第三章 恋と知ったら第二ラウンド

「ん……」

 目蓋を震わせ、夏希はゆっくりと目を開く。気の強さが滲み出ている猫のような瞳に、心配そうに覗き込んでいる生命が映った。

「何や、自分か。お父ちゃんかと思ったのに。……また同じ夢見てたんやな」

 掠れた声で言って、生命に握られていた手を振りほどく。

「ナツ……あの、大丈夫か……?」

 これまで反抗的な態度を取り続けてきた生命は、初めて夏希を気遣った。

 ふん、と夏希は鼻で応える。今度はこっちがグレる番だ。

「べつにどうってことないわ。防衛も成功したしな。熱も……下がってるやろ。ちょっと体温計貸して」

 言われるままに、生命は、救急箱の中から体温計を探し出して、伸びてきた手に握らせる。体温を測っている間の沈黙が気まずい。

「寝てるとき泣いてたけど……親父の夢でそんなに泣けるのかよ」

 つい、棘のある言葉をかけてしまう。

「そりゃ泣けるわ。死んだはずのお父ちゃんが生きとって、『ナツおめでとう』って褒めてくれるんやからな」

 この夢見るんもう百回目や、と夏希は、手のひらに視線を落として言う。

 湿りかけた空気を裂いて、ピピピピ、と体温計の無機質な音が響いた。

「三十七度八分。ちょいマシになったな。明日の朝ぐらいには、平熱に戻ってるやろ」

 ふわぁ、と欠伸をして夏希は目を閉じる。

「みんなはもう、帰ったんか?」

「あぁ」

「マスコミの人らは?」

「桃瀬さんが対応してくれたみたいだぜ。インタビューや会見はまた後日でって、がなってるのが聞こえた。この部屋も、明日まで使っていいって」

「ふーん。ほな、ゆっくり寝とってええんやな」

 夏希は掛け布団を引っぱり上げて、もうひと眠りしようとしている。集中的に睡眠をとって、早めに回復したいのだろう。

「自分ももう帰ってええで。ボク、一人でも平気やから」

 寝返りを打って背中を向けたまま言う彼を見下ろし、生命は椅子から動こうとしなかった。

「聞こえへんの?」

「……」

 ガタン、と椅子から立ち上がった生命は、問いに答えずに、無言で夏希を抱き締める。布団越しに触れる身体は、薄くて熱くて、確かに春間夏希の感触がそこにあった。

「何やねん、鬱陶しいなぁ」

 首筋に鼻をうずめられ、夏希は面倒くさそうに振り返る。

「どないしたんや? 急にしおらしいなって。あのことやったらべつにもう……怒ってへんことはないけど、忘れてやろうとしてるとこやで」

 夏希は手を伸ばして、生命の頭をあやすように撫でた。

 昨日の怒りはもう、同じ温度では残っていないようだ。クールダウンが早いのは、彼の長所の一つである。

「金に釣られるんや、これっぽっちも珍しいことやない。ようあることや。金やるから負けてくれとか、人雇って『アイツの腕折ってこい』とか。悪い誘惑やいくらでもあるしな。ボクかて、誘われたことあるんやで。『八百長さしてくれたらファイトマネー倍払うわ』ってな。もちろん、断わったで」

 春間ジムにも以前、金をもらって「やられ役」を演じていた選手がいたという。強いと評判の春間ジムの選手を倒せば、それだけで相手の注目度は上がった。

「よう練習してるし、慕ってくれてたから、ショックやった。お父ちゃんやったらどつくかもしれへんと思たけど。『もう二度とするんやないで』って、許したってん。ボクももう大人、やからな」

 しかし、金でプライドを売っていた彼はまもなく、責任を感じて退会し、歌舞伎町から姿を消したらしい。

「もう子どもちゃうんやし、汚いことにも慣れていかなあかんのやろと思う。けど、ボクは……ボクのまわりの奴らには、きれいでおってほしいんや」

 潤んではいるが、しっかりと強い光を宿した瞳で見つめられて、生命は思わずこくりとうなずいた。

 もう二度と、愚かな真似はしないだろう。借金返済まで何年かかるかは分からないが、まっとうな方法でやってのけようと、彼は今日心を決めたのだ。

「もう帰ってええで」

 夏希は、指先で追い払う仕草をして、再び生命を帰らせようとする。

「イヤだ」

「何やて?」

 夏希は、不機嫌な顔になって低い声を出した。

「まだ何か言い足りんことあるんかいな。明日にはジムに帰るさかい、そんときにしてくれへんか」

 つまり、これからもそばにいていい、ということだ。

 夏希も天楽もきっと、今回のことを誰にも言わないでいてくれるだろう。

「俺、どうしていいか分かんねェんだよ」

 それでも引き下がらない生命の中には、新しい感情が渦巻いている。十八歳の彼に、初めて芽生えた熱い想いだ。

「分からへんって……何を?」

 他にも何かやらかしたのか、と夏希は眉を寄せて、思い詰めた様子の彼を見上げる。

 返ってきたのは、意外な言葉だった。

「好きになっちまったんだよ、アンタのこと……」

 ぼそっとつぶやいた生命は、苦しそうな顔をしている。そんな自分が信じられない、いや、許せないと言わんばかりに。

「あかん、熱のせいで耳おかしいになってもたみたいや」

 夏希は耳に指を突っ込んで、聞こえなかったふりをする。

「無視すんじゃねーよ」

 生命はかぁっと赤くなって、夏希の肩を掴む。

「痛いがな、ボクは病人やで」

「……ごめん。けど、マジだからな! 俺、アンタのこと……」

「ふうん」

 自分の頬をつねり、「夢ちゃうわ」とつぶやいて、夏希は再び生命に向き直った。流れるような黒髪が、さらりとシーツに広がる。

「それで、どないしたいん?」

「え……」

「告ってきたってことはそれなりに、下心あるんやろ?」

 にやっと笑う彼は、完全にいつもの春間夏希だ。

「べつに、そんなんじゃっ……」

 生命はただ、湧き上がってきた想いを口にしただけだ。彼とどうこうなりたい気持ちはもちろん、まったくないわけではないけれど、今ここですぐ、というのは急すぎる。

「遠慮せんでええで、ほら」

 上体を起こし、目を閉じてキスをねだるような顔をする夏希は、五つ年下の生命をからかっているのだろうか。「男同士なのに気持ち悪い」とも、「さんざん迷惑をかけておいて何を言っているんだ」とも言わない。

「いいっつってんだろ!」

 ぐいっと押し返すと、夏希は、ぱたりとそのままベッドに倒れた。

「キスなんてまどろっこしいことやっとれんってか。若いなァ」

 目を開けて、揶揄する口調で言う。

 仰向けに横たわったまま無防備に腕を広げて、「好きにしてええで」と微笑した。

 据え膳食わぬは男の恥、という言葉があるが、ここまで上げ膳据え膳されると、かえって萎えてしまうものだ。

「何でそんなに安売りすんだよ!」

 生命はふてくされたように言った。

 自ら胸元のチャックを下げている夏希の手を掴み、ぐいっと上へ上げさせる。

「年下だからってバカにすんじゃねーよ」

 睨みつけた生命は、こんな男を好きになってしまった自分を少し、悔やみ始めている。

「そない怒らんだってええやないか。色気のうて悪かったな」

 夏希は寝転んだまま手を伸ばして、生命の頭をぽんぽん、と撫でる。

「恋愛や、したことないさかい、分からへんのや」

「マジかよ」

「マジや。二十三年間、誰も好きになったことないし、誰ともつきあったことないわ。ボクシングばっかりやってたからな、恋愛にはぜんぜん興味なかった。アキバのオタクといっしょやで」

 秋葉原のオタクが恋愛未経験者ばかりかどうかは分からないが、夏希は真顔で続ける。

「せやから、一回やってみたかったんや。セックスって気持ちええらしいしな。風俗に行く勇気はないし、女のコ寄ってくることもあるけど、うっかり孕ませてもたら怖いし。生命とやったら、ええかなって思たんやけど、さすがに……そこまではできへんか」

「……」

 呆れてものが言えねーよ。

 昨日投げつけられた言葉をそのまま返してやりたくなった。

「それって、誰でもいいってことじゃねーか」とか、「俺はお手軽セックス体験機じゃねェぞ」とか、言いたいことはたくさんあるのだが、すぐには言葉にならない。

「ナツ……」

「ん?」

「俺が教えてやるよ」

 生命は、宣言した。

 好きになるって気持ち、教えてやるよ。

 時間はかかるかもしれないけれど、ちゃんと「相思相愛」になりたい。

 それまでは、キスもセックスもおあずけだ。



 翌日、ぐっすり眠って見事に回復した夏希は、生命とともにジムに戻った。

「ただいまぁ。なっちゃんが帰ってきたでー!」

「お帰りなさぁい、夏希さん!」

「もう大丈夫なんですか? つらくなったらいつでも言ってくださいね」

「平気平気。もうすっかり元気やからな。今日からまたいつもどおり、バリバリトレーニングするでー」

 彼は基本的に休まない。

 涼王にハメられそうになり、雨に打たれ熱を出し、生命から告白されたりして、本当は少し混乱しているのだが、何ごともなかったかのようにまたトレーニングを再開する。

(走ったらきっと、モヤモヤしてる気持ちも飛んでいくやろうしな。悩んだときはとにかく走れって、お父ちゃん言うてたし)

 煩悩や煩悶はスポーツで発散せよ、と説く学生向け雑誌のような発想だが、ある意味では正しい対処法だ。ロードワークとジムワークを重ねるうちに、夏希はすっかりいつもの夏希に戻っていた。

「あっくん、足が死んでるでー。フットワークで逃げるって意識して動いてみいや。きぃちゃんは上体が固まってる。小刻みに揺らすつもりで、相手の目ェ欺かんと」

 トレーナーより的確に、一人ひとりの弱点を言い当ててしまう。

「生命はな、精神があかん。腑抜けてるで。デビュー戦勝ったからって、調子乗ったらあかんで」

 若干一名に対してのみ、異様に厳しい。

 自分に惚れていると分かった相手を容赦なく罵る夏希には、Sの気があるのかもしれない。



 夏希に気を取られすぎて借金のことを忘れかけていた生命に、ある日の夜遅く、例の男から電話がかかってきた。

「よぉ、久しぶりやな。夏希さんに迷惑かけてへんやろなぁ?」

 毎度毎度、第一声はこの問いなのだ。

「かけてねーよ」

 本当はいろいろあったのだが、わざわざ教えてやるつもりはない生命である。

「こないだ、ボクシングの試合出とったやろ? 赤根ジムの奴との、デビュー戦」

「あぁ」

「KOで勝ったん、わいらもテレビで見さしてもうたで。なかなかええ試合するやんけ」

 電話の向こうの内村は、満足そうだ。

「そりゃどうも」

 適当にあしらって、生命は、いちばん気になっていることを口にする。

「なぁ、るなは元気にしてるのか?」

「してるで。今は友達んとこ遊びに行っとるから代わってやれんけどな。こないだも学校の作文コンテストで入賞して褒められたって。テレビでおまえの試合見て、その感想書いたんや。ええ話やろ」

 生命は、だいじな妹が無事だと聞いただけで、少しほっとした。

 男の話はまだ終わっていない。

「ほんでな、今度、うちのボスが、おまえと話したいんやと。久しぶりに、どっかで会わへんか」

「あぁ」

 首領自ら、いったいどんな用があるのか知らないが、妹を人質に取られているので断わるわけにもいかない。

 事情を知らない仲間たちの目につかないように、歌舞伎町の外で待ち合わせることになった。喫茶店を指定してきたくらいだから、それほど物騒な話ではないはずだ。

「一人で来るんやで。誰か連れてきたりしたら、どないなるか分かっとるやろなぁ」

「わぁってるよ。俺はそんな臆病もんじゃねェから安心しな」

 生命も、ついこの間まではワルだった男だ。パンチのきいた声で言い返して、電話を切った。



 待ち合わせ場所に指定された喫茶店「ランプール」は、看板も古く、耳の遠そうな老人が一人で切り盛りしていて、他に客の姿はなかった。昼間だというのに、照明が少ないせいで薄暗い店の奥の席で、スーツ姿のいかつい男二人と、グレーのフード付きパーカーの生命が、膝を突き合わせて向かい合っている。

「ボウズ、この間の試合、ようがんばっとったな。会場には行けへんかったけど、テレビでしっかり見たで」

 まず、金色の髪を刈りあげにし、ブラックコーヒーのように濃い色のサングラスで瞳を隠した男が口を開く。顔を合わすのは今日が二度目だが、彼が取り立て屋の領袖である。

「あぁ」

 生命は、コーヒーを一口飲んで浅くうなずく。

「どや? ボクシングの楽しさ、分かってきたか」

「まぁな」

 その返事に、ボスは満足げに口元を歪めた。

「そらよかった。夏希さんもきっと喜んどるやろ。テレビにも、自分のこと舎弟みたいに可愛がっとるとこ映っとったしな。あの旗も、気に入ってくれたみたいやったし」

 上機嫌な彼は、春間夏希の大ファンなのだ。悠介が現役のころからのファンなので、親子二代に渡って応援している。だからこそ、生命を春間ジムへ送り込んだのだろう。

「わいが試合見に行くや言うたら、若いもんらがぞろぞろついてくるしな。よその奴らと喧嘩して騒ぎになったら迷惑かけてまうから、会場には行かへん。せやけど、テレビではしっかり応援してるからな。帰ったら、夏希さんに、『ブルーレイで録画してます』って言うといて」

「あぁ」

 生命はうなずくが、まさかそんなことを伝えるためにわざわざ呼び出したわけではないだろうと、鋭い瞳で相手を窺っていた。その視線を感じたのか、男はにやりと笑う。

「ここからが本題や。自分の、借金のことやねんけどな」

 声を落とし、もったいをつけて言う。

「チャラにしたる」

「……は?」

 一億二千万。

 この間ファイトマネーの二万をそのまま渡し、バイト代からもちまちま返済しているが、その額はまだ、二百万にも届いていないはずだ。それを一気にゼロにしてやるとは、いったいどういう了見なのか。

「何の冗談だよ」

 笑えない生命は、仏頂面のまま問う。

「何やその目は。口慎まんかい」

 傍らに控えていた内村が凄む。

 ええから、とボスはゴツい手で制して、続けた。

「もともと、親父の不始末で負わされた借金やったもんな。まだ若いのに自分一人で返さなあかんようになって、正直、不憫やなと思てたんや。そいで、わいの趣味でボクシングジムに突っ込んだったら、一生懸命練習してるやろ。試合見てたらな、感動して泣けてきたんや。わいも昔、春間悠介に憧れて拳闘始めたんやけど、練習キツイんと酒・煙草やめられへんで、続かへんかったからな。それからしたらボウズは、好きでもないのにようがんばってほんまえらいわ。あの試合には、一億二千万の価値があったと思うで」

 にわかには信じられない話だが、冗談ではないようだ。彼は、生命の前で、借用書を破り、灰皿の上で火をつけて燃やした。

「もひとつおまけに言うとな、帳消しにしたるって決めた次の日に、宝くじ当たったんや。一等やで。一億二千万引いてもお釣りが来てまうわ。つまり、誰も損せえへんっつうこっちゃ」

 宝くじがこんな男に当たるなんて、世の中ちょっとおかしいような気もするが、これですべてが精算できるなら万々歳、幸運の女神様に感謝しなければ。

「あずかっとったもんも返したるわな」

 に、と笑ってボスは、内村に、電話をかけさせた。

「もしもし、るなちゃん? おっちゃんや。二軒隣の喫茶店におるからな、ちょっと来てくれるかなぁ」

 電話を切ってすぐに、ツインテールの少女が姿を現わす。

「おじちゃん、何か用? あたしまだ服見てるんだけど……あ、お兄ちゃん! 久しぶりー、会いたかったよ!」

 約八ヵ月ぶりに再会した妹が、飛びついてくる。

「るなっ……!」

 硬派でクールな生命も、このときばかりは瞳を潤ませて、彼女を強く抱き締めた。

「これからは思う存分、可愛がったったらええ」

「……あぁ」

 言われなくたってそうする、と生命はぼそっと付け足した。

「金の話はこれでおしまいやけどなぁ、ボクサーとしてはこの先も応援してるで」

「せっかくプロになったんやから、このまま行けるとこまで行きや。夏希さんみたいに」

 男たちは最後に、生命の肩を励ますように軽く叩いて、喫茶店を出ていった。

ボクシングと借金から解放されるこの日が来るのを、心待ちにしていた生命だが、今は少し、気持ちが変わっている。

「お兄ちゃん、これからもずっと、ボクシングやるんでしょ?」

「あぁ」

春間ジムの激アツメンバーのおかげで、少しはボクシングが好きになったし、何より、どうしても攻略したい相手ができてしまった。ベルトより欲しいものも。

(春間夏希の心を掴むまでは……)

ジムを去るわけにはいかないと、生命は心を決めていた。



「そっか。それじゃあ、無事借金返し終えたんだね。おめでとう」

パチパチ、と天楽が湯船から手を出して祝福してくれる。試合でできた顔の傷は、もうすっかり治っていた。

春間ジムの風呂は今、二人きりの貸し切り状態だ。

告白した日以降、夏希と裸のつきあいをするのが何となく気まずくて、時間をずらして入る癖がついてしまっている。

「これで、背負うものはなくなったわけだろ? 生命、もう、ボクシングやめる?」

「いや……」

 生命は首を振る。

「チャンピオンになる! とは思ってねェんだけど、とりあえず続ける。やめられねェ理由が、できたんだ」

「やめられない理由か……」

 夏希に告白したことは、彼にもまだ話していない。

 信頼できる相手だし、経験豊富で物事に動じないから、打ち明けてもいいような気はしているのだが、やはり照れくさかったのだ。

左肩の瑠璃色の蝶が赤く染まってしまいそうなほど長く湯に浸かっている生命は、頬の上気をのぼせのせいにして、カミングアウトする。

「……ナツに、惚れちまった」

 言ってすぐに、ちらりと相手の顔を見る。

 驚くかと思ったが、天楽は顔色ひとつ変えず、「やっぱりな」と深くうなずいた。

「気づいてたのかよ」

「あたりまえだろ。ナッキーが熱出した日からこっち、二人とも妙に意識しあってるし。小さい子たちは分かってないと思うけど、勘のイイ奴はとっくに気づいてるんじゃないかな」

 確かに、バレてもしかたないかもしれない。

 あれ以来、生命はなるべく、夏希と二人きりにならないようにしていた。

 こっちは真剣なのに、向こうはそれをからかうし、ヘンに大胆なことをして煽るし、露骨に誘ってきたりするし。

「何か俺、アイツがよくわかんねェんだ」

 生命は、春間ジム唯一の既婚者で、恋愛の先輩でもある天楽に相談した。告白したとき、夏希に妙な反応をされて戸惑ったことや、誘惑されてもその気になれないことなどを。

「なるほど。つまり生命は、ナッキーのカラダじゃなくて、ココロが欲しいんだ」

 生命より七年長く生きている天楽は、迷える青年の心をぴたりと言い当ててみせた。

「向こうがやらせてくれるって言ったって、ちゃんと両想いになってからじゃないと、ヤなんだろ?」

 心の奥を照らされて、生命はこくりとうなずく。

「それが普通だよ。オレが生命の立場でも同じだと思う。まぁ、ナッキーは特殊な環境で育ったからしかたないけどね」

 彼によれば、夏希は、恋愛どころか、AVやグラビアなどのバーチャルな女性にさえ興味を示さないらしい。

「ボクシング以外のビデオはあんまり見ないみたいだね。テレビはよく見てるけど、女優さんの名前とかぜんぜん覚えてないし。性欲ないのかも」

「いや、でも……。アイツだって男なんだし、オナニーくらいはするんじゃねェの? 何で抜いてんのか知らねーけど」

「あー……。それ、昔訊いてみたら、KOの瞬間思い出してるって言ってたな」

「はぁ……?」

 その興奮は、射精するほどの快感につながっているのだろうか。チャンピオンの精神はよく分からない。

「まぁ、焦らずゆっくり教えてあげたらいいじゃない、恋を。ナッキーだって、そのうちきっと、生命のこと好きになってくれるって」

「だといいけどな……」

 それまでおあずけ、と自分の中で誓いをたてているものの、そばにいるのに指一本触れられないのはけっこうつらい。

「ピンチのとき助けてあげるとか、スランプで行き詰まってるときに癒してあげるとかしたら、好感度上がると思うな」

 確かにそのとおりだが、最強で負け知らずの夏希に、そうそう危機的状況が訪れるとは思えない。

「ひょっとして、アイツ落とすほうが、世界チャンピオンになるより難しかったりして……」

 つぶやいた瞬間、すっかりのぼせてしまった生命は、視界がくるりと回転するのを感じ、そのまま意識を失った。



「おーい、大丈夫かぁー」

「お兄ちゃん、お兄ちゃんっ。しっかりしてっ!」

 呼ぶ声に目を覚ましてみれば、無表情で覗き込んでいる夏希のドアップが目に入った。目が合ったとたん、彼はにやっと笑う。

「何や、生きとったんか。人工呼吸したろかと思てたとこだったのに」

 冗談とも本気ともつかないことを言う彼の隣に、るながいる。

 内村たちから返してもらった日以降、春間ジムに置いてもらっているのだ。

 妹が欲しかったという夏希はるなにメロメロで、「るなちゃんお嫁に来てやー」と抱きついたりしている。ひょっとして、ライバルは妹か? と、生命が焦ってしまうくらいに。

「アホやなぁ、風呂でのぼせるや。天さんが運んでくれたんやで。もう帰ったけどな」

「……あぁ」

 生命は、ぐらぐらする頭を押さえて身体を起こした。かろうじて、パンツだけは穿かせてもらっている。

「風呂でやぁらしいこと考えんようになー」

 クククク、とおかしそうに笑っている夏希を無視して、生命はパジャマを着た。

 遊び半分では何もできないが、あまり思い詰めすぎても身が持たない。

 相思相愛への道のりは、まだまだ長く険しいのだから。



「決めた。今年中に一つ階級上げて、二階級制覇狙うで」

 防衛戦から一ヶ月後、夏希は、新しい目標を立てた。

 現在のフライ級から、スーパーフライ級に転向して、二本目のベルト獲得に挑むらしい。体重も少し増やすことになるので、脂肪ではなく筋肉を増量できるように、慎重にウェイト調節をしている。

「目標は五十一キロやな。もともとあんま肉ついてへんから、たいして変わらへんと思うけど」

 減量でスリムな身体を保ってきた夏希は、百グラム増やすのにも抵抗があるらしい。難しい顔をして、カロリーブックとにらめっこしている。

「ナツはたぶん……太っても可愛いんじゃねェの?」

「むしろ、百六十一センチなら、五十一キロでも十分細いって」

 天楽のアドバイスを思い出して、生命は夏希を励ます言葉をかける。

 もちろん、そんな作戦が簡単に通用するほど単純な相手ではない。

 案の定、「そういう問題とちゃうやろ」と一蹴されてしまった。

「何や自分、最近やけにボクに優しいなったな」

 気味悪いがな、と言いながら、夏希は顔をしかめて生命をじっと見る。猫のような瞳がきゅっと寄って愛らしい。

 やがてその顔に、何かを悟ったような薄笑いが浮かんだ。生命に「惚れた弱み」があることを、彼はとっくに見抜いて利用している。年下の生命の純粋な恋心を、弄んで楽しんでいるような面もある。

「……なぁ。生命、つきあってくれへんかな」

 潤んだ黒い瞳で見つめられ、生命は思わず息を飲んだ。

「え……」

 唐突すぎるその言葉はいったい、何を意味するのか。

 妹は学校だし、練習生はまだ来ていなくて、二人以外に誰もいないジムの二階に、妖しい空気が満ちる。

「いったい、どういう……」

 風の吹き回しなのか、と尋ねようとした生命を、いつもの顔に戻った夏希は、明るく笑い飛ばした。

「何考えてんねん、スケベ。ロードワークに決まってるやろ。天気ええし、海辺行って走ろうや。今日は、バイト休みなんやろ」

「……あぁ」

 何だそうか、またフェイントか。

(こっちは真剣なのに、マジムカツク……)

 告白した日から、純粋な部分を弄ばれているようで、ちょっと気分が悪い。

(何でこんな奴好きになっちゃったんだよ、俺は)

 勢いのまま告白した日の自分を恨んで、生命は、相変わらず軽やかな身体をしている夏希を追って、ジムを出た。



 平日の昼の海辺に、人の姿はない。

 砂浜はほどよく濡れて、ロードワークにぴったりのぬかるみができていた。

「さぁ、走るで」

 夏希は今日も、二十キロのおもりをつけて、涼しい顔で走り始める。髪をなびかせて駆ける彼に続いて、生命もスタートした。波打ち際に残る二人の足跡が、寄せてくる波によって少しずつ薄れていく。

 目標は十キロ、浜を端から端まで走って、また折り返す。ざざざざ……と規則正しく響く波の音を聞いていると、不思議と気持ちが落ち着いてくる。

「なぁ、二人っきりで海とか、何かロマンティックやな」

 少しペースを落として生命の横に並んだ夏希が、風の匂いを嗅ぎながら言う。

「女のコと海に来たことある?」

「まぁ、な」

 中学生のころ、一つ年上の少女と交際していた生命は、学校をサボって海へ行ったことがあった。水着を着てはしゃいでいた彼女が、ふいに手を取って人けのない材木小屋へ導き、波の音が聞こえるその場所で、生命は初めての体験をした。

「おませさんやったんやろなぁ」

 語らなくても、夏希はみんなお見通しのようだ。

「女のコのおっぱいって、ほんまに、車の窓から手ェ出して風に触るんとおんなじ感触なん?」

「ばっ……」

 くだらねェこと訊くんじゃねーよ、と生命は珍しく顔を赤くする。

「言っとくけど、ボクのはあんまり柔らかぁないで」

「見りゃ分かんだろ、そんなの。べつに、アンタに柔らかさ求めてねェよ」

 ぶっきらぼうに答えるその顔を、振り返って見ていた夏希が、ふいにつまずいて転びそうになった。

「危ないっ」

 支えようとした生命は、うっかりそのまま、彼を押し倒してしまう。波が薄く寄せる波打ち際に横たわった夏希は、自分を組み敷く生命を見上げて、困惑したようにつぶやいた。

「……こんなところで?」

 眉を寄せ、不安げな瞳でじっと見つめる。

「……え……?」

 生命は、ごくりと喉を鳴らして戸惑っていた。偶然とはいえ、好きな人を押さえ込んでしまっている。

「優しいに、してな……」

 夏希は、何かを覚悟したかのように目を瞑った。長い睫毛が無防備に伏せられ、少しだけ開いた口唇が、口づけを待っているような色で誘っている。

(いけねェ)

 相手のペースに乗せられそうになった生命は、慌てて首を振り、邪念を追い払った。

「何考えてんだよ、バカ。さっさと起きろ」

 夏希の上からどいて、彼を抱き起こす。

 芝居をやめた夏希は、泥を払い落して、ちぇ、と残念そうに舌を出した。

 生命は、振り返らずに走りだす。これ以上見つめていたら、自分の密かな欲求に、負けてしまいそうだった。余計なことは考えまいとロードワークに集中していたのに、あっさり追いついた夏希が、とどめをさして追い抜いていく。

「生命さえその気になってくれたら、なっちゃんはいつでもOKやで」

 生命にとっては、まさしく悪魔の囁きだった。



「うわー。いわゆる、蛇の生殺しってやつだね」

 海辺で夏希に誘われた話をしたら、天楽は心から同情してくれた。

 生命の純情をさんざんオモチャにした夏希は、髪についた砂を洗い流すため、一人で風呂に入っている。今ごろ、鼻歌でも歌いながら機嫌よくシャワーを浴びているのだろう。

 後輩にミット打ちの指導をする合間に、生命の恋愛相談に乗ってくれる天楽は、進展しない二人の仲を、微笑ましく見守ってくれている。さすが、既婚者で年上なだけあって、大人の余裕がある。親しくなるにつれて、無口な生命も、つい愚痴をこぼしてしまうようになっていた。

「いつでもさせてくれそうだけど、ノったら負けだって気がすんだよな」

 見つめられたり思わせぶりな態度をとられたりすると、ドキドキするし、溜まっているときなんかは、罪悪感を覚えながらも夏希をオカズにしてしまうことだってある。けれど、どんなにつらくなっても、本体には決して手を出さない、というのが生命の最後の意地なのだ。

「まぁね。カラダから始まる恋もあると思うけど、ナッキーにとったら初めての経験だからね。だいじにしてあげないと」

 自身はできちゃった婚している天楽だが、その実、好きになるととことん相手を大切にする男でもあるのだ。

「なぁ、それにしてもアイツさ、隙あらば誘惑してくるんだけど。やっぱ、俺が五つも年下だから、何もできるわけないって、ナメてんのかな」

「んー、それは違うと思うな」

「何で?」

「だって……ほら、ナッキーは小さいころから、お父さんにボクシング仕込まれて、チャンピオンの息子だから負けるわけにいかないってプレッシャーと、ずっと闘ってるわけじゃない? 相当張り詰めた気持ちで生きてきてると思うんだよね」

「まぁ……そうだろうな」

「だからさ、生命をからかうことで癒されてるんだよ、ナッキーは。本人も気づいてないかもしれないけどね。いっしょにいることで、和んでるんだと思うよ。愛されてるって自信もついてるだろうし。最近さ、前よりちょっと表情が柔らかくなったっていうか、ますますきれいになったっていうか……。いきいきしてるように見えるんだよね」

 ずっとそばにいる彼だから、感じることもあるのだろう。

「そうか…」

 今の夏希の胸にある感情はおそらく恋ではないだろうが、いずれ、切なく甘い想いに変わってくれたら……。

 まじめな顔で願った生命の背中が、ふいにバシッと力いっぱい叩かれた。

「出たで」

 ふふっと機嫌よさげな笑みを浮かべた夏希が、シャンプーとボディーソープのいい匂いを纏って立っている。

「夏希さーん、スパーリングするから見ててくださーい!」

「んー、今行くぅー」

 人気者の彼は、姿を現わすやいなや引っぱりだこだ。

 せっかく風呂に入ったのだが、この後ジムワークでたっぷり汗をかくのだろう。

(本当、ボクシングするためだけに生まれてきたような奴だよな……)

 つくづくそう思いながらも、夏希に惹かれている自分を変えることはできない生命だった。



 スーパーフライ級への転向を表明した夏希は、スポーツ紙やテレビの取材を受け、調整が順調なことを明かした。

「まぁ、ボクにはお父ちゃんの霊もついてるし、階級上げてもきっと、楽勝やと思うで。体重増えても脂肪がつかんように練習がんばってるし、ええ試合するから、これからもガンガン応援してや」

 カメラに向かってファイティングポーズをとる彼の写真は、スポーツ紙の一面を飾った。多少不安があっても強気な自信家を演じるのは、チャンピオンとしてのプライドがあるからだ。できなかったらカッコ悪いと分かっていても、できるはずだと信じているから、KO勝利を宣言する。

 現役時代の父がそうであったように、夏希は常に己の強さを信じ、ひたむきに努力する姿勢と、ボクシングが好きでたまらない自分をマスコミを通して見せてきた。「亡きトレーナーがいつもついていてくれるような気がする」と繰り返し語っていた春間悠介と同じで、息子も、父の霊の存在を信じている。試合前にだいじな人の墓参りに行くのも、父から受け継いだ彼の習慣だ。

「スーパーフライ級にいっても、大丈夫そうな気がするわ」

 バランスのとれた食事とハードなトレーニングのおかげで、より美しく引き絞られた身体を鏡に写し、夏希は自信ありげに笑った。

 十二月には、WBCスーパーフライ級王者の、ポンサレック・チャンタブリージムに挑戦することになっている。次の会場は、夏希の出身地でもある大阪の府立体育会館で、ということで話が進められていた。タイトルマッチなので注目度も高いし、夏希のように人気のある選手の試合は、その過程にもマスコミの視線が集まっていたりする。ドキュメンタリー番組の取材班がジムに取材に来て、練習風景をカメラに収めて帰った。

「みんなも来いや、いっしょに映ろ」

 夏希が呼んだので、ちびっこをはじめとする練習生たちが和気あいあいとトレーニングしている様子が、全国放送で流れることになった。

 歌舞伎町という立地に眉をひそめていた人々も、さわやかで明るい雰囲気に惹かれたのか、「テレビを見てファンになった」「ボクシングのイメージが変わった」と、番組ホームページに好意的な評価を書き込んだ。子どもを入会させたいと、見学に来た母親もいた。

「こうやって、ここからどんどん、強い奴が育ってってくれたらうれしいな」

 父から受け継いだ炎を広げることを使命と信じている夏希は、満足そうだ。

 熱っぽく楽しそうに指導している彼を見ていると、生命の中に、ここへ来たばかりのころのことが蘇るのだった。反抗的な態度をとっていた自分を、ジムの誰もが温かく迎え入れてくれた。金に目がくらんで卑怯なことをしようとしたときも、夏希は許してくれた。得たものに満足することなく、次々に新しい敵に挑んでいく夏希は、きらきら輝いているように見える。

(ヤベェ、どんどん好きになってくじゃねーか……)

 そばにいる一秒ごとに彼への想いが募っていくのが、生命には分かっていた。



「スパーリング?」

「せや。階級上げてから、一回しか試合してへんやろ? これまでずっとフライ級やったからな。スーパーフライ級の身体で、ベルト賭けた試合する前に、もうちょっと経験してみたいんや。せやから、スーパーフライ級の強い奴がおるとこ探して、スパーリングの約束とりつけてん」

 夏希は、うきうきしている。戦いたくてしかたがないのだろう。

 トレーニングにも熱が入っているようで、サンドバッグを叩く音が、いつもよりさらに軽快だった。

 スパーリングの相手は、WBCスーパーフライ級のランキング五位に君臨している、萩原(はぎわら)巽(たつみ)という男らしい。

「同い年やしな、負けとうないわ」

 彼の所属している駒関(こまぜき)ジムは、現役時代の春間悠介のライバルが開いたジムである。おまけに巽は、慶応大卒のおぼっちゃまで、涼しげな美貌の持ち主でもあり、夏希としては、何としてもKOしたい相手だった。

「そういうわけやからな、生命。練習つきあって」

 夏希は、ヘッドギアを差し出してにやりと笑う。

「自分も強うなれるし、一石二鳥やろ?」

 好きな相手と、喧嘩しているわけでもないのに殴りあうというシチュエーションは、何とも不条理なようでありながら、倒錯的で魅力的だ。

「共同作業は両想いへの第一歩だよ」という天楽のアドバイスに従って、生命は、素直にリングに上がる。

 彼とのスパーリングは久しぶりだ。想いを伝えてからは、初めてかもしれない。

 天楽と蛯須にセコンドについてもらって、模擬試合形式の真剣勝負を開始する。

 練習生たちが熱心に見守る中、距離を詰めようとする夏希を、生命は器用に躱した。

 見惚れてしまうくらいに研ぎ澄まされた瞳が間近にあるが、今気を取られていたら、一撃で失神するほどの重いパンチをくらってしまう。

 恋心は脇に置いて、スウェーでジャブを躱す生命は、ふと、夏希の変化に気づいてしまった。

(何か……あんま痛くねェな)

 二、三度ボディーにパンチが入ったのだが、以前と比べて、威力が五分の一くらいに減っている。正確さやスピードは今までどおりなのに、ダメージだけが小さくなったように感じるのだ。

(ナツ、弱くなったんじゃなくて……手加減してんのか?)

 ヘッドギアに隠れて読み取れない表情を、生命は何とか解読しようと試みた。けれど、夏希のボディーブローは時間をかけてじわじわ効いてくるので、うかつに気を抜くことはできない。

 緊迫の第三ラウンド、顔狙いのフェイントで生命のガードを上げさせ、ワンツーで仕上げにかかった夏希は、とどめの三発目をなぜか、寸止めにした。

「だいたい、感覚掴めたわ。もうええで、生命。おおきに」

 思いきり打ち込んでくるはずの右手で、生命の肩を労うように叩く。

 ヘッドギアを脱ぎ捨て、さらりと長めの髪を振る夏希を、誰もが驚いた顔で見つめていた。スパーリングとはいえ、夏希がとどめを刺さないことは珍しかったからだ。

 スーパーフライ級の体重になっても、十分「キレてる」と感じさせる身体を保っていて、軽やかに己を操っているのは分かったが、寸止めの理由だけは誰にも分からない。

「ほな次、山下とひーやんに、なっちゃんの必殺・コークスクリューパンチ教えたるな」

「わーい!」

 リングを降りた彼の背中を、生命は、訝しげにじっと見つめていた。薄い身体の中央に隠れている、心を読もうとするように。



「なぁ、天さん。ボクちょっと調子狂ってんねん。何でアイツの腹、打たれへんかったんやろ」

 つぶやくように言った後、鼻の辺りまで湯に浸かり、夏希は、ぶくぶくと泡を作り始めた。自分のことが分からなくて、戸惑っているのだろう。

「本当だよねー。オレ、ナッキーが手加減したの、初めて見たよ」

 天楽は、落ち込んでいる様子の夏希の肩を優しく撫でる。

「こんなんで、ボク、二階級制覇できるんかなぁ」

 四回戦ボーイの生命さえKOできないようでは、スーパーフライ級のチャンピオンを相手にすることなどできるわけがない。

「ナッキー、大丈夫だと思うよ。オレ思うんだけどさ、打てないのは生命だけなんじゃない? 他の奴なら、いつもどおり力いっぱい打てるんじゃないかな?」

「え……」

 夏希は思わず、湯の中からざばっと拳を出し、ぐっと握って見つめた。

 スランプに陥ったのかと思ったら、遠慮してしまうのは相手が生命だからではないかと指摘されて、頭が真っ白になっているのだ。

「試しに今、オレにストレート打ってみなよ。思いっきりやっていいからさ」

「うん……」

 お言葉に甘えて、湯船から上がり、鍛え上げられて見事に割れている天楽の腹部めがけて、拳を打ち出してみる。

「――ッ」

 ……打てた。

 バシッとイイ音がして、天楽がうずくまる。

「ごめんっ、天さんごめんっ。本気出してもたっ」

 慌てて駆け寄ると、天楽は「大丈夫」と顔を上げて笑った。

「ほら、大丈夫じゃん。ナッキーはやっぱり、生命のこと意識してるだけだよ。自信持って二つ目のベルト獲っておいで」

 温かい言葉にこっくりうなずいたものの、夏希の中には、新たな疑問が湧いてきている。

「何でボク、あんな奴のこと意識してんねんやろ……」

 仲間としては大切だが、べつに愛しているわけではない。

 相手が自分に惚れているのがおもしろくて、からかって遊んでいるだけだ。

「あ、それ、ここで考えないほうがいいぜ。のぼせちゃうからさ。お風呂出てから、ゆっくり考えなよ」

 オレもバイトあるし、と天楽は風呂を出ていく。夏希が拳を当てた個所は、真っ赤になっていた。

「ごめんな、天さん。つきあわして」

 夏希は、おかしくなってしまった自分に困惑しながら、着替えをすませてバイト先へ向かう天楽を送り出した。



 こないなったん、アイツのせいや、ぜったい。

 アイツがへんなこと言うからや。

 なぁ、お父ちゃん。何であんな奴と出会ってしもたんやろ。

 まだ生きていたころの父が映っている、お気に入りのビデオを見ながら、夏希は悶々としている。生命も今夜はバイトでいないし、みんなも帰ってしまって、一人きりだ。

 ビデオが終わった後、ベッドに寝転んで、夏希は初めて、生命のことをまじめに考えた。

「アイツ、もうすぐ十九やったっけ。顔もまぁ悪うないほうやし、女ぐらいすぐ捕まえれるんやろうな。このへんソープいくらでもあるし……。せやのに、何でボクなんか狙ってんねやろ」

 生粋のホモなのかと思ったが、昔は彼女がいたこともあるそうだし、なら抱かせてやると誘っても、身体だけならいらないと意地を張ってノッてこない。

「意外と硬派なんやな。ボクの何がそないええんか分からへんけど」

 父が生きていたら何と言うだろうかと、考えてみた。

 悠介は基本的に、同性愛や特殊な性癖に偏見のないタイプだった。現役時代は、同じジムの仲間に熱く迫られたこともあったという。もっとも、彼はガッチリした男らしいタイプだったので、「抱かせてくれ」ではなく「抱いてくれ」と頼み込まれていたらしいが。

「差別する気はあらへんのやけどな、わいは男とはやれんかってん。ボクシング以外興味なかったし、トレーニングでへとへとで、男のケツ掘る元気残ってなかったしな」

 ガハハハ、と豪快に笑いながら話してくれた。

 夏希も、父と同じく、ボクシング以外に目がいかない青春時代を過ごしてきたが、一度くらいはセックスしてみたい、と思っている。後腐れなく、一回経験してみたい。愛なんてなくてもいいから、練習試合のような感覚で。減るもんじゃないし、相手は男でも女でもいいのだが、男のほうが妊娠の心配をしなくていいし、アナルセックスは気持ちいいと聞いたことがある。

 風俗に行こうかと思ったこともあるのだが、「ボクサーとしての鋭利な感覚が蝕まれるからやめておけ」と父にきつく止められていた。恋愛も禁止されていたので、誰かに好意を抱いたこともない。父が死んで二年も経つのだが、戒律を守り続ける敬虔な信者のように、未だ童貞のままなのだった。

 そんなときに生命に告白されて、少し気持ちが緩み始めているのに、肝心の相手が一歩引いてしまっている。

「生命の奴、ボクがせっかくケツ貸したる言うてるのに、ヘンに意地張って、手ェ出してけえへんもんな」

 仰向けに寝転び、腕組みして、足をバタバタさせる。いつも運動していないと落ち着かないのだ。そのまま軽く腹筋して、起き上がる際にパンチを繰り出す練習をする。身体を動かしていると、モヤモヤが吹き飛んでいくような気がした。

「ふっ、あと五十×三十セットくらいやな」

 もう考えるのはよそう、今大切なのは、二階級制覇の達成だけだ。

 夏希は頭をからにして、眠くなるまで腹筋を鍛え続けた。



「世界チャンピオンの春間さんとスパーできるなんて、光栄です。遠慮せず、思いっきり打ち込んできてくださいね。僕も、春間さんをKOする気でやらせていただきます」

 夏希のスパーリングの相手を務めてくれることになった駒関ジムの萩原巽は、礼儀正しく頭を下げて、にっこり笑った。育ちがよさそうな、爽やかで凛とした雰囲気の美青年だ。黒髪に整った顔だち、長い睫毛が甘い声によく合っている。頭もいいらしく、口角を上げて言葉を選びながら話す。はにかんでいるような笑顔が可愛いと、涼王と並んで女性人気の高い選手である。

「こっちこそよろしくな。タメなんやし、敬語使わんでええで」

 夏希は内心「ケッ」と思いながらも、手を差し出して軽く握手した。スパーリングを申し込んだのはこちらなのに、今日は萩原のほうがわざわざ、春間ジムまで来てくれたのだ。

「歌舞伎町って、来たことがなかったんで、一度歩いてみたかったんです。派手でにぎやかなところですね。うちは巣鴨なんですけど、同じ東京なのにずいぶん違うなって思いました」

「好青年」という言葉がぴったりあてはまりそうな素直な感想を述べる萩原は、夏希とは正反対のタイプに違いない。今日のスパーリングに立ち会う生命も、彼のような、屈折したところのまるでない人間は苦手だった。

「あたりまえやろ。歌舞伎町は巣鴨みたいに、じいさんばあさんがのほほんと歩けるとこちゃうんやからな」

「そうですよね。危ないからぜったい行くなって、両親に止められてまして。今日、夏希さんとのスパーリングを口実に、歌舞伎町に来られて本当にうれしいです」

「そらよかったな」

 口には出さないが、夏希は、「このぼんぼんがぁ」と言いたげな顔をしている。それが分かるのは、生命も同じ気持ちでいるからだ。二人とも、血統書付きで文武両道の好青年なんか大ッキライだった。

「さっそくで悪いねんけど、そろそろ始めようか」

 夏希は、いけ好かない相手をリングの上に誘った。

 昼間なので他の練習生の姿はなく、生命と桃瀬トレーナーだけがこのスパーリングに立ち会う。駒関ジムからも一人、萩原の専属トレーナーが付き添ってきていた。

 萩原は持参のグローブをはめ、ヘッドギアとマウスピースを装着して、リングに上がった。とたんに、先ほどまでの柔らかい印象が消え、ボクサーとしての気迫が漂い始めるから不思議だ。

「ボックス!」

 桃瀬トレーナーが、本番と同じように、試合開始の合図をする。

 世界チャンピオンと上位ランカーの一騎打ちが始まった。シュッ、シュッと紙を切り裂く剃刀のように鋭い音をたてるパンチが、両者の中間で混じり合い、桜吹雪のような汗が飛び散る。

 ラウンドは進むが、どちらもガードが堅いので、パンチが一度もヒットしなかった。フェイントを混ぜたフリッカージャブが得意な夏希だが、相手も同じ技で返してくるので、手こずっている。

 体調は万全なのに、なぜか今日も、実力のすべてを出し切れていないような気がした。

(何でやろ、何かめっちゃ緊張する。マスコミも来てへんし、ベルトもかかってへんのに)

 なぜだと自問したとき、ふと、強い視線を感じた。

 冷静さと熱さを同じ分量持ち合わせた瞳が、自分をじっと見つめている。

(生命……)

 たくさんのファンや仲間の目の中で育ってきて、見られることには慣れているはずなのに、なぜか胸が高鳴って苦しい。

(何や気持ち悪い、あんな奴ただのヘタレホモやのに……)

 夏希をずっと支えていた集中力が揺らいだ瞬間、フットワークが乱れた。

 萩原が、そのチャンスを逃すわけがない。誰にも打たれたことのない夏希のテンプルに、見事なストレートを打ち込んだ。上体の揺れが大きいのは、萩原が、強打を誇るハードパンチャーだからだ。

「――ッ」

 夏希は、ぐらりとしたものの何とかダウンせずに体勢を立て直し、打たれた腹いせのように、ガードの上からパンチを重ねた。

 萩原は、打たれながらも前進し、食器を並べたテーブルクロスを引き抜くような鮮やかさで、もう一度、夏希の顎にパンチを喰らわせた。

 顎を打たれると、一瞬くらっとする。脳にまで衝撃が伝わるからだ。

 ヘッドギアをしているとはいえ、威力はそれほど弱まらない。

 夏希は初めて、ロープに倒れ込んだ。

「一、二、三……」

 生命は、目の前の光景を信じられないままカウントする。

 父の仕込みで、打たれることも学んでいる夏希は、ダウン状態から起き上がり、「まだやれる」と顔の前に腕を上げて示した。

 その瞳に、闘志以外の感情が混じっている。

(ダウン取られてもた……)

 そのショックが、次のラウンドまで尾を引いた。

 胃の辺りを強く打たれて動けなくなり、足の動きが鈍ったところで鼻をやられてしまったのだ。当然出血し、興奮しているためか止血しても血が止まらず、だいじな時期である今、これ以上負傷してはまずいからと、桃瀬が試合をストップした。よってこのスパーリングの結果は、夏希のTKO負けということになったのである。

 夏希は、萩原とグローブを合わせて一礼したものの、心ここにあらずといった様子で蒼白になっていた。いつも強い輝きを湛えている瞳が、今は虚ろになって自身の拳を見ている。

「まぐれですよ、まぐれ! ほら僕、運がいいって有名ですから! あ、でも、次はきっと、ベルト賭けて勝負してくださいね!」

 萩原が、うまいんだか下手なんだか分からない慰めの言葉をかける。

「……せやな」

 うなずいた夏希は、グローブを外し、バンテージをほどいて椅子に腰を下ろした。立っている力もないように見えた。不器用で口下手な生命には、こういうときの接し方が分からない。

 正式な試合ではないとはいえ、夏希が敗北を喫するのは初めてだったのだ。

 表情は変わらないが桃瀬トレーナーも相当驚いているようで、心の底では激しく動揺しているらしいのが、その背中から伝わってくる。

「負けたんやな、ボク。アイツに、負けたんやな……」

 萩原が帰った後、夏希は、魂の抜けたような顔で、ブツブツつぶやいていた。鼻血はもう止まっているが、打たれたところはまだ痛むらしく、みぞおち辺りを押さえている。

 桃瀬トレーナーは、かける言葉もないといった顔で、ジムを出ていってしまった。練習生たちが来るころまで、戻ってこないつもりだろう。

 ジムに二人っきりになり、生命はようやく、夏希に歩み寄って、筋肉質で細い肩をそっと叩いた。

「ドンマイ、ナツ。気にすんなって」

 励まそうとしたのに、バシッと振り払われてしまった。

「自分に何が分かるんや!」

 肩が、震えていた。

 彼にとって、負けるということは、父から固く禁じられていた未経験の事柄だったのだ。春間悠介は、息子に敗北を許さず、そうならないために徹底的に鍛え上げていた。そして、いずれ来るかもしれない挫折のときへの対処法も教えないままに逝ってしまったのだ。

 亡父との誓いを破ったことがショックで、夏希は、心神喪失状態に陥っている。

「もう……お父ちゃんに顔向けできへんわ」

 ジムの壁にかけられた父・悠介の遺影をぼんやり見上げ、力なくつぶやいて、夏希は部屋を出ていった。

(……ナツ?)

 世界を制した男の精神がこれほど脆いなんて、と生命は戸惑いを覚える。

 自信家でビッグマウスで、過酷なトレーニングをいつも涼しい顔でこなしている夏希が、スパーリングで負けたくらいでここまで落ち込むなんて。四回戦ボーイの生命には、世界チャンピオンの夏希の心境は分からないが、それにしたって……。

「おい、どこ行くんだよ!」

 このまま放っておくのは危険な気がして、生命は慌てて夏希の後を追った。

 ざばぁ、と大量の水を地面にぶちまけるような音が聞こえる。夏希は、ジムの裏の庭のほうにいるらしい。

「ナツ、何やって……」

 庭を覗いた生命は、その光景に思わず、息を飲んだ。

 夏希は何と、水道の水をバケツに汲んで、頭からかぶっていたのだ。季節は秋、それも晩秋のころである。歌舞伎町にも冷たい風が吹き始め、水を見ているだけで寒くなってくるくらいなのだ。

 それなのに彼は、自分を責めるように容赦なく、水を汲んではざばぁ、と己にかけている。

「ちょ、ナツッ! 何やってんだよ、やめろって!」

 その壮絶な姿に見入っていた生命は、何度目かの水の音ではっと我に返り、バケツを頭の上に掲げている夏希を羽交い絞めにして止めた。

「何すんや! 邪魔せんといてくれてんか!」

 夏希が腕の中で暴れたので、バケツの中の水が、生命にもかかった。濡れた身体を抱き締めたついでに、冷たさをおすそわけされる。

 ふと見ると、夏希の瞳からは、明らかに水とは違う液体が溢れ出していた。

「ナツ……泣いて……?」

「泣いてへん! これは水や! かぶってたやつが目から垂れてるだけや!」

 頑なに否定する目が、強がりの証に赤くなっている。その涙は悔し涙なのか、それとも……。

 強情を張る夏希の小さな身体は、氷のように冷えきっていた。白い息を吐きながら、彼は、濡れた瞳で生命を睨む。

「……自分のせいやで、生命」

「は……? 何が?」

「せやから……負けたん。自分のせいや」

 人さし指を突きつけられ、澄んだ声で断言されると、本当にそうなのではないかという気がしてきて、不思議と罪悪感が湧いてきた。

「俺、何かしたか?」

「……見たやんけ。ボクのこと、焼いてまうくらい熱い目で、じっと見てたやんけ。何やよう分からんけど、自分に見られてる思たら、ヘンな感じになって、緊張して……集中できへんかってん!」

 自分が口にしているのが、ただの聞き苦しい言い訳でしかないことを、夏希はよく分かっている。父が生きていたら、「つまらん言い訳すな、負けは負けや」と叱られて、頬の一つもはたかれただろう。なのに、想いをぶつけずにはいられなかった。今回の不調の原因が自分でも分からなくて、うまく処理できなかったのだ。なぜ、生命の視線ごときで調子を狂わせてしまったのだろう。これまでどんなプレッシャーにだって耐えてきたし、厳格な父の前でさえ、全力を出し切って戦うことができたのに。思い悩む夏希の身体はびしょ濡れなのに、心臓の辺りだけが妙に熱い。

 生命は、何も言えずに黙りこんでいた。

(俺の視線に緊張して……って、意識してるってことなんじゃね?)

 確かにこの間から、夏希は少しおかしい。

 スパーリングでもなぜか、自分にだけ本気が出せないようだし。

(恋……してるだけじゃなくて、されてるって思っていいのか?)

 だとしたらうれしいが、今は喜んでいい場面ではない。

 沈黙を破って、夏希が一つくしゃみをした。

「とりあえず、中入ろう。今風邪引いちまったら、困るんだろ?」

 自分も寒くなってきた生命は、無言のままの夏希を抱きかかえるようにして、ジムの中へ入った。


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