第二章 熱のリングと幻の抱擁

「アイスでも食べるぅ? ボク、一個食べられへんから、半分あげるで」

 風呂上がりの夏希は上機嫌だ。

 首にタオルをかけ、シャーベットのカップとスプーンを二本持っている。細くて無駄のない身体を維持するために、カロリーの高いものはほとんど食べない夏希だが、実はアイスクリームが大好きなのだ。脂肪分の多いバニラやチョコは、誕生日くらいしか口にしないが、カロリー控えめのシャーベットはときどき食べている。一度に半分しか食べないので、残り半分は近くにいる者に分けてくれるのだ。最近その相手はもっぱら、生命である。

「あぁ。じゃあ、ちょっとだけ」

 ラッキーなことに太りにくい体質の生命は、いつものようにぶっきらぼうにうなずいた。

「皿出すん面倒くさいからな。このままでええやろ」

 カップルみたいやんな、と笑いながら、夏希は生命の隣に腰を下ろす。二階のリビングのソファは、三人掛けのゆったりサイズで、くつろいでテレビを見るのにぴったりだった。

 トレーニング中はボクサーの顔をしている夏希だが、それ以外はごく普通の二十三歳だ。テレビを見たり音楽を聴いたり、ボクシング以外の話をすることもある。

 レモン味のシャーベットを分け合いながら、二人は無言でバラエティー番組を見た。出会ってから半年以上になるが、生命は未だに、夏希や他のメンバーから距離を置いていた。どんなに壁を作っても、どんどん壊して踏み込んでくる奴ばかりなので、結局関わるはめになってしまうのだが。

「なぁ。アンタはさ、『怖い』とか思わねェの」

 視線はテレビのほうに向けたままで、生命は珍しく、自分から夏希に話しかけた。

「え、何が?」

 下ネタにバカ笑いしていた世界王者は、きょとんと面食らった顔をする。

「だからさ、試合前。ビデオとか見て相手のこと知っていくうちに、怖くなったりとか……しないわけ?」

 誰にも言えなかったが、本当は、初めての試合の日が来るのが恐ろしいのだ。これまで何度も喧嘩をしたし、一人で大勢を相手にしたことだってあるのに、リングに上がるのがなぜかとても怖い。処刑の日を待つ死刑囚ではないが、カチカチとそのときへ向けて進む時計の針の音が、耳の中で響いているようだった。感情があまり顔に出ないほうなので、「行本は肝が座っている」と桃瀬には褒められるのだが、心の中ではガタガタ震えている。

 同じ日に防衛戦を行う夏希はケロッとしているので、経験を積むとそうなるのだろうかと、度胸の秘訣を伺いたかったのだ。

「はは、何や、そんなことか」

 ククッと笑って、夏希は言う。

「怖いに決まってるやんか、ボクやって。ラクになる方法あるんやったら、こっちが訊きたいわ。みんなの前では平気な顔してるねんけど、胸ん中ではちびりまくりやで、実際」

 ベルト取られたらどないしようかと思うてる、と夏希は、真剣な顔で小さくつぶやいた。

 タオルを外した首筋から、ふわっと柑橘系の香りが立ちのぼる。人に見られる肌を美しく保つために、ボディーバターを愛用しているのだ。生地の薄い黒のタンクトップが、引き締まった身体にまとわりついて、何ともいえぬ色香を放っている。

 夏希が、見た目どおりのしとやかで愛らしいキャラでなくてよかったと、生命は思った。ごくっと唾を飲み込むついでに、あやまちを犯してしまいそうだったからだ。血気盛んな年頃の自分を制することができるのは、パッケージ詐欺な夏希の性格のおかげに他ならない。うっかり押し倒してしまっても、「何すんねん!」とどつかれたら、一瞬で正気に戻れそうだ。

「怖いって思うんはあたりまえやけど、そこでほんまに逃げてもたらあかんって、お父ちゃんがよう言うてた」

 夏希の中にあるのはいつも、亡き父のことだ。彼の言葉や、生き様を通して伝えた美学が、プレッシャーと闘い続ける夏希を強く支えている。身体の芯にまっすぐ通った背骨のように。

「アンタって、マジで親父さんのことが大好きなんだな」

 ろくでもない父のもとに生まれた生命には、分からない感覚だ。父を尊敬し、死後も慕い続けるなどというのは。

「あたりまえやろ。世界一強うて優しいお父ちゃんやったんやから」

 夏希は、当然のように言ってのける。普通の親なら、どこかで子どもに追い抜かれてしまうのだろうが、悠介は命を落とす日まで越えられない存在であり続けたし、早くに亡くなったために、永遠に届かない場所で輝く星になれたのだ。

「お父ちゃんが教えてくれたこと、ボクはだいじに受け継いでいかなあかん思てんねん。せやから、どんなつらい思いしても、怖ぁても痛(いと)うても、ボクシングやめへんのや」

 夏希は、雑誌のインタビューにも、似たようなことを答えている。自分にとってボクシングは、「身体で夢を語り継ぐこと」だと。

 父に名トレーナーがいてボクシングのよさを伝えたように、たくさんの選手が刻んだ長い歴史の中で今、自分もその伝説を受け継いでいる。技だけでなく、想いや意地や悲哀も。

 世の中が暗く翳って、保守的な生き方が「幸せ」とされる時代になっても、

「せっかく生まれてきたのに、戦いもせんと、他力本願で漠然と生きていくんはいやや。得るもんより失うもんのほうが多うても、全身全霊でひたむきに生きていきたいねん」

 と、夏希は射抜くようなまなざしで前を見て宣言する。

 傷つくことを恐れずにすむ方法などを尋ねたのは、どうやら間違いだったらしい。戦うための度胸は、一朝一夕で身につくものではないのだから。不安をかき消したかったら、敵より一秒でも長く、真剣に自分を磨くしかない。

「俺、もう一回走ってくる」

 何かに急かされるように立ち上がった生命を、夏希が呼びとめた。

「やる気になったご褒美に、いちばんおいしいとこ食べさしたるわ」

 にやっと笑って、カップの中で溶けていたシャーベットをスプーンに集める。

「はい、あーん」

 無意識の間接キスは、濃厚なレモンの味だった。



 歌舞伎町の夏の夜は、外の世界の昼だ。ここでは夜が主役になって、何かしら闇を抱えて生きる人々を操っている。

 春間ジムは、旧コマ劇場に突き当たるセントラルロードにあるのだが、ロードワークに適した道に出るには、立ち並ぶ風俗店の客引きの間をすり抜けて、歌舞伎町を出なければならない。さまざまな誘惑を振り切って、アブナイ人にぶつからないように注意しながら歌舞伎町を抜け出すのは、一種のスリリングなゲームのようだ。

(ボクシングジム造るなら、わざわざこんなところにしなくたって……)

 軽く走りながら、生命は胸の中でつぶやく。

 彼にとってはたんに騒々しいだけの街だが、創設者の春間悠介は、生まれ育った歌舞伎町に深い愛着を持っていたに違いない。運命を変えてくれた人との、出会いの場でもあるのだから。

 ようやく人通りの少ない場所へ来て、生命はスピードを上げる。無理やり握らされたちらしや名刺は、目についたゴミ箱に捨てた。気の強い夏希は、このテのものをいっさい受け取らずに、夜の歌舞伎町を端から端まで歩けるらしい。風俗嬢に誘われるより、ゲイバーやホストクラブで働かないかと勧誘されることのほうが多いそうだが。

(何で俺、アイツのことばっかり考えてんだろ)

 女っ気のない環境に身を置いているせいで、無意識のうちに彼を代替品にしているのだろうか。

(今は借金のことだけで手いっぱいなのによぉ)

 公園の手洗い場で顔を洗って、自分に喝を入れる。

 首にかけたタオルで水滴を拭っていたら、ふいに後ろから声をかけられた。

「よぉ。こんな時間に走ってんの? 気合い入ってんじゃん、春間のルーキー」

 大きな輪っか状のピアスに刈り込んだ金髪、鋭い瞳が印象的な、細身で筋肉質の青年だ。彼も走っていたらしく、迷彩柄のトレーニングウェアに、ダークブルーのスニーカーを履いている。太めの首に揺れる金色の十字架が、重みのある輝きを放っていた。どこかで見たことがある気がするが、彼のような顔だちの「不良っぽいイケメン」は珍しくないので、思い出せない。

 誰だ、と怪訝な顔をした生命に、相手はにやにやしながら近寄ってくる。

「何だ、俺のこと知らねェのかよ」

「知らねーよ。てめえみてーなガラ悪ィ奴」

 は、と男の口元に呆れたような笑みが浮かぶ。

「浦沢涼王だよ。オマエんとこの春間夏希に、挑戦する予定のな」

「……っ」

 生命は、言葉を呑んで相手をじっと見つめる。

「なぁ。俺から一つ、オマエにお願いがあるんだけど」

 涼王は、ポケットから小さなガラス瓶を取り出して、月光にかざしながら言う。

「春間の野郎に、一服盛ってやってくれねーかな。試合で思いどおり動けねェように、さ」

 とんでもない「お願い」だった。

「んなこと……」

 できるわけねーだろ、と突っぱねる前に、ぐいと胸ぐらを掴まれる。

「もちろん、やってもらうだけじゃねェ。ギブアンドテイクだ。俺は、オマエの欲しいものをやるよ。金が欲しいんだろ? 知ってるんだぜ、借金あるんだってな」

「――っ」

 誰にも口外していないことを、なぜ初対面の彼が知っているのだろう。

 なぜ、と尋ねる前に、涼王が先回りして答えた。

「オマエの借金取り立てしてる奴がな、うちに出入りしてんだよ。兄貴のダチでな、酒が入るといろいろしゃべってくれる。おかげでたいていのことはお見通しよ」

 まだデビューしていないためにビデオなどの映像もない生命の顔を知っていたのも、彼から情報を仕入れていたからだろう。

 ガラスの瓶を握らされ、生命は、中の液体を無言で見つめた。

「なぁ、頼むよ。ここんところ負けがこんでて困ってんだよ。この試合で千五百万くらい入ってくるだろうし、テレビの出演料とかも、みんなやるからさ。手ェ貸してくれよ」

 涼王は、しつこく食い下がってくる。

 下手に出ているわけではなく、脅すような、低いトーンの声で。

「……」

 返事をせずに視線をそらしている生命の心は、揺れていた。

 彼との取引に応じれば、借金の返済が少しラクになる。一億二千万もの借金を背負いこんでいるのだから、手段を選んで地道に返していたのでは、いつまでたっても妹を取り返すことはできない。

 試合に出れば、生命もファイトマネーがもらえるのだが、四回戦の彼の取り分は、たった二万円ほどらしい。何も知らずに「十万はもらえるはずだ」と考えていた生命は、バイト代よりはるかに安いその金額に驚いた。命を失うかもしれない試合で得られるのが、一万円札二枚だとは。ホストでもやったほうがよっぽど稼げるに違いないのに、内村たちはなぜ自分をこんな世界に放り込んだのだろう。

 改めて、ガラスの小瓶の中味に注目する。

「何なんだよ、この瓶に入ってるのは」

「あぁ、これ。下剤だよ。すげぇ効くやつでな、減量がうまくいかないときにゃ、みんな世話になってるぜ。日本じゃ売ってねェからな、うちのジムで直輸入してるんだ。ちょっと飲みすぎたってしばらく動けなくなるだけで、命に関わるような危険なもんじゃねーよ」

 本当かどうかは分からないが、さすがに、夏希の命まで取る気はないだろう。

「……ちょっと、考えさせてくれ」

 生命は、魂を半分、悪魔に売り渡した。

 夏希がどんな思いで試合に臨んでいるか、どれだけベルトを大切にしているか、知らないわけではないのだが、金の誘惑には勝てない。

(さっさと借金返して、ここから出ていきてェんだよ)

 みんなが熱心に指導してくれるので、その熱さと真剣さに流されてしまいそうになることもあるが、自分は決して、ボクサーとしてやっていきたいわけではない。

 殴られれば痛いし、トレーニングはきついし、逃げ出したいと思わない日はないのだ。るなを人質に取られているのでなければ、三日もしないうちに脱走していたに違いない。

「当日、春間の野郎が負けるように仕向けてくれたら、相応の報酬払ってやるよ。何ならアイツに、貸してる金まけてくれるように頼んでやってもいいぜ」

 涼王は、喉の奥で笑って、魅力的な条件を連ねる。

「……あぁ」

 生命は、受け取った小瓶をポケットにしまった。

 それを「承諾」と見なした涼王は、にやりと口元を歪める。

「じゃあな、期待してるぜ」

 冗談交じりの投げキスを残して、走り去ってしまった涼王を見送り、気が済むまで走り込んだ生命は、少しの罪悪感を背負って春間ジムへ戻った。


 やるべきか、やらざるべきか。

 迷っているうちに、試合の日が刻々と近づいてくる。

 初めての試合への恐怖感は、涼王との約束にかき消されて、薄れてしまっていた。

 生命にとっては、自分がリングに上がることより、夏希に一服盛ることのほうが恐ろしいのだ。

 何も知らない夏希は、サウナに入ったり食事を減らしたりして、計画どおりに、身体を極限まで絞り込んでいた。もともと細い彼だが、試合のない時期のナチュラルウェイトは四十九・五キロなので、試合前にはほんの少しだけ減量するのだ。計量には、フライ級の下限ぎりぎりの四十九キロで挑むことが多い。

「四十九・一キロやで、今。モデルさんみたいやろ」

 へらへら笑っているが、筋肉質で無駄のない肉体を削るのは、相当キツかったに違いない。おまけに、彼は減量中も普段と同じようにトレーニングをこなしている。体力の消耗を防ぐため、量を減らしたりペースを落としたりするのが普通なのだが、夏希は昔から、少ないエネルギーでも同じ動きができるように鍛えているのだ。

 そんな姿を見ていると、金のために薬を盛ろうとしている自分が醜く思われて、彼の目をまともに見ることもできなくなった。

 試合前のボクサーの仕事は、減量とトレーニングだけではない。

「おまえら、しっかりチケットさばいてこいよ」

 トレーナーに渡されたチケットを自ら売り込んで、その売り上げがジムの収入になるということも、生命は初めて知った。

「チケットをファイトマネーとして支給して、売り上げをボクサーの手取りにしてるところもあるんやけどな、うちはそこまでエゲツないことは言えへん。ファイトマネーはちゃんと現金支給や。売れんかったぶんはジムで何とかするし。せやけど、みんな手ェ抜いたらあかんで。一枚残らずしっかり売ってきいや」

 試合に出る四人が中心になって、歌舞伎町を回り、買ってくれる人に売りさばいた。

 チケットの大半はネットやコンビニで売られるのだが、何割かは選手が手売りするのだ。

 不慣れな上無愛想なので、ほとんど売れない生命を、みんなが手伝ってくれた。

「残ってんの、よこしなよ。オレまだ、回ってないとこあるからさ」

「夏希さんの名前出せば、すぐに売れますよぉ。この辺り、ボクシング好きな人けっこういますからねェ」

 天楽も蛯須も、無口でぶっきらぼうな生命を、ちゃんと仲間として扱ってくれる。

 生命が彼らとスパーリングを重ねる様子を見て、夏希があれこれアドバイスし、勝てるように鍛えていく。

「ほら、隙作んなや。ガード下がってんで。ワンツーで攻めた後は、すかさず三発目の手ェ出すんや」

 言葉はきついが、指導は的確だ。

「ぜったいぜったい、四人全員KOで勝とうな。気合い入れていくで、みんな!」

「おーっ!」

 試合が近づくにつれて、ますます熱を上げている。

 テレビや雑誌の取材も来たし、ネット上でも話題になっているようだった。

 生命は、ガラスの小瓶を手に、未だ逡巡していた。

 試合前日の計量を、全員無事にクリアし、あとは決戦のときが来るのを待つだけになっている。今夜にでも約束を果たさなければ、借金返済へのめどはたたない。

「あー、やっと好きなだけ水が飲めるわー」

 生命の手の中にあるものになどまったく気づいていない夏希は、腰に手を当て喉を鳴らして、おいしそうに水分補給している。

 計量をパスした後は、体力を回復するために、たっぷりと栄養をとるのだ。

「明日に備えて、最後のロードワークに行こっかな。自分もいっしょに来るか?」

 今日はジムが休みなので、他に誰もいない。

 生命は、小瓶をポケットに忍ばせて、彼についていった。もしかしたらどこかで、チャンスが訪れるかもしれない。

 行き先は、この間生命が涼王と出会った公園だった。空は曇っていて、夕方なのに辺りはやや暗く、髪がなびくほどの向かい風が吹いている。

「ええシチュエーションやな。風を引き裂いて走ろか」

 夏希はそれでも上機嫌だ。幼いころからめちゃくちゃなトレーニングをしてきているので、この程度の逆境は屁でもないのだ。

 風に逆らってダッシュを繰り返し、へとへとになったところでトレーニングを終えて、夏希はトイレに行った。

「ちょっとこれ、あずかっといてや」

 ペットボトルとパーカーを、生命に押しつけて。

(……チャンス、ってやつか?)

 やるなら今しかない。後ろめたいのを少し我慢すれば、苦境から脱せる日が近づくのだ。

(ひょっとしたらこれで、半分は返せるかもな)

 涼王は、借金を減額できるよう交渉してやると言っていた。チャンピオンになればテレビ出演も増えるだろうし、この取引で受け取れる額は相当なものになると見ていい。

(そうしたらもう、こんな奴とこんなことしなくてすむんだしな……)

 不良だった中学生時代は、テスト前のガリ勉野郎に下剤を盛ったりしていた。その悪戯の延長にしては、夏希が賭けているものはあまりに大きく、学生の比ではないと、知らないわけではないのだが……。

 生命は良心を押し殺し、ペットボトルの蓋をあけて、小瓶を傾けた。

「……よし」

「何がや?」

 つぶやきを拾って、低い声が背後から問う。

「何が『よし』なん? なぁ。生命、さっき何やってたんか言うてみ?」

 ドスのきいた声で言う夏希は、恐ろしく強い力で生命の胸ぐらを掴んでいる。

 これまでにも、強い奴と一対一で喧嘩したことがある生命だが、今夜の夏希は気迫が違いすぎる。二重の黒い瞳がきゅっとつりあがり、人を動けなくする光を宿して、生命をまっすぐに睨んでいた。

 からになった小瓶が、生命の手から滑り落ち、地面に転がって音をたてた。それを拾いあげた夏希は、ラベルを見て、中味が何なのか悟ったらしい。すべて外国語で書かれているのだが、減量効果の高い下剤として、ボクサーの間では有名な薬だったのだ。

「ヒトがだいじな試合控えて必死でがんばってるときに、こんなもんで邪魔しようとするや、ええ度胸やな」

 スニーカーの底で、不機嫌そうに瓶を踏みつけ、ますます強い力で、生命の胸元を絞め上げる。

「何でこんなことしたか、とっとと吐かんかい。言えへんかったら、このまま絞め殺すで」

 ヤクザ顔負けの声と瞳で脅されて、生命は、洗いざらい吐き出した。

 多額の借金を背負っていることも、妹を人質に取られていることも、その弱みにつけこまれて、涼王と取引するはめになったことも……。

「呆れて、ものが言えへんわ」

 すべて聞き終えた夏希は、吐き捨てた。

 声が、怒りに震えている。まっすぐに生きてきた彼にとって、涼王の卑劣な計画や、それに乗ろうとした生命は、許せないものだったのだろう。

「ボクがどんな気持ちでボクシングやってるか、自分には全然分かってへんかったんやな」

 裏切られた、という悔しさと情けなさが、白い肌を上気させている。

 父と二人でめざし、長年の努力の末に勝ち取ったベルトを奪い取られそうになったことも腹立たしいが、「勝利」を金で売り買いしようとするその精神はもっと許しがたい。

 生命はふいに両肩を掴まれ、ガクガク揺さぶられた。

「なぁ、自分、どんだけ勝手なことしてくれたら気がすむんや。そら、借金作ったんは自分のお父ちゃんが悪いんやろけど、金に釣られて魂売るんやサイテーやんか! 今、いろんなとこで八百長とかが問題になっとるん知ってるやろ! 自分がやろうとしたんは、それといっしょのことなんやで! ガチの試合楽しみにして来てくれるお客さんの気持ち、裏切ろうとしたんやで! 分かるか!」 

 夏希は、ボクシングのイメージをよくしようと、金や思惑の絡まないクリーンな試合を心がけてきたのだ。実力と努力だけを頼りに、客を沸かせる試合をしようと。

 ここ数ヵ月いちばん近いところで彼を見てきて、その切実な想いを知りながら、生命は、私利私欲のために踏みにじろうとした。

 夏希の怒りに重なるかのように、暗い色の空から、雨が降り始める。ポツポツ、はじめは細かった雨粒は、しだいに大きく強くなり、激しく地面を叩きだした。

 びしょ濡れの生命は、鋭い瞳に見据えられたまま、何も答えられない。

「何とか言えや!」

 腹立ちまぎれに押し倒し、腹の上に馬乗りになって、夏希は生命に詰め寄る。冷たい雨が、激昂する彼の身体に容赦なく降り注いだが、その芯に燃え盛る炎を消し去ることはできなかった。

「……ごめん」

 ようやく、小さな声で生命は詫びる。

 一度も素直に謝ったことがない彼の初めての謝罪を、夏希は受け取らなかった。

「ごめんですんだらケーサツはいらんわ!」

 左手で生命の胸ぐらを掴んだまま、右の拳を振り上げる。

 ――やられる。

 生命は覚悟して目を閉じた。

 が、鉄球に等しい強度を持つその拳が、生命の顔面に振り下ろされることはなかった。

 叩きこまれる寸前で止まった拳は、生命の鼻先で、怒りをこらえて小さく震えていた。

 滝の勢いで降る雨の中、かつて父が繰り返し言い聞かせた言葉が夏希の耳に蘇り、ぎりぎりのところで彼を思いとどまらせたのだ。

 ――ええか、ナツ。これだけは言うとくで。

 真剣な顔の父が、小学生の夏希に刻み込んだ言葉。

「何があっても、ぜったいに、友達しばいたらあかんで。ぜったいにや」

 ボクシングやるようになったら、これだけは守らなあかん。

 それでうっかりケガさせてもうたら、おしまいやからな。

 やっぱりボクシングやる奴は野蛮やって、せっかく掴みかけたヒトの心が、離れていってまう……。

「畜生ッ……!」

 押し殺した声を漏らす夏希の頬を濡らしたのは、彼の瞳から溢れ出した涙なのか、降り続ける雨なのか、生命には判別できなかった。



「なっちゃん、何か顔色悪くない?」

「何言うてんねん。そんなことあらへんがな」

「そうですかぁ? 何かほっぺた赤いですよぉ」

「防衛戦久しぶりやから、うれしいてしゃあないんや」

 試合当日、何ごともなかったかのように会場入りした夏希は、仲間に気遣われても、決して真実を漏らさなかった。本当のことを知っているのは生命だけだ。

 昨夜雨に打たれたせいで、脂肪の少ない夏希の身体はすっかり冷えきり、今は四十度近く発熱している。試合会場は後楽園ホールだったが、移動の車の中で、夏希はずっと眠っていた。この身体で試合に臨んだら、不利なのは間違いない。けれど、チケットもはけてしまっているし、棄権すれば罰金が発生する。何より、メインカードの夏希VS涼王を楽しみにやってくる観客をがっかりさせてしまう。

「KOで勝つで。春間ジムは負けへんって、みんなに見せてやろーや」

 うわごとともとれる熱っぽい科白を繰り返す夏希は、朝から生命と一言も口をきいていなかった。春間ジムの練習生が大勢、応援団として同行していたが、誰一人、二人の異変に気づいていない。

 第一試合は、四回戦ボーイの生命のデビュー戦だ。

 入場を促され、リングインした生命は、リングシューズでキャンバスを踏みしめて、どこにも逃げようがないことを実感する。夏希とのゴタゴタのせいで薄れていた恐怖心が、一気に息を吹き返した。街でルールなしの喧嘩をするのは少しも怖くないのに、審判もついているたった四ラウンドの勝負が、なぜこんなにも恐ろしいのだろう。

 相手は、赤根ジム所属の松永(まつなが)浩一(こういち)。百六十八センチ・五十三キロ、オーソドックススタイルの右ファイターだ。今日が三戦目で、すでに、二勝一KOの経験を積んでいる。黒髪を斜めに流した、気障な外見の十九歳だ。

「行本、集中していけよーっ!」

 桃瀬トレーナーが、リング下からがなっている。生命は、グローブをはめた右手を軽く上げて、それに応えた。

「ボックス!」

 レフェリーの合図で、試合が始まる。

 向こうはガンガン攻め込んでくるタイプらしく、フットワークを使って距離を詰め、スピード感溢れるジャブを打ち込んでくる。ガードして同じ数やり返すことを心がけるが、掠る程度であまり手応えがない。

 一ラウンド目はほぼ互角のまま、インターバルに入った。セコンドからアドバイスを受け、マウスピースを洗ってもらう。「がんばれよ」と励ましの言葉とともに身体を叩かれると、不思議と胸が熱くなった。敵と向かい合うのは自分一人だが、喧嘩と違って孤立無援ではない。後ろに控える仲間たちみんなが、生命の勝利を願ってくれている。

 夏希も、熱があることをまったく感じさせない顔で腕組みをし、まっすぐに立って生命を見つめていた。表情が険しいのは、怒っているからでも苦しいからでもない。試合を真剣に見ている証拠なのだ。

 ボクシングにすべてを賭けている彼は、春間ジムに所属するボクサー全員の試合をしっかりチェックしている。よいところは後で褒め、悪いところは指摘して、改善できるように徹底的に指導する。春間ジムが、悠介亡き後も最強のボクシングジムであり続けられるのは、そういった地道な努力の賜物なのだ。

 二ラウンド、三ラウンドと重ねるうち、生命もしだいに動けるようになり、パンチを当てられるようになった。しかし、テクニックや経験では相手のほうが上回っているのは言うまでもない。

「ボディーや、ボディー! ボディー打ったれ! 教えたやろ! 重心落として、腹狙っていけ!」

 夏希の声が耳に届く。振り返れないから見られないが、獲物をしとめるときの獣のような顔をしているに違いない。

 ――自分のことやキライやけど、ボクシングやってる奴で、なおかつうちのジムの奴やったら、応援したらんわけにはいかんやろ。仲間なんやから。金で魂売る奴でもな。どうせアホや、アホなんやからな、ボクは……。

 そんな声が聞こえてくるようだった。

 生命は、第三ラウンドの半ばを過ぎた辺りで、チャンスを掴み、渾身のボディーブローを相手の腹に叩きこんだ。

 とたん、夏希の弾けるような声が飛んでくる。

「そうやーっ! 今のパンチええで! できるやないか、生命。できるやないかい!」

 まるで自分のことのように、うれしくてたまらないといった様子だ。

 先ほどの一発が効いたのか足元が乱れ始めた相手を、生命は一気に攻めて、とどめのストレートでみぞおちを抉った。松永は、リングに膝をついてうずくまる。

 レフェリーが、ダウンした彼の顔色を見て、「続行は不可能」と判断を下し、決着がついた。

「ただいまの試合、三ラウンド二分四十一秒、KOにより、勝者ぁー、青コーナー・行本ぉー……生命ぃーっ!」

 席を埋めていた客が、拍手で包んでくれる。

 メインイベントが始まる時刻まで来ない客もいるので、現時点ではちらほら空席も見受けられるが、初めての勝利を収めた生命には、拍手がかなり大きく聞こえた。

 汗に濡れた身体でリングを降りた生命を、駆け寄った夏希が強く抱き締める。

「――っ」

「ようやったで、自分。ええ試合したな」

 耳元で褒められて、生命は戸惑う。

 相手の身体が熱く感じられるのはやはり、熱のせいだろう。本当は立っているのもつらいはずなのに、夏希は、意志の力を前面に出して、いつもどおりにふるまっている。

「本当だよ、初めてなのにすごいじゃん! KOおめでとう!」

 天楽も他のメンバーも、口々に「ナイスファイトだった」と称えてくれる。

(何なんだよ……)

 一匹狼として生きてきた生命には、この状況はあまりにくすぐったくて、思わずしかめっ面になってしまった。

 夏希はもう、怒っていないのだろうか。

 いや、そんなはずはあるまい。ここに来るまで一言も口をきかなかったのだから。

 ただ、今は試合のほうが大切だからと、自分の感情を押し殺して、仲間としての生命を応援してくれているのだ。下剤の件は少しの間、保留にしておこうということなのだろう。

 自分の出番までに熱を下げておきたい夏希は、控え室で休みたいようだったが、第二試合・第三試合と、蛯須や天楽が出場するので、そういうわけにもいかないのだった。薬は役に立たなかったが、涼王の思惑どおりにことが運んでいる。

 サウスポーの蛯須は接戦の末に判定勝ちし、天楽も、妻子の応援を受けて、五ラウンド十秒で逆転KO勝利を収めた。右目の上を腫らし、鼻から血を流して、せっかくのイケメンを台無しにしながらも、にこやかに笑っている。

「ヒナの前だし、負けるわけにはいかないからさ」

 まだ三歳の可愛い娘を抱き上げて言う彼は、本当に幸せそうだ。この女児が誕生したときに、「ひなの」と名付けてくれたのも、春間悠介だという。

「パパ、痛い?」

 小さな手で傷に触れられ、心配そうに覗き込まれて、天楽は首を振る。

「大丈夫だよ。すぐ治るから。ヒナが一生懸命応援してくれたから、パパ勝てたよ」

 リングを降りたら、本当にどこにでもいるような一人の父親だ。

「みんなが勝ちでつないでくれたから、ボクもいい試合せなあかんな」

 微笑ましそうに見守っていた夏希は、口角をきゅっと上げ、入場の準備のために控え室に戻った。メインの試合が始まる前に、三十分ほどの休憩が挟まれる。少しだけなら、体力を回復することもできるだろう。薬を飲むと眠くなる体質の夏希は、解熱剤も服用しないままタイトルマッチに臨むのだ。

 もう一度彼に詫びるために、選手控え室をめざしていた生命は、ふいに後ろから、強い力で肩を掴まれた。

「おい、どういうことだよ。約束が違うじゃねーか」

 恐ろしい顔をした、浦沢涼王だった。

「あの薬、ちゃんと盛ったんだろうな? 春間の奴、ピンピンしてやがるじゃねーか」

 裸の上に着ているパーカーの胸ぐらを、ぐいっと絞め上げられる。

 夏希にやられたときほど痛くはなかった。

「るせェ。俺にはできなかったんだよ。あんなに一生懸命やってる奴の足、自分の都合で引っ張るなんてことは……」

「何だとぉ?」

 涼王が拳を振り上げる。

「殴るなら、殴れよ。誰にも言わねェから。俺は恥ずかしいんだよ……自分が」

「ふん。気持ち悪ィな、勝手に浸ってろよ」

 涼王は気を削がれたのか、拳を下ろし、足音高く去っていった。

 敵陣営の中心に立ってこちらを窺っていた彼はどうやら、夏希のコンディションが万全でないことに気づいていないらしい。近くにいる仲間ですら気づいていないのだから無理もないが。

 不調を顔に出せば、相手に「チャンス」だと思われてしまい、つけこまれる。夏希はそのことをよく知っているから、無理をして、いつもと変わらないように、むしろ絶好調のふりをしているのだ。本当は今にも倒れそうなのに。

(あの状態で防衛、できんのかな……)

 夏希の控え室のすぐそばまで来て、生命は不安になる。

 防衛戦を控えたチャンピオンのまわりには、試合前の意気込みを伺いに来た報道陣が詰めかけていて、とてもじゃないが詫びを入れにいける状況ではなかった。

「今回もぜったいに、KOで勝つで。なっちゃん最強やからな、はははっ」

 明るく答えている夏希を、生命は、細く開いたドアの隙間から見ていた。

 自分のせいで彼がベルトを奪われるようなことになったら、一億二千万の借金を背負うよりも、ずっと重い責任を感じるだろう。

(アイツが防衛に成功しますように……)

 生命にできるのは、届くかどうかも分からない祈りを捧げることだけだった。



「お待たせいたしました。ただいまより、本日のメインイベント、チャンピオン・春間夏希VS挑戦者・浦沢涼王の、タイトルマッチを行います。はじめに、両選手、リングに入場です」

 高らかなアナウンスの後、照明が落ちた会場を、真っ青なスポットライトが照らしだす。

「青コーナー、挑戦者、WBCフライ級一位、百九ポンド、赤根所属ぅ、浦沢ぁー涼王ぅーっ」

 銃声で始まるラップ調の洋楽が流れ、レオパード柄のガウンを羽織った涼王が、颯爽と入場してくる。ガウンのところどころがきらきら光っているのは、ラインストーンをちりばめているからだろう。ファンクラブもあるようで、「涼王」と刺繍入りのハッピ姿の女性ファンが、うちわを掲げて嬌声をあげている。

「涼―、がんばってーっ」

「チャンピオンになれるって信じてるーっ!」

 ギャル系の女性たちの声援に、片手を上げて応え、ひらりとリングに飛び込んだ涼王は、軽くウォーミングアップをし始めた。コンディションは抜群のようで、リズミカルなパンチが、シュッシュッと空を切っていた。

「続きまして、赤コーナー、WBCフライ級チャンピオン、百八ポンド、春間所属ぅ、春間ぁー、夏希ィーっ!」

 わあぁ、と沸きたつ会場を、今度は赤い光が包む。

 入場曲のイントロで焦らし、幟旗を掲げた練習生たちを露払いにして、観客が待ち侘びたチャンピオンが、ようやく姿を現わす。花道の右側の練習生が手にしている旗には「浪速の白雪姫」、左側の旗には「歌舞伎町の誇り」とキャッチフレーズらしきものが書かれている。この旗は、試合が近くなると毎回どこからか送られてくるそうだ。

「熱心なファンの人がわざわざ作ってくれてるみたいやな。お父ちゃんのころからそうだったらしいで」

 慣れているらしい夏希は贈り主の正体など気にしていないが、生命は真実を知っている。

「夏希さん、あの旗喜んでるかー?」と、例の男からケータイに電話があったからだ。

(どうでもいいけど、白雪姫ってのはちょっとないだろ……)

 列に並んで旗を手に夏希を見送りながら、生命は、内村たちのセンスに呆れている。

 確かに黒髪・白い肌に赤い口唇で外見はそれっぽいが、中味はとんでもなくアグレッシブで、だまされて毒林檎を食べさせられるような、純粋でか弱いタチではないのだ。男を「姫」呼ばわりするのもどうかと思うし。 

 今日の晴れ舞台をめいっぱいショーアップするために、夏希は、挑戦者に負けず劣らず派手なガウンを着ている。キラキラ光るブルーの地のガウンの、右胸にはシルバーの握り拳、背中には大きな翼が描かれていた。試合のたびに、違うデザインのものを纏うのだ。もちろん、ガウンの余白の部分をはじめ、赤いグローブにもスリットの入ったトランクスにも、スポンサーの名が所狭しと刻まれている。

 ロープをくぐり、細いながらもしっかりと芯を感じさせる身体でリングに上がった夏希は、挑戦者と対峙する。

 ――何だこいつ、目ェ潤んでるじゃねーか。

 涼王は、近い距離で目を合わせた瞬間、夏希の異変に気がついた。

(そうか、こいつ、熱あるんだ。薬使うのは失敗したみたいだが、どうやら、俺に追い風が吹いてるな)

 彼には、「正々堂々」という言葉はない。どんな手を使ってでも勝てればいい、そう思っている。アマチュアのころは純粋に勝負を楽しんでいたのだが、シビアなプロの世界に身を置くうちに、勝つための手段を選ばなくなってしまった。

 国歌斉唱と一連の儀式が終わり、いよいよ真剣勝負の幕が開ける。

「ボックス!」

 グローブをはめた手を、乾杯するように軽く打ち合わせて「握手」し、互いの戦略どおりに、試合の主導権を握ろうと攻防する二人。動くことで夏希の身体はより熱くなり、呼吸が乱れ始める。

(容赦なくいかせてもらうぜ)

 涼王は、得意の左フックから攻め込み、まずは頭を狙ってきた。ガードが上へ上がったところでボディーへの攻撃に切り替え、ダウンを奪う作戦なのだろう。

 しかし、熱があっても夏希はチャンピオンだ。

 簡単には打たれないし、倒れない。鍛え上げた腹に二度パンチをもらったが、持ちこたえて同じ数打ち返した。

 三ラウンド、四ラウンドと重ね、インターバルのたびに、夏希は椅子に倒れ込むように身をあずける。意識は朦朧としているが、気力で何とか身体を支えて戦っているらしい。リングサイドの生命は、そんな彼を不安げに見守っていた。

「なっちゃん、やっぱりちょっといつもと違いますね」

「肩で息してるもん。いつもぜんぜん、息あがらないのに」

 後輩たちも心配している。

 前回の防衛戦では、挑戦者をたった二ラウンドで退けた夏希だが、今回は明らかに苦戦していた。観客は、応援しているほうの選手が優勢になるとどっと沸き、拍手したり立ち上がったり、興奮した様子で観戦していた。

 夏希の髪からは大量の汗が滴り落ち、胸や足元を濡らしている。時折その滴が目に入って、視界を妨げているようだ。

(あかん、お父ちゃん、ボク、今回はほんまヤバイかもしれへん……)

 珍しく、心の中で弱音を吐く。

 ラウンドを重ねるごとに追い込まれていくのが、自分でもはっきりと分かっていた。放ったパンチはあっさりとガードされ、カウンターになって返ってくるのを躱すのがやっとだ。ロープ際まで後退しそうになったとき、耳の奥で懐かしい声が響いた。

 ――何泣きごと言うてんねん、アホ。わいの息子が、そない簡単に負けるわけないやろ。

 熱のせいで幻聴が聞こえてきたのだろう。

 夏希の中で、遠い過去が、走馬灯のように蘇った。

 父によるスパルタ式のボクシング指導が始まった、幼い日のこと。

 悠介の課すトレーニングは、まだ育ちきっていない身体には過酷すぎて、夏希は何度も意識を失い、そのたびに、頬を打たれたり水をかけられたりして、目を覚ましていた。

「起きんかい、こら! 寝てる場合ちゃうで! ちゃんとかまえて顔上げや! まだ終わってへんのやからな!」

 普段は優しい父だが、トレーニングの間は、スポコン漫画の鬼コーチそのものだった。夏希の腹におもりをくくりつけて走らせたり、筋トレで作り上げた腹筋を足で踏みつけたりした。子ども相手に本気でパンチを繰り出し、よけられなければ本当に当てていた。

 その激しさに驚いて、泣きついたのは妻の由紀子である。

「あんた、もう堪忍してやって! そないにしたら、ナツが死んでしまうやないの!」

 しかし、夫は取り合わなかった。

「うるさい、おまえは黙っとれ! わいのすることに口出しするんやないで! ナツはわいの息子なんや! 世界チャンピオンになる子なんや! 止めたりしたら、おまえでも許さへんぞ!」

 その強硬な姿勢を見かねて、妻は家を出ていき、夫婦は別居状態となったが、悠介はそれでも方針を変えなかった。

 もちろん、ただ厳しいだけでは夏希の心を歪めてしまうと分かっていたから、トレーニングのとき以外は、人一倍の愛情を注いでいた、現在の夏希が、ちょっと我儘で気の強い自信家なのは、たっぷりと可愛がられて育った証である。

 ある日、足場の悪い雨上がりの河川敷で、三十キロのロードワークをこなし、ゴールとともに失神した夏希に、父はそっと語りかけた。

「ごめんな、ナツ。いじめてばっかりで。お父ちゃんのこと、憎いと思うときもいっぱいあるやろ。でも、これだけは分かっといてほしいねん」

 艶やかな黒髪をかきあげ、頬を撫でながら、母親によく似たきれいな顔だちの息子を、優しい目で見下ろして言う。

「わいはおまえに、誰より強うなってほしいんや。リングに上がるからには、ぜったいに負けたらあかんねん。おまえは普通の子とちゃう。春間悠介の息子として、みんなの前に出るんやからな」

 分かってくれな、と少々身勝手な理想を押しつけたら、何と、夏希は目を閉じたままこくりとうなずいたのだ。

 ――大丈夫、分かってる。お父ちゃんはボクのこと考えてくれてるから、わざときつい練習させてるんやってこと。安心してや、ボクもお父ちゃんのこと、大好きやから。

 父と子の間には、ボクシングを通して熱く強い絆が結ばれていたが、その過激さを理解できなかった母は、ついに二人の前に姿を見せなくなってしまった。

「なぁ、お父ちゃん、お母ちゃんはいつ帰ってくるん?」

「せやなぁ……。ナツが、世界チャンピオンになったらやな」

「そうか。ほな、がんばってもっと練習せなあかんな」

「おう。がんばりや。ナツが強うなったら、お母ちゃんもぜったい喜んでくれるで」

 しかしその母は、別居中に体調を崩し、夏希が小学校を卒業する前に帰らぬ人となった。

 父子はその後、何年か大阪で暮したのち、上京し、悠介の思い出の地である歌舞伎町に春間ジムを開設する。十七歳になり、プロテストに一発合格した夏希の頭を撫でて、父は言った。

「お父ちゃんにはな、見えるんや。世界チャンピオンになって、リングの上で誰よりも輝いとるおまえの未来が」

「そんなん、ボクにはまだ見えへんわ。テスト受かったばっかりやねんで」

「そら、おまえは若いから、近くしか見えへんのや。まあええわ、お父ちゃんが保証したる、おまえはぜったい、世界チャンピオンになる男や」

 あまりにはっきりした口調で繰り返し言うので、夏希もしだいにその気になった。

「なぁナツ、約束してや。ぜったい諦めへんって。お父ちゃんがジョニーさんからあずかった……ボクシングっていうだいじな夢を、語り継いでほしいねん。その身体で、な」

「うん、分かった。ボク、ぜったい諦めへん。何が何でも世界チャンピオンになったるで」

 その誓いは皮肉にも、父・悠介が命を落とした日に果たされた。

 ともに戦い、支えてくれていた父は他界したが、彼の遺した夢を守るために、夏希は戦い続けている。

 ――今も。

「春間選手、今日は苦戦してますね。パンチが二度ほど空振りしてますし、表情に若干疲労が滲んでいます。この後どうなると思いますか、楠さん」

 実況アナウンサーが、隣に座っている解説者にコメントを求める。

「うーん、挑戦者の浦沢くんはけっこう強いからね。春間くんも、あのジャブはいやがってるみたいだしね。彼はいつも、五ラウンドもいかないうちに片付けちゃうでしょ。今日は七ラウンド目でまだ二人とも立ってるし……ひょっとしたら判定になるかもしれないね」

 解説者は、今年還暦を迎えた、往年の世界チャンピオンだ。おっとりしているが、現役時代は、視線だけで対戦相手を怯ませるほど、眼光鋭い選手だったらしい。

 リングの上の夏希は、声援を受けて戦いながらも、今にも崩れ落ちそうな状態だった。

(あかん、マジで熱上がってきたわ)

 今朝体温計で測ったときは三十九度だったが、今は確実に四十度を超えている。

 九度目のインターバルで、額に手を当てたセコンドが、「止めたほうがいいか?」と囁いた。夏希はもちろん、首を振る。

「あと三ラウンドや、持ちこたえるで」

 荒く息を継ぎながら、気迫のみなぎる瞳で、対角にいる涼王を見据える。

「ナツーッ!」

 十ラウンド目が始まったとき、生命が、渾身の力をこめて叫んだ。彼が夏希の名を呼んだのは、これが初めてだった。

(何や、お父ちゃんとおんなじ呼び方しやがってからに)

 夏希は、グローブのガードの下の口唇で、呆れたように笑う。彼は、自分が勝つことを願ってくれているのだろうか。

「ナッキー、いけるよーっ!」

「なっちゃん、がんばってー!」

 仲間たちも、ずっと応援してくれている。

 大丈夫だ、自分は強い。

(春間悠介の、血ィ引いてるからな)

 夏希はもう一度、自分を信じた。

 最後の勝負だとばかりに、くらくらする身体に鞭打って、踏み込んでいく。

 左フック、右ストレートのワンツーに、加えてもう一発。

 さすがの涼王も、その強さに怯んで後ずさった。

(何だ、弱ってんじゃねーのかよ)

 瞳に驚愕の色が浮かんでいる。

「まとめていけよー!」

 セコンドの指示を受けて、夏希はラストスパートをかける。

 飛んできたジャブはスウェーで躱して、急所狙いのコークスクリュー・パンチ。

 その一発が深くはまって、涼王はキャンバスに崩れ落ちた。

 十ラウンド二分四十秒。

 KOにより、三度目の防衛成功。

 倒れ伏したまま悔しそうに顔を上げた涼王と拳を合わせ、「ええ勝負やったやんけ」と健闘を称える。

 巻かれたベルトがひやりと冷たくて、自分の身体の熱さを意識させられた。肩車されたのも、トロフィーを渡されたのも、朦朧としていたのでよく覚えていない。

(……お父ちゃんの言うたこと、ほんまやったな)

 昔、教えられたことを思い出す。

「いつも調子ええときばっかりちゃうからな。プロになったら、死にそうでも試合出なあかんこともある」

 夏希が高熱を出した日も、父は休ませることなくいつもどおりのメニューをこなさせた。

 今日十ラウンドを闘い抜けたのも、そのときの経験があったからだ。

(ありがとう、お父ちゃん。おかげで助かったわ。備えあればブレなし、やな……)

 正しくは「ブレ」ではなく「憂い」なのだが、そんなことはどうでもいいことだ。

(お父ちゃん、これからもナツのこと、見捨てんといてや。天国からずっと、見守っといてな……)

 会場から引き上げ、控え室に向かいながら、薄れていく意識の中で願った夏希は、ふいにぐらりとその場に崩れた。

「夏希さん!」

 支えるように傍らを歩いていた練習生が声をあげる。

 生命が無言で駆け寄って、横抱きに抱え上げた。

「生命、医務室は二階の奥だ。大勢で行くと邪魔になるから、みんなは先に帰ってて」

 天楽が上を指差し、ぞろぞろとついてくる後輩たちに指示を与える。

「なっちゃん、大丈夫?」

「大丈夫だよ。夏希さんは強いし、これまでもいろいろあって、慣れてるはずだから」

 帰る前に心配げに尋ねた少年に、蛯須が答えてやっていった。

 生命が夏希を抱いて医務室へ向かい、天楽と桃瀬がこの場に残って、あとは解散ということになった。



 医務室のベッドに寝かされた夏希は、死んだように眠っているが、命に別条はなく、少し休めば熱も下がるだろうということだった。病院は近くにあるのだが、あいているベッドがないので、特別に、一晩この部屋を貸してくれるという。たいしたことはないと聞いたトレーナーは、あとを二人に任せて帰っていった。医師も、「おだいじに」と言い残して病院へ戻った。会場の医務室には、眠りに落ちている夏希と、天楽と生命だけが残される。

「ナッキー、急に熱出すなんて、どうしたんだろ。いつも体調管理しっかりしてるのに」

 首を傾げた天楽に、生命は打ち明ける。

「俺のせいだ……」

 昨夜、二人の間に何が起こったか、借金のことも含めて、すべて話した。

「そうだったんだ……」

 天楽は、顔を曇らせたが、あまり驚いてはいないようだった。自分も紆余曲折を経てここまで来たので、強く責める気にはなれないらしい。

「今回は防衛成功したし、ナッキーも許してくれると思うけど、もう二度とそんな奴の言うことに耳貸すんじゃないよ」

 珍しく厳しい顔で彼は言った。

「あぁ」

 今回ばかりは、生命も素直にうなずく。

 額に氷の入った袋を載せられた夏希は、長い睫毛を伏せて、寝息をたてている。何の夢を見ているのか、瞳のふちから溢れた涙の滴が頬を伝って、シーツに滑り落ちた。

「お父ちゃん……」

 赤い口唇が動いて、切なそうにつぶやいた。

「ナッキー、会長の夢見てるんだ」

 夏希の前髪を撫で、天楽が眉を寄せる。

「ナツの親父さんって、そんなすごい選手だったのかよ」

 ビデオでしか見たことがない生命には、夏希や天楽の心酔っぷりがいまいち理解できない。

「すごい選手だったってのはもちろんだけど、会長としてとっても偉大だったんだよね」

 ジムでいちばんの古株の天楽は、生前の春間悠介を知っている。現役時代のことは映像でしか知らないが、会長となってからの彼の薫陶は十分に受けている。

「オレも長いことお世話になったけど、ナッキーは会長の息子だし、いっしょに過ごした時間も誰より密なものだったと思うから、何年経っても忘れられないんじゃないかな」

 天楽は、いつだったか夏希に聞かされた、幼いころのスパルタ教育の話を生命に語った。

「ナッキー、もうちょっとで死ぬとこだったらしいよ。ボクシングが大好きだったから耐えられたって言ってたけど。オレなんか、体力にだけは自信あったのに、ここに来たばっかりのころ、練習についていけなかったからな。あ、今のメニューになる前の話だからね」

 今のトレーニングメニューは、悠介の死後に桃瀬トレーナーが考案したものだ。夏希の父が生きていたころは、普通の青年なら三日もしないうちに音をあげてしまうような、ハードな内容だったのである。夏希だけは、どんなトレーニングでも楽しそうにこなしていたので、不思議に思った天楽が尋ねたら、これまでのことを教えてくれたのだ。

「ボクは小さいころにお父ちゃんにさんざんしごかれて、身体がもう慣れてるからな」

 と。

「生まれながらの天才ってわけじゃなかったんだ、こいつ……」

 夏希の涙を指先で拭いながら、生命は改めて、彼の特殊な生い立ちに想いを馳せた。恵まれた環境に生まれたこと以上に、血の滲むような努力の日々が、今の彼の土台となっているのだろう。自分は卑怯な手段でそれを崩そうとしたのだ、と考えると、髪をかきむしりたくなった。

「生命。罰として、今夜一晩、寝ないでナッキーについててやんなよ。オレはそろそろ、帰るからさ」

 軽く伸びをして席を立ち、天楽は医務室を出ていった。

 夏希が目を覚ましたら、二人で話したいこともあるだろうと、気をきかせてくれたのかもしれない。

 静まり返った小さな部屋で、生命は夏希と二人きりになる。

 誰もいないのをいいことに、彼は夏希の熱い手をそっと握った。父の夢を見ている彼に、少しでもぬくもりを届けられたら、と珍しく殊勝な気持ちで。

 溶けてしまった氷を取り換え、汗を拭いてやったとき、夏希が「熱い」とうわごとを漏らした。生命は、冷蔵庫の扉を開ける。ミネラルウォーターとスポーツドリンク、それから、医師の忘れ物らしい飲みかけのお茶が入っていた。冷凍室には、アイスクリームも少しある。生命は迷わず、ライム味のシャーベットを取って、スプーンで一口分すくった。

 夏希の細い顎をそっと上向かせ、口移しでその冷たい塊を与える。ごく、と小さく喉が鳴ったのを見ると、少し安心した。

(どんな夢見てんのかな……)

 口が悪くてうるさい夏希だが、人に語っていないことも、まだまだたくさんあるに違いない。人生のほとんどをボクシングと歩み、世界チャンピオンになってからは、精神的にも肉体的にも極限状態に追い込まれる、過酷な道のりを駆け抜けてきた彼なのだから。

 生命は、なぜか自分の胸が熱くなっているのに気がついた。熱を出している彼に口づけたから、うつってしまったのだろうか?

(いや……)

 そんな物理的なものであるはずがなかった。

 これはきっと、心が傾いていることの証なのだ。

「ナツ……」

 許可されてもいないのに、親しみをこめて呼びかけながら、生命は、彼を守るように優しく髪を撫でた。

 何もかもみんな、忘れてしまいそうだ。返さなければならない借金があることも。好きでボクシングを始めたわけではないことも。

 年上の彼への反発はいつしか、林檎飴のような甘い色に変わり始めている。

 これが恋というものなら、夏希を傷つけてしまった自分に、恋心を抱く資格はあるのだろうか?

夢の中で誰より彼を可愛がっているに違いない父親は、はたして許してくれるだろうか?



 夏希が世界チャンピオンの座を奪取し、割れんばかりの拍手が彼を称え始めたとき、会場の後方のドアが大きく開いた。この場面にいちばん居合わせてほしい人物が、光を背に、リングに駆け寄ってくる。

「ナツ、遅れてすまんかったな。道が混んどったんや」

 元世界チャンピオンであり、夏希の父親でもある春間悠介の登場に、観客がどっと沸く。

「お父ちゃん……っ!」

 遅いわ、と勝利の喜びに濡れた瞳できゅっと睨んで、夏希は、与えられたばかりのチャンピオンベルトを掲げてみせた。

「ほら、これ。ちゃあんと夢、叶えたで。お父ちゃんといっしょの、世界チャンピオンになったんや!」

「ほんまか! さすがやな、ナツ! わいは、おまえならぜったいやれるって信じとったで。お母ちゃんにも、見せたりたかったな」

 温かくてよく通る声で、父は夏希に問う。

「そや、せっかくやから、何でも言うこと聞いたるで。何か欲しいもんあるか? 何でも言うてみ」

 二十一歳の夏希は、会場いっぱいの観衆とマスコミが見守る中、満面の笑みで首を振った。

「何もいらへん。けど、ぎゅーってしてほしい。思いっきりやで。ほんで、頭撫でてや。ようやった、ナツ、ようやったって、いっぱいいっぱい褒めてほしいんや。これからも、これからもずっと……」

「よっしゃ」

 この小さな身体のいったいどこに、これだけの欲求が詰まっているのだろう。それも、一円もかけずに叶えられる願いばかりだ。半ば呆れたように苦笑しながら、父は息子の肩を思いきり抱き寄せた。

(お父ちゃん……)

 夢なのに、夢だと分かっているのに、まるで現実のように、その手は熱くて優しくて、夏希の身体を懐かしさで満たすのだった。


 

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