セスナは木々を薙ぎ倒しながら機首を地面に半分ばかりめり込ませて漸く止まった。その横にバイクが激突し機体を大きく陥没させる。雅也は腕にワイヤーを巻き付けたまま、どうにか墜落したセスナの翼の上に着地を果たした。着地と言ってもどうにか受け身が間に合ったというだけで、常日頃から過剰な鍛錬を積んでいる彼でなければ、良くて重傷は免れない。

 雅也は大量のアドレナリンやエンドルフィンを分泌している為、殆ど使い物にならなくなった左腕の事は気にしていなかった。その腕に絡み付くワイヤーをほどき、すぐにセスナのコックピットに乗り込んだ。操縦していた信者は頭を打って気を失い、その傍でクラウドが逃げ出そうとしている。又、コックピットには、機体底部に取り付けられた噴射装置付きのタンクから漏れ出した“伊舎那”が仄かに香っていた。如何に“伊舎那”に慣らした信者たちと雖も、これだけ濃厚なものを吸い込んでは生命が危険だ。雅也はクラウドの身体を抱え、信者も助け出そうとしたが、“伊舎那”の甘い匂いに混じるガソリンの香りを嗅ぎ取って、信者の救出は諦めてしまう。

 クラウドを抱えてセスナから飛び出し、森の奥へ駆け込んだ。すると間もなく、気化したガソリンがぐちゃぐちゃになった機体内部で起きた小さなスパークを引火させ、セスナとバイクを巻き込み、信者の抱えた自決爆弾と共に炎を吹き上げた。雅也はクラウドの小さな身体を胸に抱き、衝撃は飛ばされ熱に焼かれ音に感覚を狂わされながらもどうにか逃れる事が出来た。

 樹の幹に衝突し、クラウドを解放する雅也。雅也の傍で立ち上がったクラウドは、頭の奥に響くぐぉんぐぉんという鐘の音と、じんわりと痛みと熱を孕んだ身体の表面と、一面に漂うものの焦げる匂いで、自分たちの計画が失敗に終わった事を悟った。

「終わったな」

 雅也が弱々しく囁いた。樹の幹に背中を当てて上体を起こす。一度、地面に転がって寝そべってしまったが為に、肉体が休憩状態に入ったと判断した脳が脳内麻薬の分泌を緩めた。雅也にはもう一欠けらの力さえ残っていない。

「“伊舎那”は極めて不安定な性質の毒物……特に熱には弱い。酸化すると毒素が消滅する」

「だから、あんな無茶をしたんですか!?」

 セスナにバイクで追い付き、ワイヤーで手繰り寄せて離陸を防ごうとした事だ。離陸は止める事が出来ずとも、爆発させる事が出来れば“伊舎那”の散布は止められる。しかしクラウドや、助けられなかったとは言えあの信者まで助けようとした事からすると、雅也は出来るだけ犠牲者を出さないよう、D13の計画を阻止しようとしたのだった。

「莫迦だ、貴方は。信じられない、何故、あんな事が出来るんです!?」

 前にも言っただろう、雅也はクラウドを見上げた。ましろは思い出した。雅也は銃を向けられた時、恐怖を感じていないようだった。そしてましろの問いに、撃たれても構わない、だから怖くなかったのだと言っている。

「死んでも構わないからかな。俺の命で、お前を止められるのなら……」

「く――」

 クラウドは衣装の裏から拳銃を取り出した。樹に凭れ掛かっている雅也の眉間に銃口が向いている。トリガーを引き、脳天に銃弾をぶち込めば、流石の雅也と言っても生きてはいられまい。雅也は右手で銃身を掴むと、もうよせ、と言った。

「もうよせ」

「せめて、貴方だけでも……!」

「お前は影蔵が正しい事をしようとしたと、本当に思っているのか。その後を継ぐ事が、本当に正しい事だと信じているのか。違うだろう? 殺戮が救済の手段になる訳がない。人は誰でも死を恐れる、恐怖から解放するのが救済だとすれば、恐怖と共に与える死は決して誰を救う訳でもない。お前なら分かる筈だ、ましろ」

「ましろじゃない、僕はクラウドだ! あいつは母さんが勝手に作り上げた弱い人格、僕は影蔵の息子で、人類を救済する使命を帯びた大教主だ!」

「違う、お前の心は一つだ。作り上げられたとするのならそれはクラウドの方だ。お前の母親は死の恐怖を知った。お前が危うく殺される所だったという事も教えている筈だ。そうならなくて安心したと、お前を愛した筈だ。だからお前は知っている、死の恐ろしさを。理不尽に生命を奪われる嘆きを。それは弱さじゃない、優しさだ。優しさという強さだ。お前は影蔵の子供という仮面で自分を隠そうとしただけだ。お前は知っていたんだ、お前は影蔵じゃない、ましろという一人の人間である事を」

「そんな事……!」

 ましろは雅也の額に銃口を押し付けた。ひんやりとした感触と明確な殺意が、皮膚を筋肉を頭蓋骨を貫いて脳の奥底へと届いて来る。だがそれよりも、雅也の心が感じていたのはましろの悲哀だ。中性的な声音が女のものに戻っていた。眉をハの字に寄せ唇をぎゅっと結んだ少女の顔が、銃身の向こうにあった。

「そんな事、知ってるわよ、当たり前じゃない! でも、誰が分かってくれるの? 誰が私を影蔵と無関係な人間だと理解してくれるの? 他の誰かにとって、私は影蔵の子供でしかないのよ。人々を狂わせて、殺戮を目論んだ悪魔のような狂人、その子供なの、私は!」

 朝田辰美の話では、ましろが影蔵の落胤という噂が立ち始めてから、クラスメイトや先輩たちに虐待を受ける事が多くなったらしい。又、スティグマ神霊会の残党たちに連れて行かれた先でも、影蔵の血はましろの人生を阻害した。貴方は言われた事がある? 死んだ方が良い人間だって――ましろは言った。お前の父親は最低の犯罪者だ、その子供のお前は生きている価値がない、影蔵が殺した人間の遺族に顔向けが出来るのか、お前は生まれた事そのものが罪なんだ、そんな風に人格を否定されて来た私の気持ちが分かる? それが人間の本質でしょう? そんな人間ばかりが、この世界には満ち満ちているんでしょう? だったら――

「壊すしかないじゃない……」

 ましろは赤い瞳から涙をこぼした。

「駄目だ」

 雅也は同情はしなかった。ましろの境遇を考え、受けた仕打ちを慮れば、ましろのやろうとした事を納得こそ出来ないが理解する事は出来るかもしれない。だが、そこで共感してはいけないのだ。

「それをやったら、お前は影蔵と同じになってしまう」

 それが人間の本質――ましろは言った。今まで自分が受けて来た仕打ちの事だ。

 影蔵は歴史的な犯罪者だ。人々を扇動して狂わせ、戦時下にない国家に於いて生物兵器クラスの毒物を使用して多くの罪なき者たちを殺害した。その後遺症に苦しみながら死を迎えた者がおり、今も苦しみ続けている者がいる。名を知り罪を知れば、誰もが眉を顰める邪悪の体現者だ。

 ましろはその男の血を引いている。そのましろを、父の罪状をかざして否定する事に対して、罪悪感を抱く必要はない。何故なら、ましろの身体に流れる血は影蔵と同じ、咎人の種子だからだ。犯罪者の子供は犯罪者、悪人の子孫は悪人、狂った闇の罪人であり、ましろを責める時にはそうした大義を手に入れる。

 そして、人間には大なり小なりはあっても、何処かに他者を傷付けたいという気持ち、他者を傷付けて悦ぶ気持ちがある。競争社会の中で、他者より強く賢く美しく偉く、そうなる事を求められて生きて来たのだ。他者を蹴落とす事は自分がより高まる事、自身の高まりは悦びとなり、転じて他者を蹂躙する事への快感に変わる。若しかしたらそれは、爪と牙を失う事と引き換えに、他の獣たちを見下ろす目線を手に入れた時からの事なのかもしれない。その黒い悦びを、辛うじて道徳観や倫理観で抑制しているだけだ。だが、その悦楽への欲求をぶつける相手が、道徳や倫理に反する存在であった場合はどうだろうか。咎人に対して正義を執行する、その大義名分を持って暴力を振るう事は、悪い事か?

 大義がそこに存在する時のみ、暴力は正義として許可される。ましろを影蔵の落胤と見てその血が咎あるものだと分かった時、他の者たちは正義をかざして暴力を振るう事への罪悪感を掻き消してしまうのだ。

 ましろは言う、それが人間の本質ならば、壊れてしまえば良いと。そんな人間たちが棲む世界を憎み、破壊しようとしたのだ。

 雅也それを肯定しない。その行為を否定する。ましろのかざした正義に否と言う。

「君が憎む世界を、認める事になるぞ……」

 ましろが眼に見えて動揺した。雅也の額に押し当てた銃身から、ましろの震えが伝わって来る。冷たい鉄の塊が、ましろの感情を伝導した。違う、そうじゃない。

「私は影蔵とは違う……」

 違う。

 違う。

 違う。

 そうだよ、雅也は言った。君は影蔵じゃない。邪悪なのは影蔵その人だけだ。その血に咎はない。その血を継ぐ君にも罪はない。君は君だ、親の因果が子に祟る事などあってはいけない。君が影蔵を憎み、影蔵を通じて自分を苛む者たちを憎むのならば、彼らが棲む世界を肯定してはならなかった。身勝手な正義の名の下に振るう暴力を否定し続けなければならなかった。銃を撃ち、爆弾を使い、毒ガスを撒くばかりが戦いではない。暴力を否定する為の戦いを、心の戦いを続けなければならなかった。拳を振るう事は最後の手段だ。

「私は影蔵とは違う!」

 ましろは悲愴な叫びを上げた。ぼろぼろと涙を落としながら、両手で握った銃を雅也の方へ向ける。銃口が複数にぶれて見えていた。ましろは震えているのだ。そんな事は分かっている筈だった。自分の行動が、自分が否定した者たちと同じであるという事。だが、どうすれば良かったのか。誰もがましろを認めない、ましろ自身を見ない。ましろの背には常に影蔵の存在が付き纏う。影蔵の子供、影蔵の血、それがなければ存在しなかったましろは、それを持つ故に存在を否定される。

 どうしようもない。

 ましろも分かっているのだ。どうしようもない事を。自分が誰にも許されない事を。自分が誰もを許さない事を。そして世界に憎悪を撒き散らす計画を失敗した今、益々退くに退けない状況に陥ってしまったのだ。

 私は影蔵とは違う――ましろの表情が不意に変わった。するりと、顔から何かが抜け落ちたようだった。濁った眼を細め、唇をつぃと持ち上げると、銃のグリップを掌の中で半回転させた。銃口が雅也からましろに向き直り、銃身がペニスのように少女の口に咥え込まれた。がん、銃身がスライドして鉛玉が放たれた。口の中から頭蓋骨の内側に潜り込んで脳を破裂させ、貫通した銃弾は背後の樹のうろを剥がしてめり込んだ。

 雅也は呆然とした様子で、崩れ落ちるましろの身体を見つめていた。何が起きたのか分からないという表情であった。遠くからパトカーや消防車のサイレンの音が聞こえる。空港の方でも決着が付いたのだろう。そして綾部たちが通報したのだ。セスナが墜落して炎上したこの付近にも、やがて人が押し寄せるであろう。

 すると、森を掻き分けて黒い服装の男がやって来た。綾部だ。

「尾神さん――」

 綾部は全てを察したようだった。雅也が自分の方に顔を向けた時、綾部は珍しく表情を変えてみせた。雅也の顔から滂沱の涙がこぼれ落ち、皮膚がふやけたように皺くちゃになり始めていた。急激な老化は顔に限らず、太かった頸や分厚い胸、逞しい腕にも訪れており、一回りか二回りは身体が縮んでしまったように見える。

「尾神さん――」

 もう一度、綾部がその名を呼んだ。近くでは爆発が巻き起こした炎が森を焼いていた。ぱちぱちと、火花が爆ぜている。夜は静かに更けてゆく。

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