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……そうそう、いい忘れていましたが私、妻の経営している音楽学校では会計係の他に数学、物理、化学、地理、歴史、ソルフェージュ、文学その他の授業をうけもっております。ダンスと歌唱指導と美術のレッスンには別途特別料金が必要です。ただしダンスだろうが歌だろうが哲学だろうが教えているのは私ですが。わが音楽学校は街はずれのどん詰まりの13番地にあります。13番地!……なんて不吉な。おそらくはそのせいで私は人生に失敗したのでしょう。私達が暮らしている家は13番地にあるわ娘達の誕生日はどいつもこいつもみーんな13日、家の窓の数も13ときた。……いや、いまさらこんな愚痴をたれても仕方がない。もし学園に何かご相談がありましたら、妻はいつでも家におります。入学入寮希望の方がいらっしゃるなら受付で入学案内と規則書をセットで販売しております。お急ぎでしたらここで私が皆様におわけいたしましょう。さあ、一部1300円!どなたかご希望の方はいらっしゃいませんか?(間)誰もいない。じゃあ1200円でどうだ!(間)そうですか、残念です。せっかく持って来たのに……。
そうなんです!13番地!そこで私は何ひとつなし遂げることなく、老いぼれて耄碌してしまいました。こうして講演をしていると、愉快で快活な人生を送っているように見えるでしょう?ところがどっこいその内実はありったけの声を張り上げて喚き散らした挙句、どこか世界の涯まで飛び去ってしまいたい気持ちで一杯なんです。……え?「でもお前には娘があるじゃないか」って?ふん!娘なんかなんですか。あいつら私が声をかけたって返事ひとつしやしない。ただ嘲笑ってこういうんです。「やだー、おとうさん、キモーい」父親に対する敬意というものを何と心得ているんだ。妻には娘が七人います。……あれ?失礼、六人だったかな?(指折り数えて)いち、にー、さん……間違いありません。七人です。一番上の娘は今年27歳。一番下は17歳になりました。だいたい……えっ!?(後ろを振り返る。慌てて正面に向き直り慈愛に満ちた表情、謹厳たる態度で)諸君!!私は根無し草の愚か者ですが、今あなた方の前に立っているこの男は世界で最も幸せな父親なのです。それはそうでしょう。優しくも貞淑な妻と利発で思いやり深い娘達に囲まれて、どんなに言葉を費やしても私はこの幸せを語りつくすことはできません。全く皆さんにこの歓び溢れる気持ちを伝えることができたら……!私が妻と過ごしたこの33年間は私の生涯の中でもっとも幸福な日々であったと断言します。(感極まったふりをしながらチラチラと背後を伺って)いや、それほど幸福っていうわけじゃありませんがね。まあそういう風にいっておきましょう。妻と暮らしたこの33年間はまるで幸福な一瞬のように流れ去ってしまいましたが……(後ろを振り返って)その現実は糞食らえってなもんです。なーんだ。妻が来たのかと思った。妻がいないのならいくらでも好き放題に本当のことがいえます。私は怖い……妻が私を睨みつけるあの目!(怖気を奮う)
うちの娘たちがあんなに長い間嫁にいけないでいるのは、そりゃあ当人たちが内気なせいであるからだろうとも思われますが、何より若い男の目に触れる機会がまるでないのがいけないのです。仕方がないじゃありませんか。妻は家でパーティなんかしません。食事にお客を呼ぶこさえありません。何しろおそろしくケチで口喧しくて怒りっぽい女ですから、誰一人として家へ遊びに来たがる人なんかありゃしませんよ。しかしここだけの話ですが、私の妻の娘達は街のお祭りの期間中に叔母の家でご覧になることができます。叔母はリューマチを患っている歳をとった婦人……ババァですが、いっつも真っ黄っ黄の服を着ています。その服は黒い水玉模様がついていて、まるでゴキブリが散らばっているように見えるんです。この叔母の家にお呼ばれしたするとちょっとした料理が振舞われます。妻がいなければこいつを飲むこともできます。(グラスをキュッとあける振り)ちょっとお断りしておきますが、私はコップ一杯で酔っ払ってしまいます。酒に酔うと……それはなんとも言えない素敵な心持ちで、同時に淋しくて堪らなくなります。不思議と若かりし日々が思い出されて逃げ出したくなるんです。ああ、それがどんなに切ないことか、あなた方には全然お分かりにならないことでしょう。……逃げ出すのです。何もかも放り出して後も見ずオサラバするのです。……何処へ?何処だっていいじゃありませんか。ただこのくだらない、安っぽい、低俗な生活から逃れることができれば。私を惨めな老い耄れの愚か者にしてしまった生活から逃げ出すのです。33年間私を虐め抜いた、あの低脳で浅薄で意地の悪い、悪い!悪い!あの欲張りババァのもとから逃げ出すのです。音楽や台所や妻のへそくりや、そうした一切の俗事から脱け出して、そして何処か遠いところの草原で、広がる大空の下で大きな木かそれとも案山子にでもなって、頭の上に明るい月が静かに懸かっているのを一晩中眺め尽くして、あらゆること全てを忘れ去ってしまいたい。……忘れたいんです。ああ、私は本当に何ひとつ覚えていたくない!33年前、結婚式に使ったこの俗っぽい礼服を、今どんなに自分の躰から毟り取ってしまいたいと思っているか、皆さんにはご理解いただけないでしょう。……こうしてくれる!(上着を毟り取る)私はいつもこいつを着せられて慈善活動の講演をやらされたもんだが……私を憐れんでください。私は老い耄れた惨めな人間です。ちょうど着古して擦り切れたこの上着のように。私はずっと純粋で高潔なのです。私だってかつては若々しく活力に溢れ、大学で勉強したこともあります。空想したこともあります。自分を人間だと思ったこともあります。……しかし今は何も要りません。休息……休息より他には何物も……(下手をチラリと見て急いで上着を着る)楽屋口に妻が立っています。今やって来て、あそこで私を待っているのです。
(時計を見る)もう時間が来ました。もし妻に訊かれたら、どうぞお願いです。こういってください。講演は中々面白かった、そして私の態度は堂々たるものであった、と。(脇を向いて)ウォッホン。(切迫したひそひそ声で客席に)妻がこちらを見ています。(声を張り上げて向き直り)かくしてこれまで申し上げました通り煙草は恐るべき害毒を有しておりますので、如何なる場合においても喫煙を許すわけにはいかないという結論に到達するのであります。以上をもちまして「煙草の害について」と題しました私の講演を終わります。この講演がひとつのきっかけとなって社会をより豊かにするであろうことを確信するものであります。さて、これで私の言わんとするところは尽きました。いま私の心は快活にして晴れやかです。ご静聴まことにありがとうございました。(深々と優雅に一礼)
超訳 チェーホフ 煙草の害について 武田壱郎 @ichiro_takeda
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