07 八月二日(5)


 長い廊下と窓を無心で拭き、階下に降りると、時刻は午後四時を過ぎていた。

 滅多とない外出に加えての掃除で滝のように汗をかき、久方ぶりに、自らの意思で風呂に入る。浴槽に残された水を適当に浴び、脱衣所に出た時の涼しさは生まれて初めて体感するもので、がむしゃらに何かをするのも、悪くはないと思えた。

 乾燥させたスイカの種を塩で炒り、冷やしておいたジュースと共に居間へと運べば、数時間前と同じ場所に曲がった背中がある。外出しているのか、見渡す範囲にハチの姿はない。

 あちこちに散らばるダンボール箱を横目に、ユキは縁側へと歩を進める。籐座椅子を挟む形で腰を下ろし、床に盆を置けば、骨ばった手は迷いもなくスイカの種を摘まむ。知らぬ人間なら食用だとは思わない一品を、躊躇なく口に入れるあたり――ハチが言っていた〝昔、万知子の飯を食べていた〟という話は、本当なのだろう。

「……さっき、言いそびれたんやけども」

 視線は庭に向けたまま、厳三はポリポリと小気味よい音を響かせる。

「わしの別れた嫁さんは、大きい極道一家の一人娘でな。次の嫁ぎ先が、港栄こーぽれーしょんやった。なちを養子にもろとるのもあるけど……わしは、そこふたつには頭あがらんで」

「どういうこと?」

「……今回の、立ち退き……ゆうても、止めるような権限は持っとらんのやけど……最初からこうなることわかっとって、ちー坊にもよし坊にも、何もしてやれんかった。港栄にも西嶋にも、何も言えんかった」

 唐突に始まった独白に驚いていると、並行して、深々と頭を下げられる。

「すまなんだ」

 数時間前に聞いた謝罪――それが、過去のことではなく現在のことだとは思わず、ユキは眉尻を下げる。とは言え、厳三やハチを責める気は、毛頭ない。

「ジジィが謝ることねぇだろ。こんなの、誰にもどうしようもねぇことだし」

「そか…………」

 妙にしみじみとした横顔は、一体何を想い、何を考えているのか。

「あとな、籍の件やけども……跡継ぐかどうかは置いといて、ほんまにこのままにしとく気ぃなら、いっぺん、冴島んとこ挨拶いこか。相続やら税金やらの問題もあるし」

「…………」

「わしが生きとる間はどうにでもなるけど、死んでもうたら、よし坊がしんどいからな」

「……殺しても死ななさそうなくせに、何言ってんだよ」

「もう八〇過ぎとるんや。いつお迎え来てもおかしないんやで」

 ふいに現実めいた話をされたことで、ユキは、皮肉を返すことができなくなる。 十数年、目を背けてきた事柄が多大なしっぺ返しをくれたばかりの今、未来の想定をする余裕はない。それでも、八〇、という単語は否応なく、脳裏に沁みる。

厳三の庇護下で、一度も会ったことのない〝ミナミ〟の兄夫婦が名字を与えてくれている――自分にとっては穏便な現状が、このまま続くことはないと言われた気がして足が竦んだ。気付かぬうちにかけられていた情が、気付いた途端に無くなるかもしれない恐怖は、また、逃げ腰な思考を呼んでくる。

「これは、全部わしの我儘や」

 租借を止めた厳三は、鼻をすんっと慣らして俯く。

「元嫁の情けで、わしは自分が寂しいからて、なちを養子にした。ちょっとでも長うここにおりたぁて、優希とちー坊探し出せんで、よし坊に辛い思いをさせた。せやから、せめて……できることは、してやりたい」

「…………」

「わしがよし坊を養子にしてやれるんは、わしが生きてる間だけや……よう考えてくれ」

 どうして初めからそう言わなかったのかと、思ったところで、数時間前には告げるつもりがなかったのだと踏む。

 泣くと弱音を留められなくなるということは、自分もこの二日で痛感した。きっと厳三も、飄々としているように見えて、胸の内には色んな葛藤を抱えているのだろう。

〝なち〟という名前が出てきたことでやっと、唐突な養子縁組の本意も見えた。

「……美味いな。ちょっと、熟れすぎやけど」

 スイカジュースを一気に飲み干した厳三は、腰を叩きつつ、荷詰めを再開する。

 何もない庭を眺め続けたところでそれ以上の会話はなく、ユキは、分け与えられたダンボールを抱えて二階へと戻った。

 罵声を飛ばす集団が訪れない夕刻は静かなもので、なぜか、居心地が悪い。

 廊下へと続く扉は開けたまま、ソファの前にダンボール箱を下ろして周りを見渡せば、たくさんのものが目に留まる。この家に来た頃とほとんど変わらない、二年前に置き去りにされた全ては、本当に処分されてしまうのかと疑いたくなるほどに、まだ日常的だ。

 着古したジャージとTシャツが二枚ずつと、下着が三つに携帯電話の充電器。そこに、ソファの下に忍ばせていた通帳を取り出して乗せれば、必然と手は止まる。

 十四年をこの家で過ごしてきたものの、箱に入れられるのは、たったこれだけ。そもそものところ、衣服も携帯も千草のお下がりを勝手に使っていて、通帳は女からくすねてきたものなので――自分の所有物はひとつもない。おまけに、この家での呼び名も、戸籍も、全てが借り物で誰かのお下がりだ。

 ハチから貰った煙草の空き箱と、子供がくれたジュースの容器、今、唯一の〝自分のもの〟はとてもちっぽけで、中身もない。それでも、もう少し大切にすればよかったと思う。

 今日も今日とて重い窓は、力任せに引けば、耳障りの悪い音を立てて桟を滑る。外に広がる風景はいつもと変わらず閑散としていて、空の彼方では、のんびりと雲が流れていく。

 この景色を守ることはできずとも、思い出を運び出せる術があればと願うほど、全てに愛着が湧いた。必要な品を持って行けと言われたところで、与えられた小さな箱に収まるだけのものを選ぶ器用さはない。残されたものは捨てられると思えば、尚更無理だ。ひとつを手に取ってしまえば最後、きっと、どれもこれもが惜しくなりこの場所から離れられなくなる。

 だからこそ、ユキは、ひたすらに届かない暮れ空を眺め続けた。

 高層ビルの窓に映る雲が紫色に染まる頃、路地に、聞き慣れない音が滑り込んでくる。今にも壊れそうな騒音とありえない量の排気ガスを吹かしながらやってきた小さなトラックは、荷台付き。どこから調達してきたのか、運転をしているのはハチだ。

「…………」

 泥で汚れた作業着にも、陽に焼けた肌にも、ずっと違和感があった。ふわふわの癖っ毛に細身の体型と温和な顔立ちを、生かせる職は他にもあるだろうと、有名な高校に行く頭があるのに、どうして肉体労働を選んだのかと、言えないままに過ぎてしまった二年。

 運転席から降りてきたハチは、いつものように顔を上げて、困ったように笑う。

「……ただいま、ユキさん」

 何気ない日常の一部――いつからか当たり前になっていた挨拶を、行動を、この場所から見下すのも、今日で最後だ。

 途端に込み上げてきた感情をぐっと噛みしめれば、どうしてか、身体が勝手に動く。

 衝動的に部屋を飛び出し、階段を駆け降りて玄関の扉を開くと、門柱の傍らに立つハチは驚いたような顔をして、動きを止める。

 その手中に収まるものを見てやっと、腑に落ちたことが、あった。

 昨夜の言動も、これまでの日常も、今になって考えれば全てがおかしい。単に千草に憧れているだけなら、本当に好んでやっていることなら――〝こんなことくらいしかしてあげられない〟という言葉は、出ないだろう。

「…………苦手なら、吸わなくていい。もう、千草の代わり、しなくていいから」

 フィルターがついたままの煙草を見据えて想いを伝えれば、声が、震える。

「おかえり」

〝ごめん〟と〝ありがとう〟――そして、泣きたい気持ちを飲み込んでまっすぐに視線を合わせると、ハチは目を丸くしたあとで、へらりと笑う。

 たった一言、迎え入れる言葉をかけてやっていれば。

 否定せずに、そのままの姿の彼と向き合い話を聞いていれば――

「花火買ってきたんで。荷詰め終わったら三人でやりましょ」

 今でもハチは我儘を言い、素直に笑って、泣いてくれたのかもしれない。不安そうに顔色を伺うことも、言葉を濁し選ぶことも、知らないままに成長したかもしれない。

 ぎこちない笑みを残して庭へと向かう背中を見送り、ユキは掌を握り締める。

 似合わない煙草と香水も、下手糞な料理も、気付いてしまえば身に余るほどに、大きな優しさだった。高校を出てすぐに働き始めたことも、千草の真似を続けていたことも、きっと、ハチの本意ではない。

 ずっとひとりぼっちだと、思い込んでいた時点で盲目だったのだろう。寄り添おうとしてくれた人に感情を殺させてまで守った居場所に〝由貴〟のものは何もなく、後悔だけが募る。

 邪険に当たり散らした〝これまで〟をやり直すことも、何も無かったかのように〝これから〟を望むことも、できはしない。

 ずっと受け止めようとしなかったものに、縋りつくほど馬鹿なこともない。

 どれだけ厳三とハチの家族になりたいと考えたところで――自分の身体には、身勝手で思慮に欠ける女の血が、色濃く流れている。



 周囲が暗くなってから、三人で手持ち花火をした。

 水を張った鉛色のバケツに燃えカスを突っ込んでは「おまえも、今日でお役御免だな」と、厳三は笑う。折角だからと、ハチは両手に花火を持ち、草山のてっぺんに登る。

 煙と火薬の匂いが充満する庭先は、いつもより少しだけ明るく賑やかで、過去に見ていたものよりは随分と質素だった。足りない、と惜しみながら、また明日やればいい、という言葉が飛び交っていた夏の日常はもう遠く、帰ってくることもない。

 縁側に座ったまま、渡された一本に火を付ければ、バチバチと激しい音が鳴りあちこちに火種が飛ぶ。その火が時おり足の甲に当たり、熱さと痛さで手元が狂う。風に煽られた煙を被ってしまえば大いに噎せて、笑われる。初めての手持ち花火は楽しい、よりも難しい、が勝っていて、ユキはやはり、自分は遠くから眺めている方が性に合っていると思う。

「大容量」と書かれた袋の中身は三〇分もしないうちに無くなり、しめには線香花火の玉を、誰が最後まで残せるかという子供じみた遊びをした。年の功で連戦連破を果たした厳三は「こんなもん、忍耐力や」と皮肉を言いながら、随分と長い間、消えてしまいそうな光の種を見つめていた。

 たった十本しかない、小さな花火が燃え尽きてしまえば、本当の最後――

 短くなった紙縒りをバケツに放り込んだ厳三は、おもむろに腰を上げ〝さて〟と、言う。

 その声を合図にハチは荷物を運び始め、家の中は、静かな慌ただしさに包まれた。

「ユキさん。荷物は?」

 声を掛けられたことでやっと、ユキは、二階へと向かう。いつもよりのんびりと階段を登り、廊下を進んで、十四年間を過ごした部屋の前に立つ。

「…………」

 ソファに座りたい気持ちを堪えて抱えあげたダンボールは、とても軽い。

 距離を空けてついてきていた足音は、傍に留まっても何も言わずにいてくれて、救われると同時に踏ん切りがつかなくなるから、厄介だった。

「何しとんやー。はよせぇ腹減った」

 どれくらい待たせていたのか、階下からの催促の声を期に、視界の先に腕が伸びてくる。

 ただ、荷物を抱えてくれたハチは軽さにでも驚いたのか、困ったような表情を浮かべて、箱を右腕一本で持ち直した。

「……ユキさん、携帯貸して貰えませんか?」

 並行して左の掌を差し出されたことで、ユキはジャージのポケットを探る。何をするのかはわからなかったものの、素直に託せたあたり、情けない。昨日までであれば絶対に拒否していただろうことを平然と了承する時点で、ハチもきっと、呆れているだろう。

 受け取られた携帯電話は、開かれるなり早々と画面が切り替わる。手慣れた様子でボタンの操作をするハチは、メールしか見ていなかった自分よりもよほど機能をわかっているらしい。

「写真撮ってフォルダに入れとけば、いつでも見られるんで」

 カシャカシャと、聞きなれない音を鳴らす端末を見つめていれば、苦笑を向けられる。

「一階はオレので撮ってるんで。また、送りますね」

 これまで思いもつかなかった、写真に残す、という術――

 千草自身が電話かメール、しか使っていなかったせいで忘れていたが、携帯電話には写真を撮るという機能もあった。これなら、箱に入れずとも、色んなものを持ちだせる。

 数分間、端末を弄ったあとで、ハチは見えるように画面を開いてくれる。矢印のボタンを押すたびに切り変わる写真は、今、目の前にある景色と同じだ。

 その小さな世界に見入っていると、続いて、複数のメニューが並んだ一面が現れる。突拍子もなく選ばれた【アドレスデータ】という項目の意味を考えていると、切り変わった画面の中には――丸井千草、という文字と、数字の列が表示される。

 顔を上げても、ハチは、何も言わずに笑うだけ。

 だからこそ、その行動の意味を、聞くことはできなかった。

 携帯電話を返されたあと、ユキは最後に一度だけ、背後を振り返る。散らかった室内と、ボロボロの土壁にソファ。もう戻ることはない場所を目に焼き付けて正面に向き直れば、廊下の先では、ふわふわの癖っ毛が待ってくれている。

 特に会話をすることなく階段を降りてからは、二人で、厳三の嫌味を聞いた。

 ダンボールの中身が少ないことを知った年寄りは、何が「勿体ない」なのか、手近にあるものを放り込み、最後には、外してきたらしい鳩時計を封入する。周りを見てみれば、いつの間にか縁側からは籐座椅子と灰皿が消えていて、飾り棚の上の仏壇や置物も無くなっている。それでもまだ、家の空気はボロ宿と呼ばれていた頃のままで、実感が沸かない。

 ボロボロのサンダルを突っかけて外に出ると、夜風が髪を揺らす。背後でカシャン、と鍵を閉める音が鳴れば、数秒の間を置いて、白髪交じりの頭が視界の端をすり抜ける。

 荷物をトラックの後ろに積み込んでからは「腹が減った」という二人に連れられ、商店街の角にあるうどん屋に向かった。以前に一度、万知子と訪れたことがある店は、相変わらず閑古鳥が鳴いていて、ボロ宿に匹敵するほど汚い。 

「今日で、この町出るんや」

 席につくなり勝手にきつねうどんを三つ注文して、厳三は、からからと笑う。

「あらぁ……寂しくなるわ」

 水を運んできた恰幅の良い女性は、伝票を記入する傍らで、静かに微笑む。

 それはまるで軽い挨拶のようで、店の中の誰もが、惜しむことや嘆くことをしない。

 運ばれてきたうどんをすすっていると、新聞を捲る音が聞こえてくる。カウンター席でまかないを食べている料理人は、テレビの野球中継とニュース画面を切り替えるのに忙しい。厳三とハチは、机に備え付けられていた天かすをたらふく椀に盛り、黙々と食べている。

 周囲の人間の時間は、いつもと変わらず、何事もなかったかのように流れていく。

 その事実が殊更に胸を苦しくして、ユキは、うどんの味がよくわからなかった。

 夕食を済ませたあとは、家に戻ることなく、トラックの助手席に誘導される。荷台に飛び乗ったハチに代わり、隣には、まさかの厳三がつく。免許の有無も去ることながら、腰の曲がった年寄りの運転技術がいかほどのものなのか、が、想像できない。

「わしらは、隣の吉井に越すんやけど……」

 心配したはなえ、ブルンッと、いう音を吹かして、今にも壊れそうな車が動き出す。

「一緒にこんでえぇか?」

 何度も差しのべられた手を、善意を、拒めるだけのものは何も持っていない。

「ありがとう……でも、行かない」

 ただ、このまま頼ってしまえば変わることができないと――ユキは、最後の強がりをした。

 窓を開けて遠ざかるボロ宿を見ていると、携帯電話が短い着信音を鳴らす。開いてみれば、二日ぶりの新着メールには文字がなく、画像が一枚だけ添付されている。

 先ほど撮ったのか、街灯に照らされた家の門扉は、なかなかにおどろおどろしい。 続いて届いたものは、厳三が庭で花火を振りまわしている写真で、自然と苦笑が漏れる。

「携帯代! ちゃんと払えよ!」

 無駄に大きな声の注意はハチにも聞こえたのか、荷台でガタッと大きな音が立つ。クーラーから漏れる風は煙草臭く、ラジオからは、延々、音の飛んだ演歌が流れてくる。

 無駄に上手な鼻歌を傍らに、景色を眺め続けた、ほんの短い時間。

 物哀しい夏の夜はどうしてか心地よく、もう少しだけと願うほどには、大切になっていた。

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