第7話

 シリルが目を覚ましたとき、外は薄らと明るくなっていた。カーテンをめくってみれば、朝特有のいっそう白く不明瞭な視界が広がっている。手元に懐中時計を引き寄せれば、まだ夜明け前といってもいい時分だった。シリルはしばらくの間二度寝を試みたが、結局失敗してのろのろと起き上がった。

 時折、思い出したように高い発砲音が聞こえてくる。そろそろ霧祓師たちも店じまいのはずだが、まだ諦めのつかない霧祓師たちは霧妖を狩っているらしい。どこかでベルンとステラも狩りに参加していたのだろうかと思いながら、シリルは律儀にベッドを整えた。

 ベルンの住んでいる家は少し古いが居候するにはもったいないほど快適だった。基本的にシリルとベルンとではサイクルが違うため、互いの生活のリズムを乱すこともない。最も助かったことは、誰も部屋に訪ねてこないことだった。どうやら彼は己の職業を周知しているらしく、誰も来ないのも昼は寝ていると判断されているからのようだった。

「……さて」

 シリルは手始めに朝食……ではなく、ベッドサイドのテーブルにあった布袋を手に取った。その中には市販の封印石弾が入っており、彼はその中のいくつかを取り出すとおもむろに叩き割った。

 基本的には構成している組織は魔鉱石のそれと同質だが、組織同士を結合する役割を担う魔力が失われた状態が封印石である。ゆえに、力の入れる方向によっては簡単に割ることができる。この脆さゆえに霧妖師という職業が定着する以前、封印石は屑石として大量に処分されていた。

 シリルは粉々に砕いた封印石弾を耐熱加工の施されたマグに流し込んだ。ミトンをはめ、それを直火にかける。すると、数分もしないうちに粉は透明で粘性のある液体に変化する。すぐに火からおろすと、シリルは砕いていない封印石弾をピンセットでつまんでその中にひとつずつ浸し、コーティングしていった。これで強化封印石弾の完成である。

 粉状にして熱するとどろどろの液体になるこの性質を利用して、チョコレートのようにコーティングを重ねていくと、通常の封印石弾よりも強力なものができる。この技術、研究畑ではわりとメジャーなものなのだが、どうやら巷ではあまり知られていないらしい。砕いて成形したら終わりだと思っている人々が多いからかもしれない。

 それらが乾くのを待っている間、シリルは次の作業にとりかかった。すなわち、朝食づくりである。料理は得意ではないが、簡単なものなら多少はこなせる程度の腕はあるつもりだ。ベーコンを塊からスライスして切り出すと、彼はフライパンに油を引いてそれを焼きはじめた。同時に皿を取り出し、バターを塗った黒パンを並べる。ちょっとしたサラダもつくってテーブルに置いたところで、シリルは不意に思い立って型の古いミルを引っ張り出した。ベルンの部屋の片隅で置物と化していたコーヒーミルである。幸い豆はいくらかあったので、シリルは早速挽き始めた。

 ごりごりという音が部屋に響く。コーヒーは父の影響で飲み始めたが、凝り性ゆえにいつの間にか豆から拘るのは自分のほうになっていた。研究の合間に淹れるコーヒーは好評で、行き詰まったときには二人でそれを飲んだものだ。角砂糖を一粒入れたあの味は、今や思い出の味になってしまった。

「…………」

 感傷的になりはじめた自分を奮い立たせるように、シリルはミルを回す手に力を込め、そこではたと気がついた。いつもは粗挽きで止めるのだが、今日はさらさらとした粉末になっていた。シリルはため息をついて、出来たてのコーヒーをドリップすることにした。別のことを考えながら作業するとこれだからいけない。

 ケトルでお湯を沸かす間に、先ほど焼いていたベーコンを皿にとる。そして、テーブルの上にマグをふたつ取り出そうと食器棚を振り返った時だった。がたん、と玄関のほうから物音がした。シリルはてっきりベルンが帰ってきたのだと思い、顔を覗かせる。

 しかし、そこにいたのはベルンではなかった。赤にも橙にも似た夜明け色の髪が目を惹くその青年は、両手に木箱を抱えてさも自分の家に帰ってきたかのような気軽さで玄関に立っていた。

「おーいベルンさん、頼まれてたブツのメンテおわっ、た……」

 言葉が最後まで続くことはなかった。驚きに満ちた表情でこちらを見、固まっている。それはシリルも同じで、しばらくのあいだ部屋には奇妙な沈黙が満ちた。ごぼごぼとケトルのお湯が沸いたという再三の文句ばかりが響いている。シリルははっと我に返って慌ててキッチンへ走り、とりあえず火は止めた。突然の来客はその間もずっとその場で首を傾げていた。

「……え、あれ?ここもしかして違う人の家?ベルンさん引っ越した?あれ?」

 シリルはどう説明するべきかしばし悩んだあと、目下彼の問いに答えることにした。

「……いえ、ここはベルンさんの家であっています。僕はその……行きずりでお世話になっている居候です」

 かなり怪しい回答になってしまったが、青年はそっかぁ、とあっさり納得した。シリルが拍子抜けしていると、彼はにかっとした気持ちの良い笑顔で名乗った。

「オレはパンセ。パンセ・ライラックだ。見ての通り整備工で、ベルンさんはうちの工房の御用達なんだ」

 彼───パンセはその場に荷物を置くと、はめていた軍手を外してシリルに握手を求めてきた。シリルはその手をおそるおそる握る。日頃から機械に親しんでいるとわかる、大きく硬く、平たい指先をした手だった。

「よろしく!……えーと……」

「……シリルでいいよ」

 市中の至る所に指名手配の回状がある以上、さすがにフルネームは憚られた。幸いなことにパンセは相当に人が良いらしく、シリルが名前だけしか言わなかったことを別段気にすることはなかった。彼はずかずかと部屋に上がり込むと荷物を部屋の隅に置いて、改めてシリルを振り返った。

「それにしても、ベルンさんのとこに居候がいるなんて知らなかったなあ。いつから?」

「……えっと……実はほんの一週間くらい前なんだ。俺は魔鉱石の加工職人を目指していて……親方に紹介されて、ここに」

 魔鉱石加工職人と霧祓師が知り合いというのはよくある話だ。仕事柄魔鉱石を扱う職人のもとには封印石も集まりやすい。彼らはそれを加工して霧祓師に割高で売り、霧祓師はその封印石弾を買う代わりに、職人たちには危険な夜の霧灯点検等の業務を担う。封印石弾が妙に高いのは、製法の手間に加えて業務代行の謝礼賃込みだからというところもあるのだ。……まあ、それもこれもベルンからの受け売りの知識なのだが。

 苦し紛れに言ったシリルだったが、パンセはまたそっかぁと笑う。やはり彼は相当人が良いらしい。致し方ないとはいえ嘘をついた罪悪感と、どうにかこの場を切り抜けられそうだという安堵から、シリルは細く息を吐いた。

 しかし、ほっとしたのもつかの間だった。

「あれ……?でも、親方からシリルなんて新入りの話されたっけかなあ」

 しきりに首をひねるパンセを見て、シリルは血が凍る思いがした。そして自分のミスを悟る。そうだ、先ほど彼は自分の工房はベルンの御用達だと言っていたではないか。シリルの顔が凍りついたのには気がつかず、パンセは呑気に笑いながらダメ押しの問いを投げかけてきた。

「なあ、下の名前はなんて言うんだ?シリルなんて珍しくはないし……もしかしたらオレが忘れちまってるだけかも」

 シリルは、ここまでだと目を閉じた。慣れない嘘をついたツケが早速回ってきたというわけだ。全くもって情けないし、せっかく自分を匿ってくれていたベルンに申し訳が立たない限りだった。

 青年はふっと目を開けた。パンセが黙りこんだ自分の顔を覗き込んでいる。これ以上黙っていては逆に怪しまれるだろう。どう転んでも、腹をくくってルキオンの名を告げる他に道はなさそうだ。

「……僕は────」

 そうして、やっとの思いで唇をこじ開けたときだった。不意に、耳に飛び込んでくる声があった。

「……。そいつの名前はシリル・スタインだよ、パンセ」

 突然部屋に響いた第三者の声にパンセはもちろん、シリルも心底驚いて振り返った。そこには壁に背を預けてこちらを見ているステラの姿があった。その瞳には変わらず強い光があって、何故かひどく不機嫌そうにシリルを睨んでいた。

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Ein Stein und ein Nebel 懐中時計 @hngm

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