枠の中
新成 成之
枠の中
「ありがとうございました…。」
半ば無気力な声で、お客様に挨拶をする。俺はちらりと時計を睨む。時刻は午前十二時四十五分、後十五分で今日のシフトが終わる。この後数分という時間が妙にもどかしいと思える。
定時になり、俺は次のシフトの人間に引き継ぎをしてコンビニを後にした。帰り際、後輩の
「お疲れ様です。」
という無感情の言葉が気にさわった。
時刻は午前一時五分。俺は、街灯がうっすら灯る夜道を歩いて帰る。時期が時期だからか、かなり寒い。それが気温のせいだけじゃないことを、自分自身がよく分かっている。
時の流れが早いと気付くのは、何かのきっかけが必要だ。俺はその事に最近になってやっと気がついた。俺は二十六年も生きていた。周りの大人からすれば、またまだ若いじゃないか、なんて言われそうだが俺のこれまでは余りにも空虚なのだ。だから無駄に重ねた年を、俺は怨んでさえもいる。
時刻は午前一時十一分。俺の住むアパートに着いた。今日は電気が点いていないが、駐車場に停まるあいつの車が目に入った。アパートに一つしかない駐車場に、停まっているのはあいつの車だけ。そもそも俺は車を持っていない。
時刻は午前十一時。いつもと変わらない時間に起床する。空腹を感じるが、如何せん食べるものがない。ここ最近、まともに食事をとった覚えがない。口にいれるのは、バイト先の廃棄商品、そんな程度だ。別に、何とも思わない。
ふと、財布の中身を確認する。中には五千円札が一枚隠れていた。身に覚えがない一枚だが、俺はそれを確認すると家を出た。
駐車場には車が停まっている。どうしても目に入るが、気にせずアパートを出た。しかし、一歩外に出た瞬間にあいつに出くわした。
「あぁ、どうもこんにちは。」
そいつは小脇に封筒を抱えながら、俺に会釈をしてきた。そう、こいつこそが駐車場の車の所有者であり、俺の隣人である人間である。
封筒を持っていることから、出版社帰りだろう。汚い言葉を吐きたくなる。
「うっす…。」
胸の所に引っ掛かる言葉を全て飲み込んで、俺は至って普通の返事をする。
「お出掛けですか。」
普段関わりのない隣人は、俺にそんな事を聞いてきた。
「まぁな…。」
正直言って、皮肉にしか聞こえない。俺は、こいつが嫌いだ。
「そうですか。いってらっしゃい。」
少し笑顔を浮かべてそう言うが、本心はそうは思ってないことぐらい俺でも分かる。どうせ、こいつも俺の事を見下してやがる。
こんな気分の時は、決まって負ける。気が付くと手持ち金の五千円は綺麗に銀色の玉に様変わりし、綺麗に消えていった。分かっていたことだが、どうも釈然としない。
騒音とも思える店を、黙って後にする。
「何でなんだ…。」
不意にそう呟いた。
時刻は午後九時。バイトの制服に身を包み、俺は後輩とレジに立っている。退屈だ。何をしたってそう思えるが、この時間はさらにそう思える。
「先輩、さっき商品の陳列してましたよね。」
俺に顔を向けずに、後輩が何か言いたげそうな口調で言ってくる。俺は、後輩の方を向く。
「先輩が陳列すると、いつも汚いんですよね。先輩もお金貰って仕事してるんですから、しっかりやってくださいよ。」
全てを言い終わっても、一向にこちらを見ない。流石に俺もイライラしてきた。店にお客様はいない。
「何が言いたい?」
そう言われて始めて、後輩はこちらに顔を向けた。
「何?何って、先輩は言われなきゃ分からないんですか?仕事しろって言いたいんですよ、僕は。」
俺は時計を睨んだ。時計の針は一時間分しか進んでいない。
時刻は午前一時三十七分。俺はアパートに着いた。言うまでもなく、気分は最悪だ。あの後、後輩との会話は皆無だった。したとしても業務連絡、それくらいだ。
今日も車はある。その上今日は、隣室の灯りが点いている。仕事をしているのだろう。俺は何も考えないようにして自室の鍵を開けた。
隣人の男は、俺よりも後にこのアパートに越してきた。俺はその時からあいつが嫌いだった。
「どうも、隣に引っ越してきた者です。一応漫画を描くことを仕事としてますので、夜中など迷惑を掛けることがあるかもしれません。」
普通の人にしたら、普通の挨拶かもしれない。それでも俺みたいな奴にとっては、とんだ皮肉にしか聞こえない。
腹が減った俺は、最後のカップ麺に手を出した。何かを口にしないと、何かが出てきそうだ。ついでにテレビもつける。嫌な考えを起こしたくないから、音量を上げるボタンをひたすらに押した。
カップ麺が出来上がるよりも前に、インターホンの音が部屋に響いた。重い腰を上げて玄関を開ける。そこにいるのは、隣人のあいつだ。
「すいません、テレビの音量を下げてもらえませんか。集中が途切れるんです。」
迷惑そうな顔をしているのは分かる。けれど、それ以外何を考えているのか分からない。
「別にいいじゃねぇか。お前がヘッドホンか何かをすれば、俺だってテレビの音を聞きたいんだよ。」
そう言うと、隣人は突然小さく笑った。
「ふっ、貴方みたいな人が何を言っているんですか?」
俺でも、馬鹿にされていることぐらいは分かった。
「はっ?」
「貴方みたい“何も無い”人が、何を言っているだと言っているんですよ。」
「何だ、ならお前は俺よりも偉いって言いたいのか?」
「別に、どちらが偉いとかではありません。そもそも比較対象ですらありませんから。」
「何だと!!てめえは、漫画を描いてるから偉いってのか?!!」
「だから、そういうことではありませんよ。」
恐らくカップ麺はもうふやけているのだろう。それと同じくらい、俺の心も限界だった。
「と、貴方に言っても無駄ですよね。兎に角、音を小さくしてくださいよ。お互いのためにも。」
そう言うと、隣人は自分で扉を閉じてしまった。その後、隣の部屋の扉の開く音がして、閉じる音も聞こえた。
俺はテーブルの上のリモコンを手にし、音量を一気に下げた。
翌朝の八時、俺はノックの音で目を覚ました。寝癖も心もボサボサのまま、扉を開くとそこにはこのアパートの大家がいた。
「ちょっとあんた、昨日の夜何騒いでんのよ。大きな声出して。全部聞こえてたわよ。」
そりゃそうだろ、自分でもでかい声を出したと思っている。
「あんた最近、お隣さんに迷惑ばっか掛けてるでしょ?それだとお隣さんが可哀想なのよね、このまま迷惑掛けるならあんた、ここ出て行ってもらうわよ。」
驚くよりも、怒りしか出てこなかった。その矛先が誰に向いているのかは、分からなかった。
「二人しかいない住人を、追い出して平気なのかよ?」
「別に、あんたがいなくてもうちは生活していけるから、心配しなくても大丈夫だよ。」
「ふざけやがって、俺は出ていかねぇからな。」
そう言って、俺は自分から扉を閉じた。
隣から音がしない。車も無い。どうやらあいつは出掛けているようだ。
何が違うのだろうか。壁一枚で仕切られた二人の人間は、どうしてこうも違うのだ。あいつは俺の持っていない、全てを持っている。あいつが越してきて直ぐの時、気になった俺はあいつの事を調べた。そしたら、何かの賞を貰った新人漫画家だとネットに書いてあった。さらに調べれば、その賞の賞金から考えると相当の金を持っていることが分かった。あいつは、“持っている人間”なのだ。
それに比べて俺は何だ。大学の就活に失敗してから、そのままずるずると今に至っている。職も今のバイトしかない。勿論、金もない。同じアパートに住んでいる、しかも隣同士の人間でこうも格差が生じるのか。俺は、何もかもが嫌になってきていた。
「今日も、先輩と同じシフトですか。正直帰りたいです。」
時刻は午前十二時。いつものように、誰もいない店内で後輩はそう愚痴を溢した。
一人のお客様が店内に入ってきた。
「いらっしゃいませ!」
「いらっしゃいませ…。」
俺の声を聞いて、後輩は呆れた顔をしている。お前も何様だ。
俺がレジを担当して、後輩は商品の整理をしていた。
「ありがとうございました…。」
そう言ってお客様を見送る。その直後後輩はレジに近付いてこう言った。
「先輩、この仕事辞めたらどうです。はっきり言って、貴方と仕事するの苦痛でしかないです。前も言いましたけど、貴方みたいな不真面目な人間が、金を貰っているのが腹立たしいので、早急に辞めてください。」
その言葉に、出てきた感情は一つだった。気が付くと俺は後輩の胸ぐらを掴んでいた。
「年下のくせに、ちょっと仕事が出来るからって、いきがってんじゃねぇぞ!」
「はっ?いきがってませんし。それにちょっとじゃなくて、だいぶ先輩より仕事出来ますけど?」
「てんめぇ!!」
「殴りたいなら殴ればいいじゃないですか。別に貴方みたいな人間を、殴り返そうなんて思いませんから。その代わり、しっかりと法で裁いてもらいますから。」
法という言葉に、振りかざしていた拳をゆっくりと下ろした。そうして、後輩は俺が胸ぐらを掴んでいた手を振りほどいた。意図も簡単に。
「今日の事は未遂で許しますが、その代わり仕事はちゃんとやってください。これは、本心です。」
俺は自分が惨めに思えた。
時刻は分からない。ただ、隣の部屋の灯りは点いているし、車もある。
何でだ。何が違うって言うんだ。俺だってあいつらみたいに生きている。なのに、どうして生きている中身が違うんだ。後輩のあいつだって、大学に行って真面目に生活をしている。隣の住人だって、漫画を描いて生活をしている。俺は何をしている。何もしてない、そうとしか言えないんじゃないか。
隣人とを隔てる、この薄い一枚の壁が俺には違う何かに思えた。
とある出版社の一画。仕切りで区切られたこの場所で、二人の男性が話し合いをしている。
「今回の漫画、ずいぶんと面白いね!この主人公の人間臭いところとか、実に面白いよ!でも、かなりリアルに描写してるけど、誰かがモデルなの?でも、こんな人ってそうそういないよね?」
その向かい側に座る、若い男が楽しそうに答えた。
「このモデルですか?実はこの人実在の人物なんですよ。丁度、自分の隣の部屋に住んでる人でしてね。見ていて飽きないんですよ。」
枠の中 新成 成之 @viyon0613
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