超訳 チェーホフ 煙草の害について
武田壱郎
side-A
紳士および淑女の皆さん……って女ばっかり?男が少ないなぁ。まあ、いいや。実は妻の方にこの場所で講演を企画するよう依頼がありまして、そこで公共の慈善活動の一環として何かわかりやすい講話をしてくるようにと私が派遣されて来た次第。いいでしょう。何か話せといわれればいくらでも喋ります。私はもうそんなことどうだって構いやしないんですから。無論私は偉い大学の教授でもなければ、およそ学位だなんだって名誉とも無縁な人間です。しかしそれでもこうしてもはや30年あまりの歳月を、ほとんど自らの健康を損なうほど真摯に純科学的な問題の研究と思索に人生を捧げ、まあ、その……論文の執筆をすることもあります。とはいえその著作がこれまで公的機関に論文と認められたことも雑誌に掲載されたこともありませんが。ですからまずいってみれば、えーと論文「風」な何か、とでもいいますか…(言い訳めいたことをごにょごにょ)……(気をとりなおして)先日私はここ数日間にわたって取り組んだ「ある昆虫の害について」と題する堂々たる大論文を完成させました。娘達に読み聞かせたところ大層気に入ったようです。ことにゴキブリについて話が及んだ一節を格別に喜んで聴いておりました。しかし読み終えるやいなや私はただちにその論文を破棄してしまいました。だっていくら言葉を費やしたところで、結局はゴキブリホイホイなりフマキラーなりを買ってくる以外にはどうしようもない話じゃないですか。問題は妻がその為の予算を家計から割いてくれるかという絶望的な一点で……何しろ私の家にはピアノの中にまでゴキブリがいて……。ウォッホン、ゲフンゲフン。さて、今日の講演のテーマですが、そのう、私は「喫煙が人類におよぼす害について」という演目を選びました。いや、私自身はヘビースモーカーなんですがね、実は妻から今日は煙草の害について講演してこいと頭ごなしに命令されましたもんで、それ以上議論する余地などないのです。ここに至っては最早私の意思など関係ありません。とはいえご来場の紳士淑女の皆さん、どうか私の演説に対して真面目に耳を傾けて頂きたい。いやうわべだけ見せかけだけでも構いません。ただし顔は真剣に、真摯に!そうそう。そこのあなた。いいですねーその聴いてるフリ。その調子。ありがとうございます。さもないと今夜講演を終えて家に戻った私にどんな厄災が降りかかってくることかわかりません。もし退屈な学術的講演が苦手な方、あるいはまた私の話をお好みでない方がいらっしゃいましたら、どうぞ今のうちにお気の向くままご退場なさるがよろしい。(立ち上がって退席する人を見送る)お疲れ様でした。奥さん、お嬢さん、無駄足ふませて悪ぅございましたね。……って、あれ?あなたお医者さんでしょ?隣町の。あなたも帰っちゃうの?いやいや(上着の襟を引っ張って声を張り上げる)ご来場の皆様の中にお医者様がいらっしゃるなら、私はここで特に注意を喚起したい。何故ならば煙草というものはその有害なる作用があるにもかかわらず、なお薬として用いられていることは周知の事実。医学に関係される尊敬すべき仕事に就いている方々にはこの私の講演がいろいろと有益な知見を拡げるよい機会になるものと確信するのであります。(その男を凝視して、席に戻るよう強要する。その男が戻って座ったのを確認して)例えばですね、もし蝿を捕まえて煙草入れの中に閉じ込めておくと必ず死んでしまいます。これは狭いところに閉じ込められた蝿が神経衰弱で心を病んで死んでしまうようにもみえますが、煙草とはそもそも植物が主体でありましてその薬効が不潔極まりない蝿にとって……。えー、私がこうやって喋っている合間によく右の目をパチパチさせますが、どうかそんなことお気になさらぬようお願いいたします。これは皆様の前で演説する光栄に浴しまして、単に気分が高揚しているためなのであります。私はおおむねすこぶるデリケートな人間であるのですが、この瞬きがはじまったのは忘れもしない今を去ることン十年前の9月13日、私の妻が四番目の娘を出産したその日!その日にですな、……いい添えておきますと、うちの娘達は何故かみんな13日に生まれているのです。長女の誕生日も次女の誕生日も三女四女続いてみんなみんな生まれたのは13日。それが金曜日だったかどうかなんてことまでは覚えておりませんが、もっとも……(ふと我に返り)あちゃぁー。講演の持ち時間は限られています。あまり本題から離れるのはやめにしましょう。さて、煙草の害につきましてでございますが……おっと、いい忘れておりましたが妻は音楽学校と女学生の寄宿舎を経営しておりまして、まあ寄宿舎と呼ぶほどのものではありませんが、まあ良家の次女が集うそのようなものであります。(声を潜めて)ここだけの話ですけどね、妻は事業をおこしては赤字を溢れかえらせるのが大得意なんですが、実は少なからずヘソクリを溜め込んでおります。その額はおよそ40万?50万? ところが私はときたら、小銭一枚持っていません!(ポケットを裏返してみせる)ほら、この通り。いや、そんなことをいっても仕方がない。私だってちゃんと働いているんですよ。私は妻の経営する音楽学校と女学生の寮で会計係をしています。つまり食料品を注文したり被雇用者を管理したり帳簿をつけたり生徒への配布するプリントを綴じたりゴキブリを駆除したり妻の愛犬を散歩に連れていったりネズミを退治したりしているのです。昨夜の夜は料理人に小麦粉とバターを出してやるのが私の役目でした。女学生の寮の食堂に出すプリンを焼き上げることになっていたからです。ところが今朝人数分のプリンが焼けた頃、妻が調理場に来ていうことには、「女学生のうち三人が扁桃腺を腫らしているからプリンを食べさせてはならない」っていうんですよ。ということは、さあ皆さまお立ち会い!プリンがみっつ余るってことじゃありませんか。このみっつのプリン、一体どうしたものでしょう?妻ははじめ冷蔵庫にしまっておけと命令したのですが(指を咥えて恨めしそうな顔)さんざん首を捻った挙句「この間抜け野郎!そんなに食べたかったら食べてしまえばいいだろう」といいました。ねえ、一体私がそんな愚か者に見えますか?妻は機嫌が悪くなるといつも私を間抜け野郎とかトンチキと呼ぶんです。しかも妻はいつだって機嫌が悪いのです。不当な罵倒に屈することなく、そこで私はプリンを食べました。食べた……というより、ろくろく噛みもせず一口に丸呑みにしてしまいました。何せ私はいつもお腹が空いているものですから。現に今朝も妻は私にご飯を食べさせてくれませんでした。「この間抜け野郎!お前のような穀潰しを養ってやる道理がない」といいましてな。しかし……(時計を見る)私は少々饒舌を弄しすぎてどうやら本題から離れてしまったようです。先程の続きを申し上げることにいたしましょう。もっとも無論皆さんだってこんな講演より音楽……流行りの歌とか愉快なバンド演奏でも聴きたいんじゃないですか?音楽。いいですねぇ。こう見えて私、喉には自信がありまして(歌う)「♪あーなたーのもーえるーてでーわたしをーだーきしーめてー。たーだふーたりーだけーでーいきてーいたーいーのー」……えーと、何でしたっけ?この曲のタイトル。いや、私は生きるならふたりよりひとりの方がいい。
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