第四章 つらい夜は俺のキャンバスに沈め

 その夜の練習に、夏希は参加しなかった。

 よっぽどのことがないかぎりトレーニングを休まない彼だが、さすがに今日は、みなの前に出る気になれなかったのだろう。「具合が悪い」と言って、二階の自分の部屋に引き籠っていた。

 今夜は、るなも友達の家に泊まりに行っていて、いない。

 生命は、入浴後、自分に与えられた部屋で考えていた。夏希のもとへ行くべきか、否か。挫折を知らずにここまできたチャンピオンのショックは想像すらできないし、自分の手では彼の傷を癒すことはできない。

 階下からは、練習生たちがサンドバッグを打つ音やスパーリングに励んでいる音が聞こえてくるが、加わる気にはなれなかった。今夜は、天楽も休みだ。娘を連れて、妻の実家に帰省するのだと言っていた。彼に相談すれば何かよい案が得られるだろうが、家族水入らずで過ごしているときに電話するのもはばかられる。

(この壁の向こうできっと……泣いてるんだろうな)

 耳を澄ませば、声を殺して涙している彼の嗚咽が聞こえてくるような気がした。

(ナツ……)

 言葉で傷つけられても、拳で殴られてもいいから、そばに行きたい。そばへ行って、冷えきった身体を抱き締めてやりたいと思った。

 意を決して、夏希の部屋のドアをノックする。返事はない。

「ナツッ」

 呼びかけても、答えは返ってこなかった。疲れて寝てしまったのかもしれなかった。

 鍵はついていないので、「入るぞ」とひと声かけて、ドアを開ける。

 真っ暗な部屋のベッドで、枕に顔をうずめて、夏希は不機嫌そうに言った。

「何や、勝手に入ってこんとってや」

「いや、だって、ナツのこと、気になるからさ……」

「関係ないやろ、自分には」

 すん、と鼻をすすりあげて、夏希ははねつける。涙声なのはやはり、泣いていたからだろう。

「……ナツ、ごめん。負けたの、俺のせいだったら、ごめん」

 おそらく言いがかりだろうとは思うが、他にかける言葉が思い浮かばなくて、生命は謝罪した。

 夏希が、掛け布団を押しのけてこちらを向く。電気を消しているので、表情の細かいところまでは見えない。

「もう、ええんや。よう考えたら、自分のせいちゃうかった。大人げないこと言うて、ヒトのせいにしたりして、ボクも……」

 悪かったな、というつぶやきは、消えてしまいそうなくらい小さくて、はっきり聞き取れなかった。

「もう一回言うけど、俺、アンタのこと、好きだ」

 生命は、たまらなくなって、ベッドに横たわっている夏希を、思いきり抱き寄せた。

「生命……」

 夏希が、困惑したように、掠れた声で呼ぶ。急に抱き締められて戸惑っているのか、払いのけも押し返しもしない。

 生命はそのまま、彼の背に腕を回し、小さな子供を安心させようとするときのように、優しく撫でた。

「好きなのに……ナツの気持ち、分かんねェよっ……ごめん……」

 夏希は答えなかったが、こわばっていた身体から、ふっと力を抜いた。若さと勢いに任せた生命の抱擁に応えようとするように腕を伸ばし、生命を抱き寄せて、指先で髪を梳く。

「自分、ほんまに、アホなんやなぁ……」

 その言葉がどんな意味を含んでいるのか分からないが、夏希が落ち着きを取り戻しかけていることは確かだ。

 階下はやがて静かになり、最後の点検を終えた桃瀬トレーナーが、入り口の鍵を閉めて出ていったようだった。二人だけのジムに、静寂が訪れる。

 生命はそれ以上何も言わず、ただ夏希を抱き締めて、そっと背中を叩いた。彼を安心させようとするように、何ものからも守ろうとするように。

 愛しい人が腕の中にいるのに、下心の類の感情は少しも湧いてこなかった。彼の父にはなれないが、少しでも夏希を理解し、支えることができたら……と、そんなひたむきな想いでいっぱいだったのだ。

 精神的に不安定になっている夏希は、甘えるように生命の胸に顔をうずめ、目を閉じた。心臓の音を聞いているうちに安心して眠りに落ちてしまったらしく、静かな寝息が聞こえ始める。

 暗さにもしだいに目が慣れてきて、生命は夏希の寝顔を見ることができた。たくさん泣いたために目蓋が少し腫れているが、睫毛が長くてきれいな顔をしている。薄く開いた口唇を見ていると、よからぬ心が芽生えてきたが、生命は必死で欲望を抑え込んだ。

「焦らず、がっつかず……」

 自分に言い聞かせながら、夏希の前髪をそっとかきあげる。

(キスだけならいいよな、キスだけなら……)

 彼が熱を出していたときに一度、口唇にもしたことがあるのだが、今回は少し遠慮して、額にしておく。

 真っ白な額にそっと口づけて、どうやって夏希を元気づけようかと考えた。

 プライドの高い彼のことだからきっと、自分と同じくらいのレベルにある者の言葉でないと、受け入れられないはずだ。夏希の父が生きていたら、立ち直れるようにうまく指導してくれただろうが、頼みの綱の彼はもう、この世の人ではない。

(ナツに助言して効果ありそうな人……)

 首をひねったとき、ふとある人物の顔が浮かんで、生命はベッドから抜け出した。

(そうだ、アイツがいた!)

 深夜だが、出てくれることを願って、ケータイから電話をかける。



 翌日の昼、ロードワークから戻った夏希は、一人で筋トレをしていた。マシンを使って、すでに割れている腹筋を黙々と鍛える。いつも明るい彼だが、今日はさすがに口唇を噛んでいた。昨日萩原に負けたことと、生命に八つ当たりしてしまったことが悔やまれて、朝から難しい顔をしているのだ。

(それにしても生命の奴、あんだけ当たり散らしたのに、ボクのこと心配してくれたな……)

 あんなふうに誰かに抱き締められて眠ったのは、久しぶりだった。温かくて気持ちよくて幸せで、思い出せないけれど、昨夜はとてもいい夢を見たような気がする。

(お父ちゃんみたいやった……)

 その腕の感触を思い出し、夏希は、記憶の中の父と重ねた。太さは違うものの、同じくらい優しい腕だった。

 お礼を言おうと思ったのに、目覚めたときには、生命は隣にいなかった。確か今日は、警備のバイトの日だから、朝早く出かけていったのだろう。代役をさせるつもりなのか、抱き枕が代わりに置かれていた。

(生命……)

 うれしいような、くすぐったいような気持ちが湧いてきて、夏希は思わず、枕を抱き締めてしまった。

(そういやアイツ、ボクのこと好きや好きや言いながら、昨日の晩もちっとも手ェ出してこんかったな)

 いつもの夏希ならともかく、昨夜は格別弱っていたし、生命の優しさにほだされかけてもいた。やろうと思えば、あのまま抱くことだってできたはずなのに、自分を抑えてそうしなかったのだろう。

(えらいお人よしなんやな……)

 本当はそうではないことくらい分かっている。

 彼の優しさは愛ゆえのもので、真摯に自分を想ってくれていることの証なのだと。

(どないしょう、ボクも何かヘンになってまいそうや)

 腹筋をやめ、胸を押さえて、夏希は戸惑う。

(何でこないドキドキしてまうんやろ)

 相手は年下の同性で、同じジムの仲間の一人にすぎないのに。いつのまにか、死んだ父と同じくらい、大切な存在になりつつある。

 頭を抱えて悩み始めてしまった夏希に、トントン、とジムの入り口のガラス戸を叩く音が聞こえた。

「誰や……」

 顔を上げて、ぎょっとする。

「何だ、バリバリやってんじゃん。お邪魔しちゃったか?」

 ガラリと戸を開けて入ってきたのは、数ヵ月前に戦った、赤根ジムの浦沢涼王だった。

「そんなに目ェおっきくすんなよ。べつに、喧嘩売りに来たわけじゃないぜ」

 涼王は、警戒している様子の夏希に軽く笑いかけて、歩み寄ってきた。

 二人が顔を合わすのは、試合の日以来だ。生命に下剤を盛らせて自分を陥落させようとした彼のことを、夏希は未だに許していない。

「いったい何しに来たんや。こんなとこわざわざ来たかて、自分が得するようなことは何もあらへんで」

「まぁそんなに突っかかんなって。何か落ち込んでるらしいって風の噂で聞いたからよ、慰めに来てやったんじゃねーか」

 言いながら、涼王は、夏希の隣のマシンに腰を下ろす。

「こないだのタイトルマッチのときは、小細工しようとしたりして、悪かったな。俺も切羽詰まってたからさ、悪魔に魂売っちまって。熱出してるオマエに思いっきり殴られたおかげで、目が覚めたぜ」

 フフ、と口元を緩める涼王は、以前より痩せたように見える。夏希より背は高いのに、体重は数キロ軽そうだ。

「減量……してるんか」

「まぁな。次は階級下げて、ミニマム級でベルト狙おうと思ってさ。オマエに負けた後、俺もいろいろたいへんだったんだぜ」

 生命に「負けがこんでいてヤバイ」と漏らしたとおり、涼王はかなり追い詰められていたらしい。夏希との試合に負けたらとうぶん予定を組んでやらないと、上から脅されていたそうだ。

「で、下剤まで用意したのに負けちまっただろ。あの日のオマエが熱出してたことも、スポーツ紙のおかげで分かっちまったしよ。会長はもうカンカンよ。『てめーみたいな弱っちい奴はいらない』って、口もきいてくれなくなってさ……」

 心が折れそうになった彼だが、何とか踏みとどまって、再度頭を下げて頼み込んだらしい。階級を変えて、今度こそチャンピオンになるから、もう一度チャンスをくれ、と。

 その日からこれまで以上に熱心にトレーニングに励み、過酷な減量の果てに、ミニマム級に相当する四十七キロの身体を手に入れたのだという。ナチュラルウェイトが五十四キロで、フライ級にいることさえ厳しかった彼にとっては、まさしく血の滲むような道のりだったことだろう。

「今度は負けないぜ、ぜったい。ミニマム級の王者になって、すぐに二階級制覇してやる。二本目のベルトは春間夏希から奪ってやるから、覚悟しとけよ」

「浦沢……」

 ここまでの話を聞いて、夏希の中の彼への感情が変わり始めている。奈落の底のような挫折から這い上がるのがどれだけ難しいことか、夏希にもよく分かっているからだ。ボクシングに身も心も捧げた者同士、これからは真正面から向き合えたら、と願う気持ちが芽生えていた。

「俺みたいな根性なしでも立ち直れたんだからさ、オマエも、何があっても諦めんなよ。春間悠介の、息子だろ?」

「せやな」

 いつも自分が誇りに思っていることだが、人から言われると少し照れくさい。

「言っとくけど、俺がボクシング始めたの、オマエの親父さんに憧れて、だから。先輩の家に遊びに行ったとき、たまたまビデオ見せられたんだよ」

「ふうん……」

「こんな強い男になれたらって思った。こんなまっすぐで、強い目をした男になりたいってな。ついでに言うとさ、オマエに会ったときも感じたんだぜ? コイツ、本気で生きてる顔してんなって。正直、自分が恥ずかしくなったよ。だからもう、汚い真似はしねェ」

 ぶっきらぼうに誓って、照れたようによそを向く涼王を、夏希は見つめる。

 何がこの男を変えたのか知らないが、わざわざタイミングよく現われて勇気づけてくれるなんて。

「自分、ほんまはええ奴やったんやな」

 素直に驚く夏希に、「そんなんじゃねーよ」と、涼王は首を振った。

「ライバルがへこんでると調子狂うだろ、やっぱ。オマエんとこの行本の野郎も、オマエが落ち込んでると具合悪ィみてェだからさ、とっとと元気になってやれよ」

 今みたいにバリバリやってりゃすぐに巻き返せるだろ、という涼王の言葉の続きは、夏希の耳をつるりとすり抜けてしまった。

(生命が……)

 夏希の頭には再び、生命の顔が浮かんでいたのだ。

(生命がボクのことこいつに言うたから、浦沢の奴わざわざ慰めに来てくれよったんか)

 またしても、胸がドクドクしてきた。

「浦沢、悪いけど、スパーつきあってくれへんか。せっかく来たんやし。ボク、今から死ぬ気で練習するわ」

 簡単に挫折してしまったほうが、よっぽど父に顔向けできないと気づいたのだ。自分を気遣ってくれる人がいる、不器用ながらも励まそうとしてくれる人がいると知ったとき、夏希は敗北から立ち直る勇気を手にした。

 トレーナーの桃瀬が来る夕方まで、二人はスパーリングに励み、休憩を挟みながら二十ラウンド戦って、夏希が全勝した。

「何だ、もうすっかり元に戻ってんじゃねーか。オマエの元気そうなツラなんか見ててもうれしかねェからな、俺はもう帰るぜ」

 涼王は、最後まで悪態をつきながら、帰っていった。

「また来いやー」

 大きく手を振った夏希は、昨日の涙が嘘のような、晴れやかな顔をしていた。首筋に浮かんだ汗が、夕陽に照らされて、ピンクダイアモンドのように輝いていた。

(おおきにな、生命)

 彼がバイトから戻ったら、まずは素直に感謝しよう。夏希は、グローブをはめた拳に、そっとキスをした。



「夏希さん!」

「具合悪いって聞きましたけど、もう大丈夫なんですか?」

 一日ぶりに夏希がジムに顔を出すと、練習生たちが仔犬のように駆け寄ってきた。

「おー、みんな心配かけてごめんなー。なっちゃんもう大丈夫やでー」

 少年たちの頭をくしゃくしゃ撫でて、夏希はいつもの笑顔を見せる。

「ナツ、もう大丈夫なのか?」

 すべての事情を知っている桃瀬トレーナーが、小声で気遣ってくれた。

「うん、もう平気や。練習サボッてんのバレたら、お父ちゃんに叱られてまうからな」

 壁にかけられた父の遺影をまっすぐに見上げて、夏希は言う。

「みんなもしっかりトレーニングするんやで。分からんことあったら、何でも聞きやー」

 後輩たちの指導をしながら、鏡の前でシャドーボクシングをしていたら、生命がバイトから帰ってきた。

「あ、行本さんお帰りなさーい!」

「生命!」

 夏希はグローブを脱いで、誰より早く出迎えに行く。

「お帰り」

 歯を見せてにっこり笑った彼を、生命は驚いたように見つめた。

「何や、どないしたんや。そんな、犬のウンコ踏んだときみたいな顔してェ」

 下品な冗談を言う夏希は、スパーリングで萩原に負けた悔しさなど、もうすっかり忘れてしまったかのようだった。

(そうか、乗り越えたんだな……)

 涼王から、「やることはやった」と短いメールをもらったのだが、どうやら彼は、期待した以上の成果を収めてくれたらしい。

「さ、さっさと着替えてき。なっちゃん今日は機嫌ええからな、百ラウンドくらいスパーしたるでェ」

 上機嫌の夏希に背中を押され、トレーニングウェアに着替えさせられた生命は、文字どおり、へとへとになるまでしごかれた。

「ほらほらぁ、生命! 立て、立たんかい! もっともっと、ボクシングしようやぁっ!」

 この間やったときは、なぜか手加減してくれて、ちっとも痛くなかったのに、今日は勢いに任せたのか、久々に、本気のジャブやストレートを喰らわされた。

(ったくよぉ……。元気になるとSMプレイしだすのかよ、この野郎……)

 正直大迷惑だったが、彼が自信を取り戻してくれたのはうれしい生命だった。



 その夜。

 トレーナーや練習生たちが帰った後、妹を寝かしつけてから、二階のソファでテレビを見ていた生命を、背後からそっと近寄ってきた夏希が抱き締めた。ボディーバターの爽やかな匂いが鼻をくすぐる。

「何だよ? 妙にテンション高いじゃねーか、今日は」

「あたりまえやがな。浦沢の奴もわざわざジムに来てくれて、元気出せよって励ましてくれたしな。ボクもまだまだがんばらなあかんって気持ちになったんや。これもみーんな……」

 生命のおかげやんな、せやろ?

 声を落とし、色香の滲む囁きで、夏希は生命の鼓膜を刺激した。

「自分が浦沢に、頼んでくれたんやろ? おおきに、な。元気になったお礼に、何でも好きなことさせたるで、ほら……」

 固まっている生命の手首を掴み、自分のパジャマの胸元を開いて、滑らかな肌に触らせる。指先に胸の先端が触れて、生命はビクッと肩を揺らした。

「いいって言ってんだろ!」

 慌ててその手を振りほどく。

 誘惑されるたびに、流されそうになる自分を懸命に抑え込んでいるのだ。いつもなら、けらけら笑って引きあげる夏希なのだが、今日はムッとした表情で、正面から睨みつけてくる。

「何や、意気地なし。好きや言うんは口ばっかりで、据え膳されたって箸も取れんくらい臆病なんやな! したいんやったらなんぼでもやらしたるって言うてんのに、何やせ我慢してんねん、アホ!」

 何かの種が弾けるときのように勢いよく罵られて、生命は面食らった。彼のことが好きなはずなのに、夏希の心がまったく読めなかった。

「べつに……」

 何回も言ってるけど、俺はアンタの身体が欲しいわけじゃねェんだよ。気恥かしいけど、両想いになれたらって願ってるだけで。

「アンタこそ何で、そんなに突っかかってくるんだよ」

 さっきまで機嫌よかったくせに、意味分かんねェ。

 ふてくされた態度で言い返した生命は、これ以上言い争いたくなくて、自分の部屋に引きあげた。

「そんなに気になるんだったら、俺がアンタのこと『好きだ』って言ったの、撤回する。もう、忘れてくれよ。二度と言わねーから」

 最後に、うんざりしたような声で捨て台詞を残して。



 翌朝生命は、夏希と一言も口をきかず、朝食の時間になっても部屋から出てこなかった。

「何どくれてんねん、アイツ」

 ブツブツ文句を言いながら、ロードワークに出かけた夏希が、一時間半後に戻ったら、生命の姿は消えていた。

「あ、夏希お兄ちゃん。うちのお兄ちゃんね、出ていくって。しばらく帰ってこないって」

 今日は学校が休みだというるなが、子供向けの番組を見ながら教えてくれた。

「は? るなちゃん、お兄ちゃんいったいどこ行ったんや。行くあてなんかないやろ」

「んー。そこまでは聞いてないなぁ。何か怒ってたみたいだったから。ねぇ、お兄ちゃんと喧嘩したの?」

 生命にどことなく似ている少女の、まっすぐな瞳に見つめられ、夏希は言葉に詰まる。まさか、自分がしつこく迫ったからキレられたのだとは言えなかった。

「せやなー。お兄ちゃんがボクのシャーベット勝手に食べたからなぁ。怒ったったら、どくれて口きけへんようになってもたんや」

 こういうときは、嘘も方便だ。

(しもたなぁ……。まぁ、るなちゃん置いてってるから、そのうち帰ってくるつもりやろけど)

 大人げないことをしてしまったので、顔を合わせるのも気まずい。

 夏希は、自分のベッドに寝転んで、生命が置いていった抱き枕に顔をうずめた。

 どうしたらいいか、分からなくなったのだ。

(ちょっと前生命が言うとったんと、同じ状態になってもた……)

 確か彼も、初めて「好きだ」と言ってくれた日、「どうしたらいいか分からない」と苦しそうに漏らしていた。「好き」という気持ちは、自覚したとたんに荒縄になって、胸を締めつけ始める。生命ももしかしたら、本当の「恋」の経験は、少ないのかもしれない。

 夏希は、彼を愛し始めている自分を、素直に認めることができなかった。

(本気でボクシングやるんやったら、恋愛なんかにうつつ抜かしとったらあかんでって、お父ちゃん言うとったしな)

 彼の中に物事の判断基準を作ったのは父だ。

 小学生のころから、愛らしく整った顔をしていた夏希は、クラスメイトはもちろん、年上の少女からも想いを寄せられ、バレンタインデーには家の前に長蛇の列ができていた。

 しかし、チョコレートを持ってやってきた彼女たちを、父はやんわりと説き伏せて追い返したのだ。

「あのな、みんな、よう聞いてくれや。ナツのこと好きになってくれてほんまうれしいんやけどな、アイツは、世界チャンピオンになる男やねん。ボクシング以外は、できひん男やねん。せやから、君らの誰とも、おつきあいしたりできんのや。悪いけど、遠くから応援するだけにしたってくれんかな」

 柱の陰ですべて聞いていた夏希は、そのことで父を恨んだりはしなかった。

(お父ちゃんの言うとおりや。女のコとイチャイチャしながら人殴ったりできへんしな。ボクシングと恋愛やったら、ボクはぜったい、ボクシング選ぶで)

 そう考えて、納得していた。

 父の春間悠介も、現役時代はストイックを貫いていて、風俗にすら行かなかったらしい。彼にとっての女は、引退の日まで辛抱強く待っていてくれた、夏希の母の由紀子ただ一人である。

「ボクもタイトルマッチ控えてるし、スパーで萩原に負けるくらいなまってるんやし、恋なんかしてる場合ちゃうからなー」

 初めて芽生えた甘い感情を、夏希は何とか揉み消そうとしていた。

 昨夜しつこく生命に迫ったのは、いっそ無理やりにでも一度抱かれてしまえば、お互いそれで気が済んで、忘れられるかと思ったからだ。自分が彼に惚れたのは、下心を押し殺して大切にしてくれたからであり、誘いにノッてくるようなら、幻滅してキライになれるかもしれないと、わざと強引に誘惑したのだ。

 しかし、生命は、自分の信念を貫いて、夏希に触れようとはしなかった。「両想いになるまでは抱かない」と。

(もうとっくになってるっちゅーねん、アホ)

 だからこそ、どうしようもなく胸が苦しいのだ。

 夏希は、恋に身を委ねた自分を想像するだけでも、恐ろしくてたまらなかった。

 格闘家は、恋愛すると闘争心が薄れて、弱くなってしまうと聞いたことがある。禁欲したほうが感覚が研ぎ澄まされる、とも。

(待てよ、それやったら天さんはどないなるんや)

 この間勝利を収めて十回戦に上がった天楽は、二十二歳のときにできちゃった結婚している。悠介がはっきりとした恋愛禁止令を出したのは、実の息子の夏希に対してだけだったので、他のメンバーは、自分の判断で恋人を作ったりしているのだ。

 ジムに来たばかりのころは、喧嘩っ早く気性が激しかった天楽が、穏やかな性格になったのは、現在の妻と交際しだしてからである。人当たりはよくなったが、粘り強さやパンチ力は、結婚する前とまるで変わっていない。むしろ、子供ができて責任感が芽生えてから、KO率が上がったようでもある。

 彼が結婚するときに悠介が言った、「これからはしっかり、だいじなもん守っていけよ」という言葉が、効いているのかもしれない。

「んー……」

 恋人は作るべきなのか、作らないほうがいいのか、夏希には分からなかった。

(とにかく今は、次の試合に向けて身体作って、二本目のベルト獲得に全力を注ぐべきやよな……)

 迷いを振り切って、ひとまず目の前の課題に専念することにした夏希は、天井から吊るしたパンチングボールを、毛糸にじゃれつく猫のように、黙々と打ち続けた。



「ねぇ、ナッキー。生命と何かあったの?」

 夕方、いつもより少し早くジムに現われた天楽が、声を落として尋ねた。二階のリビングで、まだぼうっとしている夏希の顔を覗いている。

 階下では、桃瀬トレーナーが、小・中学生たちにミット打ちの指導をしている。

「何かって、べつに何もあらへんけど」

 つっと目をそらして、分かりやすくしらを切る夏希を見て、天楽は困ったように笑う。

「何もってことはないだろ。生命、うちに来てるよ。しばらく泊めてくれって。ヒナと遊んでくれるのはうれしいんだけどさ、来週、お義母さんが来ることになってるし。遥香も、気ィ遣うみたいだからさ」

 既婚者はいろいろたいへんらしい。

「ごめんな、生命がお邪魔してるみたいで。迷惑かけてしもてんねんな」

「いや、オレとしてはぜんぜん迷惑なんかじゃないけどさ。それよりナッキー、アイツと喧嘩でもしたの? 生命の奴、何か思い詰めた顔してて、あんま話してくれないんだけど」

 夏希は、眉を寄せて考え込み、ついに観念したように口を開いた。

「実はな……」

 話を聞き終えると、天楽は一つため息をついた。

「そりゃヤバイよ、ナッキー。そんな迫り方しちゃダメだって」

「そない言うたってなぁ。なっちゃんいらちやから、好きや好きや言いながら何もしてけえへん奴とおったら、焦れてしもてん……」

 声の最後のほうは、小さくなる。

「まぁ、その気持ちは分からないでもないんだけど」

 うなずいてから、夏希の目をまっすぐ見つめて、天楽は続ける。

「あのね、生命はナッキーが思うよりずっと、繊細な奴なんだよ。ナッキーのこと尊敬してるし、誰よりだいじにしたいって思ってる。だから、あんまりきわどいからかい方しないほうがいいんじゃない? ナッキーだって、本当に狼になられちゃったら困るでしょ?」

 夏希は首を振った。

「べつにかめへん。つうか、なってほしいねん。なってほしいから、つい、強引に迫ったりとかしてまうんや」

「ナッキー……」

「天さん、ボク気づいてもうたんやけどな、アイツのこと……好きやねん」

 本人よりも先に、他の者に告白することになるとは思ってもみなかった。聞かされた天楽も、さすがに驚いたのか、目が点になっている。

「そんな顔せんといてや。自分でもよう分からへんのやから。でも、何かな、こないだ萩原とスパーして負けたとき、一晩ずっと抱き締めて慰めてくれたりして……それからボク、何かおかしいんや」

 左胸の、ちょうど心臓の辺りを押さえて、苦しそうな顔で夏希は打ち明ける。

「恋だね」

 天楽は、一拍置いて、静かな声できっぱりと断言した。

「生命の前でも、もう少し素直になってみたほうがいいんじゃない?」

 夏希は再び首を振る。

「それはあかんがな」

「何で?」

「恋なんかしてる場合ちゃうやろ。もうすぐ二階級制覇に挑戦するのに。好きとか恋とか甘いこと言うてたら、弱ぁなってしまいそうで怖いねん。せやから、ヤることだけヤッて、このヘンな気持ちさっさと終わらせたい思てるのに……」

 うつむいた夏希の頬を、天楽は、大人の余裕でそっと包み込む。

「そんなこと考えてたんだ。やっぱ可愛いな、ナッキーは。愛してくれる人ができて初めて、得られる強さもあるんだけどな。逆にさ、そんな好きな相手と身体だけの関係しか築けないなんて、もったいないんじゃない?」

「ん……」

 髪を撫でられると、頑なだった心も揺れてしまう。

「会長が生きてたらきっと、好きな相手とちゃんとつきあって幸せになれって言うと思うよ」

「そうやろか……」

「うん、ぜったい、そうだと思う」

「天さん……」

 おおきに、と夏希は小さな声で言った。

 ジムに顔を出していない生命は、気持ちが整理できるまで来ないつもりなのだろうが、「会いたくなったらいつでもうちに来ればいい」と天楽は言ってくれる。

「また、気持ちが固まったらこっちから迎えに行くわ。面倒かけてごめんな、天さん」

 にこっと笑って、夏希は階段を降りていく。

「さぁ、今日もええとこ見したるでー」

 階下の子供たちに向かって宣言する夏希を、後ろから見守りながら、天楽は、もうすぐ成就しそうな二人の恋を、心から応援していた。



 翌日、夏希は、春間ジムのロゴが入ったショッキングピンクのパーカーを着て、テレビ局のスタジオにいた。久しぶりのテレビ出演だ。ビジュアルもきれいで、ぽんぽんよくしゃべる夏希は、バラエティーやクイズ番組にも時折呼ばれることがある。今日は、二十七歳の格闘家・ハヤトが進行を務めるトーク番組に、ゲストとして出演することになっていた。毎週、各界のトップアスリートがスタジオに呼ばれて、VTRでこれまでの経歴を振り返りながら、ハヤトとみっちり語り合うという、なかなか見応えのある番組である。

「今夜のゲストは、ボクシングの世界チャンピオン・春間夏希さんです!」

 紹介されて、音楽とドライアイスの白煙の中、夏希は観覧者の前に姿を現わす。

「カワイイー!」と客席から飛んできた声に、「せやろ?」とウインクで応え、ハヤトの隣に腰を下ろした。百九十センチと大柄な彼の横に座ると、余計に小さく見えてしまう。

 明るいオレンジ色に染めた髪を逆立てたハヤトは、人懐っこい笑みで夏希を迎え、ボクシングへの想いや、父との思い出について尋ねてきた。

「そうですねー、ボクにとったらけっこう怖いお父ちゃんでしたけど、生きとったら、今でもきっと、大好きやろうと思います」

 スクリーンには、肩車されていた幼い日の写真や、スパルタ式トレーニングの写真が映し出されている。

「厳しいお父さんだったんだね。オレだったらたぶん、逃げてるな」

 ハヤトは、話を聞いて豪快に笑った。

「ところで、なっちゃんは彼女いるの?」

「いや。……いてません」

 少し考えてから、夏希は答える。

「えー」と客席から、疑問とも驚きともつかない声があがった。

「嘘やないで。ほんまにおらへん。ボクシングが恋人や、今は」

 好きな人なら一応いるのだが、テレビで言うのはまだ早い。

「逆に一つ、ハヤトさんに訊いてもえーですか?」

「ん、何?」

「結婚してはりますよね。嫁さんもろてから、弱ぁなったなとか、思うことありませんでした?」

 生きる世界は微妙に違う相手だが、根っこの部分は同じだろうと思って、夏希は尋ねた。ずっと気になっていたことなので、カメラの前なのに、つい真剣な顔で見つめてしまう。

「そうだなぁ……」

 ハヤトは、髭の生えた顎を撫でながら答えた。

「弱くなったとは思わないね。確かに、『丸くなった』ってよく言われるし、優しくなったかな、と自分でも思うんだけどさ。結婚してからも、オレは負けてないし、だいじな人がそばにいてくれるのがうれしくて。前よりもっと、全力出しきって戦えるようになったね」

 口角を上げて、心底満ち足りた様子で笑う彼の瞳は、輝いている。

「オレ、天涯孤独だったんだけどさ、完全に一人のときとはまた違った強さが、結婚してから手に入ったと思ってる。なっちゃんまだ若いけどさ、するならそんな恋をしなよ」

 なんて偉そうに言ってごめん、と付け加える彼を、夏希はまっすぐに見てうなずいた。

(そうや……。きっと、恋愛でマイナスになることやあらへん。あったとしたらそれは、単純に自分がたるんでるからや)

 人一倍頑固な夏希の中で、ようやく、「闘争心と恋愛は相容れない」という思い込みが解け始めている。

(あとは、お父ちゃんが許してくれるかどうかやな……)

 少なくとも彼は、生きている間ずっと、夏希が恋をすることを許さなかったのだ。

「ええか、おまえは他の子とは違うんやで。春間悠介の息子なんやから、フツーの生活して喜んどったらあかん。ボクシングのことだけ考えるんや」

 一般に少年が性に目覚め始める思春期のころに、繰り返し言い聞かせられた言葉が、今も耳に残っている。

 ジムを開いてからも、父は、他の練習生にはそれほどきつく言わなかったものの、夏希にだけは「恋愛禁止令」を出していた。晴れて世界チャンピオンになった暁には撤回するつもりだったのかもしれないが……その日に亡くなってしまった彼に尋ねることはできないので、知りようがない。

 番組の最後、恒例の腕試しのコーナーで、夏希はハヤトと腕相撲をした。

「レディー、ゴー!」

 空手やレスリングを始め、あらゆる格闘技に通じ、握力も相当あるハヤトは、なかなか強敵だった。体格差もかなりあるので、夏希の細い腕は折れてしまいそうに見える。

(けど、ボクシングは最強やからな、ぜったい誰にも負けへんで)

 負けず嫌いの夏希は結局、ねばった挙句に、ハヤトの拳を机にねじ伏せてしまった。

「やっぱ強いなぁ……参りました!」

 客席からは、大きな拍手が贈られる。

「この調子で、二階級制覇も成し遂げてね!」

「もちろんや。ハヤトさん、今日は呼んでくれておおきに」

 がっちり握手し、きれいな形で番組は終了した。

 ジムのみんなも、それぞれの家で見ていてくれたことだろう。

(生命も……見てくれとったらええな)

 少し会っていないだけなのに、妙に恋しくて、夏希は再び、胸が苦しくなるのを感じた。

(お父ちゃん生きとったらボク、喧嘩してでも生命とくっつこうとするんかな……)

 ずっとぴったり寄り添って生きてきた父を裏切ることは、夏希にとって、自分の身を切り落とすことに等しい。

 父をとるか、彼をとるか。

 すなわちそれは、ボクシングと恋愛、どっちを選ぶのかという問いにも似ている。

(好きな人と抱き合いながら、その手でおもっくそヒト殴るや、器用やないボクにできるんやろか)

 自信家として今日まできた彼だが、ここに至って初めて、自信を失いかけている。



 生命が天楽のところへ家出してから、三日が過ぎた。

 そろそろ引き取りに行かないと迷惑だろうな、と思いながらも、夏希はなかなか、彼の家へ向かう気になれなかった。

(また二人っきりになって、どないしたらええねん)

 るなやみんなもいるけれど、どこかではぜったい二人きりになるだろうし。ストレートに「好き」と告げる勇気はまだない。かといって、「好き」と言われたのを忘れることもできなかった。複雑な気持ちのまま朝のロードワークをこなし、歌舞伎町の空気を胸いっぱいに吸って戻ってきた夏希は、郵便受けの中に一通の手紙を見つけた。

『春間夏希様』

 いつかどこかで見たような、汚くて懐かしい字だ。

「これ……」

 お父ちゃんの字や、と夏希はつぶやく。

 死んだ人から手紙が来るわけがないのに、確かにこれは父の字で、消印も昨日のものが押されている。封筒をよく見ると、「メモリアルデリバリーサービス 未来への手紙事業部」と小さく印字されていた。

「何やそれ」

 胡散臭いやないけ、と疑わしげな目で見て、夏希は慎重に手紙を開封する。淡いピンク色の便箋に、間違いなく父の字で、ぎっしりとメッセージが刻まれていた。

『ナツ、突然の手紙でごめんな。びっくりしたやろ? これ書いてる今、お父ちゃんめっちゃ緊張してんねんで。たぶん、届く日には、照れくそうてどっか出かけてると思うわ。帰ってきても、笑わんと普通に話したってな』

 まるで父の声で語りかけられているような温かい文面に、めったに泣かない夏希の瞳が潤み始めた。

(お父ちゃん……)

 どうやらこの手紙は、タイムカプセルのように、指定の年月日までどこかの団体があずかっていて、記念日に合わせて届けてくれるサービスによって夏希のもとへ来たらしい。指定の日付は、夏希が二十四歳の年の十二月十七日、つまり今日だ。

『誕生日でも何でもないのに、何でこんな日に改まって手紙や出してくるんやろなって思てるやろ。実は今日はな……』

 ――わいが、ボクサー引退した日やねん。

 春間悠介は、十二月十七日の夜の後楽園ホールで、大観衆の目の前でテンプルに強打を喰らい、昏倒したのである。担架で運ばれ、手当を受けたのだが、脳波に少し異常が残ったため、ボクサー生命を断たれることになったのだ。二階級制覇をめざし、フィリピンのフェザー級王者に挑んだ試合でのことだった。多くのファンを夢中にさせ、会場を声援でいっぱいにしたチャンピオンの引退を、誰もが惜しんだ。

『まだ、二十四やった。ちょうど、今のおまえといっしょやな。ボクサーとしてはまだまだこれからってときや。わいはもう、この先どないして生きていったらええか分からんようになってしもた。引退してから毎日、あてもなく大阪の街ふらふら歩いて、ホームレスのおっちゃんらに交じって公園でぼーっとしてた。そんな状態から立ち直ることができたんは、由紀子……おまえのお母ちゃんがおってくれたからやねん』

 夏希の母・由紀子は、悠介のトレーナー・ジョニー氏の行きつけの洋食屋の娘だった。

『ジョニーさんに連れられて、わいらはようその店にめし食いに行ってたんや。ボクサーやいうても、減量のとき以外は、練習で腹減るからめちゃくちゃ食ってた。それがおかしかったんか知らんけど、由紀子の奴、いつもにこにこして飯よそてくれてたわ』

 彼女はいつしか悠介に惚れてしまったようで、はじめは苦手だったボクシングの試合を見にくるようになった。ボクシングに打ち込んでいた悠介の邪魔をしないよう、想いを秘めていたのだが、引退した悠介が抜け殻のようになっていると知ると、すぐに訪ねてきた。

「悠介さん! あなたには私がいる! だから、投げないで。自分を投げないで。私、いつも夢を追いかけてるあなたが、ずっと好きだったの……」

 引っ込み思案で控えめな由紀子の告白は、打ちひしがれていた悠介の胸を射抜き、二人はまもなく結婚した。翌々年には子供も授かり、約二年ぶりにテレビに姿を現わした春間悠介は、カメラに向かって満面の笑みを浮かべた。

「この夏、希望を授かりました」

 八月二十一日、待望の長男が生まれたのだ。悠介はこの子に、全身全霊をかけてボクシングを教えることに、新たな夢と希望を見出した。その夢の成れの果てが、今の夏希である。

『ええか、ナツ。今まで言うてきたこととちゃうこと言うてすまんけど、聞いてくれ。わいは、おまえにも、幸せになってほしい思てんねん。これまでは、ボクシングに集中せえ、他のことは何も考えんでええって言うてきたけど、それはおまえを、世界チャンピオンの座につかせるためやった。この手紙は世界戦の前の日に書いてるんやけどな、ナツのことやから、明日ぜったいベルト獲れると思うねん。せやなぁ、二十四になるころには、三階級くらい制覇しとるんとちゃうか?』

(残念やけど、まだ、一本しかベルト巻けてへん。やっと二本目に手ェ出そうとしてるとこや。お父ちゃん、ちょっとボクのこと買いかぶりすぎやで)

 ククッと笑って、夏希は、頬にこぼれた涙を拭った。

 手紙にはまだ、続きがある。

『せやけど、現役でおれるんは、人生のうちのほんのちょっとの間や。二十六過ぎた辺りから、いやでも身体のいろんなとこにガタが来てんの感じるようになるやろうし、若い奴には勝てんようになってくる。まだまだ先のことやけど、引退を考える日が、おまえにもいつかは来るやろな。ケガで戦えん身体になったとしても、自分で限界やと思てやめたとしても、お父ちゃんは、ようやったっておまえを抱き締めたるつもりやけど……ナツ、できたらそのときにはもう一人、おまえを支えてくれる人にそばにおってほしいんや。せやから、これからはもう、恋愛やすなって止めたりせえへん。おまえの好きなようにしいや。ナツはお母ちゃんに似て顔もきれいやから、じきにええ娘が見つかると思うで。彼女できたら、いちばんにお父ちゃんに報告してな。いつか、孫も入れて親子三代でボクシングするんが、お父ちゃんのささやかな夢です。

                                 春間悠介』

 読み終えたとき、便箋の上に、涙がぽたりと滴って、夏希は慌てて濡れた個所をティッシュで拭いた。

(お父ちゃん……)

 手紙を胸に抱き締めて、あとからあとから溢れてくる涙を拭いもしないまま、夏希は父のぬくもりに浸る。考えようによっては何とも身勝手で、親の方針を子に押しつけたエゴ丸出しの手紙だったが、夏希にとっては、大好きな父からの最後のメッセージだ。

 このタイミングで届いたことが、自分の背を押してくれているようにも感じられて、夏希はようやく、生命とのことに答えを出せそうだった。

「お父ちゃん、ボクの好きな人、今から迎えに行ってくるわ」

 誰もいないジムを出る際、遺影に向かって報告し、夏希はスニーカーを履いた。昼のロードワークもかねて、天楽の家まで走るつもりだ。



 夏希と揉めた日から天楽の家に身を置いている生命は、けっこう肩身の狭い思いをしていた。何といってもヒトの家庭にお邪魔しているわけだし、明日は妻の母親が訪ねてくる予定らしいし。

(明日の朝ここ出て、ホテルかネットカフェにでも移るか……)

 まだ夏希のところへ帰る気にはなれない。キライになったわけではないが、気まずいし、また同じように迫られたら、今度こそ手を出してしまいそうで怖いのだ。

 ジムにも顔を出していないが、一人でも、筋トレやロードワークはちゃんと続けて、身体がなまらないように気を遣っている。

 天楽はアルバイトに出かけたし、奥さんはひなのを連れて公園に遊びに行ったので、生命は今、一人で留守番をしている。じっと考え事をしていても気が滅入るので、「外でも走ってくるかな」と腰を上げかけたとき、ケータイが震えた。

「はい」

「おぉ、行本。夏希さんにご迷惑かけてへんやろなぁ?」

 夏希とぎくしゃくしているときにばかりタイミング悪く電話してくる、あの男だ。

「かけてねーよ」

 生命は今回も嘘をつく。

「何だよ、借金はもう帳消しにしてくれるんだろ」

「あぁ、それはもう終わった話や。今日はな、べつの用件でな」

 内村はそこで声を落とす。

「おまえ、ボクシングはちゃんと続けてるんやろうなぁ?」

「……あぁ」

 一応、やめてはいない。次の試合の予定はまだ組まれていないが、夏希のおかげでボクシングが楽しくなってきたので、これからも続けるつもりだった。

「そらよかった。ところで、夏希さん、二階級制覇めざしてるやんな」

 そういえばそうだ。

 ゴタゴタしていて忘れていたが、夏希の試合は来週に迫っている。さすがにその日は、応援に行きたい。気持ちを整理して、一時休戦の形をとってでも、ジムに戻ったほうがいいだろうか。夏希も、今のような状態では、落ち着いてトレーニングに集中できないだろうし。

「何考えてんねん。ヒトの話聴いてるか?」

「聴いてるよ」

「そいでな、夏希さんに花贈ろうと思うねんけど、わいら警察にマークされてて中入られへんから、会場の近くまで取りに来てくれへんか。若いもんに持っていかせるから」

「わぁったよ」

 内村はコワモテのいかつい男だが、夏希のことに関しては、恐ろしいくらい純情だ。悠介・夏希と、春間親子を二代に渡って応援しているらしい。熱心なファンなのである。

 電話が切れた後、生命は、上着を着て外へ出る支度をした。

「帰ろう、ナツのとこへ」

 靴を引っ掛けてドアを開けようとしたそのとき、ピンポーンとチャイムが鳴った。

「はい……?」

 ドアを開けて、息が止まりそうになる。ここまで走ってきたらしい夏希がそこに立って、まっすぐに見つめていたからだ。

「ナツ……」

 怖い顔をしているから、怒っているのかと思ったが、どうやら違うらしい。

「生命、迎えに来たったで」

 冷たく冷えた白い手を差し出して言う。もう一方の手には、封筒が握られていた。

「今日な、お父ちゃんから手紙来たんや。ヒト、好きになってええでって。幸せになりやって。恋愛解禁、らしいわ」

 ボジョレーヌーボーじゃあるまいし、「解禁なんて」と笑いたくなるが、至って真剣な夏希の頬は、ワインを注いだように赤く染まっている。

「つまり、それって……」

 どういうことなんだよ、と訊こうとした生命の口を塞ぐ勢いで、夏希は言った。

「好きやで、生命」

 目をそらし、恥じらっているような小さな声で。


「え……」

 冗談なんかではなさそうだ。いつだったか勇気を振り絞って告げた言葉が、愛しい人の口から返ってきた。

「好きやから、いっしょに帰ろう。うちに……」

 他人の家の玄関先で話すのも何なので、生命は夏希の手を取る。温めるようにそっと握ると、ぎゅっと握り返された。二人は手をつないで、歌舞伎町の春間ジムまで歩いて帰る。

「何で急に、俺のこと好きになったんだよ」

 うれしいくせに、ふてくされた態度をとってしまう生命は、夢を見ているような気持ちでいる。

「急に、とちゃうわ。ちょっと前からや。自分でも意識せんうちに、じわじわ引き込まれてしもてん」

 スパーリングで手加減してしまったときから違和感はあったものの、「恋」の芽生えをはっきりと感じたのは、一つのベッドで抱き合って眠ったあの夜だという。

「ボクが自信なくしとったとき、抱き締めてくれたやんか。あのときな、ボク、ごっつ安心して、お父ちゃんのこと思い出してん。ボクシングのプロテスト受かって、初めて試合出る日の前の晩、不安で寝つけんかったときな。お父ちゃんがボクを、抱いて寝てくれたんや。『何も考えんでええから、目ェつむりや』って。言っとくけどそのとき、ボクもう十七やってんで」

 何て過保護な父親だ、と生命は呆れたけれど、もう驚かない。自分だったら、十七にもなって父親と同衾なんて気持ち悪くてぜったいできないが、強い絆で結ばれていた春間親子にとってはあたりまえだったのだろう。

「生命、やろうと思えばあの夜ボクを抱けたのに、手ェ出さんとおってくれたやんか。うれしかった。だいじにしてくれるんやなって。こないだは、自分の気持ちも考えんと迫ったりして、ごめんな。何か焦れったかってん。ほんまはボクも生命のこと好きやったんやけど……素直に認めるん、怖かった……」

 スパーリングで本気を出せなくなったときから、不安を感じていたのだという。恋に落ちてしまったのではないかと。まだ確信は持てなかったが、自分がおかしくなったようで、怖かった。

「恋愛にうつつ抜かしてたら、ボクシングできんようになってしまうんちゃうかって。怖なって、いろんな人に訊いた。でも、そんなことあらへんって言われて、安心したんや」

 格闘家で既婚者のハヤトに尋ねているのを、生命もテレビで見ていた。あれは自分のために生まれた問いだったのかと思うと、何だかうれしい。

 少し沈黙が続くと、夏希はそれを埋めようとするように、距離を縮め、頭を生命の肩にあずけてきた。以前いっしょに走ったことがある公園で、二人は足を止める。人けのない平日の昼の公園のベンチに腰かけた彼らは、遠目に見れば恋人同士のように見えるかもしれない。

「自分は、何で出ていったんや」

「そりゃ……アンタがしつこいから。このままそばにいたら、マジで手ェ出しちまいそうな気がして、俺も……怖かったんだよ」

 実際、夢の中や自慰するときの妄想では、何度も夏希を強引に犯していた。何も知らない彼の服を乱暴に剥ぎ取って、磨き抜かれた身体を押さえつけ、荒っぽく研がれた刃の先で、蕾を切り開いて……。実行に移したくなるのを必死でこらえ、それこそ、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んで今日まできたのだ。

「優しいんやな、生命は。おもしろ半分にからこうたりして、悪かったな。あんだけ誘ったくせに、ほんまにされてたらたぶん、幻滅して、自分のことキライになってたわ。せやけど……」

 乙女心のように複雑な本音を打ち明けて、夏希はふいにしおらしく、目を閉じる。

「今度こそ、ほんまにちゃんとしてほしいな……」

「え……?」

「キス。ボクも、生命のこと好きやから。もし、恋人にしてくれるんやったら、証が欲しい……」

 ここに、と人さし指の先で赤い口唇に触れてみせる。

 分かった、とうなずく代わりに、生命は口唇を重ねた。

 夏希が高熱を出して意識を失っていたとき以来だ。それを含めれば実質二回目なのだが、夏希にとっては、今回のがファーストキスになる。

 生命は、夏希の肩を優しく抱き寄せ、舌は入れずに、口唇を合わせるだけのキスをした。

(ナツが俺にボクシング教えてくれたみてェに、俺も……恋の仕方、ちょっとずつ教えてやるからな……)

 もっとも、こんなにも熱い感情を伴った甘い恋は、生命も初めてなので、自身も学びながらの初々しい指導になるに違いないが。


「あ、生命。こっちに帰ってたのか。家帰ってみたらいなくなってたから、どこ行ったのかと思ってた」

 夕方、ジムに来た天楽が、生命の顔を見て言った。

「ごめんな、天さん。ボクが迎えに行って、勝手に連れて帰ってきてもたんや」

 いつもより少し潤いの増した瞳で笑って、夏希が代わりに詫びる。その表情のわずかな変化だけで、二人の仲がうまく修復されたことを、天楽は悟った。

「いいよ、べつに。そうだ、ナッキー、久しぶりにスパーしようか。今日は何か、調子よさそうだし」

「うん、ええで。最近いらんことばっかり考えとったせいで、身体なまってるしな」

 二本目のベルト獲得を賭けた試合が、来週に迫っているのだ。作り上げてきた身体と技には自信があるが、「完璧だ」と胡坐をかいてしまったら、自分に負ける気がする。

 生命は、リングのそばに体育座りして見学している子供たちに交じって、軽やかに戦う夏希を見ていた。長身でそこそこ強い天楽が相手でも、身のこなしの鮮やかさとスピード感溢れるパンチで、試合の主導権を握っている。さすがは世界チャンピオンだ。

 汗を散らして天楽と打ち合う夏希を目で追っているうちに、生命はふと、昼間の口づけを思い出した。機関銃のようによくしゃべる夏希の口唇は、マシュマロよりも柔らかくて甘かった。あんなにも強くて勝ち気な男が、自分の前では小鳥のように無防備になって、口づけを許してくれる。そのことが、生命には、今さらながら不思議でたまらない。

 フェイントも含めた天楽の複雑なパンチを一発も喰らわないまま、夏希は彼をKOした。

「生命―、次は自分の番やでー」

 リングの中から、とても晴れやかな笑顔で誘っている。

「しゃあねェな……」

 想いを伝えあったことで遠慮がなくなった夏希は、全力でスパーリングするつもりでいるらしい。

(セックスする前に死にませんように……)

 まだ彼を抱いていない生命の願いは、それだけだった。



 明日はいよいよ、スーパーフライ級チャンピオン、ポンサクレック・チャンタブリージムとの試合の日だ。夏希はベッドに腰かけて、窓の外の月をぼんやり眺めている。今日行われた計量は何の問題もなくパスし、夕食で栄養と水分を取り戻したので、今はとても体調がいい。ロードワークもいつもより余計にこなしたし、明日への準備は万端だ。あとは、心の準備だけである。

(お父ちゃんができへんかったこと、ボクにできるんやろか)

 一本目のベルトを獲るまでは父が常にそばにいて励ましてくれていたから、少しも不安ではなかったが、今は、自分で自分を支えなければならない。ひとたびナーバスになると、どんどん落ち込んでいってしまうのを止められなかった。二階級制覇を目前に、ケガがもとで引退せざるを得なくなった父の姿が目蓋に浮かぶ。

(あかん、寝られへんわ……)

 ベッドに入ってからも落ち着かなくて、夏希は、天井から下がったパンチングボールを殴る。その微かな音に呼び出されたかのように、トントン、と小さくドアを叩く者があった。

「何や」

 やや不機嫌に応える夏希の前に、生命が姿を現わす。

「眠れねェんだろうなと思ってさ」

 彼も、心配で寝つけなかったらしい。

「るなちゃんは?」

「もう寝た。夏希お兄ちゃんと仲よくねって。アイツ、分かってんのかもな」

「そんなわけないやろ、アホ。ほんまのこと知ったら、どんだけ傷つくと思ってんねん。お兄ちゃんホモで、男とつきあってるんやで。まぁ、ボクはべつに、恨まれてもかめへんけどな」

 言いながら、夏希は掛け布団を、額の辺りまで引き上げる。

「俺の妹はそこまでやわじゃねーよ。俺に似てけっこう芯が強くて、もの分かりいいほうだし」

 たとえ将来、反発されることになったとしても、夏希から離れる気はない生命だ。

「ナツ、不安なんだろ、明日が。こないだみたいに、朝まで抱いててやろうか?」

 布団の上から夏希の身体を優しく撫でて、気遣う。

「ええ。べつにいらんで、そんなん。なっちゃんいつもどおり屁ェこいて寝るつもりやから、自分ももう部屋帰りや」

 強がる彼の本心を見抜いて、生命は、夏希の肩を抱き締めた。夏希の細い身体がビクッと震える。今まで見せたことのないような反応だった。


「ナツ……?」

 掛け布団をめくり、真っ黒な髪をそっと撫でる。

 そういえば夏希は、両想いになってからは一度も、誘うような真似はしてこない。いつでもそうなる可能性があることを知っているから、あえて生命の劣情を刺激しないようにしているのだろう。

 横たわっている夏希を背中側から抱き締めているうちに、気持ちが高ぶってくるのを、生命は感じていた。この身体に自分を教えたい、そんな衝動がとめどなく湧いてくる。

「なぁ、ナツ……」

「ん……?」

「今夜、していいか?」

「何を?」

「セックス」

 振り返った夏希の目が丸い。

 その無垢な表情が愛しくて、生命は額に一度、口唇に二度、軽くキスした。

「してもええか、とか訊かれたら困るがな」

 夏希は眉を寄せている。

「ええでって言うたら楽しみにしてたみたいやし、あかんって言うたら、自分のことキライみたいやろ」

 困ったように言うその顔は紅潮し、「YES」の三文字が、赤い口唇に浮かんでいる。

「もっと強引に……奪ってくれたってええんやで」

 つぶやいた夏希の声を、生命はつるりと飲み込んだ。

 言葉が終わらぬうちに口づけて、荒々しく舌先を侵入させたのだ。

「んんっ……」

 初めてのディープキスに、夏希は、釣られた魚のように苦しげな反応を見せる。合わさった口唇の間で舌が触れ合って、絡み合う。こんな激しいキスもあるのだということを、夏希は今日まで知らなかった。

 生命は、一つの仕草をしっかり教え込むように、ゆっくりと口唇を食み、舌で歯の一本一本を確かめる。溢れてきた透明の蜜は、ためらうことなく喉を鳴らして飲み干した。

「ん……」

 解放された夏希の身体は、自分を支えられない人形のようにベッドに沈みこむ。

 生命は、その身体を抱き上げて、着ているものを一枚ずつ脱がせた。いっしょに風呂に入ったこともあるし、試合中は上半身裸なので、見られるのは初めてではないのだが、夏希はなぜか照れてしまう。

「そないじろじろ……見んといてや」

「何で? 見たいから脱がせたんじゃん」

 自分もすべて脱ぎ捨てながら、生命はさらりと言った。

「電気……」

「消さねーよ。顔見えないとつまんないだろ」

 初めてだし、ゆっくり反応を楽しみながら堪能したい。年下の生命のほうが経験豊富なので、ベッドの上ではジェネラルシップを発揮するのだ。

 何も身につけていない夏希を、生命は、再びベッドに押し倒した。大切な宝物を見るような目で、美しい肉体を鑑賞する。

「何やねん、もう……」

 照れている夏希の髪を撫で、黒髪の束に口づけた。

 そのまま口唇を顎に移し、首筋にキスの雨を降らせながら、鎖骨へ降りていく。

「次は胸かな」と予感した夏希は、意外なところに触れられてビクンとはねた。

「ちょっ、どこ舐めてんねん、われ!」

「ん? 脇だけど」

 生命は、夏希の左腕を上げさせて、その付け根に鼻をうずめていた。緩いカーブを舌先でなぞって、自然に生えている真っ黒な絹糸を、からかうように舐める。これまでつきあってきた女にも同じようにしてきたわけではなく、相手が夏希だから、こんなところまで愛でたくなってしまったのだ。

「ん、くすぐったい……っ」

 夏希は身を捩って笑う。

「人間って、欲情するとここからすごいイイ匂いするんだって。南国の果実みたいな……。今のアンタもだな」

 鼻を押しつけて脇の下の匂いを嗅ぎながら、エロ本で仕入れたいいかげんな知識を披露するのは、まだ十九歳ゆえの未熟さだ。

「意識しだしたころからずっと、こうしたいって思ってたんだ。アンタしょっちゅう、脇見せてんだろ?」

 確かに、勝利したときやアッパーを打つときなど、無防備に人目にさらしてきた場所ではあるが。

「こんな変態が見てるとは思ってへんかったからなっ!」

 顔を真っ赤にして羞恥心を露わにする夏希は、生命の指が次の地点をめざしていることに気づかない。

「……あっ」

 突然右胸の先端を摘まれて、一段高い声が出た。

 胸の筋肉はしっかり張り詰めているのに、先端の小さなピンクの部分は柔らかくて、思わず舌で可愛がりたくなる。欲望のままに口唇を近づけ、ちゅっと吸った生命は、しだいにつんと立ってくるその感触を愛した。

「や……んんっ、そんなとこ……吸っても、おっぱい出えへんでっ」

 一瞬、生命のその行動が、ミルクを求めてすがってくる哺乳類の子どものように見えて、夏希は彼の頭を押しのけようとした。しかし、意識が胸に集中してしまって腕に力が入らず、結局されるがままになってしまう。

「あぁんっ、もぅ……、や、めやぁッ」

 こみあげてくる快感に耐えかねて夏希は身をよじった。くっきり割れている腹の筋肉が、その動きで強調される。

 生命は丁寧に胸を愛撫し、時折臍の辺りまでを指先で撫でた。

 これだけで、経験の少ない夏希の下半身は反応してしまう。

 男を相手にするのは初めての生命だが、欲求と本能にしたがって、この無駄のないコースの攻略を進めている。下半身を覆うベールをかき分けて、苺ミルク色のペニスを収穫し、こぼれ出す蜜を惜しむように口に含んだ。喉の奥まで咥えこみ、上顎に擦りつけるようにして刺激する。

「あーッ、ん、う……」

 夏希の喘ぎが尾を引いた。生命はその反応に遊び心を喚起されて、口の中のモノを甘噛みし、歯を立てるぎりぎりの、痛みに近い快楽を与える。

「はっ……あぁ……ッ、生命、もう……」

 出してしまいそうなのだろう。

(まだ早ェよ)

 生命は、絶頂の寸前で遊戯をストップし、唾液と先走りの液を、指を使って器用にMIXする。

「何してんのや……。汚いやろ、そんなんで遊んだら……」

「遊んでるんじゃねーよ」

「え……?」

 潤んだ瞳で不安げに見つめる夏希の前で、指を開き、透明な糸を引いてみせる生命。

「ちょっと痛いけど、我慢しろよ」

 殴られても平気なくらい鍛えている夏希だが、後ろに指を挿入される感覚はさすがに未経験だろう。

「何する気や……?」

 眉を寄せて怯える夏希の頬に、生命は軽く口づける。そのまま覆いかぶさって、彼から見えないところで、濡れた指を脚の間に滑り込ませた。

「や……っ」 他人に触れられたことのない可愛らしい蕾に、武骨な指先を挿し入れる。ズプ、と小さな音がして、長い指が夏希の身体を開かせた。生命はさらに、鍵をあけるときのように、中で軽く反転させる。コークスクリューパンチが腹にめりこむときのように、指先が夏希の奥に届いた。

「痛いッ!」

 抜き差しが始まったときに、夏希はついに、こらえていた言葉を漏らす。

「痛いやんかぁ……ッ! ヘタクソ……っ」

「セックスは気持ちいい」というのは都市伝説なのだろうか。

「そりゃ痛いよ、ナツは初めてなんだから。ギリギリ締めつけてくるから俺の指も痛ェ」

 夏希の瞳からこぼれた涙をもう片方の手で拾い、生命は囁く。二本目と三本目は、予告なしで追加した。狭い道が、彼のためだけに拡張されていく。

「痛ぁッ……イヤや、もう……何でこんな……あぁっ」

 充血する粘膜を擦られて、夏希が、涙声を漏らし始める。生命を何度も誘惑したことを、胸の底で後悔しているに違いない。

「ごめん。もうちょっとだから」

 本当はこの後がもっと痛いのだが、それはナイショだ。

「セックスが気持ちいい、や……嘘、やんなぁ……っ」

「いや、嘘じゃねェよ。ただ、そうなるまでは時間かかるってだけで。なぁ、ナツ、こことかこうされるとどんな感じ?」

 生命は、ある一点を選んで強く刺激した。

 テレビで、オネエの芸能人が、「男のヒトは、後ろの穴のある一点を擦られると、思わず勃起してしまうほどの快感を覚える」と言っていたのを試したのだ。いっしょに見ていた夏希はすっかり忘れているに違いないが、こんなときのために覚えておいてよかった。

「い、痛い……ん……?」

 ビクッと背を反らせた夏希だが、鼻にかかった疑問符を漏らした。

 生命は、ククッと笑って指を引き抜く。

 その反応をより確かなものにするために、使い勝手のよいとっておきの道具を、夏希の中へ向かわせた。

「ふぅっ……クッ……あぁーッ!」

 挿入の瞬間、悲鳴が溢れ、温かい粘膜が、生命のモノを強く握り締める。

 ようやく一つになれたのを記念して、彼はまた夏希に口づけた。板のような腹と腹が時折触れ合い、宝石のように研磨された互いの肉体を感じて熱くなる。

 生命は、少しの休息を挟んで、ゆっくりと動き始めた。

 夏希の顔を見ながら、傷つけないように速度を速めていく。腰を引くたびに粘膜が絡みついてきて、こんなところまで生命に恋しているようだった。

「や、あぁっ……」

 痛みに耐えていた夏希の中で、しだいに、新しい感情が芽生え始める。ちょうど、トレーニングをしていて最も苦しい地点を越えたときに、快感が湧き起こるのと同じだ。

(何か……気持ちええ……。カラダ蕩けてしまいそうや……)

 夏希は、腕を伸ばして生命の背中を抱き寄せ、自らも腰の動きに応えた。

「慣れてきたじゃん」

 生命は軽く笑って、夏希の感じる場所を繰り返し突いた。

「あッ、あッ……、あぁッ、うぅんっ……」

 二人は同時に高まっていく。

「ナツ、ナツ……ッ」

 生命が、今までにないくらい切羽詰まった声で夏希を呼んだ。

 イク、と言おうとしたのだろう。

 若さゆえにか、絶頂を予感するより先に、熱いモノがほとばしり出て、夏希の中を限界まで満たす。

「ごめん……」

「……ッ」

 ええでべつに、と頭を撫でてやろうとした瞬間、夏希も、彼の腹に想いをぶちまけていた。これで、おあいこだ。

「ドロー、やな……」

 乱れた息の合間につぶやく夏希は、自分の内に吐き出されたモノの量と熱さに戸惑っている。おあずけを喰らわせていた間、いったいどれだけの想いを溜め込んでいたのだろう、彼は。

「なぁ、生命」

 まだ身体の中に滞在している彼のペニスを、確かめるように締めつけながら夏希は問う。

「またおっきくなってんで、こいつ」

「しょうがねェだろ……。アンタが半年も待たすから、こいつだって……」

 ――「好き」って言い足りねーんだよ、まだまだ。

 彼がこんな冗談を言うのは初めてかもしれない。

「ほんましゃあないな、もう。もう一ラウンド、つきおーたるわ……」

 夏希は、やれやれといった感じで言って、赤く染まった頬を彼の視界から隠そうとするように、自分から口づけた。

「待て」から解放されたばかりの十代の恋人の相手をするのは、もしかしたら、世界戦で十二ラウンド戦い抜くよりきついかもしれない。



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