰って来たけれど、さゆみとは違う世界に行ってしまった。この部屋を引き払う決心がやっとついた。


「さゆみ、梱包が終わったものから運び出すから、こっちに出してくれ」


 部屋の片づけに、斗真は全面的に力を貸してくれた。彼の左手の薬指には、もう指輪はない。


 さゆみも斗真も大切なものを失くした。けれど、普通の顔をして生きている。そのうち、思い出すことさえしなくなるのだろうか。

 大基が帰ってきたら、過去からすべてやり直せると思っていた。けれど、大基は絵の中に塗り込められたままだ。遺骨は家族の元へ戻った。もう二度と顔を見ることは出来ない。


 人生は失うことがすべてなのだろうか。手にしたものは幻のように消えてしまうだけなのだろうか。


「さゆみ? どうした、ぼーっとして」


 呼ばれたけれど、振り返ることが出来ない。いつか失くしてしまうなら、最初から手に入らない方がいい。そうしたら傷つかずにすむ。

 斗真がこれ以上、大切になってしまう前に、私の中から消してしまえば……。


 ギシっとすごい音がした。

 トイレの前の床がきしむ音。斗真がこちらに歩いてきている。

 さゆみを心配して手を伸ばしてくれる。優しい手を。


 ああ、だめだ。

 やっぱり、だめだ。

 もう失う辛さには耐えられない。

 斗真を忘れてしまおう。

 私の中から、消してしまおう。


 その決心を伝えようと、さゆみはゆっくりと振り返った。

 そこに、斗真はいなかった。

 いや、斗真はいる。いるけれど、それは斗真の背中だけだった。

 背中、背中、背中。


 斗真はどんな顔をしていた?

 斗真はどんな声をしていた?

 斗真はどんなふうに笑った?

 斗真は本当に私の側にいた?


 わからない。何も思い出せない。

 見えるのは、ただ、背中。

 そこにあるのは、ただ、背中。

 さゆみは消えてしまった斗真の、残された背中を、ただ、見つめていた。

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  憑 狂 かめかめ @kamekame

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