06 八月六日


 猛暑を扇風機のみで凌いでいるにも関わらず、店内は今日も賑やかだ。

 十坪ほどの空間を、余すことなく駄菓子で埋め尽くした店の客層は多種多様。母親に手を引かれる年の子供もいれば、部活着姿の学生もやってくる。夏休みだからなのか人足が途絶えることはなく、いつ来ても、老婆は対応と計算にてんてこまい。現状は、二十円くじを引いては落胆する小学生集団の独占場だ。お陰で、長居もしやすい。

 二本目のポリジュースを手に、波知は、店外に設けられたベンチに腰を据える。

 仕事の合間を縫い、千草の目を盗み、この場所に通い始めて四日。張る時間帯が悪いのか、目当ての人物とはまだ一度も会えていない。公園から、駅やスーパーに向かうためには確実に通る道なのだが……どうにも運が悪いらしい。午前中と夕方、通勤や買い物に出る人が多い時間を狙ってみても不発なあたり、行動範囲が逆方向なのか。そもそものところ、あの容姿で二十年以上雲隠れできた時点で、あまり外出をしない人なのかもしれない。最悪、休日を返上して一日待つつもりではいたが、流石に老婆に怪しまれそうだ。

「なちくん!」

 ぼんやりと喉を潤していれば、遠方から弾けるような声が飛んでくる。

 駄菓子屋の常連だったひよこと、会うのもこれで六回目。こちらは縁があるのか、待ち合わせてもいないのに、午前中に店を訪れると必ず遭遇する。他愛もないことを喋り、一緒に菓子を食べるだけだが、彼女が傍にいてくれる間は風景に同化できるからありがたい。

 手を振ろうとすれば、ふと、傍らに立つ影が目に留まる。

 こちらに向かって会釈をくれた女性は、ひよこの腕を引く形で近づいて来るものの、表情が少し固い。

「……初めまして……ひよこの、母です。いつもうちの子がお世話になってます」

 顔は似ているものの、ひよことは対照的な愛想笑い――ここで初めて、いらぬ疑いを持たれていると察した波知は、言葉に詰まる。

「あ……えっと……ひよこちゃんの友達の、多岐川です」

 一応は、と挨拶をしてみるものの、手にはじわじわと汗が滲む。

 傍からすれば、自分は、ひよこを待っているように見えただろう。彼女が家でどのような話をしているのかはわからないが、物を貰い、買い与え、あだ名をつける年上の男、これだけでも十分怪しい。それに加えての連日の遭遇には、もう少し気を使うべきだった。

「なちくん、きょう、げんきない?」

 謝れば余計に怪しまれるような気がして黙っていると、ひよこがぴょこんと、隣に座る。

 途端に女性が眉根を寄せたことで、想像は、核心に変わった。

「……お菓子、買ってきなさい」

 母親から小銭を貰い、ひよこは嬉しそうに店内に入っていく。

 きっと、何を言っても言い訳にしかならず、疑いは晴れないだろう。それでも、ここまで打ち解け、協力してくれたひよこが怒られることだけは避けたいと、波知は口を引き結ぶ。

「……不安にさせてすみません。信じて貰えないかもしれませんが……ここにいる事情だけ、お話させてください」

 反省の意も込めて頭を垂れれば、足元に影が伸びる。

 偶然を、装う――姑息だとはわかっていたものの、それ以外、疑われずに近づく方法が思いつかなかった。連絡先がわからない、相手は自分の素性を知らない、一緒に住んでいる男には知られたくない、こちらの内容も大概不審で、下手をすれば通報沙汰だが仕方がない。

「この近くに住んでいる人と、話をしたくて待ってました。俺は彼女とは一回しか会ったことが無くて、連絡先も知りません。彼女も、俺の素性を知りません。内容が内容なので、怪しまれたくないから、偶然会ったって体に持って行きたくて……」

 軒先にぶら下げられた風鈴が、チリンチリンと涼しげな音を鳴らす。

「ひよこちゃんに初めて会った日は……彼女が同棲してる人と喧嘩して……キーホルダーは、その時に貰った絆創膏とかのお礼です」

「……こころから聞く限り、貴方は、とても優しくていい人とのことですが」

「…………」

「その彼女と貴方は、一体、どういうご関係ですか?」

 ひよこの本当の名前を告げると同時に、女性は、核心を突く質問を投げてくる。淡々とした声音にどう応えるべきか、考えたところで上手い単語はでてこない。

「……彼女は、俺の大切な人の、母親です」

 誤魔化すことをせずに事実を口にすれば、頭上には「そう」という一言が降ってくる。経緯を知らない人間からすれば、全く内容がわからないだろう。にも関わらず会話が続かないあたり、もう、見切りを付けられた。

「なちくんのたいせつなひとは、てんしさんだよね」

 そこにするりと、愛らしい声が割り込んでくる。

「てんしさん?」

 不思議そうな復唱が続いたことで顔を上げれば、視線の先には、袋いっぱいに詰め込まれた菓子がある。どうやら時間を稼ぐために、いつもより多くお小遣いを貰っていたようだ。

「おめめが青くて、かみがキラキラしてるの。ママが見せてくれるてんしさんとそっくりだから、てんしさん」

 ご機嫌なのか、ふふふ、と、はにかんだひよこは、よくわからない言い回しでユキの存在を伝えようとする。〝てんし〟という単語は先日も使っていたが、流行りなのだろうか。子供ならではの表現に目を細めて隣に視線をずらせば、女性はどうしてか、唇を戦慄かせる。

「あの子、生きてるの?」

「え?」

「目が青くて、茶金髪の……年は、私と同じくらい」

 突然の確認に対応できずにいると、ずい、と携帯端末を差し出される。画面に表示された写真に写る人物は、ユキにとても似ているが、ユキではない――

「この人の家にいた子」

 予想外の発言に目を瞬かせた波知は、改めて、女性と視線を交える。ひよこの年から考えても二〇代後半、彼女は、ユキと似た年代の人だ。

「ユキさんとお母さんのこと、知ってるんですか?!」

 衝動的に詰め寄ると、女性は肩を跳ねさせ、ひよこはぴっと背を正す。声を荒げたせいなのだろうが、二人は口を噤んでしまい、会話が途切れる。だが、思いがけないところで見つけた糸口を、離すわけにもいかない。

「驚かせてごめんなさい。詳しく教えて欲しいです」

 頭を下げれば、女性は困ったような顔をして、後方を指差す。

「……私が子供の頃、あの公園の裏のハイツにいたのよ。ずっとカーテンが閉まってる部屋だったんだけど、月に一回だけ、雨の日に、小さい頭が見えて金色の髪が降ってくる……多分、人に気付かれない日を狙ってベランダで髪を切ってたんだろうけど……それを友達が見つけて、一時期、太陽の光を浴びると溶けちゃう天使を隠してるんだって噂になった。女の人の方はたまに外で見かけてて、あの人が綺麗で目も青かったから、想像でなんだけど……」

「…………」

「それで、友達何人かと確認しに行ったことがあって……郵便受けのところから覗いただけなんだけど、本当に、天使みたいな、青い目の子供がいたの。その場で女の人に見つかって、警察呼ぶわよって言われて逃げたんだけど……でも、私たちは確かに見た」

「……はい」

「そのあとすぐに髪が降ってこなくなって、女の人も見かけなくなって……一年くらい経って女の人は戻って来たんだけど、もう隠すものは無いよって感じでカーテンが開くようになって……子供がいたって言っても、この辺りで青い目の子を見かけた人はいなかったし、学校にも来てなかったから……私たちの妄想だろうって、大人は信じてくれないし」

 途切れ途切れに喋る女性は、長い息を吐いて口元を押さえる。

「私たちのせいで、殺されちゃったと思ってた」

 震える声で小さく呟かれた言葉は、冗談でも、揶揄でもないのだろう。

 この町にいた頃の、自分の知らない過去のユキ――第三者が語る親子の生活は予想以上に複雑そうで、波知は良い知れぬ感情を覚える。

 数日前に会った優希という人物は、千草を叱れるくらいには豪快で、見ず知らずの他人を気遣ってくれるような優しい人だった。感情表現も豊かで、どこか万知子を思い出すような内面も、接してみたからこそ、紛い物ではないと思う。

「……さっき、大切な人のお母さんと、話をするために待ってるって言ってたね」

「はい」

「それは、この人なのね?」

 端末画面に触れる細い指を尻目に、波知は小さく頷く。

「何のために?」

「……もう一度、ちゃんと家族に戻って欲しくて」

 優希に良い印象を持っていないだろう相手に、伝えることではないとは思いつつも本音を零せば、溜息を返される。並行してゼリーを食べていたひよこの頭を撫でた女性は、本当に、ユキのことを心配していたのだろう。

「ここ。公園で遊んでおいで」

「えー? なちくんとあそびたい」

 二人同時の目線での合図を受け、波知は顔に苦笑を浮かべる。

「ママと少しお話があるから、終わったらね」

「……はーい」

 心優しいひよこを、きちんと育てている親――同じ母親として、彼女が何を思い告げるのかは安易に想像がつく。それでもきっと、意思は揺らがない。

「家族も何も、この人はネグレクトよ。子供を隠して学校にも外にも行かせてない。部屋もゴミでいっぱいで、子供の私でも、まともな生活をしてるようには見えなかった。言っちゃ難だけど、男の出入りも多かったし……絶対に嫌な思いをたくさんしてるのに、そんな母親と家族に戻りたいって、本人が言ったの?」

 蜃気楼の中を駆ける小さな背中を見送ってから、波知は空を仰ぐ。

「いえ。単なる俺の自己満足です」

 言い切ってみれば女性は少し驚いて、大きな溜息を吐く。

「だったら尚更……別の場所で幸せになればいいのよ。貴方、あの子の恋人なんでしょう? 母親の代わりに家族になってあげればいいじゃない」

「あ、えっと……恋人じゃないんです」

「え?」

〝大切な人〟という表現で勘違いさせてしまったのか、提案されたのは、盛大な夢物語だ。もしかすると、千草が描いた筋書きも、ひよこの母親と同じものだったのかもしれない。

「……一方通行と言うか……そうなれたらいいなって思ってたんですが、俺ではダメで」

「…………」

 膝元に置かれたままの端末に指を伸ばし、波知は静かに笑う。

「今、この人と一緒に住んでる人が、ユキさんの好きな人です。彼はこの人のことが好きなので望みは薄いんですが……それでも、欲しいものは欲しいって、遠慮せずに言えるくらいには自信を持って欲しくて……」

「……自信?」

「ユキさん、すごく綺麗な人なのに、全然自信がなくて自分のこと大事にしないんですよ。それってきっと……お母さんから認めて貰えない限りは、変わらないと思うんです。というか、お母さんと喧嘩したら、他でももっと我儘になれるんじゃないかなって」

「…………そうとは限らないわよ。子供の頃のトラウマって、大人になっても残るもの。私がずっと、あの子のこと忘れられなかったみたいにね」

 ふいに、子供たちがはしゃぎ声を上げながら店から飛び出してくる。やっとあたりが引けたのか、それぞれの手には水鉄砲が握られていて、全員が満面の笑みだ。

 ひよこの母親の話が本当ならば、きっとユキは、この駄菓子屋の存在も、友達と食べる菓子の味も知らない。汗だくになっての鬼ごっこや凍えながらのかくれんぼも、したことがない。

 息がつまりそうな、穏やかで変わり映えのしない日常。傍目からは閉じこもっているようにしか見えなかった生活が、千草を待つためだけに消費されていると感じた時間が、他人を寄せ付けない生き方が、ユキの知る〝あたりまえ〟だったのなら。そう、思い始めると最後、喉が酷く苦しくなる。

「…………貴方、やっぱりいい人ね」

「…………そんなことないです」

 面白い遊びも、美味しい食べ物も、綺麗な景色も、たくさん知っている。ほんの少しだけでも自分の〝あたりまえ〟をユキに与えてあげていれば、もしかすると、もっと貪欲に生き、前を向くための糧になったのかもしれない。

 この二年間で、自分にしかできなかったこと――今更、取り戻せない時間を思い返したところで、どうしようもない。

「自信を持つって言うなら、貴方もね」

「…………」

 背中をぽんぽんと叩かれたことで、波知は自然と唇を噛む。

「私は、貴方が家族になってあげるのが一番だと思うわ。こころが、お嫁さんになりたいって言った気持ちわかるもの」

「…………そんなこと言ったんですか」

 ただ、慰めと一緒に思わぬ告白を聞かされたことで、涙よりも先に笑いが零れた。

 蝉の鳴き声を傍らに、いい大人が二人で肩を並べてアイスを齧る。老婆は相変わらず忙しそうで、数時間、ベンチを占拠していても何も言及してこない。

「本当の名前は由貴さんって言います。すっごい口下手でちょっと捻くれちゃってますけど」

 先日花火をしている時に撮った写真を見せると、一瞬の間を置いて、ふっと鼻で笑われる。

「よしたか君かぁ……昔の感じなら、ゆきの方が似合うけど……これなら、よしたか君だね」

 縁側に座り、ジャージ姿で小難しい顔をする天使の性別については何も言わず。ただ、安心したように微笑んで、女性は氷菓子を頬張っていた。

 引き返してきたひよこと少しだけ遊んでから、波知は仕事に戻るべく、その場を後にする。

 会うという目的は叶わなかったが、内情を知れただけでも十分な収穫だ。

「ねぇ」

 帰り際、呼び止めてきた女性は、自らを〝美弥〟と名乗り、携帯端末を差し出してくる。

 ここに来ての自己紹介と連絡先の交換は、ひよこのためだと思いきや――

「あの人、今も同じ部屋に住んでるの。金曜日の午前中から出掛けることが多くて、他の日はほとんど見ない。こっちに帰ってくるのは、二時とか三時」

「……金曜日……? って」

 小声で囁かれた情報にはたとして、波知は思考を巡らせる。

 明日はちょうど、その、金曜日だ。

「協力してあげる。って言っても、こころにお小遣いをあげるだけだけど」

 女性――美弥は、ひよこの頭をわしわしと撫でて、困ったような笑みを浮かべる。

「あの時、助けてあげられなかったことずっと後悔してたの。だから、やるって言うのならとことんまで頑張って。もし無理だったとしても、貴方が傍にいるなら今以上に悪いことにはならないだろうし」

「……ありがとうございます」

「あと、今度、よしたか君のちゃんとした写真ちょうだい。友達にも見せたいから」

 有難い申し出と引き換えの、叶えられないだろうお願い。

 朗らかな表情に向けて苦笑を返せば、耳には、風鈴の音が忍び込む。

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あたりまえのうしろがわ(仮) ぽん @pontanooshiri

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