バイクの後ろからジャンプして飛び掛かって来た麗奈を、メドウサは巴投げの要領で放り投げた。麗奈は空中で身体をひねって着地し、炎に包まれた空港内でメドウサと対峙する。

「生きていたのか……」

「さっきはやってくれたじゃん。貴重な体験ありがとね、一日に二回も爆発に巻き込まれるなんて、滅多に出来ないからね」

 普通なら死んでるか、麗奈は吐き捨てた。

「今度は迷うな、我らが神の懐へ往け」

 メドウサは上着の襟から背中に手を入れて、白木の短刀を取り出した。鞘を火にくべて白銀を抜く。炎の照り返しを浴びて赤く揺らめく刀身が麗奈に付き付けられた。麗奈はベルトを左腕に巻き付けて急場の防具とした。刃を構えるメドウサと、二つの手刀を構えた麗奈。

「どいつもこいつも、神だの信仰だのと、押し付けがましいんだよ、あんたたちは」

「何?」

「貴方たちは迷うのを怖がっているだけだ、信じられる何かがない、だから曖昧な何かに縋って挙句の果てに人を傷付ける。自分がない、自我がない、自意識がない――愛も勇気も誇りもない信仰に意味なんかあるものか。信仰は他の誰かの為にあるんじゃない、自分自身が正しくある為にあるんだよ」

 黙れ――メドウサは吼えた。宗教者でもない者が、自分たちの信仰を謗る事は許せなかった。メドウサはスティグマ神霊会を信じている。神の名の下に集結した自分たちの絆を信じている。神が下した命令を実行する自分たちを信じていた。それを真っ向から否定する者は自分の敵であり仲間たちの敵であり神の敵であった。神の敵は悪魔だ、悪魔を殺すのは正しい事だ。麗奈の言葉に沿うのなら、麗奈に天罰を下す事がメドウサにとっての信仰であり正義だった。

 空気を裂く鋭い音、メドウサの短刀が唸りを上げた。麗奈に対して袈裟懸けに落とされる刃。麗奈は左側にステップしてメドウサの右手に回った。短刀は急角度で跳ね上がり麗奈の首元を狙う。左腕を捨てる心算でガードする麗奈だったが、メドウサは肘の関節を切り返して短刀を逆手に持ち替え麗奈の脇腹に刺し込もうとする。

 ――殺った。メドウサは切っ先が麗奈の腹筋を裂いて内臓に突き立つヴィジョンを脳内に描き出した。その激痛に麗奈が悶え、最後の反撃も無様に虚空を切る所が明確に眼の前に浮かび上がる。だがメドウサの眼に映ったのは麗奈の左の拳であった。包帯とベルトを巻き付けた麗奈の左の正拳突きがメドウサの顔面を殴り抜いたのだった。

 床に転倒したメドウサは林檎のように膨れ上がった頬っぺたが右の視界を圧迫している事に戸惑いながら、右手に刀が握られていない事に気付いた。短刀は麗奈が掴んでいた。しかし握っているのは柄ではない、麗奈の右手は脇腹を狙った刃の部分をホールドしていた。

 麗奈が刀ごと右手を持ち上げるが血が滴り落ちて来ない。左手で刀を持ち右手を離すと、刃が当てられた痕は残っても傷はなく、その皮膚の陥没も若々しい張りに押し戻されてしまう。刀は対象に当てて押すか引くかしなければ切断能力を発揮しない、麗奈はドアさえぶち抜くパンチを放つ拳の握力で、刀を押す事も引く事も出来なくさせたのだった。そして更に麗奈は、地面と平行にした刀の腹に右の手刀を打ち下ろし、きんと甲高い音を響かせて刃を真っ二つに切り裂いてしまった。

 刀の上半分が地面に落ちる。麗奈は残った部分も投げ捨てると、メドウサに対して一息に間合いを詰め、胸のど真ん中に拳を叩き込んだ。拳の先が、明らかに胸の奥の方に喰い込んでいる。メドウサの胸骨は砕け肋骨が開き、メドウサは血を吐いた。唇から噴射された血の霧が麗奈の顔を汚す。麗奈はメドウサの背中を壁に押し付けた。

「今度は迷うな」

 麗奈はメドウサの胸に拳を当てたまま、左手の指を小指から順に折り畳んで拳を作る。血を吐いて赤くなった口の周りとは反対に、顔がさっと蒼白く変わった。メドウサはもう戦えない、激しい動きは胸骨という楔を砕かれた肋骨をばらばらにする。そんなダメージを与えた正拳が、今度は顔のど真ん中に叩き込まれようとしている。

「あんたたちの神とやらの懐へ往くんだ」

「ま――」

 麗奈の拳が繰り出された。メドウサは悲鳴を上げようとしたが咽喉にせり上がった血が詰まっていた。鉄の味がする咆哮空しく、麗奈の拳がおぞましい音を立てた。

 メドウサは壁に背中を擦りながら床にへたり込んだ。小便を漏らして糞を垂らした。恐怖に染まった顔は死人そのものだった。涙と鼻水とピンク色の泡を垂れ流したメドウサは一〇歳くらいは老け込んだように見えた。若しかしたら彼女はひどい若作りで、アポロやアレスと年齢にして近いのかもしれない。

 麗奈の拳が打ったのは空港の壁だった。包帯とベルトで補強していた拳から血が吹き出している。麗奈の血を擦り付けた壁に亀裂が走りぼろぼろとこぼれ始めた。

「何を信じていたって、死ぬのは怖いんだよ」

 麗奈は言った。





 アポロは左手でクラウドを背中に庇いながら、雅也たちに銃を向けた。どれだけ銃の早撃ちが優れていても三人を同時に仕留める事は出来ない。ましてやクラウドを守りながらの事である。アポロはクラウドに小声で離脱を促した。セスナに“伊舎那”を積み込んだ信者の許へ走り離陸させ、東京に飛ばすのだ。そうすればD13・スティグマ神霊会の目的は達せられる。日本転覆への序章が完成し、やがて世界は混乱に向けて突き進んでゆく。

「それで良いのか」

 雅也が言った。ましろ、と、呼び掛けた。お前はそれで良いのか。

「黙れ!」

 アポロが鋭く叫ぶ。ましろではない、クラウドだ。我々の首領、新しい光。アポロはクラウドを跳ね飛ばすようにして出口へ向かわせた。追おうとする志村と綾部の足元に発砲して動きを止め、その間に走った雅也に蹴りを見舞う。

 雅也はアポロの前蹴りを両腕を交差させて受けると、身体を回転させて後ろ蹴りでボディを狙った。アポロはバックステップで躱すが、雅也はすぐに足元にタックルを仕掛けて来た。低い場所にある敵の頭に弾丸をぶち込もうと銃身を下げるアポロ。だが、照準と共に下がった視界の片方が奪われた。綾部が投擲した暗器が眼球を突き破ったのだ。

 視界が利かないなりに銃で抵抗しようとするアポロだったが、雅也の方が速かった。アポロの足に腕を絡め、跳ね上げた両脚で胴体を挟み込み体重を掛けて相手を転倒させ、蛇のように素早くアポロの身体を駆け上がりアームロックを極めた。アポロの身体の前面を床に押し付け、腕を背中にねじり上げて肩と肘を決める、チキンウィングアームロック。この時に掴み上げた手首を握り潰して銃を取りこぼさせ、反対の手で作った貫手をうなじから顎の下に滑り込ませた。雅也の腕は大蛇と化してアポロの頸動脈を冷静に絞め上げた。ものの数秒で、アポロの脳に流入する酸素がせき止められ、意識はブラックアウトした。

「この場を頼んでも良いか」

 綾部と志村に言うと、雅也はバイクに乗ってアクセルを吹かした。炎のロビーから飛び出して滑走路を目指す。セスナは既に離陸の準備を始めていた。“伊舎那”を積み込んでいた信者は四名で、その内の一人がクラウドと共にセスナに搭乗し、滑走路を走り始める。雅也は立ちはだかった残り三名が放つ銃弾を、じぐざぐに走行したり飛行機乗りになったりして見事に躱すと、すれ違いざまに横に振り出した脚で一人を倒し、一人の眼の前に肉薄してジャックナイフで跳ね上げた後輪で身体を薙ぎ、逃げ出そうとする最後の一人の頭上をジャンプして飛び越えて怯えさせた。

 セスナは充分な助走を付け、今まさに夜空に飛び上がろうとしている。雅也はターンしてセスナを追う。ギアを一番上に上げ、アクセルを全開まで吹かし、全身に向かい風を浴びながら疾走する。雅也とバイクが暗闇に融けてゆく。セスナが機首をもたげて上昇した。車輪が地上から離れてゆく。発熱した滑走路の痕をなぞるように雅也も走った。高速回転する硬質ゴムが炎を吹いた。鉄騎の骸が悲鳴を上げる。雅也はエンジンの回転数を上げた。バイクのではない、自分の心臓に、もっともっと血を送れと指示を出す。肉体を経巡る血液は熱く燃え、外気温との差によって冷却される。烈火の血潮と凍て付く疾風を潜り抜けた雅也の身体は鋼鉄と化しくろがねの騎馬と一体化を果たした。メーターが降り切れる速度で、雅也は狼のように、上昇するセスナに肉薄する。前輪を持ち上げて更に加速し飛び上がると、綾部から渡された一丁のライフルを取り出した。引き金を引くと反動で肩が下がりバイクが傾く。しかし発射された徹甲弾は硝煙と金属のワイヤーの尾を引きながらセスナの翼に喰い込んだ。

 自重に引かれて落下するバイク、繋がったワイヤーの為にセスナも地上に引き摺り下ろされてゆく。しかしまだセスナの推力の方が勝っていた。雅也はワイヤーを腕に巻き付けて思い切り引っ張った。腕が千切れ飛びそうになっている。ボンレスハムのようにワイヤーを巻き付けられた腕は血流が止まり、皮膚が裂けて赤い涎をこぼしていた。雅也は砕ける程に歯を喰いしばり、眼球の毛細血管が千切れる音を聞いた。空中で傾くバイクを膝で噛み付くようにグリップして離さない。バイクの重量と雅也の膂力に、遂にセスナの翼が敗れた。無事な右側の翼が角度を落とし、釣られて機体も落下する。空港を僅かに離れた森の中に、“伊舎那”を搭載したセスナと雅也のバイクが墜落して行った。

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