#2 チェイス・ミュージック

 耳にはまぶたが無い、とだれかが言った。


 音楽の戦争利用。御使たちのラッパなんてなくても音楽はひとを殺せる、ということ。


 機関銃の奏でる音は、雷管プライマーが針に叩かれて火薬ガンパウダーが空気を無理やり膨張させた結果としての破裂音は、実のところ驚くほどあっけない。わたしはこの音のそういうところが恐ろしかった。戦場の奏でる音楽の単調さモノトニーが恐ろしかった。こんなあっけない音の連続を聴きながら、死ぬことになるのだろうという予感。その単調さモノトニーが鼓膜に貼り付いている。


 近代兵器を用いた大量殺戮の音。同時に築かれる徴兵された者の末路としての肉塊たち。それらを前にして恐怖する「戦士」無き均一化された兵士たち。その時にあった音楽は、兵隊に死の恐怖への克服を吹き込み、美化するものへと変わった。


 あなたが肉塊になっても、あなたの国は生き続けるのだから。そういうイデオロギーをクラシックに織り込んで、息を引き取る瞬間の涙を飲み干せるように。


 音楽は凶器だった。かつてホロコーストに積極的に加担した唯一の芸術として、歩きにくい木靴や豆のできた足で行進する労働部隊へ歩調を合わすために鞭打った時も、捕らえられた脱走者たちを先導しながら処刑の伴奏を行った時も、楽団員への拷問として収容所の中庭で夜通し歌わされ死んだ時も。トレブリンカで、アウシュビッツで、そして大戦後のグアンタナモやアブグレイブで。音楽それ自体がひとつの権力であること、わたしたちはその特権の前で殺到する音に強姦されることはいまさら否定しようがなかった。


 音楽への憎しみLa Haine de la musique音楽ムーシケに潜んだ殺戮ジェノサイドのメロディ。


 ヒトが有史以前よりその暴力的な旋律と共にあったというのなら、ヒトが終わる時の音楽ムーシケは。再誕日リミックス・デイの音は、どんな音色だったのか。もしその日に人類の今際の際の意識ターミナル・エクスペリメントに降り注いだメロディが、どうしようもないほどの単調さモノトニーだったとしたら。


 社会性を持った最後の人類は、穏やかに絶滅できただろうか。


 曲がりくねった無限音階シェパードトーンみたいな天国への階段Stairway To Heavenを、魂よりも高く昇っていくことができたのか。


 「わたし」は安らかに滅びることができただろうか。


 そんなとりとめもない言葉の羅列を思い浮かべるわたしは現在、テキサスの荒れ地バッドランドを時速一二〇キロメートルで通過していた。


 それも地上五〇センチメートルちょっとの高さで。


「ぁあああぁあぁあああぁぁぁああああぁああぁぁああぁあ」


 現在地は旧テキサス州アンドルーズから北西へ二十数キロメートル。爆走するトラックの助手席からサファリツアーの肉袋みたいに情けなく吊り下げられたわたし。聞こえるのはひたすらに風を切る音、飛来した砂粒がわたしの頬や額をドラムみたいに打ち付ける皮と肉の音。限界まで駆動する内燃機関の轟音、タイヤのゴムが擦れる硫黄の匂い、《司書》の呼ぶ声、歌う獣の吠え声。そしてもちろん、わたしのムンクじみた叫びも。


 急カーブの際に遠心力でスリングショットのように助手席から放り出されたわたしには、ただこうして顎の下からシートベルトが外れないことを祈りながら悲鳴をあげることしかできない。それでなくとも《司書》の運転は荒っぽいのだ。ましてやこうして追い狩られている最中ならば、結末はもう火を見るよりも明らかで。


開発者マスター、もう少しだけそこでふんばっててっ」


「このやろぉぁあああああああああああああああ」


 くたばれDrop dead。心の底から思うけれど、正直わたしには二重の意味で手も足も出ない。こんなハリウッドじみたカーチェイスに興じる《司書》に対しても……わたしの後方数メートルにまで肉薄してきている『ぴゅーまさんやつら』にも。


 TYPE-Ⅲ、乱喰い牙インファンティサイドの一種。愛称はぴゅーまさん。


 その可愛らしい愛称——もちろん《司書》による命名で、わたしじゃない——とは裏腹に、やつらの外見は与太話トールテイルではお馴染みの人狼ルー・ガルーに少し似ている。再適応Re/for:me前よりも長く、食肉目らしく伸びた犬歯。無理やり突き出た鼻のために変形し一部が皮膚から露出した鼻骨と上顎骨。ピューマに似た少し太めの脚と、ふさふさの猫耳——この構造のために側頭骨が内部方向へ変形し、側頭葉を圧迫し一次聴覚野やウェルニッケ野に異常をきたしているらしい。つまりやつらはその大きな耳による集音性を台無しにするほど、音に対する気づきアウェアネスが無い。そのくせ他人の歌真似や声真似をよく行うのは、狩りに有利だからというよりはぎゅうぎゅう詰めにされたウェルニッケ野の悲鳴、新造語ジャーゴンを伴う感覚性失語センソリィ・アフェイジアによるものだというのがわたしの仮説だ。そして同じくすし詰めにされた一次聴覚野への圧迫から生まれる幻聴ハルシネイションによる偏執狂パラノイア的暴力性。意識アウェアネスを、意思ウィルを失った身体ボディはもはや単なるケダモノの真似事でしかなかった。


 濁った殺意のこもった吐息が、涎が、すぐ目の前へ時速一〇〇キロメートルを越えて肉薄する。聴こえもしない音楽ムーシケの喉笛を噛み千切るために。


 “なんて美しい、その美しさこそがわたしをSo beautiful, beautiful it makes me……"


「わたしより歌が上手いの、素直にムカつく……」


 そんなことを喋っている余裕があるならさっさと助けてほしいところだが、横目に見れば《司書》は左手でハンドルを左右に細かく切り「ぴゅーまさん」らの攻撃をかわしながら、片手でシート横をまさぐっている。取り出されたのはM1014、ベネリM4ショットガン。荒れ狂うハンドルを肘と膝で押さえつけながら、銃身バレルの下へテキパキとショットガンシェルを詰め込んでいく。


「ねえ開発者マスター、あいつら何匹いるの……」


「教えるより早く噛り付かれそうなんだけどぉぉぁぁぁぁあああああああああ」


 我ながら情けない声だとは思うが、助手席のドアの外まで伸び切ったシートベルトにぶら下がった命としては一刻も早く、眼前数メートルに迫ったこのイカれた人狼ルー・ガルーどもの幻聴ハルシネイションに塗れた脳みそを吹っ飛ばしてほしい。うち数匹などは釣り餌のようにぶら下がったわたしに狙いを定めてトラックと並走し始めている。このまま生きながら昼メシになるのはさすがにイヤだ。


 荷台へ飛び乗ろうとしてきたぴゅーまさんを避けるため《司書》がまたハンドルを切った。瞬間、後続のぴゅーまさんらのシルエットが砂埃の中から浮かび上がるのが垣間見える。


「七匹! 聞いてる、七匹見えた……」


「オーケー、開発者マスター。攻撃許可を——」


 許可する、とわたしの口が言い終わる前に、ハンドルを支えていた《司書》の左腕へぴゅーまさんの頭部が飛んできた。割れたガラスの欠片で額から血を流しながら唾液混じりに唸り歌う姿からは、飢えだけではない妄執すら覚える。《司書》の左腕の模倣皮膚トレーススキンは涎だらけの顎の間でプラスチックが裂けるような音を立てて破断され、その非人間的な様相をグロテスクに曝け出していた。


 “余計な追求は止してただこう言えばいいDon't ask too much, just say……「これはただのゲームだから」と'Cause this is just a game……”


「なに、それ。当てつけなの」


 ただ、じろリ。次の瞬間、《司書》がヒトには不可能な挙動で噛みつかれた左腕を大きくスイング。窓フレームに叩きつけられたぴゅーまさんの身体ボディはボンネットの上へ。さすがに再適応Re/for:meを経て身体ボディが頑丈になっているだけはある。頭だけ首を伸ばして未だ《司書》の腕に噛みつき続けている光景はシュールギャグみたいだ。


「——敵性体ホスタイルの攻撃を確認、交戦規程ROEに則って所有権者許可Proprietor License省略スキップし反撃を承認。よっこいせっと……」


 気の抜けた声と共にベネリM4の黒い銃身バレルがこっちへ突き付けられ——今まさにわたしに飛び掛かってきたぴゅーまさんの頬からこめかみまでの面積を穴だらけにした。発砲音に耳をふさぐこともできず、キーンと耳鳴りがわたしからあらゆる音楽ムーシケを奪う。ぶら下がっていたシートベルトが引っ張られる感覚と共に、わたしは助手席へ帰還した。


「……ター、開発者マスターってば、大丈夫なの。ぴゅーまさんに噛まれたりしてない……」


「だ、だいじょうぶ……とも言いがたいけど、まずは腹ペコどもにお帰りいただかないと。あいつらのランチに招待されたくはないからな」


「了解、じゃあしばらくの間ハンドルよろしく」


 そういうが早いが《司書》はわたしをインストルメントパネルとハンドルの間につっかえ棒みたいに挟み込んでしまった。こちらとしてもこういう時には役立たずになることはわきまえているので、ため息だけ吐いてつっかえ棒の役割を果たすことにした。


「そっちはどうするの」


「決まっているでしょ、ランチタイムだよ。景気のいい鉛玉のバーガーショップ。荷台に積みっぱなしだった汎用機関銃MAGの出番だー」


 まるでピクニックで弁当箱を開く子どものような口調で席を立つと、運転席の割れた窓から身を乗り出す。左腕に噛みつきっぱなしだったぴゅーまさんもちょうどボンネットからずり落ちてきたので、そのまま地面に突っ張った鼻面を押し付ける。時速一〇〇キロメートルの摩擦を受けた彼は、すぐにスライスに失敗したトマトみたいになった。力どころか頭部の三分の一を失った身体ボディは単純な物理法則に支配されて後方へ吹き飛んでいった。


「うっわ、あとでランドリーに寄らなきゃだ」


 そうぼやいた《司書》は、なにを考えたのか一旦運転席に戻ってオーディオ端末をオンにする。そしてアクセルが踏みっぱなしになるよう後部座席の飲料水ポリタンクを足元に突っ込み、再び外へ身を乗り出す。シートを蹴ってヒラリ、と体操選手のように空中で身体ボディを捻り、軽やかに荷台へ着地する。強化内骨格エンドスケルトニクス設計臓器プリンテッドヴィセラを最適に詰め込んだ記号人殻Symbolic Shellだからこそ可能な挙動。つまりはかつて設計デザインされたヒトの真似事としての身体ボディで、そこに子宮や卵巣なんかの生殖器官は省略スキップされている。


 だれの胎から生まれたわけでもない、ひとりぼっちのボディ。


 そのシルエットが、まがりなりにも母親の胎から生まれただろう乱喰い牙インファンティサイドたちの前に立ち塞がった。


 “お前らはきっと振り出しから始めるべきだPerhaps you had better start from the beginning……お前らはきっと振り出しから始めるべきだPerhaps you had better start from the beginning……”


 暗い笑い声とともにオーディオ端末からおどろおどろしいサウンドが掠れ気味に流れ始める。「フランケンシュタインの逆襲The Curse of Frankenstein」冒頭シーンの引用から始まるそれは、まるで悪魔シャイターネのステップみたいな音楽ムーシケ


開発者マスター、ハンドルにはしっかり噛みついててね。一曲で終わらせるから」


 そう気軽に言いながら、荷台に打ち棄てられていたFN汎用機関銃MAG——M240をその人外な膂力を用いて右手のみで持ち上げる。左手にはベネリM4のヘンテコな二挺銃トゥーハンド。《司書》の穏やかな顔つきには不似合いな両手の輪郭が、明確な殺戮ジェノサイドのメロディを心待ちにしていた。


「おまたせ、ぴゅーまさん——」


 踊りましょう。


 そう口走るやいなや、マズルフラッシュが咲き乱れた。

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No-body's escape 恢影 空論 @kou10m

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