猫にご飯をあげる話
まめつぶ
猫にご飯をあげる話。
その猫は、話すことができました。いや、私の知っている限りでは、たったの一度もその猫が人の言葉を話したことはありません。しかし、周りのものから噂を聞くに、その猫はどうも人の言葉を話すことができるらしいのです。
そもそも猫が猫の言葉以外を話すことなどあるわけがない。私が猫の言葉を話せないのと同じように。しかし、この際そのような自明の理は些細なことですので、その辺の草むらにでも置いておこうではありませんか。一番の問題は、そう、その猫が、私の飼い猫であることでした。
何故彼は―私の飼い猫は雄の茶トラでした―飼い主である私の前では人の言葉を離さないのか。その疑問はかれこれ数年来、どうにも解けぬままなのでした。
「お前は本当に話せるのかね」
私がたまにこぼす言葉にも彼はとんと興味を示さぬまま、目を細めてはまるで美味しくなさそうにかりかりに乾いた餌を頬張るのでした。
そういえば以前、彼があまりに不味そうな顔をするために、私は珍しく奮発して缶詰の餌を買い与えたことがありました。すると彼は大変に喜んで、…まあ彼が実際に喜んでいたかは言葉で聞かないので確かめようもないのですが、ともかくすごい勢いでその缶詰から出した餌を飲んでゆきました。
それからもとの乾いた餌に戻れば、もともと短い鼻筋をさらに近く寄せ、まるで仕方なしと諦めの表情をしてぼちぼちと食べるようになってしまったのでした。
「お前から缶詰をおくれと一言あれば、また買ってきてやるんだがなあ」
そう言っては彼をちらりと見るのですが、聞こえているのかいないのか、彼も無言で私の顔をちらりと見上げるのです。そうして餌でも釣られない彼を、まあ猫だから仕方ないと撫でてやるほどには、私は彼のことを好いておりました。
「あんたとこの猫、この前またしゃべっていたぞ」
「またですか。それで、なんですって」
「ええと、まあ、なんだ。餌が安物だとかなんとか。たまには御馳走してやれよ」
毎日ではありませんが、まれに周りのものから、このように報告を受けていました。彼は家の外では流暢に話しているのでしょう。おかげで私の家のことが秘されることもなく言いふらされているのかとひやひやする毎日でした。ろくでもないことをしていないだろうかと自分を見直し、正しい生活態度で暮らすしかありません。それに彼に愚痴を溢されぬよう、時折缶詰を与えなければいけません。これは大変に面倒なことでした。
「お前、どうせ話すのなら、いいことを言いふらしておくれよ」
このように頼んだりもしますが、まあなんといっても猫ですから、彼は私の言葉なぞものともしないのでしょう。
そうやって幾日も、それから数年も、このような生活をしておりました。彼はだんだんと老いてゆきましたが、桜の綺麗な日も、夏の暑い日も、山の赤く染まった日も、猫の形を模した雪だるまを作った日も、相変わらず人の言葉を話すことはありません。ただ陽の当たる縁側にだらんと伸びていて、時折、にゃあんと欠伸をするだけです。
「この雪だるまは、よくできたと思わないかい」
ある冬の日、そう彼に話しかけていたときでした。庭先に近所のものが顔を出しました。
「あんた、何をしてるんだ」
「いや、雪が積もったでしょう。折角ですから、雪だるまを猫の形に作ってやったところで」
そう言って、出来上がったそれを見せてみますと、ほうほうと眺めてくれまして、
「なかなかよく出来ているじゃないか。それで、これを飾っておくのかい」
そう聞きました。私は傍らにいた彼を指差します。
「いや、何か言ってくれるだろうかと、猫に見せてやっていたんです」
先程一度見せた折には、彼はふんふんと鼻を近づけていましたが、今はもう興味はないと言わんばかりの顔をして、氷柱から滴る雫や先程自分でつけてきた小さな足跡なんかを、余程楽しそうに眺めています。
「そうかい。で、猫はなんか言ったかい」
男は心なしか、口元を少しゆるめて聞いてきます。私のほうも苦笑するしかありません。
「いえ、相変わらずですよ。時折缶詰も出すんですがね。私の前じゃあ、なんにも言ってくれやしない」
残念だなあ。そう溢せば、なぜか目の前の男がくつくつと笑い始め、しまいには大きな声を上げて笑ったのでした。私の前で一向に話そうとしない猫に笑ったのか、それでもいつ猫が話すかと待つ私に笑ったのかと考えておりますと、男がひいひい苦しそうにしながら言ったのです。
「そりゃあ、そいつは猫だからなあ。人の言葉は話せないよ。相も変わらず、あんたは馬鹿正直な猫好きだな」
そうして男はひとしきり楽しそうに笑って、私と猫を残して帰ってゆきました。
「これは、どういうことだろうね」
おそらく、察するに、私はからかわれていたのでしょう。彼は最初から人の言葉など一度も話したことはなかったのです。ただ近所のものたちが、面白がっていただけのようです。
彼はというと、私の方を見上げてゆっくりと目を細めるだけでした。全く、彼もそのからかいに一役買っていたに違いありません。
「お前、そうならそうと教えておくれよ」
数日どころか何年もの間、彼が話すと信じていたことが自分でもおかしく、彼のまるい頭を撫でながら小さく笑ってしまいました。しかし、彼ももう、年老いた猫でした。
「もう少し歳を取って賢くなれば、いつか話すようになるかもしれないな」
そう期待するくらいには、私は彼のことを好いているのです。にゃあん、と縁側に気持ちよさそうな鳴き声が響きます。
「そうだな。今日は缶詰を買ってこような」
猫にご飯をあげる話 まめつぶ @mameneko
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