剥がれ落ちて生れ落ちる

悠井すみれ

剥がれ落ちて生れ落ちる

 子供の頃、チョウの交尾を見たんだ。アゲハチョウ。って言っても俺は最初何だか分からなくて、ケツをくっつけてるのがいるなあ、って思っただけなんだけど。何やってるんだろ、って言ったら友達がコウビだよ、って教えてくれた。チョウがセックスしてるんだよ、ってな! はは……子供だからさ、そういうのは何でもおかしく思えちゃったんだろうな。雑誌とか動画とか、興味があってもそう見れるもんじゃないしさ。それで友達と揃ってチョウの交尾を観察してた。結構じっくりやるもんなんだよな。だから友達は途中で飽きてどっか行っちゃってさ。でも俺は何だか最後まで見ちゃった。チョウのエッチの覗き見なんて変態みたいだけどさ。

 あれはオスメスどっちだったのかなあ。見た目一緒っぽかったんだけど。とにかく、交尾してたチョウがやっと離れてさ、そのうちの一匹が俺の方に飛んできたんだ。さっきまで交尾してたやつじゃん? 何かやらしいっていうか……キモいじゃん? だからさ、そいつ、捕まえて蜘蛛の巣に引っ掛けたんだ。そうだ、学校の体育館裏。でかい巣が張ってるって、それも友達と言ってたんだ。蚊とかコバエとかさ、そういうのが掛かってるのはよく見るけど、チョウが引っ掛かってるのってあんま見たことなかったし。……うん、楽しそうだったからさ。あいつ、すげえ暴れてたよ。チョウでも怖いとか思うのかなあ。でも、あいつ腹の中はオス精子セーシで一杯だったんだよなあ。そう思うとやっぱエロくねえ?




「……それで、どうなったの?」


 彼女がごく平坦な声で促したので俺はしまった、と思った。女の子と飲む時にするような話じゃなかった。交尾だのセックスだの、身体ヤリ目的だと思われてドン引きされても仕方ない。いや、確かに最終的には、って期待はあるけどさ。だけどもっとムードのある話をすれば良かった。


 モヒートを煽ると、ミントの香りがきまり悪さを少し洗い流してくれたようだった。横目で彼女のグラスを窺えば、オレンジ色の液体が半ば以上を満たしている。何とかサンライズだかサンセットだか、よくあるオリジナルカクテルってとこだと思う。彼女の指先はグラスの縁を飾る生花を弄ぶだけ、酔いを進められるような話じゃなかったな、と心の中で舌打ちする。


 桜色の、切りそろえられた爪が目に留まる。ネイルもしてないなんて今時珍しいな、なんて。なんでこんな女に声を掛けたんだっけ。それともあちらから? クソ、こっちが酔ってんのか? 思い出せねえ。まあ良い、行きずりの相手と飲もうっていうんだ、脈はあるってことだろう。それもこんな、ガラの悪い店で。残飯でも出しっぱなのかな、猫の声が聞こえるな……それとも、発情期か。最近どこに行ってもよく鳴いてるんだよな。ちっ、俺も猫なんかに負けてられないな。


「さあ。忘れちゃった。蜘蛛が出てこなくて帰ったのかも」


 まずは、滑ったのを誤魔化さないとな。だから俺は嘘を吐きながらまたグラスを傾けた。


 本当はよく覚えている。チョウが掛かった網の揺れに反応して、蜘蛛はすぐに現れた。大きな獲物に喜んで飛び掛かった、ように見えた。チョウの羽ばたきは虚しい抵抗に過ぎなくて、すぐに糸に絡め取られて弱々しく震えて――動かなくなった。俺が殺した。死なせた。そう思って初めて、後ろめたさを覚えて蜘蛛の巣に背を向けて走ったんだ。でも、身動き取れずに喰われていくチョウの姿は、どこか艶めかしくもあった。


「オチ、なくてごめん。変な話しちゃった」

「ううん」


 俺の話に興味を持っているのかいないのか。彼女は平らな表情で花を弄り続けている。


 地味な女だ。どうして声を掛けたのかどうして乗ってきたのか、いよいよ不思議になってくる。付き合いだした頃の深雪みゆきをちょっと思い出す。あいつも最初はダサくて――でも、だんだん可愛くなったんだ。俺がそうしてやった。あんなことがなければ、今夜だってあいつのところに転がり込めば済んだのに。ウザい女――


「卵、産めなくて可哀想」

「ぁん?」


 ――そんな余計なことを考えていたから、彼女がぽつりと呟いたコメントの意味を理解するのに一瞬かかった。チョウを殺したことを責められるのかと思ったけど、卵だって? 確かにあいつの腹は卵――というか卵になるまえの精子と卵子が詰め込まれていたのか。保健体育で見せられたイメージが過ぎる。卵子を目指して泳ぐ精子オタマジャクシ。人間でも顕微鏡で観察するミクロの世界。チョウの卵は、何十か何百か――あの小さな胴体に無数の生命のもとが詰まっていた。そう、想像するだけで目眩がする気がした。

 何だよ、これじゃチョウ一匹殺したよりひどいことをしたみたいじゃないか。っていうか、芋虫でさえない、卵にもなってない命のもとを、殺したとか言えるのか? それなら男はみんな大量殺人犯じゃねえ? シコる度に何億って精子をゴミ箱送りにするって、よく言うじゃんか。ま、今夜はティッシュじゃなくてゴムに出したいもんだけど。


「自然ってそんなもんだろ? 弱肉強食」


 弱い生き物ほど沢山子作りするものだって、テレビでやってた気がする。虫とか魚とか、それこそ億単位の卵を産むやつもいて。でも、大人になるのはその中でも一、二匹とか。あのチョウが卵を産んだとして、一匹も成長できなかったかもしれないんだろう? いや、その可能性の方が高いはずだ。それに――


「人間だって。みんながみんな無事に産まれるとは限らない……」


 まただ。また、余計なことを言っちまった。同時に深雪の泣き顔が頭を過ぎる。止めてくれよ、あいつの顔なんて思い出したら萎えるじゃねえか。チョウのことといい、なんでわざわざ冷めちまうようなことを考えちまうんだ?


 彼女のグラスは相変わらず減っていない。飾り気のない指先で、花を摘まんで口元に運んでいる。それが、チョウが蜜を吸っている姿に見えて思わず頭を振った。違う、チョウなんかじゃない。ぐるっと渦巻みたいに途中で丸を描いたストロー、それがチョウの口吻に見えただけだ。こんな馬鹿でかいチョウがいて堪るか。目がおかしくなるほど酔ってるのか? 大して飲んじゃいないはずなのに。

 ストローの渦巻に、チョウの思い出と幻に、悪酔いのような目眩が襲う。猫の声もますますうるさく間近になっていくような。そこに突き刺さる女の声はやっぱり平らで何の感情も籠ってなくて。なのに、どうしようもなく気に障った。


「産みたかったと思うよ。そのために生まれてきたんだもん」


 深雪の泣き顔が目の前に見せつけられた気がしたから。思い出したくもないのに! あいつの恨みがましい上目遣いも鼻を啜る音も。


 ――出来ちゃった。リョータの子だよ。信じて。私、産みたいの。


 あいつの声まで! 畜生、まるで今目の前にいるみたいに!


「何だよ、あんた深雪の知り合いか!? あいつに何か言われて来たのか!」


 手が熱くなるのを感じて、俺はカウンターに掌を叩きつけた。この女、ムカつく。嫌なことばかり思い出させる。俺への嫌がらせなのか? 俺が何をしたって言うんだ。

 あいつとヤる時はちゃんと避妊しゴムつけてた。俺の子のはずがない。一回か二回は外れちまったかもしれないけど、それがヒットしたなんて信じられるか。


 手がじんじんする。あの時みたいだ。殴ったのは――ちょっと悪かったかもしれない。でも、仕方ないじゃないか。あいつが嘘なんて吐くから。俺の気を惹こうとしたか、浮気を誤魔化そうとしたのか。どっちにしても、やり過ぎじゃねえか。ブスの癖に調子乗りやがって。


 深雪――いつから会ってないっけ。病院行ったって聞いた。堕ろしたって。じゃあほんとにデキてたんだ。あいつ、とんだビッチじゃねえか。


 グラスが倒れて氷の欠片と酒がカウンターに広がっていく。でも店員が来ないのは変だな、って。どこか頭の片隅で思う。この店、初めてだったっけか? 他に客がいないはずはないよな? なのに妙に静かな気もする。まるで世界に俺たちしかいないような。それと猫の声だ。相変わらずサカってやがる。


「知らない。それは分からない。でも、卵が可哀想。卵――」


 怒鳴ったのに、女は怯えも慌てもしていない。感情のない目は真っ黒だ。照明が暗いからか――白目がないのは、何だ? コンタクトの一種? そこまでして俺を脅そうっていうのか? 深雪め、いい加減にしろよ。


「だから産ませて。あなたの肉で」


 何だこいつ。何言ってるんだ。頭、おかしいんじゃないか。猫の声が、近い……。いや、赤ん坊の声か? 最近ずっと耳についていたのは? そんな、バカな。


「ねえ、良いでしょう」


 泣き声に気を取られた一瞬。女の顔が目の前に迫っていて、悲鳴を上げちまう。白目がないと思った女の目――そこに、無数の俺が映っている。蜂の巣みたいな六角形の集まりが、それぞれ光っているような。複眼だ。チョウの目だ、と。反射的に思った。こいつは人間じゃない。俺が蜘蛛に喰わせたチョウ、なのか? 子孫を残せなかった恨みを晴らしに来たっていうのか?


「冗談だろ……」


 虫の癖に。あんなにあっさり捕まえられたほど弱っちい癖に。何偉そうに化けて出てんだよ。虫に、何ができるっていうんだよ。笑おうとして――笑えなかった。人の眼窩に収まった複眼は、悪い夢だと思おうとしても不気味だった。しかもそれが全て俺を見つめている。てらてらと光って。睨んでいるという訳でもない。ただ、虫らしく無機質な眼つきでじっと見ているだけ。それが、かえって怖い。


 異様な緊張。まともに息もできないでいると、無数の複眼に、新しい色彩がぎる。黄色と赤と青――アゲハチョウだ。屋内のバーにいたはずなのに、一体どこから来たんだ? そう、不安に心臓をばくばく言わせながらも、不思議に思った――その瞬間。


――っ」


 手の甲に激痛が走った。慌てて見下ろすと、そこは皮膚を剥ぎ取って肉を抉ったような傷がついている。チョウの翅の形の、傷が。


「何だよ、これ――ああっ!?」


 傷口を抑えようとすると、痛みの場所が増えて、俺は思わず椅子から転がり落ちた。腕、肩、頬。顎を伝う血の感触に、きっと甲と同じ傷痕ができているのだろうと思う。シャツの袖をまくって、そして俺は絶句した。

 思った通り、痛みを感じたところに傷痕ができている。それも、俺が見つめる先で次々に増えていく! 皮膚が、チョウの翅の形にめくれ上がる。肌色の組織が、身体から離れると鱗粉を纏った色鮮やかな翅に変わる。皮膚の下の肉も。チョウの胴体として


「止めろ、止めてくれよ、ってえぇぇええ!」


 血の飛沫を小さく宙に弾き飛ばしながら、アゲハチョウが舞い上がる。俺の血肉を翅に変えて。服の下からも新しいチョウが次々と這い出す。前の兄弟が作った傷痕を細い脚で踏み躙り、翅を震わせて血の汚れを払い落して飛び立っていく。


「私の卵。子供たち。良かった。やっと、かえれた……!」


 女の――アゲハチョウの雌の歓喜の声に、心底ぞっとする。一体全部で何匹いるんだよ。あいつが産むはずだった卵の分だけ、俺の身体が削られちまうのかよ。こんなに痛いのがいつまで続く? 俺は正気を保てるのか? 俺は――終わったとして、どうなってる……!?


 舌からもチョウが行ったから、ろくに叫ぶこともできなくなった。その一匹だけじゃなく、俺の口からも何匹ものチョウが飛び立っていく。内臓の激痛が教えてきていた。胃壁や肺や喉の組織も、チョウになっていっている!


 床を転がり回ったことで、チョウの何匹かは潰すことができたかもしれない。でも、身体がチョウになっていくこと自体を止めることはできなかった。俺の身体がどんどん削り取られていく。チョウなんかに! 畜生、何でだよ。ちょっとした子供の悪戯じゃねえか。今になって、どうして、この俺が!


 誰か助けてくれ、と心から願った。声にならないなりに呻きは上げていたはずだった。少なくとも痛みを紛らわそうと派手にのたうっていたのに。なのに誰も来なかった。俺はどこにいたんだろう? いつもの界隈で飲んでただけだと思ってたけど。チョウの女はいつ、どこから現れた? 俺はあの世にでも迷い込んじまってたのか? だから死んだチョウが出てきたのか? ……それに、死んだ――生まれなかった赤ん坊も? クソ、いてえ……。


 疑問は、絶え間なく襲う痛みの渦に紛れて消えて行った。




 気がつくと、床――それか、地面――にぐったりとうつ伏せに横たわっていた。濡れた感触があるのは、無数の傷痕から血が滲み出ているからだろう。痛かった。とてつもなく。全身、無事なところなんて少しもないんじゃないかとさえ思う。指先ひとつ動かすのも、息をするのさえも痛かった。ただ――俺は生きていた!


「くく……っ」


 小さく笑う。それさえも痛みを呼び起こして身体を丸めずにはいられなかったけど。でも、助かった、と思うとおかしくて仕方なかった。しょせん虫は虫だってことだ。五分の魂とか、笑わせる。チョウが何十匹何百匹集まっても、人間様を憑り殺すなんてできないってことだ!

 大丈夫。手も足もある。痛いけどちゃんとついてる。動かせる。頭もまともだ。目が見えないのは――多分血が流れ込んでいるだけだ。ちゃんと病院に行けば元通り。命に関わるようなことじゃあないはずだ。もう少し休んで――それか、誰かが見つけてくれれば。救急車を呼んでもらわなきゃな。どうしてこんな怪我をしたのかうるさく聞かれるかもしれないけど。でも、犯罪とかしてないし。心配ないはずだ。


 ……クソ、うるせえな、また猫の声だ。いや、赤ん坊の泣き声か? いままでになく近い……っていうかにいるんじゃないか、これ!?


 あたりの様子を見渡したかった。でも、俺の視界はどこまでも真っ赤。血の色しか見えない。だから俺はその甲高い声が俺に近づいてくるのを、ただ待つしかできなかった。


 あのチョウが優しく笑うのが聞こえた。慈愛に満ちた、っていうのか。虫の癖に、と。芋虫みたいに転がるしかできない身でムカつきを覚える。深雪もそうだった。子供が産まれてもないうちから母親面しててイラついたんだ。


「あなたも生まれたかったのね。大丈夫、まだたっぷり残ってるから」


 女は、どこか下の方に向けて呼び掛けたようだった。そしてそれに応えるように、声が上がる。今度は猫だとか思ったりしない。明らかに、赤ん坊の歓声だった。顔を見なくても、喜びが伝わるような無邪気な笑い声。――でも、その声こそが俺の心臓を恐怖で鷲掴む。


 生まれたかった? じゃあ、こいつは。この声の赤ん坊は、深雪の? 残ってるって、どういうことだよ!


 ぺた、と。俺の血でぬかるんだところにが這っている。随分と小さい気がするのは、赤ん坊にすらなってない胎児だからか。でも、どんなに小さくても虫の何十倍もあるだろう。そいつが、俺の身体を持って行こうとしているってのかよ!


 止めろ、と叫ぼうとしても、血の混ざった唾が口から溢れるだけだった。舌も喉もチョウに傷つけられてまともな声なんか出やしない。足音で辺りをつけて赤ん坊を追い払おうと手足を振り回しても、力が入らないし何にも当たらない。ただ、ぺた、ぺたという音が確実に近づいてくる。


 止めろよ、と。声に出すことは諦めて心の中で叫ぶ。お前、俺の子なんだろう。親父に何する気だよ。化けて出るなら深雪ははおやの方だろ。俺はろせなんて言ってない。産みたいならひとりで勝手に産んでれば良かったんだ! 俺にたかろうとするから、だから――


「ひっ――」


 頭の中で並べたてた言い訳は、何ひとつ言葉にできないまま。腹の辺りに何かが触れた。


「きゃあっ」


 すぐ傍で上がった嬉しそうな声は、産声ってやつになるのか。生まれることができてそんなに嬉しいのか。そんなに大したもんじゃないぞ。こんなに痛いんだぞ。お前なんて生まれてきてもどうせ育ててやれなかったし。だから頼む、止めてくれよ。


 後は、何と言おうとしたのだろう。俺はそれ以上考えることも怯えることもできなかった。赤ん坊の手――らしきもの――が触れたと思った、次の瞬間。


 俺のどこかから何かがごっそりと抉り取られていった。

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剥がれ落ちて生れ落ちる 悠井すみれ @Veilchen

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