恋のタイトル、奪うべく!

池崎心渉って書いていけざきあいる☆

第一章 父の遺した、愛と借金

 打ち抜かれたら、死ぬかもしれない。

 誰もがそんな恐怖感を持って迎え撃つ拳を、春間(はるま)夏(なつ)希(き)はピンポイントで急所に打ち込む。レバーへの一撃でぐらつかせたところを、ワンツーのコンビネーションで。

 百六十一センチ・四十九キロ、フライ級の小さな身体から出たとは思えないほど、パンチが重い。いわゆるハードパンチャーではないのだが、体重のすべてが拳に乗っかっているのである。

「ナツ、集中やで、集中ーっ!」

 赤コーナーに控える父ががなるまでもない。夏希の意識は常に、拳とボディーに絶妙に配分されて、研ぎ澄まされている。ガードの上からでも容赦なくジャブを打ち込み、すぐに身を引いて、相手には打たせない。フットワークがウサギのように軽くて、文字どおり足の指の先まで「生きて」いるのだ。

 骨の存在を感じさせないしなやかな上体は、スウェーバックでの回避に向いている。

「春間選手、きれいなスウェーですね。背中が弓のようにしなっています!」

 実況アナウンサーが興奮してしまうくらいに、その形は美しい。ボクシングという、血の匂いを感じさせるスポーツには不似合いなほどに。

「なっちゃーん、攻めろぉーっ」

 観客の声援が、一見クールな夏希の口元に、微笑を灯らせる。何度リングに上がっても、応援されることが何よりの快感なのは変わらない。

 ――そろそろ、まとめに入らなな。

 果敢に踏み込んできた相手をカウンターで迎え撃ち、ひるんだところに渾身のストレートをお見舞いして、二ラウンド一分三十秒でキャンバスに沈める。相手はそのまま起き上がれず、カウントがとられて、勝敗が決した。

「勝者ぁー、赤コーナー、春間夏希ぃー!」

 わあぁ、と客席から歓声が上がる。

 ボクサーにしてはやや長めの艶やかな黒髪、汗に濡れた白い肌の勝者は、乱れた息を数秒で整え、観客に向けてにっこりした。

 彼の戦績にまた一つ、KOの記録が追加されたのだ。大柄で精悍な顔だちの、あまり似ていない父親がリングに乱入し、息子を強く抱き締めた瞬間、スポーツ紙の記者がかまえるカメラが激しくまたたいた。

「ボクはぜったい、負けません。お父ちゃんの……、春間悠(ゆう)介(すけ)の血ィ引いてるんやから」

 インタビュアーが差し出したマイクに向かって、自信の滲む凛とした声で、夏希は語る。

 世界一誇らしげで、幸せそうな顔をしていた。



「何回見てもいいよね、ナッキーの昔のビデオ。会長が生きてたころ思い出すと、オレ、涙出てくるよ」

 鮮やかな金髪の、背の高い青年が、濡れた目元を指先で拭いながら言う。

「せやろ? ボクも、へこんでるときとか、練習がうまいこといけへんときとか、お父ちゃんのこと思い出したら、元気になれるねん」

 ビデオに映っている十八歳のころから、ほとんど何も変わっていない夏希は、巻き戻したビデオを大切そうにケースにしまった。前髪を切り揃えて肩まで伸ばした真っ黒な髪に、滑らかな白い肌、勝ち気な印象の二重の瞳。左目の斜め下に泣きぼくろがあるのがチャームポイントだ。「目と目の感覚が狭すぎ」「人形浄瑠璃の木偶に似てる」などとネットに書き込まれることもあるが、本人はまったく気にしていない。

 春間夏希は、元・WBC世界スーパーフェザー級王者で春間ジムの会長だった父・悠介氏がこの世に遺した、ボクシング界の期待の星である。二年前の夏、二十一歳でフライ級の世界チャンピオンの座につき、二度の防衛に成功してベルトを守り抜いている。

 彼をスパルタ方式で鍛えあげた父は、息子がチャンピオンになったその日に、栄光の瞬間を目にすることなく、交通事故で命を落とした。小学生のころに母を亡くしている夏希にとって、たった一人の大切な肉親だった。

「天さんは、次の試合勝ったら、十回戦に出られるようになるんやろ。ひなのちゃんも見てるし、負けられへんな」

 先ほどまでの切なげな表情をしまって、夏希はにやっと笑う。

「そうだね。ヒナの奴、まだ三歳だから分かってるかどうか微妙だけど。『パパやられちゃダメだよ』って、遥(はる)香(か)といっしょになってプレッシャーかけてくるからなー」

 その状況がまんざらでもなさそうな天(てん)楽(らく)泰人(やすひと)は、子持ちの既婚者だ。夏希の二つ上の二十五歳で、日焼けした肌に金髪がよく似合う。百七十五センチ・五十六キロで、階級はフェザー級だ。 

やんちゃしていた二十歳のころに、夏希の父の車に悪戯していたら、持ち主に見つかってしまい、罰としてジムに通うことになった。はじめのうちはいやいややっていたのだが、いつしかボクシングのとりこになり、進んでトレーニングに参加するようになった。春間ジムの初期のメンバーには、そういう経緯で入ってきた者が多い。

新宿・歌舞伎町という場所がら、入れ墨や秘密の過去を持つ練習生もいるが、どんな者が来ても、悠介は温かく迎え入れていた。本当の父親のように熱く厳しく接してくれる彼の指導に感動し、心を入れ替えた青少年は数えきれないほどいる。

夏希は大阪生まれの大阪育ちだが、父がボクシングジムを開設するにあたり、東京へ引っ越してきた。ボクシング自体はかなり幼いころから仕込まれていたので、可愛い見た目を裏切る腕っぷしの強さで、どこへ行ってもやっていけた。

関東一有名な春間ジムには、全国各地から、未来のチャンピオンを夢見るボクサー志望が集まってきて、今では八十人近い練習生を抱えている。会長亡きあとは、彼の親友で右腕的存在だった桃(もも)瀬(せ)和彦(かずひこ)トレーナーがジムを仕切っていた。新しい会長には、春間ジムを金銭面で支援していた杉村(すぎむら)という老人が就任したが、彼はお飾りみたいなもので、運営などにはほとんど口を出さない。純粋に選手たちとボクシングが好きなので、見ているだけで満足なのだそうだ。たまにジムを覗きに来ては、みんなを遊園地や高級レストランに連れていってくれる、神様のような人である。いずれ、夏希が現役を引退するときが来たら、その日にでも会長の職を譲り渡すつもりでいるらしい。彼のことはみんな、「杉村さん」と名前で呼んでいるので、「会長」と誰かが口にすることがあれば、それは初代会長の春間悠介のことだ。

「僕も早く、なっちゃんみたいに強くなりたいなぁ」

「俺なんか今日、夏希さんに『筋がええ』って褒められたぜ。十七歳になったら、プロテストに一発合格して、デビューするんだ」

 後ろのほうで静かに見ていた、小・中学生の練習生たちが、トレーニングに戻りながら話している。最近入会した彼らは、亡き会長には会ったことがない。息子の夏希のほうを、目標として慕っていた。

 すでにライセンスを取得しているメンバーは、リング上で模擬試合形式のスパーリングに励み、通い始めて日が浅い者は、鏡の前でシャドーボクシングをしている。トレーナーも数名いて、ミット打ちやウェイトトレーニングの指導をしていた。



 日曜日の夜、外の歓楽街と同じくらいにぎやかなジムに、突如アポなしの来客があった。ラメが入った黒のスーツにサングラス、頬と額に傷のある、坊主頭のコワモテの男だ。

「春間ジムいうんは、ここやろか?」

 看板を確認しながら、彼は言う。

「そうやけど」

 ガラスの引き戸から身体を半分出して、夏希は相手を睨んだ。どう見ても、見学に来た入会希望者には見えない。練習生たちは、トレーニングを続けながら、ちらちらとそちらを気にしていた。

「春間夏希さんいうんは、アンタやな。テレビで見るよりずっと、きれいな顔やのぉ」

 男は、夏希の顔をじっと見て、遠慮なく手を伸ばしてくる。二本の指でくいと顎を上向かせられ、夏希は不快そうに眉を寄せた。

「勝手に触らんといてんか。握手会以外ではお触り禁止やで」

 ぱし、と軽く手を払いのける。毛むくじゃらの手首にはまったゴールドのチェーンブレスレットがじゃらんと揺れた。普通の押しかけファンではない感じだ。

「こりゃすまんかったな。実はわし、おたくにお願いがあって来たんや。身内の子に、ボクシング教えたってほしいねん」

「……え?」

 よく見ると、彼の後ろに、二十歳くらいの青年が一人控えていて、ふてくされた顔であさってのほうを向いていた。つんつんはねたダークブラウンの髪に、闇に溶け込んでしまいそうな紺色のパーカー。フードをかぶっているので目元は影になっているが、不機嫌そうなへの字の形の口唇から、望んでここに来たわけではないのが見てとれる。

「金はこいつが自分で払うさかい、いくらでも取り立てたってや。みっちり仕込んで、億稼ぐぐらいに育てたってほしい。頼んます」

 それだけ言うと、スーツの男は名乗りもせずに、青年を夏希に押しつけて去った。

「あ、ちょっと!」

 呼びとめても振り返らないまま、男は喧噪の街に消えてしまった。

 後には、ポケットに手を突っ込んでそっぽを向いている青年だけが残される。

「何やけったいなおっちゃんやったな。こっちの話も聞けへんと帰ってもたし。まあ、そういう人珍しないし、べつにええねんけど」

 肩をすくめた夏希を、相手は無言で一瞥した。きゅっととがってはいるが、なかなかきれいな目をしている。光の下で改めて見れば、整った顔の美青年だった。しかし、「ボクシングをやりたい」という情熱は微塵も感じられない。

 戸惑いながらも、夏希は、にっこりと口角を上げて続けた。

「自分、うちに入るんやろ。名前は?」

「……行本(ゆきもと)生命(せいめい)」

 ぶっきらぼうな答えが返ってくる。

「ふーん、生命か。シュッとしたええ名前やん。知ってると思うけど、ボクは春間夏希っていうんや。これからいっしょに、がんばろな」

 明るく言って、夏希が差し出した手を、生命は握り返さず、拒絶するようにバシッとはたいた。

「……何すんねん!」

 カッと怒りで頬を赤く染め、右腕を振り上げた夏希を、慌てて駆け寄った天楽が羽交い締めにして止める。

「ダメだって!」

 ボクサーの拳は、たった一撃で相手に致命傷を負わせてしまうこともある。ライセンスを取得した者は、試合やトレーニング以外で拳を使うことを固く禁じられている。夏希だってそのことはよく分かっているので、本気で殴るつもりはないが、短気なのでつい怒りをあらわにしてしまうのだ。

 生命は、ふんと小さく鼻を鳴らして、ぱさりとフードを脱いだ。人目を引く鋭利な顔が、他の練習生たちにも見えるようになる。

「やりたかねーよ、ボクシングなんて。でも、いろいろ事情があんだから、しかたねェだろ。億稼ぐまではやってやるよ。もちろん、稼いだらソッコーやめるし、アンタらと『仲よく』する気はねェ」

 言い捨てた彼を、夏希は無言で睨みつけていた。

 不穏な空気に、練習生たちは、それぞれの課題を中断して、二人に視線を注ぐ。

「まーまー。ケンカするのはやめようよ。どんな事情があるのかは知らないけどさ。ハンパな気持ちでやっていけるほど甘くないけど、やるって決めたんだろ。これからいろいろ教えてくれる先輩に、そんな態度とるのはよくないぜ。礼儀、ちゃんとわきまえようや」

 こんなときでも割って入れるのが、天楽のすごいところだ。不良時代も、仲間のケンカの仲裁ばかりやっていたらしい。

 夏希と生命はふん、と互いにそっぽを向いたままだったが、とりあえず、この場はこれで収まった。

「バンテージとグローブとシューズと、その他必要なもの一式は、近くのスポーツ用品店でそろうからな。ここは年中無休で開いてるし、ナツは昼間もいるから。練習したくなったらいつでも顔出せよ。さっそく、明日からだな」

 桃瀬トレーナーが言って、励ますように生命の肩を叩いた。

 生命はきゅっと口唇を結んで、面倒くさそうに浅くうなずいていた。



「あーあ、何であんな奴、引き受けてしもたんやろ」

 シャワーを浴びながら、夏希がぶつくさ言っている。イイ大人なのに髪を洗うのがヘタな彼は、シャンプーハットを愛用していた。

「しかたないよ。『来る者は拒まず』って、看板に書いてあるんだからさ」

 ジムの二階にある大浴場の広い浴槽に、肩まで浸かっている天楽が、それに答えた。

「まぁ、あれ書いたんはお父ちゃんやしな。お父ちゃんやったらきっと、追い返せへんのやろな、あんなんでも」

 人よりも大きい夏希の声は、浴室の壁にはね返る。

 練習の後、ここで汗を流しているのは、彼ら二人だけだった。

 平日の夜は他のメンバーもいっしょに入ることがあるが、今日は日曜なので、みんな家に帰ってしまった。夏希はここに住んでいるし、天楽はこの後飲食店でアルバイトなので、残っているのである。

「アイツ、億稼ぐんやとかほざいてたな。プロ野球やゴルフと違(ちご)て、億やなかなかもらえへんのに。知らんのかな? 世界チャンピオンになったけど、ボクでも見たことないで、億の金や」

 洗い終えた髪にタオルを巻いて、湯船に浸かりながら、夏希は鼻の辺りで笑う。今日スパーリングをしていたときにできた脇腹の痣に、湯の温かさがしみた。王者の夏希にパンチを当てられる者はいないが、初心者を相手にするときなどは、感覚を掴ませるためにわざと打たせてやっているのだ。真っ白な肌はすぐに上気して、赤い痣がどこにあるのか分からなくしてしまう。

 ボクサーのファイトマネーは決して高いものではなく、デビュー直後の四回戦ボーイだと、一試合六万円ほどで、いろいろ差し引かれた後の手取りは、二万円弱ということも珍しくない。

「確かに、億もらおうと思ったら、チャンピオンになってからもしばらく防衛し続けないと無理だよな」

 チャンピオンの夏希の場合は一試合一千万から二千万ほどで、全国放送のテレビ中継が入ればもっと高くなることもある。あとの収入は、雑誌の取材やテレビの出演などによるものだ。父の時代は、ボクシングが人気スポーツだったために、毎週のように試合が中継され、チャンピオンになるとテレビに引っぱりだこで、億単位の収入があることも珍しくなかったらしいが、最近はそんなことはあまりない。ボクシングファンも減っているし、空席が目立つ試合も多く、有名選手のタイトルマッチでなければ全国ネットの中継をされることもなくなってきている。

 夏希としては、こういう状況を変えていくためにも、いい試合をして、もっと多くの人にボクシングのよさを知ってもらいたいと思っている。春間ジムの練習生にも、どんどんプロデビューしてもらって、強くなってランキング入りを果たしてほしい、と願っているのだが……。

「教える気せぇへんなー、アイツには」

 幼いころ父に習った、指で湯を打ち出す水鉄砲で壁を攻撃しながら、夏希は本音を漏らす。

「そんなこと言わないでよ、ナッキー。オレたちも手伝うからさ。天国の会長に喜んでもらえるように、みんなでみっちり鍛えてやろーぜ」

 自分も昔は彼のような態度をとっていた覚えがある天楽は、鷹揚にかまえている。他にも、在籍年数の長い練習生の中には、かつての自分を見る目で生命を眺めていた者が何人かいるはずだ。

 彼らの過去の荒れっぷりを、夏希があまり知らないのは、更生した後の姿しか見ていないからである。「昔はワルだった」と本人たちから打ち明けられ、暴走族時代の写真や特攻服などを見せられたぐらいで、リアルな不良にはほとんど免疫がなかった。春間悠介は、息子に悪影響を与えないように、ある程度手なずけてから、いっしょに練習させるようにしていたのだ。父の気遣いのおかげで、夏希は、プロボクサーをめざして真剣に努力し始めた彼らしか知らない。

 最近の入会希望者は、テレビなどで夏希の活躍を知って、「なっちゃんみたいになりたい」と目を輝かせてやってくる者がほとんどだ。中には、親や親戚に連れられて半ば無理やり……という子もいるが、しばらく経てばボクシングのおもしろさを知って自主的にやり始める。父のように、近所の悪ガキの首根っこを捕まえて連れてきて更生させる、という経験が夏希にはなかった。

 春間悠介は、「自分の子も他人の子も同じように叱るオヤジ」として歌舞伎町では有名だったが、実の子である夏希以外には、めったに手を上げなかった。初期の春間ジムは、さながら少年院のように札付きのワルばかり集まっていたのだが、悠介は、どんな不良も気迫だけで制していたのである。

「人様の子やから、本気で殴って死なせてもうたら困るからな」

 雑誌の取材には、豪快に笑ってそう答えていた。

 アットホームで熱気溢れる春間ジムの土台は、腕力に訴えず根気よく指導する彼によって少しずつ作られていったのである。反抗的な相手に苦労しても、殴られて痣を作っても、息子には決してその裏側を見せなかった。あくまで、更生した彼らと仲よく技を磨きあえる環境を作ることに徹していた。

 だから、生命のように、差し出した手を拒絶する者の出現は、まっすぐに育った夏希にとってはショックだったのだ。ボクシングのテクニックを厳しく仕込まれた以外は、やや過保護に育てられた夏希は、父を失って初めて、自分に刃向かう存在に出会ったのである。

「こうなったら、意地でも徹底的に鍛えたるわ。春間ジムの名誉にかけて。億稼がせて、とっととここから追い出したる」

 のぼせるまで湯に浸かって、いろいろ考えた末に、夏希は心を決めた。挫折して退会した者が未だ一人もいない春間ジムで、脱落者を出してしまったら、父の名に傷がつく。

「ぜったい諦めさせへんで。ベルト獲ってくるまで、何回倒れてもボクが立たせたる」

 ぐっと拳を握った夏希の背を、天楽が軽く叩いた。

「それでこそナッキーだ。オレ、そろそろ出るから。また明日ね」

 ざば、と長身の彼が立ち上がると、一気に風呂の湯が減る。

「いってらっしゃーい」

 湯気の向こうに手を振って、夏希は、自分も湯からあがった。



大人びた外見から、二十歳くらいだろうと予想していたのだが、まだ十八だという。未成年で、夏希より五つも年下だ。昨日の態度からして、今日はもしかしたら来ないかもしれないと思ったが、生命は、午後四時に再びジムに姿を現わした。他の練習生はまだ来ていないし、トレーナーも六時を過ぎないと来ないので、彼を迎えたのは夏希一人だ。

生命は、一応ボクシングをやるつもりらしく、言われたとおりの道具一式をそろえて持ってきていた。

「平日のこんな時間に来られるってことは、自分、学校行ってへんのやな」

 年齢を聞いてから、夏希は言った。

「行ってねェよ。悪ィかよ」

 相手は相変わらず、毛を逆立てた猫のように警戒している。

「べつに悪いとは言うてへん。ボクも高校中退してるからな。プロテスト受かってからは、ボクシング一筋や」

 ククッ、と夏希は喉を鳴らして笑った。

 黙っていれば美しい横顔が、人懐っこい表情を浮かべて崩れる。天楽に言われたことも踏まえて、年下の彼に歩み寄ろうとしているのだ。

「昼間はたいてい、ボクしかおらへん。みんな、学校とかバイトとかあるからな。今からロードワーク行くんやけど、自分もいっしょに来るやろ?」

「……あぁ」

 ぶっきらぼうにうなずく生命は、夏希より五センチほど背が高い。体重計に乗せてみたら五十三キロだった。落とすべき脂肪もあまりついていないようだし、このままでいくならバンタム級ということになるだろう。

「ほな、行くで」

 夏希は生命の腕を掴み、いつも走っている河川敷へ向かった。



「個人のレベルもあるから一概には言えんけど、うちでは一応、一日八キロのランニングと、ダッシュ四百メートル×五本をノルマにしてんねん。みんなそれぞれ、時間あるときに走ってからジムに来るんや。土日とかは全員で海行って走ることもあるけどな」

 地面にスタートラインを引きながら、夏希は話す。このノルマは、桃瀬トレーナーが設定したものだ。試合前はもう少しきつくなるが、全員が、脱落することなくメニューをこなしている。

「ついてこれへんかったら、ハードル下げたってもええで。最初やからな」

「べつに。どうってことねェよ。俺、陸上やってたから」

 バカにするなと言いたげな顔で、彼は夏希の申し出をはねつける。

 夏希は、大人げなくちょっとムッとした。

「ふうん。ほな見せてもらうわな、そのりっぱな脚」

 言うなり、軽やかに走り出す。黒髪が、さらりと風になびいた。

 生命も、口唇を引き結んだまま、後を追う。べつに競争しているわけではないのに、互いに抜かれまいと、競うようにスピードを上げてしまう。

 河川敷の土は、ほどよく乾いているので足が沈みこまず、走りやすかった。ぬかるんでいたりして足が重く感じるほうが、下半身が鍛えられていいのだが、ここ最近晴れの日が続いているし、海は少し遠いので妥協している。

 強気な発言をしていただけあって、生命は、初めてのわりに少しもバテていなかった。慣れていない者は四キロあたりで音をあげるのだが、さすが元陸上部は違う。ちなみに夏希は、毎日朝・昼・晩と三回、ノルマ以上の距離を走っている。父にスパルタ教育を施されていたころからの習慣なのだ。試合前には、足場の悪いコースを三十キロほど走ることもある。持久力をつけるのと、減量して身体をより軽くするためだ。といっても、普段からフライ級の下限に近い体重なので、落としすぎて階級が変わってしまわないように、慎重に行っている。

「わりと根性あるやん、生命」

 ノルマを達成し、荒い息を整えている彼の背を叩いて、夏希は労った。生命は答えない。むすっとした顔のまま、額の汗を拭っている。「仲よく」するつもりはないのだ。

 少し余計に走ってしまったせいもあって、星が見え始める時刻になっていた。

「そろそろ、みんなが来る時間やな。言っとくけど、陸上部と違って、ボクシングの走るんはほんの準備体操なんやで。メインはこれからや」

 せっかくやからジムまで走って帰ろう、と誘った夏希は、生意気な生命をへとへとにしてやりたくてたまらないのだった。



ジムに戻ってみたら、小学生から大人まで幅広い年齢の練習生たちが、ストレッチをしたり、サンドバッグ相手にパンチを打ったりしていた。

「あ、なっちゃん。こんばんはーっ」

「夏希さん、後でジャブの手本見せてくださいっ」

「ええでー」

 夏希は上機嫌で答えて、自分も日課をこなすために、バンテージを巻きに行く。

「行本はこっちな。いちから教えるから、グローブつけてこっち来い」

 桃瀬トレーナーが、生命を手招きで呼んだ。

 夏希はそれ以降、天楽とスパーリングしたり、後輩を指導したりで、生命などまるで視界に入らないかのようにふるまっていたが、時折、相手に気づかれないように、彼の様子をちらちら窺っていた。

「行本、おまえ素質あるな! 動きにキレがある! そう、その調子! も一発、ジャブ打ってみようか!」

 桃瀬が珍しく興奮しているところを見ると、生命には生まれつきの才能があるらしい。

「三ヵ月もしないうちに、スパーできるようになるんじゃないかな」

 休憩の間、生命の動きをじっと見ていた天楽が、夏希に囁く。この調子なら、最短六ヵ月くらいで、プロテストを受けられるようになるだろう。

 夏希は、難しい顔で腕組みしたまま、何も答えなかった。

(確かに、筋はええわ、アイツ)

 教えられたことをすっかり呑みこんで、動きに反映させている。何をやっていたのか知らないが、陸上部で鍛えた脚だけでなく、腕や肩にもいい具合に筋肉がついているし、ミットを弾く勢いのパンチは相当重そうだ。ボクシング歴約十八年の夏希の目には、彼が稀に見る「天才」だということがはっきりと分かった。

(認めたないけどな……)

 差し出した手をはたかれたときのことを思い出して、夏希は複雑な気持ちになっている。

 気づけば、他の練習生たちも、少しずつ技を覚えていく生命を注視していた。いやがっていたわりには、けっこう熱心にやっている。茶色い髪の先や首筋から汗が散って、トレーニングウェアをところどころ濡らしていた。

(何や、やらな死ぬって感じでやっとるな)

 それが何なのかは分からないが、何かに追い詰められているのが感じられる。

「ガード下がってる! もっと腕上げて!」

「パンチの軌道見えてるよ! 振りかぶっちゃダメだって!」

 一日でも長くジムにいると、新入りにあれこれアドバイスしたくなるのか、みな口々に、生命の悪いところを指摘する。

 生命は迷惑そうに眉を寄せ、自分で気がついた顔で欠点を修正していた。

「じゃ、今日はこのへんな。行本、明日も来いよ。おまえ、けっこう見込みあるから、続けたらぜったいにモノになるわ」

 桃瀬トレーナーに肩を叩かれ、生命は浅くうなずいた。練習生たちはそれぞれ、自分の道具を片付けて、帰り支度をしたり、ジムの風呂に入る準備をしている。

 さっさと出ていこうとする生命を、天楽が呼びとめた。

「オマエはいっしょに入ってかないの?」

「行かねェよ」

 みんなといっしょに風呂なんて、冗談じゃないと言いたげだ。

「分かった。ちんこちっちゃいから見られたないんやろ。もしかして、このくらいか?」

 そばにあった単四電池を手に取り、意地悪な笑みを浮かべて、ここぞとばかりに夏希がからかう。

「なっ……」

 きれいな顔をして下品なことを言う彼を、生命は真っ赤になって見つめ返した。

「……そんなんじゃねェよ」

「なら、いっしょに入ろうや」

 引きとめるのはべつに、好意を持っているからではない。彼のように周りを拒絶している者がいると、雰囲気が悪くなるから、ジムのエースとして何とかしたいと思っているだけだ。

「わぁったよ」

 しばらくして、生命が折れた。

 本当はここで風呂に入れたほうがありがたいのかもしれない。素直ではない彼のことだから、分からないが。

「よっしゃ。ほな二階行こ。裸のつきあいしようや」

夏希は、機嫌よさげににっと笑う。

「ほんまに単四電池みたいなんしかついてのうても、心配せんでええで。今度リモコンの電池切れたときに、使わしてもらうさかいな」

 ――まだ言うか。

 口が悪い夏希の笑いのセンスには、どうもついていけない生命だ。



 服を脱いで、大風呂に入ってからも、生命はほとんど口をきかなかった。いろいろ話しかけてくる練習生たちをうるさそうに睨み、壁のほうを向いて、湯に身体を沈めていた。

 その左肩には、どういう経緯で彫ることになったのか、みごとな瑠璃色の蝶が羽を広げている。「なぁ、生命。その蝶々、どないしたん? えらいきれいやなぁ」

 夏希が、みなを代表して尋ね、手を伸ばして触れようとしたのを、生命はバシッと音をたてて振り払った。

「触んじゃねェよ。かまうなっつってんだろ」

 入れ墨を隠しながらざばっと浴槽からあがり、出ていってしまった。

 どういう事情を抱えているのか知らないが、彼は何も語ろうとしない。これまでのことも、ボクシングをする理由も、誰も立ち入ることができない鉄の扉の向こうにある。

「ほんますぐキレるんやな、アイツ。何が気に食わんのか知らんけど」

 ぶつぶつ言いながら、夏希は後を追った。

 脱衣所で、服を着ている最中の生命に声をかける。

「さっきはごめん。気に障ったんやったら、謝るわ」

 生命は答えなかった。無言のまま、濡れた髪をタオルで拭き、ドライヤーのスイッチを入れる。

 下手に出ていた夏希だが、そのあからさまな無視っぷりに、とうとうぷつんとキレた。

「ええかげんにしいや」

 ドライヤーのコンセントを抜いて、自分より背の高い相手を睨みつける。

「自分、ちょっと態度悪すぎやで。みんな、楽しいにやっていこう思って気ィ遣ってるのに」

 馴れ合いを拒む自由はあるが、最低限の「和」は大切にしてほしい。個人競技であるとはいえ、ジム内の結束力の強さが、試合の結果を大きく左右するのだから。

「何でうちに来たかくらい、教えてくれたってええやろ」

「金が欲しいからに決まってるだろ。それ以外何もねェよ」

 これ以上話したくない、とばかりに立ち去ろうとする生命の腕を、夏希はぎゅっと掴んだ。

「待ちや。まだ訊きたいことあるんやから。なぁ、家、この近くか?」

 真っ黒で、光をたくさん映した瞳に見据えられて、生命は動揺する。

 やがてその口唇から、ぼそりと答えが漏れた。

「……家なんかねェ」

「え?」

「帰るとこなんかねェんだよ」

 目をそらして、生命は吐き捨てた。

 家出したか、追い出されたか、生まれつき天涯孤独なのか。分からないけれど、とにかく今はどこにも帰れないらしい。これまでどうしていたのかは知らないが、おそらく、友人の家を転々としたり、不夜城・歌舞伎町のあらゆるところに身を寄せていたのだろう。

「よかったら、うち来いや。あいてる部屋あるさかい。ボクと口きかんでもええから、練習以外の時間、そこ使ったらええ」

「……何でだよ」

「あたりまえやろ。自分は、うちの練習生で、仲間なんやからな。街で野宿してて絡まれたりとか、何かあったら困るねん」

 面倒くさい奴やな、と思いながらも、夏希は辛抱強く説得する。

(こんな奴、どこででも寝とけやって思うけど、お父ちゃんやったらきっと、放っとかれへんのやろうなぁ)

 夏希の父は、どんな者でも受け入れ、更生させてきた。今は面倒見のよい兄貴の天楽だって、昔は手がつけられないほどのワルだったという。

「……しゃあねーな」

 見つめるうちに、生命が根負けした。

「いりゃいいんだろ、いりゃあ」

 彼も本当は、安心して身を置ける場所が欲しかったのだろう。

「よかっ……くしゅんっ」

「服、着ろよ」

 そういえば慌てて追いかけてきた夏希は、腰にタオルを巻いているだけだった。

 呆れた顔で見下ろす生命も、濡れたままの髪が冷たくて、くしゃみを一つした。

 

 

 生命にあてがわれたのは、夏希の父が生前使っていた部屋だった。壁には数十年前の世界チャンピオンのポスターが貼られ、夏希と二人で撮った写真が何枚も、棚の上に並べられていた。一枚だけ女性が写っているのは、彼の妻だろうか。目元や口の形が夏希にそっくりだが、表情はずっと穏やかで、控えめな女性のように見える。

 両親には苦い思い出しかない生命は、ベッドの上で寝返りを打って、家族写真に背を向けた。ここ数年、ネットカフェやラブホテルなどを泊まり歩いていたので、ほのかにでも家庭の匂いがする場所で眠ったのは久しぶりだ。射し込んでくる朝陽を背中に感じながら、生命は顔をしかめてつぶやいた。

「面倒くさいとこに来ちまったな……」

 春間ジムの爽やかな空気は、彼には毒だった。熱っぽく何かを指導されたり、あれこれ世話を焼かれることに慣れていない生命は、どうも落ち着かないのだ。わけあって逃げ出すこともできないのだが、この先しばらくここにいなければならないと思うと、気が重かった。どこにも属さない一匹狼として、不毛な喧嘩ばかりの人生を送ってきた生命にとって、「世界」という目標を掲げて前向きに努力している練習生たちの姿は、眩しすぎる。

 桃瀬には「素質がある」と言われたのだが、それは単に、街や学校で人を殴る経験ばかり積んできたからだ。高校も、暴力が原因で退学になった。陸上部に所属してそれなりの成績を収めていた彼だが、素行が相当に悪かったので、学校側も厄介者と認識していたらしい。他校の生徒七人の挑発に応じ、たった一人で全員をのしたのを機に、退学処分となった。もともとほとんど登校していなかった生命にとっては、べつに痛くも痒くもない処罰だったが、学生という身分を失った彼は、ますます荒れて夜の街をうろつくようになった。

「どう考えたって、スポーツなんかに打ち込むガラじゃねェんだよ、俺は」

 それでもボクシングをやる理由があるとすれば、たった一つ守りたいものがあるというだけだ。

 身体を起こして服を着替える際に、左肩の蝶のことを思い出して、生命は、自分では見えないそれに爪を喰い込ませてみた。思いきり引っかいてみたところで、削り落とすことなどできない。

「リングに上がったとき、あの蝶々ついてる奴が行本やなって、すぐ分かって便利やろうからな」

 ある人物に、冗談半分で彫られてしまった入れ墨なのだ。東京で最も腕のいい彫り師の手によるその作品は、誰もが見惚れるほどに鮮やかだったが、生命にとっては、消しがたい汚点でしかなかった。

(何で俺がこんなめに遭わなきゃなんねーんだよ)

 多額の借金を遺して死んだ彼の父と、ボクシングの才能とたくさんの仲間を遺産にした夏希の父とでは、天と地ほどの差がある。

 複雑な思いを噛み締めていたら、トントン、と軽くドアがノックされた。夏希だ。

「生命、起きてるかぁ? 朝ご飯作ったったでー。食べるやろ?」

「いらねーよ」

 昨夜の食卓を思い出して、生命は拒絶した。

「何でやねん。ボク、せっかく早起きして、一生懸命作ったのに。朝飯抜きは身体にようないで」

 ドアに鍵がついてないのをいいことに、勝手に開けてずかずか踏み込んでくる。

 リビングまで引きずっていかれて、しかたなくテーブルについた生命は、絶句した。

 夏希が「一生懸命作った」朝ご飯というのは、野菜や豆腐、海藻などの食材を、何もかもいっしょくたにミキサーにかけただけの、特製ミックスジュースだったのだ。昨夜のは、あらゆるものをぶつ切りにして鍋で煮込んだだけのものだったから、どちらがひどいかの判定はつけにくい。

「アンタ、いつもこんなもん食ってんのかよ」

「そうや。お父ちゃん死んでからはずっとこんなんやけど、減量もうまいこといってるし、病気したこともないで」

「そうかよ」

 もしかしたら、夏希が軽い身体を維持し続けていられるのは、トレーニングのおかげだけでなく、食事がまずいせいかもしれないと生命は思った。

「ボク、料理できへんからな。ミキサーにかけるんと煮込むんと焼くんしかでけんのや。冷凍食品買うてきてレンジでチンしたら楽やろうけど、そんなん食ってたら太ってまうからな」

 結果、見た目も味もイマイチな、闇鍋的なものばかり食べることになってしまうらしい。

 父が生きていたころは、毎日料理を作ってもらっていたのだ。息子を溺愛し、なおかつボクサーとして立派に育てあげようとしていた春間悠介は、彼のために栄養士の資格を取り、調理師の免許も取得していた。

「ナツには、うまいもんいっぱい食わしたりたいからな」

 ジムを開いてからはもちろん、練習生たちにも食事をふるまってやっていた。複雑な環境で育ち、家庭の味を知らない少年たちが、その心遣いに感激したのはいうまでもない。

 そんな父のおかげで、食事に不自由することなく育ってしまった夏希には、家事能力がまったく備わっていなかった。洗濯物も、クリーニング店で働いている練習生に、ついでに洗ってもらっている。彼のほうも、憧れの夏希の役に立てるなんて、と喜んでいるので、それはそれでいいのかもしれないが……。

「まずっ」

 夏希の作ったジュースを一口飲んで、生命は、顔をしかめて素直に感想を述べた。

「台所に立つ資格ねェな」

「え?」

「ガキの調理実習よりひでェよ」

「何やて?」

「うるせェ。次からは俺が作るから、アンタは金だけ出せ」

 べつに、彼のために何かしてやりたくなったわけではない。そのほうが食費が浮くと思っただけだ。飲食店でアルバイトしていた経験がある生命は、それなりに料理が得意だった。母がいなかったので、代わりに、幼い妹の弁当を作ってやっていたこともある。

「今朝はこれで我慢してやるよ。言っとくけど、アンタの好きなもん作ってやるわけじゃねェからな。必要以上に話しかけてくんじゃねーぞ」

 奇妙な味わいのジュースを一息に飲み干し、凄みをきかせて言った生命は、ジムを出ていった。今日は、ビルの警備員のアルバイトが入っているのだ。

「何やよう分からんけど、ご飯作ってくれるみたいやな……」

 あとに残された夏希は、意地っぱりなのか優しいのか分からない彼の言葉を反芻し、自分のぶんのジュースを口に含んだ。

「まっず……いか、これ?」

 首を傾げる彼の味覚は、すでに壊れているのかもしれない。



「行本。交代だ、メシ食ってこいや」

 中年の警備員にぽんと肩を叩かれ、生命は持ち場を離れる。

 十階建てのビルの警備をしているのだが、入っているのは小さな会社ばかりなので、特に何も起こらず、入り口付近にずっと立っているだけだ。社員が入ってきたら社員証を確認し、来客があればエレベーターのところまで案内する。腕には自信のある生命だが、今のところ、不審者を取り押さえたことは一度もなかった。

 昼食は、ビルの四階の社員食堂で、社員に交じって食べてよいことになっている。いちばん安いA定食のトレイを持ってあいている席に着くと、食堂のすみに置かれたテレビが目に入った。ちょうど、トーク番組が始まるところだった。ずっと同じチャンネルに設定されているので、休憩時間に目にするのは、いつもこの番組だ。

 テンションの高い司会者が、セットの入り口のほうを手で示して、今日のゲストを呼ぶ。

「本日のゲストは、プロボクサーの春間夏希さんです!」

 ぶっ。

 生命は、口に含んだウーロン茶を噴き出しそうになった。

「こんにちはー」

 ヒョウ柄の派手なパーカーで、颯爽と現われた夏希は、カメラに向かってにこにこしている。生放送ではないので、以前に収録していたものなのだろう。

「あ、なっちゃんだ」

「本当だー。カワイイー」

 近くの席に座っていた女性社員が、テレビに注目している。生命は知らなかったのだが、世間ではけっこう人気者らしい。

 テレビの中の夏希が語っているのは、亡き父とのエピソードだった。

「聞いたことあると思いますけど、ボクのお父ちゃん、すごい子煩悩で、けっこう大きいなるまで、膝の上に抱っこしてくれたりしてました。お風呂もずっといっしょに入ってたし。学校行ってたときは、その日あったことを話したりとか……」

 ボクシングに打ち込んでいた夏希は、ほとんど机に向かうことがなく、中学二年生になるころには、高校進学も危ういほど成績が落ち込んでいたらしい。三者面談で、教師がそのことを伝えたら、父は笑って答えたという。

「うちのは、鉛筆やのうて、拳握って勉強してるさかい。余計なこと吹き込まんと、見守ったってやってください」

 と。

「ほんま、ブレへん人やってん。まわりの人らが何言うても、ボクのこと守ってくれてた。小学校のころやねんけど、ボク、背ぇが小さかったから、ちょっといじめられててん。家帰って、『今日××くんにこんなことされた』って話したら、お父ちゃん、その日の夜にそいつの家乗り込んでいって……」

「殴ったんですか?」

 ボコン、と殴る仕草をしながら、司会者が口を挟む。

「ちゃいます、ちゃいます。こんこんとお説教したらしいですよ。『ナツ、アイツにはガツンと言うたったから、もう大丈夫やで』って。あとからそいつに聞いたとき、ちょっと涙出ましたね」

 夏希の父は、相手の家に行って、子供の肩に手を置き、じっと目を見つめて静かに語りかけたそうだ。

「なぁ、××くん。よう聞いてくれや。自分にしてみたら気に食わん奴かもしれんけど、おっちゃんにとったら、ナツは宝物やねん。自分にも、だいじなもんがあるやろ? 傷つけられたりけなされたりしたら、腹立つやろ? 大人やから手ェ上げたりせえへんけど、おっちゃん今、めちゃくちゃ怒ってんねんで」

 がっしりした体格の悠介に、真剣な顔で言い聞かせられると、たいていの子どもは気迫に負けてこっくりうなずき、それ以降夏希にちょっかいを出すことはなくなった。

「すごいお父さんですねー」

 感心したようにうなずく司会者とは反対に、生命は冷めた顔で見ていた。

(何がすごいんだよ。ガキの喧嘩に口出すサイテーの親じゃねェか)

 どうでもいいはずなのに結局最後まで見てしまい、不快な気分になった生命は、舌打ちして席を立つ。からの食器を返却口に返し、スタッフロールが流れ始めたテレビのほうを振り返りもせずに、食堂を後にした。

 夏希は今ごろ、ロードワークでもしていることだろう。ファイトマネーで生活しているので、外で働いたことはないと言っていた。親が開いたジムなので、会費を払う必要もないし、アマチュアのころから、金の心配もせずトレーニングし放題だったに違いない。

(七光りの甘ちゃんが)

 恵まれた環境に生まれ育ち、父親の愛を一身に受けて才能を開花させた幸せ者。

 それが、生命がこの日改めて抱いた夏希の印象だった。



 それから三ヵ月。

 ロードワークとジムワークを順調にこなし続けた生命に、スパーリングの許可が下りた。防具をつけてはいるものの、試合と同じように打ち合うトレーニングなので、ある程度のレベルに達していないと参加できないのだ。

「相手は……」

「ボクがやる。ええやろ、桃瀬さん」

 トレーナーが指名する前に、夏希が名乗りを上げた。一つ屋根の下で暮らすようになってからも、たいして距離が縮まっていない彼のことを、もっとよく知りたいと思ったのだ。

(どんだけ強うなったかも見たいしな。芯まで分かり合うにはやっぱり、ガチンコでどつきあいするんがいちばんや)

 拳闘一筋に生きてきた夏希は、そう信じている。

 ヘッドギアをつけ、マウスピースをはめてリングに上がると、血が沸き立つような興奮が身体を駆け抜ける。相手もそうであってほしいと願いながら、夏希はまっすぐに生命を見据えた。

 生命は、冷めた顔をしている。

 ――ボクシングなんて、どこがおもしろいんだよ?

 そう言いながら、三ヵ月続けてしまった男だ。

 彼はまだ、沸き立つ観衆に見守られながら勝利する快感も、命を奪いあうようなパンチの応酬も知らない。

これから一つずつ知っていくごとに、ボクシングから離れられなくなっていくだろう、きっと。

 夏希と生命では体格に少し差があるが、小柄な夏希のほうが不利だということは決してない。階級が違うために試合では当たることのないような相手とも打ち合いができるのが、スパーリングのいいところだ。

「それじゃ、準備いいな?」

 桃瀬トレーナーの開始の合図で、二人は動き出す。

 相手との距離を測りながら、慎重に自分の試合を展開していく。スパーリングは初めての生命だが、喧嘩慣れしていることもあって、言われなければ初心者だと分からないくらいキレのある動きをしていた。

 背の低い夏希は、自分より長身の選手を相手にするときの戦術に則って距離を詰め、顎を狙う作戦に出る。生命はそれをガードして、左ジャブで返した。

 柔らかい身体を駆使してひらりと躱す防御は、夏希の十八番だ。パンチを上下に散らし、顔とボディーを同時に狙う複雑な攻撃を仕掛ける。生命は、経験と直感に従って見事にそれをよけていた。時折、宙で拳が交錯するものの、決定打となるような一撃はまだ、両者ともに出せていない。

(何や、けっこうやるやん、こいつ)

 誰とやるときも多少は手加減して臨む夏希だが、生命にはもしかしたら、手心を加える必要などないかもしれない。勘がいいのかそういう経験を積んできたのか、とにかく何かの「才」に属する類の強さを、夏希は彼から感じ取っていた。

 決着がついたのは、二度のインターバルを挟んだ三ラウンド目だ。半ばを過ぎて少し疲労が見え始めた生命に、夏希の右ストレートが容赦なく終わりを告げた。急所のレバーに、ひねりを加えたコークスクリューパンチを捩じ込まれて、生命はその場にうずくまった。

「そこまで」

 リングサイドで見ていた桃瀬が止め、生命を立たせてやる。

「大丈夫か?」

「あぁ。べつに……効いてねェよ」

 強がってみせる彼を、夏希は無言で見つめていた。ふと痛みを感じ、まさかと思ってトレーニングウェアをめくってみたら、左脇腹に一つ、赤い痣ができていたのだ。

(練習で打たれたん、初めてや……)

 自分から許したのではなく、不覚にも当てられたのは。

「生命」

「何だよ」

「自分、世界行けるで」

 まっすぐに見て断言した夏希に、生命は、「はぁ?」と怪訝な顔をした。なりゆきで始めた彼には、誰もが羨む世界チャンピオンのお墨付きも、たいしてありがたくはないらしい。



 ケータイが呻いている。早う出ろや、と言わんばかりの、不機嫌に低いバイブ音だ。マナーモードに設定してあるケータイを暗闇の中で探り、生命は、押し殺した声で答えた。

「もしもし?」

「おう、わいや。元気にしとるか? ん?」

「何なんだよ、こんな時間に……」

 電話の相手は、生命に借金の返済を迫っている取り立て屋の男だ。内村(うちむら)龍助(りゅうすけ)といって、生命を春間ジムに連れてきたのは、彼の子分である。上にはさらにボスがいて、生命をボクサーにすることに決めたのは、そのボスなのだ。

「いやな。プロテスト受かったって聞いたからな。お祝いの電話したらなと思ってな」

「何だ。それだけかよ」

「それだけやあらへんがな。いつも気にかけてんねんで。……夏希さんに、迷惑かけてへんやろな?」

 急にドスのきいた声になる。先ほどまで陽気だったぶん、変化がおそろしい。しかし、この程度の脅しには動じない生命は、機嫌の悪い声のまま答えた。

「かけてねーよ。つうか、ほとんど口きいてねェし」

 夏希のほうから話しかけてくることはよくあるが、生命は相変わらず、心を開いていない。春間ジムに来た日から六ヵ月が経過していたが、まわりとの距離はまったく縮まっていなかった。

 生命は、先日のプロテストを一発でクリアし、ついにプロボクサーのライセンスを手に入れた。二つのアルバイトを掛け持ちする合間に、黙々とトレーニングに打ち込んでいる。一日も早く、高額のファイトマネーを得て、父の遺した借金を返済するために。

「なぁ、るなと話させてくれよ」

 ケータイを握る手に力を込め、すがるように、生命は頼み込む。

「あぁ? それはちょっとなぁ……」

 どうしよっかなぁ、とふざけた調子で、内村はもったいをつける。

「どういうことだよ! まさか……るなに何かしたんじゃねェだろうなぁ!」

「ククッ、落ち着けや。何もしてへんがな。……るなちゃん! ちょっと出たってくれるかなぁ? お兄ちゃんやで」

 少しの間があいて、少女の明るい声が話し始める。

「もしもし、お兄ちゃん? ボクシングのテスト、合格おめでとう! るなも元気でがんばってるよ。おじちゃんに、新しい服も買ってもらったし」

「そうか……。よかったな」

 十歳の妹の無事を確認して、生命はほっと安堵の息をつく。

 彼が、好きでもないボクシングを続けているのも、彼女のためだ。借金のカタに春間ジムへ突っ込まれ、何も知らない妹を人質にとられているので、逃げ出すこともできない。

 もうええやろ、と電話の主が交代し、少女の気配が消えた。

「そういうこっちゃ。こっちも気長に待っとったるんやから、精出して働きや。ほなな」

 ぶちっと唐突に電話が切られた。

ふぅ、と生命は息を吐き出す。

 彼が背負っている借金は決して、自らこしらえたものではなかった。向こう見ずな父親が、事業に失敗し、妻子をおいて自殺したのだ。自分の借金だけでなく、友人の借金の連帯保証人にもなってやっていたようで、夜逃げした他人のぶんまで負わされていた。物事を深く考えない男だったので、残された妻や子どもたちがどうなるかなど、気にもかけなかったのだろう。

 借金の取り立ては、容赦なく母子のもとへ押しかけて、その心労で母は死んでしまった。頼るもののない兄妹は、頻繁に訪ねてくる取り立て屋に怯えながら暮らすことになった。

 父の遺した借金の総額は、七千万円。

 まともに働いたところで、とても返せる金額ではなかった。

 身勝手な親のせいで理不尽な環境に身を置くことになった生命は、中学辺りから徐々にグレ始め、学校に行かずに街をうろつくようになった。

ある夜、いつものように取り立てに向かった男たちは、家にいない生命を歌舞伎町の路地裏で発見し、激しい攻防の末に取り囲んだ。ピストルを額に突きつけて、返済できないなら命をよこせと迫ったのだ。どんなふうに脅されても金を返すあてなどない生命は、死を覚悟して目を閉じた。

そんなときに、何を思いついたのか、取り立て屋のボスがおもむろに口を開いたのだ。

「なぁ、自分、拳闘やれへんか。ええ身体してるし、喧嘩も強いみたいやしな。親父の借金、身体で払えや。それまで、妹はあずかっといたるから」

こうして生命は、東京で最も有名な春間ジムに押し込まれ、ボクサーをめざすことになったのだ。世界チャンピオンになったって、一億なんて額はそうたやすく手に入らない、などということは知りもせずに。

(いつになったら終わるんだよ、こんなこと……)

 ライセンスは取得したものの、まだデビューしていない生命は、一円もファイトマネーを手にしていない。警備員と交通整理のアルバイトを掛け持ちし、その収入のうちからも返済しているが、借りている額にはまだまだ届きそうになかった。

(アイツはうるさいし……)

 生命の頭には、夏希の顔が浮かんでいる。

 水のように艶やかな黒髪、口角がきゅっと上がった赤い口唇、うるさいくらいによく通る声。

(黙ってりゃ可愛いのにな……)

 ときどき、本当にそう思う。初めて会ったときから気づいていたが、夏希はかなりの美形だった。バカ笑いしたりきつい口調でガンガンどなったりしなければ、男女を問わずさぞモテたことだろう。

 しかし、お節介で「いらち」な彼が、黙ってじっとしているなんてことはありえない。

「生命―! 腰が上がってるでェ、腰がぁ! もっと重心落とさんかい、ボケェ!」

 天楽とスパーリングしていたところを、リングサイドで見ていた夏希は、そんなアドバイスをして、翌日のロードワークの際に、自分を背負って走るように命じた。そうすることで、重心を落とす感覚が身につくのだという。半信半疑で背負ってみたら、聞かされていた体重より、ずいぶん重く感じられた。

「んだよ、重いじゃねーか。四十九キロとか嘘だろ」

 ぼやいたら、夏希は「あっ」という顔をした。

「ごめん、おもりつけてんの忘れとったわ」

 笑いながら、靴の底と腰と肩から外したおもりは、合計二十キロもあった。ロードワークのときはもちろん、普段から負荷をかけて生活しているらしい。

(マジ怖ェよ)

 生命には、夏希が理解できなかった。世界チャンピオンの息子に生まれて、幼いころからボクシング漬けの人生というのもまるで想像できないし、借金があるわけでもないのに、自らの意志でこんなつらいことにすべてを注ぎこんでいるというのも信じられない。

 父の借金がなければ、決して交わることのない相手だっただろうと思う。

 トレーニングのおかげで重心の落とし方も覚え、フットワークが向上した生命の頭を、夏希は背伸びして、本当にうれしそうに撫でた。

「やるやん! ええで、その調子やでー」

 上機嫌な彼を、冷めた目で見つめ返しながら、いったい何がそんなにうれしいのか、生命にはまったく分からないのだった。

 秘密のやりとりをするケータイの電源を落とし、生命はようやく眠りにつく。

 望んでいるわけではないのに、夢の中でまで夏希にしごかれていた。



「おい、行本。喜べ、おまえのデビュー戦、決まったぞ」

 プロテストに合格して二ヵ月ほどたったある日、外出先から戻った桃瀬トレーナーが、声を弾ませて告げた。筋トレに励んでいた生命は、顔を上げて彼のほうを見つめる。

「マジで? おめでとう、生命!」

 天楽が、手を叩いて祝福した。

「応援しますから、ぜったいにKOで勝ってくださいね!」

「春間ジムの強さ、見せつけてやりましょう!」

 まだプロテストを受けていない少年たちも、口々に励ましてくれる。

 普通なら、「ありがとう、がんばるよ」と答えるところだが、素直でない生命は、ふんと横を向くだけだ。

(こいつら、何でこんなに熱いんだよ)

 春間ジムは、ひねくれ者の彼にとってはやはり、居心地の悪い場所だった。

「ふーん。ついにデビュー決まったんや、生命。ボクの防衛戦の前座やし、いい流れ作ってな。エビスと天さんも同じ日に試合やろ。今日からみっちり、強化メニューこなしてこうや」

 二階から下りてきた夏希が、にっと笑って肩を叩いた。もう一方の手には、古いビデオテープがある。これを取りに行っていたのだろう。試合が近くなると、ビデオを見て自分を奮い立たせているのだ。

 彼は、生命のデビュー戦の日のメインイベントで、三度目の防衛戦を行う。ベルトをかけて闘う相手は、春間ジムと並ぶ名門・赤根(あかね)ジムの浦沢(うらさわ)涼(りょう)王(おう)である。WBCフライ級第一位のトップランカーで、鋭い瞳が印象的な美青年だ。夏希と同い年だが学年は一つ下で、毒舌のファッションモデルとしても人気を博している。

「テレビの中継も入るそうですよ。夏希さんのは全国ネットで、僕らの試合は衛星放送で流れるんですって。楽しみですね!」

 生命と同い年の、蛯須(えびす)直(なお)弥(や)が言った。彼のキャリアは生命より少し長く、次が二度目の試合である。百五十七センチ・四十七キロ、ミニマム級の四回戦ボーイだ。短い髪を真っ赤に染め、「サエコ命」とロゴ入りのTシャツを愛用している。彼女の名前かと思ったら、そうではないらしい。あまり有名ではない美少女アイドルグループのメンバーの一人を熱烈に応援しているのだそうだ。リングにも、Tシャツを着て入り、わざわざそこで脱いでいる。

「彼女がテレビをつけたとき、僕の背中が目に入ればいいなぁと思って」

 夢見がちな彼は、六回戦に上がれば使える入場曲ももちろん、彼女のソロ曲にするつもりだという。

 その日のトレーニングが終わると、夏希は声を張り上げて、ジム全体に響くようにがなった。

「時間余裕ある人でお父ちゃんの試合見たい人、残っといてや。たぶん参考になると思うでー!」

 もちろん、外せない用事がある者を除いて、ほとんどの練習生がその場に残った。

「生命も見るやろ?」

 立ち去ろうとしていたところを、首根っこを掴んで引きとめられ、眩しい笑顔で尋ねられたら、「あぁ」とうなずくしかない。

 ビデオに収められていたのは、春間悠介が二十一歳でスーパーフェザー級チャンピオンの座についた、記念すべき日の試合だった。ラスベガスで行われたもので、悠介の友人が、家庭用のビデオで撮影したらしい。実況はもちろん英語で字幕もないが、展開を見ていれば、どちらが勝っているかは分かる。十二回戦の試合を、悠介は、五ラウンド二分十秒で、相手を完膚なきまでに打ちのめして終わらせた。

 KOが宣言された瞬間、セコンドがリングに飛び込んで、彼を肩車する。割れるような拍手とベルトが贈られたその直後、血相を変えて駆け寄ってきたトレーナーが、彼の腕を掴んでどこかへ連れ去った。ビデオがしばらくの間何も映さなくなり、数分後、激しく泣きじゃくっている新王者にたくさんのマイクがつきつけられている映像に変わる。

「いったい何があったんですか?」

 勝利の喜びでうれし泣きしているようには見えない彼の涙のわけを、中学生の練習生が尋ねた。

「春間会長のこといちばんだいじにしてくれてたトレーナーが、亡くなったんだよ」

 天楽が答えてやる。

「いつもセコンドについてたんだけど、病気で渡米できなくて。日本で中継見てて、勝ったの見届けてから、息を引き取ったんだって」

「せやからお父ちゃん、生きとる間、このビデオ一回も見いひんかったわ。思い出すんつらかったんやと思うねん」

 父の死後、遺品の一部を整理していたときに出てきたビデオなのだという。

 映像で振り返ることはなかったものの、この日のことを、父は息子に頻繁に語って聞かせていた。

「ナツ。お父ちゃんがボクシングで世界一になれたんは、ジョニーさんのおかげやねん。あの人がお父ちゃんを、歌舞伎町のドン底から、スポットライトの当たるリングの上に引っぱり上げてくれたんや」

 その話をするときの父は、少年のように瞳を輝かせていた。幼い日の夏希は、言葉の向こうに浮かぶ、彼の熱い日々に思いを馳せた。

 悠介は、歌舞伎町の風俗店で働く女が、望まぬ妊娠の結果生み落とした子供で、父の顔も知らず、母もどこかの男と駆け落ちしてしまって、天涯孤独の少年だった。

 十六歳のある日、路地裏で出会った少年に暴行を加え、金目のものを取ろうとしていたところを、金髪・碧眼の男に取り押さえられたのだ。

「コラ! ウチノ子ニ何シテクレンダヨッ!」

 それが、ジョニー・オーガスト。

 悠介が襲った少年は、試合のために上京していたボクサーだったが、一般人を殴ってはいけないという規律を守って、やり返さなかったのだ。

「罰トシテ、君ハ向コウ三ヵ月、ウチノ下働キネ」

 有無を言わさず命じられて、大阪へ連れていかれた悠介は、ジョニー氏がトレーナーとして籍を置くボクシングジムで、掃除や炊事を手伝わされた。

「逃げようと思うたらいつでも逃げられたのに、何で逃げへんかったんかは、自分でも分からへんねん」

 そのころを振り返って、彼は言っていた。

「たぶん、うれしかったんやと思うわ。ジョニーさん、わいがちょっと早起きしてぞうきんがけしただけでも、えらいおおげさに褒めてくれたからな。『悠介ハイイ子ネ、最高ニエライヨ!』ってな。初めてやったんや。父親みたいな人に、優しいにしてもろたん……」

 照れくさそうに笑う父の顔を、夏希は今でもよく覚えている。

 悠介はその後、ジムの練習生たちとも仲よくなり、いつしか、彼らにボクシングを教わるようになっていた。その様子を黙って見ていたジョニーが、彼をチャンピオンに育てようと決めたのだ。

「悠介ハ才能アルヨ。キット、磨ケバ誰ヨリ光ルネ」

 はじめから、見抜いていたのかもしれない。自分を持て余し、闇の中でくすぶっていた少年の、密かな素質と闘争心を。

 ジョニー氏は、他の少年にしたのと同じように、深く惜しみない愛情を悠介に注いだ。トレーニングの後は、大きな風呂にともに入って背中を流してやり、洗った髪をゴシゴシ拭いて乾かしてやった。はじめは照れくさくてたまらなかった悠介だったが、そのうちに慣れ、弟分のような幼い練習生たちに、同じことをしてやるようになった。のちに彼が作ったジムは、このころの思い出を強く反映している。

 練習生たちを熱く指導し、慈愛で包んだジョニーは、自分が不治の病に冒されていると知ったときも悲しみはしなかった。穏やかに優しく笑っていた。彼のぶんまで涙を流し、「こんな状況でなぜ笑えるのか」と尋ねた悠介の頬を、大きな手で撫でながら言った。

「ダッテ、何モ悲シイコトナイモノ。ミンナヲ見ラレナクナルノハ寂シイケドネ。ワタシガイナクナッテモ、悠介ハ強クナレル」

「なれませんっ……なれへんのです、ジョニーさん、俺はっ……」

 明朗快活な悠介をここまで泣かせたのは、彼だけだった。

「ネ、悠介。最後ニワタシノオ願イ聞イテ。ワタシガボクサーダッタコロニトレーナーカラ託サレタ夢ヲ、悠介ニ受ケ継イデホシイノ。ワタシガ教エタコト、次ノ誰カニ伝エテホシイノ。ネェ、約束シテ。ボクシングヲズット続ケルッテ。ソノ身体デ夢ヲ語リ継グッテ。ソシタラワタシ、悠介ノ中デイツマデモ生キテイラレル……」

 そう諭されて、涙ながらに指きりを交わし、悠介は生涯に渡ってその約束を果たした。

逝く前に、息子の夏希に、大切な夢を引き継いで。

 プロテストにも合格し、プロボクサーになった悠介は、またたくまに階段を昇り詰め、ついには世界に挑むまでになった。しかし、彼を見出して鍛え上げたジョニーは、そのころにはもう病床から起き上がれない状態で、悠介の世界戦に付き添うことはできなかった。

 ベルトを賭けたタイトルマッチで勝利をおさめた後、感動にうち震えている悠介に、ジョニーの代わりに同行したトレーナーが、一本の電話を取り次いだ。一部始終を病院のテレビで見ていた、ジョニー氏からの国際電話だった。

「悠介、オメデトウ。世界チャンピオンダネ。ワタシ、悠介トイッショニ闘エテ、幸セダッタヨ……」

 か細い声での祝福と、最後の感謝の言葉が届いた後、電話の向こうは静かになり、「ピーッ」という心電図の甲高い音が、尾を引いて止まった。四十二歳の生涯が閉じられたのだ。

「ジョニーさんっ!」

 呼びかけても返事はなくて、あとからあとから涙が溢れてきたという。

「天国のあの人を悲しませんように、これからも精一杯いい試合して、ぎりぎりまで闘い続けたるって、そのとき決めたらしいわ」

 ビデオを巻き戻しながら、夏希が言った。

 春間悠介はそれから、幾度かの防衛に成功したのちにフェザー級に階級を下げ、二階級制覇を狙う途中で、試合中の事故により、引退を余儀なくされた。最後まで、観客を沸かせる試合展開で、愛され続けたボクサーだった。その血は確かに、一人息子の夏希に受け継がれている。

「オレたちも、会長にあの世で泣かれないように、しっかりトレーニングしとかないとね」

「おーっ!」

 天楽の言葉に、その場の全員が、拳を天に突き上げる。

「ほら、行本さんもちゃんとやって!」

 隣の小学生に促され、何で俺が、とぶつぶつ言いながらも、生命は彼らに倣った。ここにいるとどうも、熱っぽい空気に染められてしまう。

 ジムの壁にかけられた額縁の中、遺影になって収まっている春間悠介は、一致団結して気合いを入れている彼らを、微笑みを浮かべて見守っていた。


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