第五章 愛で世界をノックアウト

「朝やで、生命。起き。いつまで寝てるつもりや」

 翌朝、生命は夏希に叩き起こされた。昨夜は結局、二ラウンドも余計に戦ってしまったのに、抱かれていた夏希のほうは、少しも疲れた顔をしていない。世界を制しているだけあって、セックスの疲労から回復するのも早いのかもしれない。

「さっさと着替えや。朝飯の前にロードワーク行くで」

「ロードワークって……またいつもの……」

 歌舞伎町を抜けて、公園や海まで行くのかと思ったが、「今日は違う」と夏希は首を振る。

「ついてきいや。連れていってやりたいとこがあるねん」

 急かされて、トレーニングウェアに着替えた生命は、まだ半分ほど寝惚けた状態で、夏希の後について走った。

「ここや、ここ」

 行きついた先は、山の斜面に造られた墓地だった。枯れ枝をパキパキ踏んで門をくぐり、入り口付近でバケツに水を汲む。誰の墓があるのか、と生命は尋ねなかった。訊かなくても分かったのだ。

 夏希が足を止めたのは、春間悠介の名が刻まれた墓の前だった。

「お父ちゃん、久しぶりやな」

 墓に向かって話しかけ、ひしゃくですくった水で墓石を洗う。

 墓前には、真新しい花が供えられ、彼が生前好きだったらしい飲料メーカーの水が数本並べられていた。

「今でも、ファンの人らがこうやって通ってきてくれてるんや。ボクや天さんもしょっちゅう来てるけどな。特に、試合の前とか後とかは必ず報告に来てる」

 今日は、二階級制覇に挑むことを告げに来たのだろうが、線香に火をつけた夏希はその前に、生命の背中を押した。

「お父ちゃん、いつも見てくれてると思うけど、改めて紹介するわ。こいつ、行本生命。うちからデビューした奴や。ボクが鍛えたったんやで。ほんでな、実はボク……今、こいつとつきあってんねん」

 まるで、生きている相手が目の前にいるかのように、夏希は頬を赤らめている。彼には、亡き父の姿がはっきり見えているのだろう。

「ほら、自分も頭下げや」

 促されて、生命は、めったにしないお辞儀をする。

 何か言え、というように瞳の端でちらりと見られて、口を開いた。

「えっと……行本です。夏希さんのおかげで、ボクシング好きになりました」

 これまでつきあった女たちとは、カラダだけのいいかげんな関係だったので、「彼女の父親」に挨拶したことなどない。こんなときに口にすべきなのは、お約束のあの科白しかないような気がした。

「お父さん、夏希さんを俺にください。ぜったいに幸せにします」

 深く頭を下げ、許しを請うように目を閉じる。

「ほんまやろうな?」

 夏希が声を低くして、耳元でぼそっとつぶやいた。

「くださいとか簡単に言うけど、ナツはお人形みたいにおとなしないで。気に入らんことあったら、自分のことしばき倒したりするかもしれんで。それでもええんか?」

 今は亡き父親の代わりに、彼が口にしそうなことを、声色を変えて言う。

「平気です。トレーニングの一環だと思って……耐えます」

 実際には、夏希がむやみに暴力をふるう人間ではないことを、生命はよく知っている。これから何があるかは分からないが、今は、何としても彼のそばにいたい気持ちでいっぱいだった。

「ほんま、ええ奴やな、おまえは。こんなええ息子ができて、わいは幸せやで。短気やし性格きついし、ボクシング以外何もできへんけど、うちの子のこと、よろしゅう頼むで」

 父の代わりを演じる夏希に許されて、生命はようやく顔を上げる。ふざけた芝居を仕掛けてきた夏希は、おかしそうに笑っていたが、瞳の端には、小さな涙の粒が浮かんでいた。

「生命……」

 目が合うと、万感の想いが滲んだ切なげな声に名前を呼ばれる。

「何だよ? クサイ芝居させやがって」

 少し恥ずかしくて、ぶっきらぼうな声を出した生命を、夏希はふいに抱き締めた。細いが力のある腕が、強く温かく絡んでくる。

 人けのない墓地には、ひやりと冷たい空気が流れているのに、ここだけはぬくもりに満ちているような気がした。生命は、夏希の頬を撫で、緩やかに顎を上向かせて、口づけた。

「ん……」

 覚えたばかりのディープキスを、父親の墓の前で披露する。

 静かな墓地に、舌が邂逅するときの歓喜の音が響き渡った。

 熱い口づけに夢中の二人は、この瞬間に立ち会っていたのが、亡き人の霊だけではないことをまだ知らない。



「わ、すごいじゃない、これ。誰から?」

 大阪府立体育会館の入り口の、花を置くスペースに、ひときわ目立つものを見つけて天楽が驚いている。先ほど、生命が運び込んだ特大の花だ。贈り主は、「春間夏希を応援する会」。色とりどりの高価な薔薇を贅沢に使って作られた花環は、いっそ悪趣味なくらいに豪華で、スポンサーやマスコミ関係者からの花が霞んでしまうほどだ。

「さぁ。誰だろうな。年季の入った熱心なファンだと思うぜ」

 生命はしらを切って、黙々と会場の準備を進めた。一応、スタッフが机などの用意をしてくれているのだが、Tシャツやサイン色紙などを販売するのはジム側の役目である。いっそのこと練習生で店をやればということになり、今回試合に出ないメンバーが売り子を務めることになった。出場予定の選手たちはそれぞれ、控え室で待機している。

 試合開始までにはまだ少し時間があるが、すでに長蛇の列ができている。チケットは、当日券も含めて完売していた。

「一段落したら、ナッキーのとこ行っておいでよ。不安だろうから、励ましてあげて」

 天楽に耳打ちされ、折を見てそっと抜け出した生命は、夏希の控え室へ向かう。途中、ぱしゃっとシャッターの音が聞こえた気がしたが、気にとめなかった。ボクシングの試合は、アイドルのコンサートと違って、カメラ持ち込みOKなのだ。試合中は、フラッシュをたくと選手の妨げになるので禁止だが、それ以外は特に止められない。廊下で選手と擦れ違ったら、撮ってしまうファンもいるだろう。

(俺みたいなんでも、ありがたがってくれる物好きがいるんだな)

 撮られて減るもんじゃないし、と生命は深く考えずに、「春間夏希様」と書かれた紙が貼られている部屋のドアを開けた。

 夏希はこちらに背を向けて椅子に腰かけ、イヤホンを耳に挿して音楽を聴いていた。

「ナツ」

 気づいていないようなので、名前を呼んで肩を叩く。

「何や……自分か」

 一瞬ビクッとした夏希は、生命の顔を見ると、安堵したような笑みを浮かべた。密かに不安と闘っていたのだろう。

「そろそろ、第一試合始まるな」

 生命は顔を上げて、会場とつながっているテレビを見た。第一、第二試合はよそのジム同士の対戦である。客席はほとんど埋まっているが、メインイベントに合わせてくる客もいるので、空席もちらほら見える。

「緊張するわ……」

 夏希が、ぼそりと本音らしきものを漏らした。

 何度もリングに上がり、無敗の記録を作ってきた夏希でも、試合前は身体がこわばるらしい。前回はわりと平気そうな顔をしていたのに、今回少し青ざめて見えるのは、「二階級制覇」の夢の重さゆえか。それとも、恋人同士になったことで、生命の前で素直な感情を出すようになったからだろうか。細い肩には常に、プレッシャーが乗っかっている。

「大丈夫」

 生命はにっと笑って、夏希を背後から抱き締めた。

「何がやねん……」

 困ったような反応をする夏希だが、その顔にはきっと、笑みが浮かんでいる。

「ナツは、強いんだからさ。自分を信じて、いつもどおりのボクシングすればいいよ。どんな結果でも、俺、ちゃんと見てて、思いっきり抱き締めるから」

 囁いて、静かに口唇を重ねる。興奮させすぎないよう、薔薇の花を一枚ずつめくるようにして丁寧に口づけ、背中に回した手で、背骨に沿って身体を撫でる。

「なぁ……。ドア、開いてんで」

 途中、一度口唇を離した夏希が、不安げに言った。

 生命が、入ってきたとききちんと閉めなかったので、ドアは半分ほど開いている。

「平気だよ。ここ、誰も前通らないようになってんだろ? 『関係者以外立ち入り禁止』って廊下の角に貼ってあったぜ」

「せやな……」

 夏希はふと感じた視線を気のせいだと否定して、再び目を閉じた。触れ合っている口唇が温かくて、胸に秘めていた不安が、いつのまにかあらかた溶けてしまっている。

「そろそろ、うちのコらの出番やから。応援しに行ったらな、な?」

 第二試合が終わるころ、夏希はすっかり落ち着いた表情で席を立った。

 ここからは、第三・第四試合と春間ジムのメンバーが出場するので、会場で応援しながら待機することになる。トレーニングウェアの上から、春間ジムのロゴ入りジャンパーを羽織って、夏希は控え室を出た。



「ただいまよりー、第三試合・フェザー級四回戦を開始いたします。赤コーナー、春間所属、百二十三ポンド、管巻(くだまき)ぃー竜(りゅう)治(じ)ぃー……」

 三試合目に出るのは、今回が三度目の出場となる十九歳だ。明るい茶髪に大きな瞳の彼は、生命と同い年だが、決して不良あがりとかではない。上がり症なせいもあってガチガチに緊張しているらしく、相手を待つ間リングの中でジャブを披露する肩が、こわばっている。

「竜治―、硬(かと)ぅならんでええでー。ジムといっしょやと思(おも)て、しゃちほこばらんといけよー」

 夏希が手を口元に添えてがなる。

「続きまして青コーナー、花旗(はなばた)所属―、百二十四ポンド、片岡(かたおか)ぁー翔(しょう)太(た)―」

 相手は一つ年上で、京都出身のサウスポーだ。

 四回戦なので、インターバルも含めて十五分もしないうちに勝負は決まる。

 セコンドについた桃瀬と、リングサイドの夏希の声援がきいたようで、管巻は判定勝ちし、悠々と帰ってきた。その顔は、達成感に満ち溢れている。

「ようやった、ようやったで、竜治!」

 いちばんに抱き締めてやるのはもちろん、夏希だ。

「ありがとうございます! 夏希さんのおかげで俺……自分らしく戦えました!」

 管巻は感極まったように言って、夏希の腕の中で熱い涙を流す。

 そんな二人の姿に軽い嫉妬を覚える生命は、母に可愛がられる弟にやきもちを焼く兄のようだ。

 まもなく、第四試合も始まった。

 六回戦の、キャリア四年同士の対戦である。

「城(しろ)口(ぐち)―、手数出していけよー」

「足止まってんでー! 最後まで気ィ抜かんとがんばりやー!」

 セコンドとチャンピオンの指示、そして仲間の応援を背に、ライト級の城口は果敢に攻め込んでいく。

 背の低い彼の得意技は、左アッパーからのワン・ツー。しかし、今回は、サンデーパンチが一度もうまく決まらなかった。相手がなかなか手強くて、うまく躱され続けたあげく、ボディーブローでKOされてしまったのだ。

 悔し泣きしながら戻ってきた彼を、夏希は同じように抱き締める。

「ようがんばったで。なっちゃん、シロの今の顔、大好きやからな」

 目の上を腫らして血を流している彼の前髪を撫で、とどめのひとことでさらに泣かせる。

かつて父がそうであったように、結果がどうであっても、一生懸命戦った者は褒めてやり、次への意欲を育てるのだ。

「ナツ、そろそろ準備せえよ。メインカードは一時間後にって、さっきアナウンスあっただろ」

 時計を見ながら、桃瀬トレーナーが促す。

「分かった。ほなちょっと行ってくるわ」

 夏希はにこっと笑って、控え室へ戻る。試合直前のインタビューに答えて、リングインの準備をするのだ。

「夏希さん! ファイトー!」

 練習生たちが、声をそろえて見送る。生命も、「がんばれよ」と彼の肩を叩いた。

 果たして、父が息子に託した夢は、叶うのだろうか?



(お父ちゃん、ボク、がんばるからな。ぜったい、勝たせてや……)

 取材陣が引きあげた後、夏希は控え室の鏡の前で目を閉じて祈った。

 今でも、父は夏希の憧れの選手だ。その憧れの選手と同じ名字を背負っていること、血を受け継いでいることは、夏希にとって、何よりの幸福で、重い事実である。

 いつだったか、父は言った。

「珍しい名字やしな、たぶん他にはおれへん。わいとおまえだけや。これまでは、春間いうたらわいのことやったけど、これからはみんな、おまえの顔思い浮かべるようになるんやで」

 世代交代っちゅうやっちゃな。

 うれしさと寂しさの混じった顔で、豪快に笑って、夏希の肩を叩いた。

(でもな、お父ちゃん。ボクの中ではいつまで経っても、春間っちゅうたら春間悠介、お父ちゃんなんやで)

 夏希がテレビや雑誌の取材のたびに父の話をするのは、たんにファザコンだからというだけでなく、父を忘れてほしくないからだ。ボクシングの歴史の中に、春間悠介というボクサーが確かに存在していたことを、記憶していてほしいからだ。

 悠介も、現役時代はそうだった。ことあるごとにトレーナーのジョニー・オーガストの逸話を口にして、自分の名とともに世間に知らしめた。引退してからも、ボクシングについて人に訊かれるたびに、語り続けていたのだ。

 やはり、似た者同士の親子なのかもしれない。

「ナツ、そろそろ入場の時間だぞ」

 白いドアを向こう側からノックされ、夏希は、この日のために特注したガウンを羽織って部屋を出る。今日は、青空をバックに大きなヒマワリが咲いている柄だ。もちろん、メルヘンチックなデザインではなく、ロックな感じに仕上げてもらっている。赤く輝く「春間夏希」の名がひときわ目立っていて、冬なのに熱いイメージだ。

 例によってどこかのファンが贈ってくれた幟旗を、練習生たちに一本ずつ持たせ、前を歩かせる。照明は落とされて、会場全体に、観客の期待が満ちていた。

 ふいに青いライトがばっと灯って、青コーナーの入り口を照らす。

「青コーナー、挑戦者、WBCフライ級チャンピオン、春間夏希―!」

 高らかなアナウンスの直後、入場曲のイントロが流れ出す。メインの試合では、音楽を長めにかけて焦らすのが普通だ。曲が盛り上がって、人々の期待を最高潮に押し上げたころを見計らって、先頭の桃瀬トレーナーが歩き始める。その後に幟旗が続き、青いグローブをはめた夏希が姿を現わす。

 わああぁ、と歓声が沸き起こる中を颯爽と歩いて、ロープをくぐった。右手を突き上げ、観客に投げキスを贈りながら、リングの上を一周する。

 赤コーナー、タイ人の現チャンピオンは、夏希同様、小柄ながら眼に力のある選手だった。リングインしてすぐ、警戒にステップを踏みながら、拳を打ち出してウォーミングアップしている。

 タイ国と日本両方の国歌が歌われ、ボクシングコミッションが正式に認めたタイトルマッチであることが宣言された後、夏希とポンサクレック選手の試合が始まった。

「ボックス!」

 生命は、万全の体調で試合に臨む夏希を生で見るのは初めてである。スパーリングのときよりさらにフットワークが軽く、相手の視線に捕らわれないように、上体を小刻みに揺らしていた。一ラウンド目はお互い睨みあいながら実力を探り合っているような状態だ。

「なっちゃーん!」

「なっちゃん!」

「夏希―!」

 絶え間なく、客席から声援が送られる。

 しなやかに引き締まった背中と、軽やかに舞う黒髪を見つめながら、生命も手に汗を握った。

 風呂上がりに相手の試合のビデオを見て、熱心に研究していた夏希を、彼は知っている。分析など頭を使うことはあまり得意でないらしいが、獣のようにすぐれた勘で、対戦相手の弱点を見つけ出していた。

 この試合は今、テレビを通して全国に中継されている。

 夏希の大ファンの内村たちや、彼をライバルとして追いかけている浦沢涼王も、見ているに違いない。

 ――なぁ、みんな、お願いや。ボクシングをもっともっと、好きになってほしいねん。

 試合前のインタビューで、夏希は、テレビの向こうにそんなことを呼びかけていた。

 盛り上がる試合を、と約束したとおり、観客を沸かせる打ち合いが、リングの上で展開されていた。

「春間夏希、二本目のベルトを狙っています。相手をロープ際に追い詰め、ここが正念場のラッシュで……おっと、フェイントを挟みながら、確実に弱らせるボディーへの攻撃です! チャンピオン・ポンサレック選手もそれを許しはしないようで、激しいパンチが宙で交わっています!」

 休むことなく実況するアナウンサーも、興奮して身を乗り出している。

 十二回戦の契約だが、四ラウンド目がこの試合のクライマックスになった。

 ポンサレックの足がふらついた瞬間をきっかけに、夏希は一気にまとめに入ったのだ。チャンピオンの強靭な身体は、日本の期待を一身に受けた夏希の拳に射抜かれて、キャンバスに沈んだ。カウントがとられ、意識朦朧としているポンサレックが、立ち上がれないことが確認される。

「四ラウンド一分十秒、KOにより、勝者ぁー……挑戦者、春間夏希ぃー!」

 レフェリーが夏希の腕をとって、高く掲げてみせた。

 テレビではスローの映像が流れたが、視聴者も、生で見ていた者たちも、どのパンチがフィニッシュブローとなったのか、見抜くことはできなかっただろう。夏希は今回、強力な一撃で幕を引くのではなく、じわじわとダメージを積み重ねて疲労を蓄積させる方法を選んだ。根気よく打ち続けた結果、弱ってきたところで、急所を少し強めに打ったのだ。一本ずつ釘を抜いていけば、巨大な建物もいずれは崩れる……そんな作戦だったのである。

(すべての道は、ローマにつながってるんやで)

 言葉の用法が正しいかどうかはともかく、観客が圧倒されたのは事実だ。王者の交代劇に、客席は総立ちになり、大きな拍手で会場の空気を震わせた。

 夏希は、勝ち取ったばかりの新しいベルトを与えられ、すぐにコメントを求められる。

「えーうれしいですね、人生でいちばん……」

 瞳に垂れてくる汗を拭い、乱れた息を整えながら、率直な感想を漏らす。満足げな笑顔が、会場のスクリーンにも大きく映し出された。

「二本目のベルト、いちばんに誰に見せたいですか?」

 女性アナウンサーの質問に、夏希は少し考えてから口を開く。

「もちろんお父ちゃんです……と言いたいとこですけど、今はやっぱり、ずっと見守ってくれてた、だいじな人です」

 お父ちゃんごめんな、と小さく詫びる姿が可愛い。

 会場が一瞬、ざわめいた。誰もが知る重度のファザコンの夏希に、父より優先する相手がいるなんて。

 夏希は、もう一度マイクを手にして、客席のファンに語りかける。

「みんなぁ、試合早ぉ終わってもて、ごめんなぁー。でも、楽しかったやろー?」

 わああ、と歓声が返ってきた。

「ベルト獲れたん、応援してくれたみんなのおかげや。ぜったいぜったい、また会おうなぁー!」

 大きく手を振って、その場を締める。

 最高に熱くて、盛り上がった一夜は、テレビを通して全国に伝えられた。



「何で『だいじな人』とかいうんだよ。みんなすげー知りたがってたじゃん」

「しゃあないやろ。なっちゃん隠し事キライやから、ついぽろっと言うてしもたんや」

 じゃれあいながら、手をつないで夜道を歩く。試合の後は居酒屋で祝勝会を開き、今日の成功をみなで祝った。酒は誰も飲まないが、今夜は特別ということで少し多めに食べて、カラオケで歌いまくった。解散したのは、深夜十二時を過ぎてからだ。

 祝勝会の間中、夏希は後輩たちに質問攻めにされていた。

「夏希さんの『だいじな人』って誰なんですか?」

「紹介してくださいよぉ、カノジョ」

「今流行りのエアー彼女とかいうやつじゃないのかぁ?」

 桃瀬にも追及されたが、夏希は漏らさなかった。

「ふふ、ナイショや。でも、だいじなんはみんなもいっしょやで。ここのみんながおったから、ボクはがんばってこれたんやし。おおきに、な」

「夏希さん……」

 例によってみんなを泣かせる一言で、煙に巻いてしまった。

 本当のことを知っている天楽だけが、ウーロン茶を飲みながら苦笑していた。

「なぁ、ナツ」

 ジムに帰りついて、鍵を開けている夏希の背中に、生命は思いきって声をかける。

「ん、何や?」

「風呂、久しぶりにいっしょに入らねェ?」

 夏希の「だいじな人」として、今夜はたっぷり、オトナの祝勝会を開いてやるつもりだ、未成年だけど。

「……ええで」

 夏希は、照れているのか背中越しに返事をする。

「長いこといっしょに入ってへんもんな」

 気まずくなったころから入浴はべつべつだし、両想いになってからも、何となくいっしょに入るのを避けていた。

「今日はイイ汗かいたからな、ええダシ出ると思うでー」

 服を脱ぎながら冗談を言う夏希を、生命は黙って見つめている。激しい戦いだったが、ほとんど傷ついていない夏希の身体は、滑らかな肌と筋肉に覆われていて、美しかった。

(ヤベェ、上がるまで待てねェ)

 たまらなくなった生命は、シャンプーハットをかぶって髪を洗っている夏希の胸に、背後から手を伸ばした。そのままきゅっと胸の先を摘む。

「ひゃっ」

 夏希が高い声を出して振り返った。

「何すんねん、もうっ」

 怒っているというよりは、驚いている顔で生命を見る。

「髪洗うのに集中しねーと、泡が目に入るぜ」

 生命はにやっと笑って囁き、悪戯を続けた。

「やぁっ……」

 両方の胸の先を軽く潰され、くすぐるように愛撫されて、夏希は身を捩る。白い泡が飛んで、頬にかかった。

「ナツ、二階級制覇おめでとう」

 耳元に甘い祝福を吹き込んで、小さく震えた身体を愛しそうに撫でまわす。昨夜結ばれたばかりだから、まだ慣れていないようで、夏希は困惑した顔をしている。

 生命は、浴室用の低い椅子に腰かけ、向かい合う形で、膝の上に彼を抱き上げた。

「何か……ヘンな感じや」

 泡立てた髪にシャンプーハットをかぶったまま、夏希は頬を赤くした。

「ちっさいころ、よう、お父ちゃんに……こうやって、洗(あろ)てもろてたから」

 思い出すのはまたもや、父のことらしい。

「お父さんお父さんって、ナツは本当にファザコンだよな。俺のこともそのくらい呼べよ」

思い出の中で美化されるのはごめんだが、彼の中に、自分とのエピソードを増やしたい。

「今夜は、俺が洗う」

 生命は、手を伸ばしてシャワーを取り、優しい手つきで夏希の髪の泡を洗い流した。絞ったタオルで軽く水気をとって撫でつけ、油断している夏希の首筋にキスをする。ちゅっと吸うと一つ、赤い痕が残った。

「ちょっ、やめてや。みんなに見られてまうやろ!」

「大丈夫だって。練習でついた痣だと思ってくれるんじゃね?」

 生命はかまわず、胸と左肩にも同じ痕をつけた。

「ナツ、手ェ出して」

 石鹸を取って泡だてながら生命は言う。差し出された指の一本一本にまんべんなく泡を擦りつけて、白く染めた。

「何やこれ……?」

 きょとんと自分の手を見つめる夏希の目の前で手首を取り、そっと後ろの蕾に導く。

「俺が昨日したげたみたいに、自分で慣らしてみて?」

「え……?」

 夏希の顔が真っ赤になる。

「何言うてんねん、アホ。そんなこと……できるわけないやろ……」

「こっちはできるのに?」

 今夜はちょっと意地悪モードの生命は、夏希の股間のモノを人さし指でなぞりながら責めた。まだ完全には勃起していないものの、時間の問題だと思われるくらい、先っぽが持ち上がっている。

「ほら、早くしないと泡消えちゃうぜ? 痛いのヤなら、さっさと慣らせよ」

 わざと冷たい言葉で急かして、夏希の指が軽く触れている場所に視線を注ぐ。

「変態」

 小さく罵って、目を閉じた夏希は、おそるおそる、蕾に指を押し当てた。試合で興奮したせいか、まだ身体が熱っぽい。昨夜生命にされたのを思い出しながら、人さし指の先を滑り込ませてみた。

「んっ……」

 温かい肉の感触が指の先に伝わる。同時に、じわりとした痛みが腰の辺りまで広がった。

「どう?」

「べつ、に……」

 何ともないわ、と言おうとしたら、手首を掴まれ、無理やり奥まで押し進められた。

「いあぁぁッ」

 強引にめりこんでくる指の硬さに、夏希は悲鳴をあげた。

「なぁ、俺の顔見ながらしてよ」

 生命はさらに、残酷な指示を与える。ためらっている指を掴んで、三本に増やして抜き差しさせた。

 潤んだ瞳を開いたままの夏希と、視線が出会う。

「なぁ、今何考えてんの?」

「んッ……、何も、考えてへんわ……っ」

 サドっ気に目覚めた年下の恋人に翻弄されて、夏希は涙目だ。普段は気が強いくせに、こういう場面には慣れていないため、上手にあしらうことができない。その初々しい反応こそが相手を余計に興奮させているのだということにすら気づいていないのだ。

「もう、いっかな……」

 さんざん楽しんだ後に、生命は夏希の指をそっと蕾から引き抜いた。

「う……」

 夏希は脱力して、生命の膝の上で崩れ落ちる。乾いてきた髪がぱらりと垂れて、いつものオカッパ風の髪型に戻りつつある。

 生命は彼を抱き上げて、深く口づけながら、脚の間で大きく成長しているモノの上に、そっと下ろした。

「はあぁッ……」

 苦痛とも快感とも判別しづらい声が、夏希の喉を震わせる。その身体が反って落ちてしまいそうになるのを、生命は腕の力で受けとめた。いっそマットの上に押し倒してしまいたかったが、寝技はベッドに行ってからも楽しめる。

 激しく突き上げながらもう一度「おめでとう」と言ったら、夏希は「アホ」と、小さな声で毒づいた。生命は、勝者への贈り物として、ありったけのキスと愛撫を捧げた。

「ん、もうイキそ……」

「んんッ……」

 二人同時に絶頂を迎えて、シャンパンのような精液に塗れる。

「はぁ……」

 乱れた息を整えるのは得意な夏希だが、今回はさすがに疲れたのかぐったりしている。

「気持ちよかった?」

 生命は、彼の中から己の情熱を引き抜いて、愛しい人の身体を優しく洗った。自分の身体も軽く洗い流して、夏希とともに湯に浸かりながら、まだまだ元気な声で提案する。

「第二試合はベッドの上で、十二回戦がいいんスけど、挑戦受けてくれますか、チャンピオン?」

 いつもムスッとしている彼がこんなふうに冗談を言うのは珍しい。

「しゃあないな、受けたるわ。その代わり、ファイトマネー倍出すんやで」

「はいはい」

 ちゅ、とこめかみの辺りにキスが与えられる。どうやら、この試合のファイトマネーは、キスで支払われるらしい。

(ったく、どっちの祝勝会か分からへんやんけ……)

 心の中でぼやく夏希だが、その実、温かい幸福感に満たされていた。



 ピンポーン。

 ガタガタ、ガタガタ。

 チャイムの後、一階のガラス戸がノックされる音が響く。

(誰だよ、こんな朝っぱらから……)

先ほど眠りについたばかりの生命は、寝不足の目を擦りながら身体を起こした。夏希はまだ、ぐっすり眠っていて、目を開ける気配もない。昨夜のオトナの祝勝会がこたえたのか、死んだように瞳を閉じている。

(無理もないか……)

 調子に乗りすぎたな、と生命は少しだけ反省している。いろいろやってみたい年頃だったので、ありとあらゆる体位を試し、何度も絶頂まで追い上げて、あやうく彼を壊してしまうところだった。何せ、寝室には審判もセコンドもいないので、タオルを投げ込んでもらえないのだ。

 生命を止めたのは、強気でめったに音をあげない夏希からのギブアップだった。

「堪忍、もう、勘忍やで、生命……。ていうか自分、どんだけスタミナあんねん。そないめちゃくちゃされたら、なっちゃん死んでまうやろ……」

 ボクシングではぜったい負けない彼だが、セックスにおいては普通の二十四歳なのだ。

「悪ィ……」

 生命は若さゆえのあやまちを詫びて、夏希の髪を撫でながら、眠るまで抱き締めていた。

 安堵したように少し開いているその口唇の間に、指を挿し込む悪戯をしてから、上着を引っ掛けて、階段を降りていく。ガラス戸の外に立っていたのは、珍しくしかめっ面をしている天楽だった。今日は試合の翌日ということでジムは休みなのに、血相変えて何の用だろう。

「どうしたんだよ、こんな朝早くに」

「早くないよ。時計見てみろ、もう十一時だぞ」

 眠りについたのが陽が昇るころだったから、何だかんだいって五、六時間は眠っていたのだろう。

「そんなことより、たいへんなんだ。今朝のスポーツ紙……」

「あぁ、昨日ナツが勝ったって?」

「まあ、たいていの新聞はその記事だけど、一紙だけ、とんでもない記事載せててさ……」

 示された紙面に目を落として、生命は絶句した。

「これ……」

 スポーツ広知が大きく載せていたのは、控え室で口づけている夏希と生命の写真だったのだ。墓地でのキスシーンも押さえられている。

『二階級制覇の春間夏希(二十四)、同性愛疑惑?』

 派手な字の見出しがつけられ、夏希が二階級制覇を達成したことよりも、男の恋人がいることのほうに文字を費やしていた。

 キスの相手の生命が同じジムの後輩であることも調べたようで、廊下を歩いている姿も掲載している。確かに昨日、撮られたような気がしたが、あれはファンではなかったのだ。墓地の写真もあるということは、あの場に偶然居合わせて、特ダネだ、とばかりにシャッターを切ったのだろう。

「今朝の新聞は桃瀬トレーナーもチェックしただろうし、たいへんだよ、これから……」

 天楽の言葉が、真っ青になって硬直している生命の耳を通り抜ける。

「ナッキーは? まだ寝てるの?」

「あ、あぁ……」

 とりあえず夏希にも相談しなければ、と彼を起こしに行こうとしたそのとき、階段を軋ませながら、渦中の人が降りてきた。

「どないしたん、生命。誰か来てるんか?」

 寝乱れた姿のまま、ケータイを手にしている。

「あ、何や、天さんか。何かな、桃瀬さんからいっぱい着信来てるねんけどな、かけ直しても出ェへんのや。どないしたんかなぁ……」

 どうやら事態は、さらにまずいほうへ現在進行中らしい。

 今朝の大事件を知らない夏希ののんきな声が、静かなジムに響くのを、天楽も生命も、複雑な表情で聞いていた。



「何やねん、これ。盗撮やんか。断わりもなしにプライベートに乗り込んでくるや、サイテーやで!」

 スポーツ紙に目を通した夏希は、怒りに眉を寄せ、紙面をぐしゃりと握り締める。

 二人より数時間早く起きていた天楽から聞かされた話は、夏希を余計に不快にさせるものだった。今朝のワイドショーでもこの記事が取り上げられ、道ならぬ熱愛の件は多くの人が知るところとなったのだ。桃瀬トレーナーが何度も電話してきたのも、その真偽を確かめるためだったに違いない。さっき再び電話がかかってきて、「今そっちへ向かってる」ということだった。声の調子からすると、べつに怒っているようではなかったが、突然のことに驚いているのだろう。ボクシング一筋の夏希がまさか、自分の知らないところで恋をしているなんて。それも、相手は同性で、同じジムの後輩なのだ。他の練習生たちも、薄々気づいていたとはいえ、それぞれにショックを受けただろう。

「とりあえず、ナッキーは着替えたほうがいいよ。鎖骨が隠れる服に、ね」

「……せやな」

 指摘されて初めて、夏希は今の自分の姿のまずさに気がついた。

 寝癖のついた髪はともかく、ボタンが外れてはだけた胸元、鎖骨の下から腹にかけて鮮やかに散るキスマーク、昨夜何をしていたかを明確に物語る気怠げな表情。

(ヤりまくってたってバレバレやんけ)

 今マスコミに押しかけてこられたら、「確かな証拠」として激写されてしまう。

「風呂入って気合い入れ直してくるわ」

 夏希が欠伸しながら二階へ行った後、残された生命のケータイが震えた。

「はい、行本」

 名乗るのとほぼ同時に、ドスのきいた声が返ってくる。

「夏希さんにご迷惑おかけしとるやろ?」

 今朝のニュースを見たらしい内村だ。

「……かけてねーよ」

 生命としては、夏希を困らせようとしていたわけではない。普通に恋愛していたら、マスコミに目をつけられてしまっただけだ。

「嘘つくなや。夏希さん、せっかく二階級制覇達成したのに、どのチャンネルもちゅーの話ばっかりで、せっかくの偉業が霞んでしもとるやないかい」

 ファンとして、夏希の快挙の扱いが小さいことに憤ってくれているらしい。

「だいたい自分、いつのまに夏希さんとこんなことする仲になったんや。『試合前の控え室で』ってキャプションの写真な、舌入れすぎやってうちのもんらもブーイングしとったで」

「べつに普通だっての。もっと濃いィこともやってるぜって仲間に伝えといてくれよ」

 それにしても、キスだけでここまでの騒ぎになるとは。自分が組み敷いていたのは、世界を制し、広く名を馳せた有名人なのだと、生命は今さらながら思い知らされた。

「なぁ、夏希さんは今どないしてるんや。自分とこんなんしよるっちゅうんがバレて、つらい思いしてるんとちゃうやろなぁ?」

 脅し半分に尋ねられて、生命は先ほどの夏希の顔を思い出す。被害者の顔をしてはいなかった。むしろ、誇りを持っている個所を傷つけられたような、怒りに近い表情を浮かべていた。

「ナツはべつに泣いてねェよ。後悔もしてないだろうし。卑怯なやり方に怒ってるだけで、泣いてたりはしねーから安心しろ」

 ヘタに「悲しんでいる」などと言ったら、恐ろしいことになりそうだった。彼らがその気になれば、マスコミの口を封じるくらい、簡単なことなのだから。

「ナツはぜったいに、俺が守る。つらい思いなんかさせねェから、見守っててくれ」

 生命は言い切って、電話を切った。

「誰から?」

「何でもねェよ。ナツの熱狂的なファンの人から、『大丈夫か』って問い合わせ」

「そうか。やっぱりもう、みんな見ちゃってるんだな」

 困ったな、と天楽がため息をついたとき、ガラッと入り口のドアが開いた。

「桃瀬さん!」

スポーツ紙を手に飛び込んできた彼は、目で夏希を探している。

「ナツは……?」

「今、お風呂に」

「出たで。あ、桃瀬さん、電話出んかってごめんな。寝てたんや」

 風呂から上がって身なりを整えた夏希は、すっかりいつもどおりの彼になっていた。

「ナツ、今朝のテレビとスポーツ紙……」

「知ってる。天さんが教えてくれたからな。心配かけてもて、ほんまにすみません」

 珍しく、頭を下げる。清々しいくらいに、きれいな角度で。

 桃瀬は困ったように眉を寄せた。

「テレビ見たときは驚いたけどな。行本、ガセじゃないんだろ、この写真」

「あぁ」

「じきにジムにも取材が来るかもしれねーな。どうする? 練習の邪魔になるからって断わろうか」

「大丈夫や。ボクは受けるで。二階級制覇も達成したし、取材ぜんぶ断わったりできへんやろ。それに、言われっぱなしなん腹立つしな」

 夏希の伏せられた瞳は、静かに怒りを溜めているように見えた。



 予想どおり、その日の昼過ぎにはジムの電話がひっきりなしに鳴り始めた。二階級制覇した心境を伺いたい、というものが多かったが、それは表向きの話で、顔を合わせればやはりあの記事についての質問がメインになるのだろう。

 合間に、練習生からも電話がかかってきた。

「夏希さん、どうしてもっと早く言ってくれなかったんですか? 水臭いですよ」

「男でも女でも、好きになっちゃったらそれは恋だと思います。相手が行本さんなのはちょっと納得いかないですけど」

 みんな笑っていて、夏希の初めての恋を祝福してくれているようだった。さすが、ボクシングを通してさまざまな苦楽をともにしてきた、春間ジムの絆は強い。複雑な環境で生まれ育った者が多いので、同性愛ぐらいではたいして驚きもしないようだった。

「なっちゃんの大切な人って、生命だったんだ。青い鳥みたい、すっごい近くにいるんだもん」

 最年少の小学生にまで言われて、夏希は受話器を握ったまま笑った。

「せやな。まぁ、生命はどっちかっつーと、どこにでもおるカラスやけどな」

 電話を切った後、夏希は覚悟を決めたように、真顔になって言った。

「ボク、記者会見開くわ。えらい騒ぎになってるみたいやし。何回も同じことしゃべるん面倒やさかいな」

 何を訊かれたって、誰に揶揄されたって、言いたいことはたった一つだ。

「分かった。じゃあ、手配しとく。ナツ、ジムのことは気にせずに、ちゃんと本音で話せよ。オマエが本気ならきっと、春間会長も許してくれるだろう」

 勇気づけるようににっと笑って、二人の背中を軽く叩き、桃瀬はジムを出ていった。他にもいろいろ、やらなければならないことがあるのだろう。芸能人のスキャンダルほどではないものの、今回の件は、世間にそれなりの衝撃を与えたのだから。

「ほんまごめん、桃瀬さん……」

 悪いことをしたつもりはないが、迷惑をかけてしまったのは事実だ。

 天楽も帰った後、夏希は部屋で一人になって考えた。

(何でこんな思いせなあかんのやろ……)

 そりゃあ、恋になど縁のなさそうなスポーツ一筋の男が、同性愛者だと分かったら、騒ぎたくなるのも分からなくはないが、夏希としては、「放っといてくれや」と言いたい気持ちでいっぱいなのだ。外野が何と言ったって、放り出すつもりはない恋だった。

(ボクは、生命が好き……なんや)

 恥ずかしい行為も許してしまえるくらい、愛している。言葉にする以上に。

(だから、邪魔されとうないんや……)

 たとえば父が生きていて、全力で反対されたとしても、自分はこの想いを貫いただろう。

「生命……」

「呼んだか?」

「べつにっ……呼んでへんっ!」

 突然ドアが開いて声をかけられ、ビクッとした夏希ははねつける。

「何で勝手に入ってくるんや。独りで考え事してるんやから、ほっといてんか!」

「ノックしたのに返事なかったからさ。俺にも責任あるんだし、一人で悩むなよ」

 言いながら、ベッドに腰かけている夏希の隣に腰を下ろす。

 ――おまえがつらいとき、そばで支えてくれる人がおってくれたら。

 父の願いが胸に蘇って、夏希は彼を追い払えなかった。

「なぁ、生命……。ボクのこと、好きか?」

 しばらくの間を置いて、ふと思いついたように問う。

「あぁ」

「もうセックスさしたれへん言うても?」

「あたりまえだろ。どんだけおあずけ喰らってたと思ってんだよ」

「そうか。ほな……」

 身体を横に倒し、生命の肩に頭をあずけて夏希は言う。

「ボクのどこが好きなんか言うてみ」

 こんな自分のいったいどこに惹かれたというのか、珍しく謙虚になって、知りたくなってしまったのだ。

「んー。そうだな……」

 照れくさくて言葉にせずにいたことを、生命は初めて口にする。

「まっすぐなとこ。あと、やたら熱いとこもキライじゃねーな。俺なんか、最初はボクシングぜんぜん興味なかったのに、気がついたら引きずりこまれてたっつーか。影響、されてたし。初めてだった。こんなに……もみくちゃにされたの」

「ふうん」

 夏希は恥ずかしいのか、瞳をそらしている。

 生命はこの際だから、と続けた。

「それに、俺が金に釣られてクスリ盛ろうとしたときも、なんだかんだいって許してくれたじゃねーか。あのとき初めて、胸が……苦しくなった」

 生命にとっても、初恋だったのかもしれない。確かに、肉体だけの関係なら、これまでに何度も経験したけれど。これほど深くヒトを愛するのは、最初で、たぶん最後になるのだと思う。

「ほな……」

 夏希は、生命の告白に耳を傾けているうちに、何かを決めたようだった。

「離れとうないんやって、みんなの前で言うてええか?」

「あぁ」

 何だそんなことか、と生命はあっさりうなずく。

「自分のこと好きやって」

「言えよ」

 桃瀬トレーナーが調整してくれたので、記者会見は明日の午後、都内のテレビ局で開かれることに決まったのだ。

「何なら、俺もいっしょに行くぜ」

「……おおきに」

 これから、今までに向き合ったことのない敵と闘わなければならない。一対一の真剣勝負なら慣れているが、今回の相手は、顔も見えない「一般世間」だ。春間ジムのメンバーは温かく受け入れてくれたが、世の中は好奇の目で満ちている。

 覚悟を決めている様子の夏希の髪を、生命は何も言わずに優しく撫でた。

 穏やかな時間を引き裂いて、ふいにケータイが震える。

「自分のやで」

「あぁ。はい、行本です。何だ、てめェか」

 電話の相手は浦沢涼王だった。

「よぉ。久しぶりだな。今朝の新聞、すごかったじゃねーか。いつもあんなにラブラブなの? やるじゃん」

「……悪かったな」

「いや、羨んでるんだぜ。ボクシングばっかやってるから、禁欲してるのかと思ったら、あんな顔もするんだな、春間の野郎は」

「ナツは見せもんじゃねーよ」

 そこで、夏希が不審げに生命を見上げた。

「誰と話してんねん。ボクのことヘンなふうに言うたら、あとでしばくで」

 頬をつねられながら、生命は電話の向こうに告げた。

「あ、今代わる」

 ほら、とケータイを渡す。

「もしもし?」

「よぉ、春間。俺だよ、浦沢涼王。二階級制覇、おめでとう」

 意外な人物からの祝福に、夏希は鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をする。

「オマエもいろいろたいへんみたいだな。ま、何があっても、俺の敵がオマエなのは変わんないぜ。今朝の新聞見てたら、この幸せそうなツラに右ストレートぶちこんでやりたいって闘志湧いてきた」

「浦沢……」

 同性の恋人がいると知っても態度を変えない彼に、夏希は友情を感じた。

「俺にはまだいねーけどな、『大切な人』なんてのは。てめェがこんなつまんねーことで潰されたりしねェように、全力で守ってやるよ」

 ライバルが自滅してしまったらはりあいがなくなるからと、理由をつけて頼もしいことを言ってくれる。

「おおきに、な」

 持つべきものは、強い絆で結ばれた仲間と、よきライバルだ。

「明日記者会見するさかい、見とってや」

「あぁ、いつまでも彼氏と仲よくな」

 第一印象は最悪だったが、涼王はなかなかいい奴だ。

「ほんま、幸せやよな、ボクら」

 電話を切り、生命の腕に絡みつきながら、夏希はつぶやいた。



 記者会見の場には、スポーツ紙の記者やボクシング雑誌のライター、ワイドショーのリポーターをはじめ、スポーツ関係の主要人物が残らず集められていた。

 夏希は、黒地にリアルな虎の絵が描かれたトレーニングウェアに身を包み、マイクの前に姿を現わした。杉村会長と、渦中の行本生命もいっしょだ。

 記者会見はまず、二階級制覇の話から始まった。

「えー、悠介選手の記録を抜いたわけですが、もしお父さんが生きていたら、何と言われると思いますか?」

「んー、せやな、とりあえずは『ようやった』って言われるんちゃいますか。あと、『あんまり調子に乗ったらあかんで』とか。あ、でも、なんだかんだいうても、今のボクでもお父ちゃんにはかなわへんと思います。お父ちゃん、ケガしてなかったら、ベルト五本くらいとっとったんちゃいます?」

夏希はいつものノリで、軽快に質問に答えていく。幾度もフラッシュがたかれ、笑顔でファイティングポーズをとる彼を、みながよってたかって写した。例の写真を掲載したスポーツ紙のカメラマンもその中にいる。ひととおり撮影が終わると、いよいよ核心を突く問いが投げられた。

「夏希くん、男のコとキスしてるとこ撮られてたけど、あれは彼氏なの?」

 芸能人のゴシップで盛り上がる、昼のワイドショーのリポーターからだ。

 はたして何と弁解するのか、と誰もが夏希を注視した。

「はい。いわゆる、彼氏です」

 夏希はマイクを口元へ持っていって、何でもないことのようにあっさり認めた。後ろめたいことなど何もないのになぜそれほど騒ぐのか、と言いたげな顔だ。

 生命は、彼の後ろの椅子に腰かけて、集中砲火を浴びる夏希を見守っている。

「以前、テレビで『彼女はいない』と言ってらっしゃいましたが、それはやはり、女性とはおつきあいできないからですか?」

「そのころにはもう、彼との交際が進んでいたと……」

「いえ、あのころはまだ、恋人ではなかったです。女のコとつきあえるかは分かりませんけど、今は一筋やから、他の人に惚れることは考えてません」

「彼って、今後ろにいる方ですよね? どういうきっかけでつきあうようになったんですか? まわりの目も気になるかと思うんですが、なぜ同じジムの方と……?」

「男性を好きな自分に気づいたのはいつ?」

 次々に投げかけられる質問に、一つひとつ丁寧に答えていた夏希だが、そのうち、舐めるように自分を見る目に疲弊したのか、マイクに向かってぼそりと言った。

「すんません。まだ訊きたいことようさんあるやろけど、もう、こらえたってください」

 自信に満ちた美しい顔が翳り、眉が歪んでいる。泣くのを堪えているような表情だ。生命にはその顔は見えなかったが、肩が小さく震えているのを見つけて、思わず席を立ってしまった。ガタン、と椅子の音が響く。

「……あかんのですか?」

 ふいに、夏希の涙混じりの声が会場の空気を揺らした。

「ヒト、好きになったらあかんのですか? 相手が女やなかったら……男やったら、あかんのですか? どんなに、お互い好きでも……」

 つらそうに声を震わせ、切れ長の黒い瞳から透明な滴を滴らせながら訴える。

 その小さな身体に満ちた気迫に押され、誰もがシャッターを切るのを忘れていた。大勢で一人をいじめてしまったような気まずさが、じわじわと広がっていく。

 生命はそっと夏希の傍らへ歩み寄って、その頭を抱き寄せ、涙を拭いてやった。

「……泣くんじゃねェよ」

 誰が見ていようと、関係ない。生命は、夏希の左目の斜め下の、チャームポイントのホクロに口づけて、涙の跡をぺろっと舐めた。報道陣があっけにとられて、口を半開きにしたまま、眺めている。

「撮りたきゃ撮ってもいいけど、これ以上、ナツを追い詰めないでやってくれ。ナツは確かに有名人だし、アンタたちには報道の自由ってもんがあるのかもしんねェけど、それ以前に……こいつは俺の、だいじな人なんだよ。泣かれたりしたら、つれェんだよ」

 生命の声が、静まり返った会場に響き渡る。

 呆然と見つめる人々の前で、彼は夏希を抱き寄せ、紙面の写真と同じように口づけた。パフォーマンスか、と会場がどよめく。カメラマンが、我に返ったようにシャッターを切り始めた。

夏希は驚いた顔で口唇を受けとめていたが、やがて観念したように目を閉じ、生命の首に腕を回して応じた。気の強い彼の顔に、これまで誰にも見せたことのないような安堵の表情が浮かんでいる。見守る者たちの口からため息が漏れるほどに、美しい表情だ。

静かに口づけを終えた夏希は、みなのほうを振り返ってにやりと笑う。

「そういうわけやから、お騒がせしてごめんな。しばらくは防衛戦やるつもりやし、指名の挑戦は拒まんていう姿勢は変えへんで。恋人できても最強のなっちゃんやから、これからも応援してや! ……って書いといて」

 右の拳をぐっと握ってかまえ、自信まんまんの笑顔を見せる。二階級制覇のチャンピオンの記者会見は、これで終わった。ゲイ疑惑をどう取り繕って否定するか、意地悪な期待を胸にこの場に来た者は、肩透かしを喰らったに違いない。



「生命、生命。はよ起きや」

 強い力でガクガク揺さぶられて、生命は目を覚ます。

「何だよ……」

 記者会見から一夜明け、生命は眠い目を擦りながら身体を起こした。早朝かと思ったが、もう昼前だ。

「ほら、これ見てみ。今日のスポーツ紙や」

 鼻先に、カラー刷りの新聞が突きつけられる。

『春間夏希、記者会見で号泣! 彼氏です、と交際認める』

『人前で熱烈キス! 会長も公認のなっちゃんのカレ』

「はぁ……」

 主要スポーツ紙のすべてが、夏希と生命の交際の記事を一面に持ってきている。女性週刊誌の見出しも併せて見せられ、生命の眠気は一気に吹き飛んだ。

「ほんま、ボクって人気者やなぁー」

 夏希はおかしそうに笑っている。昨日の記者会見で泣いていた彼とは別人のようだ。

「あんなに泣いてたくせに」

 生命がぼそっとつぶやくと、夏希はぺろっと舌を出した。

「あぁ、あれは嘘泣きや。お父ちゃんが死んだときのこと思い出したら、いつでも泣けるようになってるからな、ボクは」

 悪びれもせずに言うが、おそらくそれは嘘だろう。生命は、夏希の肩が震えていたのを見ている。間違いなくあれは、衝動的に溢れた涙だった。

(ま、嘘泣きってことにしといてやってもいいけど)

 先に起きてシャワーを浴びてきたらしい夏希の黒髪に手を伸ばす。昨夜も、会見での興奮が冷めないまま、ベッドに直行して、激しく愛を確かめあってしまったのだ。

 今日からはまたジムでの練習が再開されるので、甘い余韻はもうほんのりとしか残っていない。

「土曜やし、みんなはよ来るさかい、浜辺行って走ろうか。山でもええけどな」

 夏希はトレーニングウェアに着替えながら、楽しそうにプランを練っている。

 生命が作った朝食を、ようやく目を覚ましたるなも交えて三人で食べていたら、階下が騒がしくなってきた。

「なっちゃーん!」

「こんにちはーっ」

 二人の恋を知っても、変わらずについてきてくれる仲間たちだ。

「んー、今行くでー」

 夏希は負けないくらいに大きな声で返事をして、階段を駆け下りていく。

「おはよ、ナッキー。昨日はちゃんと眠れた?」

「外野には耳貸さなくていいからな、次の試合に向けて、しっかり身体維持しとけよ」

 天楽も桃瀬トレーナーもいて、気遣ってくれた。

「うん。おおきに」

 夏希は、その温かさに感謝しながら、にっこり笑ってうなずく。

 生命も、照れくさそうに、後ろのほうにそっと加わった。これで全員集合だ。

「よっしゃ、ほな今日も、いったるかぁー!」

「いえっさー!」

 熱い歓声をあげてジムを出ていく彼らを、壁の額の中の前会長が見守っている。

 いつだったか願ったとおり、自らの身体で夢を語り継ぎながら、険しい恋の道を歩み始めた息子と、優しい手で支えてくれる仲間たちを、誇らしく思っているに違いない満足げな笑顔で。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

恋のタイトル、奪うべく! 池崎心渉って書いていけざきあいる☆ @reisaab

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ