07 八月二日(4)
蒸し暑い縁側の下で、氷の浮かぶ大きな器の中を、素麺が漂っている。
別の皿に盛られている薬味と具は、細切り胡瓜に茗荷、皮を剥がされた角切りトマト。どうやって味を付けたのか、トマトは香ばしくて甘しょっぱく、単品だけでも箸が進む。めんつゆの中には刻んだ葱と胡麻がどっさり入っていて、風味も、彩りもいい。一緒に運ばれてきた炒め物は、玉葱とピーマン、ジャガイモ、人参と、野菜のみで構成されているにも関わらず――かなり美味い。おまけに、ここまで待たされた時間は、十五分ほどだ。
「…………」
見覚えのある食材で作られた料理を黙々と食べ、波知は恥を噛みしめる。
ユキの手料理というだけで既に気持ちは浮ついていたが、どれだけ不味いものが出てこようとも、と、思ったことは驕りだった。途中、アルバムを抱えて家に戻った厳三も、同じような認識だったに違いない。こっそり台所に何かを運んでからは、無言で素麺をすすっている。
野菜の切り方や味付けに細かく言及してきただけのことはあり、ユキの料理には文句の付けどころがない。むしろ、どうして今まで、自分で作ることをしなかったのかと――考えたところで、千草のためだった、と、思い出す。
素麺が残り少なくなってくると、室内には 食欲をそそる香ばしい匂いが届く。
続いて置き去りにされた皿の上には、野菜のかき揚げと、天ぷらが数種類。揚げたてなのにしんなりとした衣は、失敗したのかと思いきや出汁と胡麻油の風味が効いていて、騙された。素材は、厳三が持ち込んだのだろう。山芋に茄子、紅生姜、椎茸と、購入した覚えのない、自ら手を伸ばすこともない食材の揚げ物は、ものの数分で空になる。これが素麺の具として作られたものだということは、めんつゆに浸すと格段に美味くなったことで気付いた。
最後に古い土鍋を二つ、運んでやっと、ユキは縁側に腰を下ろす。
大ぶりな調理器具のひとつには、豆腐の味噌汁が。もうひとつの方は、蓋を開けるや、甘い香りの湯気が立ち昇ってくる。
玉葱と鶏肉のようなものが混ざったふわふわの黄色い卵に、刻み海苔――
「……ん? 巨大かに……鶏たま?」
「……親子丼もどきな」
器の大きさと、表面に見えているもので名前を想像してみると、意外な単語が返される。
親子丼、は、よく食べるが、ここまで大きなものは知らない。人数が寄る丸井家の食卓でも見たことのない一品は、ユキのオリジナルなのか。半信半疑でしゃもじを入れれば、底の方にはしっかりと白米が詰まっていて、おこげまでついている。大雑把なのか几帳面なのか、土鍋で炊いたらしいご飯は粒がぴかぴかと光っていて、自分が炊くものとは段違いに柔らかい。
そう言えば、と、顔色を伺えば、ユキは頬杖で口元を隠してそっぽを向く。
丼が食べたいという発言を、聞いていてくれたことが嬉しくて頬を緩めた波知は――空いた皿を寄せるべく目線を変えた時に、出された料理に隠れる意図を悟った。
先ほどから一言も喋らない厳三は、箸と椀を持ったまま、土鍋を見つめている。
「…………よし坊、何でこれ……どないして作ったんや」
「……秘密」
ユキの作った料理は、懐かしいけれど、知らない味がする。万知子の味付けに似ているものの、どれも少しずつ味が濃く、自分にはちょうどいい。何故かと考えて気付いたのは、男の舌に合うよう塩加減を調整しているということだ。
器に親子丼の一部をよそって渡すと、厳三はしばらくの間を置いて、少量を口に運ぶ。
途端に嗚咽が漏れたことにユキは驚いていたが――きっとこれが、一緒に暮らしていた時によく振舞われたという、万知子の定番飯なのだろう。
そこそこ料理のできる厳三が、毎度のように焦がし、いつからかサクサクの衣になっていた天ぷら。今思えば、カラリと揚がっていたのは成功ではなく、諦めだったのだろう。たまに挑戦していた土鍋料理も、ことごとく失敗して、いつの間にか食卓に並ばなくなった。
米をガツガツと掻き込み始めた厳三を横目に、波知も一口目を頬張る。
店で食べるものより数段美味い親子丼は、卵も、米も、つゆも、ほどよく甘い。見た目ではわからない〝もどき〟の意味は、咀嚼してやっと見えた。
「おいしいね」
優しい味のする麩に忍び笑えば、視界の端で、白い頭が何度も頷きを落とす。
この町で過ごす、最後の日。
波知は、初めて、養父の泣く姿を見た。
味見をしたから腹は減っていない、と食事に手を付けなかったユキは、どういう心境の変化なのか、洗い物まで買って出てくれた。少しの時間、感傷に浸る厳三に付き合ってから台所へと向かえば、すでに水音は止んでいる。
できないわけではなく、放棄していた、ということは、この数時間で十分に理解した。手際の良さからして、料理も片付けも、実際は得意なのだろう。万知子が生きている、千草がいる間の生活を知らなかったせいで――本当に、余計なことをしてしまった。
掛けたい言葉を全て飲み込んで、波知は、シンクの前で俯くユキの元へと歩を進める。
「ごちそうさまでした」
お礼がてら手元を覗きこんでみれば、作業台の上には、タッパとボール、小皿がそれぞれひとつずつ。塞いでいるのかと思いきや、どうやらもう一品作る気でいるらしいユキは、脇目もくれずにスイカから種を抜き取っていく。
「何作るんですか?」
「ジュース」
小皿の上に増えていく粒を眺めていると、ずい、と、視界の先にタッパを押しやられる。残り三分の一は、手伝えと言うことだろう。
切り分けてから時間が経ったスイカは、随分と熟れていて、腐っていないか心配になる。ただ、ものを頼んでくれるまでに回復したユキの気持ちに水を差したくないと思い、波知は黙って赤い塊をつまんだ。
「…………何でジジィ泣いてたの?」
「嬉しかったんだと思いますよ。あれ、おばちゃんが厳さんに作ってた料理みたいなんで」
「……へー」
他愛のない会話を交わしながら、二人で肩を並べて何かを作る――
これまでに無かった時間は、どことなく照れくさくて、目線が泳ぐ。おまけに、通常運転に戻ったユキを前にすると昨夜の失態が蘇り、恥かしくて仕方がない。
キスは衝動的なものだが、千草を真似た抱擁や盛大な告白は、もう会わないと思っていたからできたことだ。言及されても困るが、普段通りというのも、非常にやり辛い。
「でも、何で秘密なんですか? おばちゃんが作ってくれたこともないし……門外不出のレシピとか?」
「…………そんな大したもんじゃねぇよ。あれは、まかない……っつーか…………」
ぎこちなさを誤魔化すために質問すれば、迷った様子の物言いを返される。説明が難しいのか、教えたくないのか、続く言葉はなかなか出てこない。
ただ、少し待ってみると、ユキは根負けしたように溜息を吐く。
「期待させて悪いけど、材料も分量も決まってねぇんだよ。天ぷらと丼は、出汁余らせて賞味期限切れたもんが大量にある時に、まちばぁと食ってた飯。使えねーもんかき集めてテキトーに作るから、客人には振舞えるもんじゃねぇって……絶対ジジィに言うなよ?」
「……なるほど……」
聞いてみれば、何てことはない。
ユキは気付いていないが、要するに――こだわりの強い万知子が残り物を使える、気を許している身内にしか出さない料理ということだ。
「でも、今日は出汁、作ってくれたんですよね」
「…………」
「めっちゃうまかったですよ。ありがとうございます」
種抜きを終えたスイカをボールに詰み、次を取ろうとすれば、タッパの中身がない。器用も器用、自分が二つ目を処理する間に、ユキは残っていたものを全て片づけてしまったらしい。
「遅い」と罵られて後ろ脛を蹴られる……お決まりの行動が来るかと横顔を盗み見れば、傾れた髪の向こう側には、息の詰まる光景がある。
子供の頃に路地から仰いでいた、嬉しそうな、はにかんだような笑み――ずっと、自分に向けて欲しいと願っていた、もう見ることは叶わないと思っていた表情は、すぐに隠れてしまったもののやはり綺麗で、波知は咄嗟に目を逸らした。
仕分けたスイカはミキサーにかけられ、少しの味見を経て砂糖を投入される。種は捨てると思いきや、皿のまま日当たりの良い出窓に置かれ、終了。
「……これ……芽が出て、スイカになる? とか?」
「……乾燥させて炒るんだよ」
栽培するのかと、本気で過程を考え聞いた疑問には、また、笑いが返ってくる。嫌味を飛ばすこともなければ、足癖も悪くない。いつも通りでいて、昨日までとはまるで違うユキの態度は、一度閉じたはずの蓋を、再び開こうとする。
毒気を抜いたのは間違いなく厳三で、それが無性に悔しい。良かったと安堵する裏には、自分の手で導くことができなかった歯がゆさと、好きだと思う気持ちが入り乱れていて、収拾がつかない。一緒に花火を、たった一度でも笑顔を、見られたことに満足していた昨日が嘘のように、今日という日は目まぐるしく、感情を貪欲にする。
そもそものところ――今という時間が存在する時点で、計画通りにはいかないのだろう。
空のペットボトルに注がれたジュースは、コンビニで見かけるものとは違って、夕日に似た色をしている。冷やすから、と飲ませては貰えなかったが、きっとこれも、美味いのだろう。
一通りの作業を終えたユキは、休むことなく、使った器具を洗い始める。
「……ユキさん」
いつ、切りだすべきか。
ずっと迷っていた〝これからのこと〟を告げるのは今しかないと決意して、波知は、メモと鍵を作業台の上に置く。
「これ……ずっと使ってない部屋だから、もし、これから住む場所が決まってないなら……決まるまで、使ってくれたらと思っただけで。同情とか、嫌味じゃないんです」
「…………これ以上、甘えるわけにはいかない」
一瞬、目線はくれたものの、ユキは手を止めずに否定をくれる。言葉こそ違うが、これまでと同じ――おまえの世話にはならない、ということだろう。
「……次、住むところ決まってるんですか?」
「……………」
わかりきっていることを詰めたところで、考えが変わらないのは知っている。折角、落ち着いた機嫌を損ねたくもない。だが、千草の助言通り、外に出したら最後、簡単に他人の手に落ちてしまいそうだという不安が、厳三に懐柔されたことで強くなってしまった。
「じゃあ……貸す、ってのはどうですか? 月一万で……光熱費とかも、職が決まったら返して貰うって条件で付けときます」
我ながらしつこいと、認めながら言葉を選べば、青い瞳と視線が交わる。
「……俺は、ハチに、そこまでして貰えるような人間じゃねよ。なんにも返せねぇし、今まで酷いこといっぱい言った」
「……そこは、惚れた弱みなので。気にしなくていいですよ」
「……ほれたよわみ?」
不思議そうに言葉を復唱したユキは、昨夜の告白を、無かったことにでもしたいのか。
それはそれで好都合だと開き直れたあたり、見切りはつけられていたのだろう。
「何かを返して貰おうとか、気持ちに応えて欲しいとか、考えてないです。オレは、ユキさんが幸せになれるなら……ちぃさんのこと、諦めなくていいと思ってるので」
「…………どういうこと?」
「昨日言ったでしょ、オレは味方だって。だからとりあえず、自立して、真っ向から勝負できるくらい自信つけて下さい」
「……勝負って……何と」
全ての事情を知った時に覚悟した、現実との戦い。
「お母さんと、です」
相手を言い切ってやれば、ユキは、表情を曇らせてスポンジを握り締める。
蜘蛛の糸のように細い道の先にある答えを、限られた時間の中で掴めるかはわからない。笑みを零せるようになった今を、むざむざ手放すことはないのかもしれない。
それでも、ユキがこれからを生きるためには――〝家族〟を取り戻す、必要がある。
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