07 八月二日(6)

 

 同じ佐加井町で、駅からは徒歩三分。二軒隣にはコンビニ、すぐ近くにスーパーと飲食店街があるというハイツを見て、ユキは案の定、驚いていた。

 商店街の少しはずれ、比較的新しい建物が並ぶ界隈は、自分が小さい時に港栄コーポレーションが開発した新興地のひとつだ。

「……こっちのが全然いいじゃねぇか」

「……まぁ……でも厳さん、あの家が好きだったから」

 本来の事情は隠したまま、波知は部屋の鍵を開ける。

 室内は2DKで、物も無ければ広くもない。リビングには備え付けのキッチンがあり、ソファとテーブル、ベッドをまとめて置いている。もう一部屋はずっとがらんどう状態で、先日やっと、数週間分の日用品を買い入れた。利点と言えば、どちらの部屋にも、万知子の家より新しい冷暖房機がついているということくらいだろうか。

「ほんと何もないんですけど……冷房だけは効きますから。あ、と……テレビどうします? おばちゃんちにあったやつ、持ってきましょうか?」

 そういえば、と思い聞いてみると、ゆるく首を振られる。

「いらない……というか、本当に……借りて、いいの?」

 まだ迷っている部分があるのか、零れる言葉は、今まで以上に煮え切らない。

 それなのに、視線だけは真っ直ぐに合わせてくるのは、無意識のものなのか――

「好きに使ってくれて、大丈夫です。オレはここには来ないですし……」

 いつものように笑顔を意識してみると、ユキは、どうしてかきゅっと口角を下げてしまう。

 欲しい言葉を、表情を、全て貰えたのだからと言い聞かせたところで、これまで見てきたものとは異なる一面を出されてしまうと、どうにも駄目だ。千草を呼んでも構わない、という一言を掛けてあげられなかったのは、単なる意地悪と、これ以上、二人の密な関係に口を挟みたくはないという、自己保身だろう。

「日用品は、あっちの部屋にあります。煙草と……少しだけですけど、生活費、机の引き出しに用意してるので。もし、職見つかる前に足りなくなったら言って下さい」

 運び入れた荷物を床に置き、再び向き合うことをすると、ユキは小さな声で〝絶対にちゃんと返すから〟と呟く。

 自分を大切にして欲しい、という言葉の意味が届いているのかが定かではない中で、安易な発言をすることもできず。

「……何か困ったことあれば、連絡下さい」

 波知は、自らがかけられる最後の言葉を、青い瞳に託す。

 意地っ張りなユキが、嫌っている自分を頼ることはないだろう。途方もなく困り果てれば厳三を、寂しくなれば千草を、選ぶとわかっていても――結局、気持ちは変わらない。

「……これ。渡しておきますね」

 ポケットから探り出したキーホルダーのチェーンに、波知は二つの〝おまもり〟を通す。

 新しい部屋と、万知子の家の鍵。ひよこに買ってあげたものとお揃いのマスコットも、いつか辛くなった時の、支えになればと願いを込める。

「それじゃ」

 後腐れなく、昨日までと同じように――

 別れようと笑ってみせれば、目の前にある表情が不安そうに揺れる。

「…………ほんと、天の邪鬼ですよね」

 拒否することも、受け入れることも、してくれない。嫌いになれれば楽なものを、嫌いにはさせてくれない凶悪な存在は、知れば知るほど愛しく、離れ難い。

 身体をゆるく抱き締めれば、洗濯に使っていた柔軟剤の匂いがする。腕の中の髪が纏う香りは、自分が選んだシャンプーのもの。

 この二年間でのユキの変化はたったそれだけで、他には何も残すことができなかった。唯一与えた香りですら、きっと、すぐに消えてしまう。

 ならば、最後まで拒み、疑っていて欲しかった――

 声に出せない想いを飲み込んで距離を取れば、ユキは一度だけ瞬きをして、口角を上げる。

「……じゃーな」

 初めて耳にする言葉と皮肉めいた表情が、強がりだということはすぐにわかった。

 きっと今なら、傍で支えることを許してくれる。自分にも、付け入る隙がある――そう感じながらも、波知は黙って踵を返す。

 意地を張ることで現実と向き合えるのであれば、それが一番いい。頼る先も、縋る相手も、他にある。自分がその場所を望んでしまうと、ユキはきっと、前に進むことをしない。

 後ろ髪を引かれる思いで玄関を後にすれば、背後で、静かに部屋の扉が閉まる。

 活気に満ちた、明るい街で始まる〝これから〟

 そこに自分はいないという現実は、自らで選んだ道は、何にも替え難く、空しかった。

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