終章 胸に傷を持つ人々へ

 あれから一ヶ月が経った。雨が少なく、しかし晴れ間が多い訳でもないぐずぐずとした梅雨だったが、そろそろそんな時期も終わりが近付いている。ニュースではその事を扱う片手間で、D13が引き起こした大規模テロ行為の事を取り上げていた。

 今年の梅雨みたいだ――雅也はラーメンを啜りながら、テレビから流れて来るニュースに耳を傾けた。いつものラーメン屋でいつものメニューを食べながら、いつものようにつまらなさそうな顔をしている。

 D13テロ事件と呼ばれる事となった一連のテロ行為は、アポロやメドウサの他、各地に潜伏していた幹部たちの確保と、首謀者として担ぎ上げられた影山ましろの死によって終息し、D13の蜂起に便乗して行動を起こした反社会勢力の多くが連鎖的に逮捕された。又、D13が目論んでいたアジアやヨーロッパ諸国との対立は起こりようもなく、各国首脳陣からは呆れにも似たコメントが寄せられた。被害の規模で言えば二〇年前のスティグマ神霊会関連の事件よりは大きかったが、“伊舎那”の使用が阻止され、警察や自衛隊の連携が巧みだった事もあり、すぐに復興に向けて動き出している。そしていつまでもだらだらと、D13関連のニュースを扱っているのだった。

「最近、こればかりですね」

 店の隅のテーブルに大量の料理を並べている雅也の横に、綾部一治がやって来た。見れば綾部はいつもの黒い外套ではなく、白地に蒼い花の模様を散らしたかりゆしに、黒いジーンズを穿いていた。物珍しいラフな姿に吹き出しそうになったが、ラーメンを汁まで啜って我慢した。

 綾部は雅也の表情を動かした事に少しだけ得意げになった様子で、向かいの席に腰掛けると店員を捕まえて塩ラーメンと餃子、半チャーハンを注文した。昨日まで沖縄に行っていたんです、綾部は割り箸を取って二つに割ると、雅也の皿からエビチリを失敬しようとしたが手をはたかれて箸を引っ込めた。

「テレビ的には美味しい話題ですね。D13の事、ホワイトロータスの事、スティグマ神霊会の事、二〇年前の事、影蔵自身の事……暫くはこれで視聴率を稼げる事でしょうから。あ、そうだ、今回の事件の所為で、影蔵の死刑執行が見送られる事になったらしいですよ。幹部たちを捕らえたとは言え残党はまだいるでしょうし、第二、第三のクラウドが擁立され、次の攻撃が始まるやもしれませんからね」

「影蔵の死刑?」

「ええ。あれ、知りませんでしたか、ちょっと前……貴方がホワイトロータスを追い始めた前後でしょうか、そんな頃に、東京拘置所から移送されたという話になっていたのですよ。まぁ、公安を始めとした色々な組織が動いて残党狩りに躍起になっていますから、巧くすれば今月中に執行されるでしょうね。少なくとも来年まで持ち越される事はないでしょう」

「ふぅん……」

「そうそう、今回の件で、沖縄にまでテレビの取材が来ていましたよ」

「沖縄?」

「ええ、あの事件の後、“伊舎那”の後遺症の静養の為、沖縄に移住した方……ああ、貴方のご友人でしたね、確か」

 メグの事だった。辰美の家でカメラに朝田母子の痴態を撮影して残し頭部を殴打されたメグは、スティグマの信者だった小井出に“伊舎那”で暗殺される所だった。あの事件は病院内の患者や職員の多くに重傷を負わせ、“M市毒ガス事件”として世間を騒がせる事となった。その後、メグは半身麻痺を起こし、家族で沖縄に移り住む事にしたのだった。

 そのメグに、今回の事件に関してメディアが取材に押し掛けたのだ。

 どうだった? 雅也は訊いた。雅也はその放送を見ていない。

「別に」

 綾部は素っ気なく言った。自分から振った話題のくせに――雅也は少しむっとした様子でビールを咽喉に流し込んだ。

 口元の泡を拭い、ラーメンを片付けに戻る雅也。麺を具ごと一気に啜り、そのままスープまで吸い込んでしまいそうな勢いだった。綾部の所に彼が注文した塩ラーメンが来ると、丼を奪い取って箸を突っ込んだ。酷いな、綾部は春巻きを一本頂戴した。かりっと揚げられた皮の中に、たっぷりと餡が詰まっている。味付けが濃く、注文してから時間は経っているのに余り冷めていない。はふはふと口の中で息を吹き掛けて冷まそうとした。

「ほひほうおうでふえ」

 綾部が言った言葉を、雅也は理解出来ず、とうとうこの男も狂ったかと思った。考えてみると、綾部一治はそれなりに頭のおかしい男だった。今日日、陰陽師なんて言うのは小説や漫画の中にしかいない。綾部の身体能力の高さと知識の豊富さは現在の陰陽師と言っても良いかもしれないが、自称するのは余程の奴だ。

「失礼な事を考えましたね……。歳相応ですね、と言ったんです」

「ん――」

 どうやら綾部は言語野をやられた訳ではなく、口の中の春巻きを嚥下し切る前に喋り出そうとしたらしい。口にものを入れたまま喋るな、小学生だって知っている事だ、少なくともマナー講座で金を稼いでいる連中が、次々にローカルルールを引っ張り出して、インターネットの掃き溜めの連中みたいなやり口で広めているものよりは。雅也は昔からずっと守っている。雅也は人と話す時に食事を挟む場合、咀嚼しながらは喋らない。ものを食べながら話を聞き、嚥下してからこちらの意見を言う。

「何がだ?」

「顔がですよ」

 雅也の顔――雅也自身では気付いていないかもしれないが、確かに、それまでと比べると老けて見える。それまでが妙に若く見えていたのだ。それが、四十代を前にした年齢に相応しい顔立ちにまで肌の張りが衰えて来ている。それでも、驚異の回復力だ。ましろに眼の前で自害され、綾部が駆け付けた時、雅也は老人のように皺くちゃに成り果てていた。そこから、萎んだ身体を元の逞しさにまで戻したのは、驚くべき肉体であった。

「少しは心が軽くなったようですね」

「――なるものか」

 この事件が終われば――雅也はそう思っていた。俺は呪いから解き放たれるのではないか? そんな淡い期待が、超人・尾神雅也の中にも少なからず生まれていた。シホの死、辰美の裏切り、踏み躙られた真里の尊厳、それらを背負った自分の精神が、少しは解放されるのではないか。その為に生きて鍛え続けて来た肉体だった。だが、実際はどうだっただろう。スティグマ神霊会の手による犯罪だと分かる以前から、幾つもの生命が眼の前で散華して行った。何より首謀者であったましろ・クラウドが背負っていた呪いを聞かされ、眼の前で自害され、それで解放される心などあるものか。

「それしかなかったんでしょう、あの人には」

「それしかなかった?」

「呪いから解放される方法ですよ。影蔵の血、そして自分の犯した罪から……」

「――」

「言いたい事は分かります。死ぬ事が犯した罪を贖う事にはならないし、自身に流れる血を呪う事などない。……ではあの人はどうすれば良かったのでしょう。影蔵の子供というだけで何か罪を犯した訳でもないのに咎人として扱われ、その報復として本当に咎人となればこれから先も永久に責め立てられる」

「――」

「血により呪われ、自らの行ないにより呪われ、それから逃げる方法が死ぬ以外にあると思いますか」

「――分からない。……ただ、それでも……」

「それでも?」

「それでも――」

 それでも。

 その先を雅也は告げる事が出来なかった。無数の人の命を奪い、人々の平穏を破壊した人間に、どのような贖罪の手段があるだろう。永遠に身体に刻み込まれ石を投げられるような罪と、どのように向き合えば良いのか。例えそれからの人生、どれだけ人に尽くそうとも犯罪者の汚名は消えない。若しも真摯に向き合ったとしても、たった一人でも疑う者があれば、それから行なうどのような善行も意味を成さない。分かっている、自分を虐げる世界から自分を守る為に、悪意と殺戮のカリスマとなる事は、決して許されるべきではない。どのような背景を持ち、心の痛みから逃れようとした行動であっても、それが世界に牙を剥く免罪符とはならないのだ。影蔵という純粋悪から副産物として生まれ、悪となり果ててしまった人間も亦、邪悪の教祖と共に、同情されてはいけないし、許されてはならない。

 それでも――

 雅也は夢見がちな子供のように、何か救いはないのかと考えた。誰に対する救いなのか。何に対する救いなのか。救いとは一体どのようなものなのか。分からない。雅也には何も分からなかった。誰が悪い? 何が悪い? 何が正しい? 何が間違っている? 綾部は言った、歳相応の顔になった。今までそうでなかったのは、俺がずっと子供だったからだ。辰美に裏切られ、真里が殺され、自分自身も死の淵に立たされ、あの頃から何も変わっていなかった。俺の心の止まった時計が、俺の身体にも時と隔絶される呪いとなっていた。今、俺の顔に老化が追い付いて来たのなら、それは諦めの象徴なのかもしれない。それでもと言う俺の態度は嘘っぱちで、本当は何もかもを諦めてしまっているのかもしれなかった。善とか悪とか正義とか呪いとか償いとか救いとか罪とか罰とか、そういうものを、どうでも良いと思ってしまっているのかもしれなかった。

 ましろは罪を犯し、自らに死という罰を下した。

 それだけだ。

 それだけで良いじゃないか。

 それだけの事だと、諦めている。

 多くの者たちがそうだと決め付けているように、雅也も時の流れに呑み込まれようとしていた。

「ただ一つ――」

 綾部は半チャーハンを蓮華で掬った。卵を絡めて黄色く光る米の塊が、綾部の口の中に放り込まれる。雅也が顔を上げ、次を促すような目線をくれると、わざとらしく咀嚼して呑み込み、水を口に含んで咽喉を潤し、焦らすようにしてから言った。

「善も悪も、人の心にあるという事です。悪を生むも人、善を為すも人――宇宙人が地球侵略にやって来たりでもしない限り、善悪は人間が背負わなければならない責任なんでしょう。だから、貴方は貴方で良いのです。迷い、悩み、答えを出せずに、しかし、罪を赦し、自身を律し――そういう貴方で良いのです」

 綾部はいつもの薄ら笑いを浮かべた。雅也は、そうか、と頷いた。そうか、そうだな。

 俺は誰を救う事も出来ないし、誰を罰する事も出来ない。二〇年前からずっとそうだった。俺一人の力など微々たるものなのだ。ビルから人一人抱えて飛び降りられようと、ちんぴらややくざに喧嘩で勝てようと、バイクとロープでセスナ機を墜落させられようと、俺は俺という個人でしかない。個人に出来る事などたかが知れている。どれだけ腕っ節が強くとも、世界を変える事など出来ない。他人の心一つ変える事が出来ないのだ。人が赦さぬ罪を、尾神雅也一人が赦せる訳がないのだ。俺には何も出来ない――だが、それに気付いた所から全ては始まる。

「ゆくか、綾部」

 雅也は立ち上がった。テーブルに並べられた料理を食べ終え、綾部の分まで代金を支払い、彼を伴って店を出た。

「何処へ?」

「何処かへ」

「次の店では奢りますよ」

「良い事を聞いた」

「不味い事を言ったかも。……まぁ、良いや。行きましょうか」

「ああ、ゆこう」

 俺には何も出来ない。

 何も出来ないが、出来る事をやるしかない。

 何が出来る? 何を為す?

 分からない。分からないが、分かっている事もある。

 俺はこれからも生きてゆくという事だ。

 誰もが何かを背負っていて、俺だってそれは変わらない。ただ少しだけ、人より強く自分を律して生きてゆくだけだ。そういう聖痕を、呪いのように、祈りのように、身体に刻んでいるだけだ。

 俺はこれからも生きてゆく。

 誰もがそうであるように、胸に傷を負いながら、その痛みに潰されないように。

 俺は、これからも、生きてゆく――

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スティグマ―呪痕― 石動天明 @It3R5tMw

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