宵待桜
月光があまりにも冴えて胸が騒ぐものだから、皆が寝静まった頃を見計らい、ひとりで屋敷を抜け出した。
地を這う蟲たちのジーという鳴声とともに、裏山に続く道を歩く。ふと顔をあげれば、山の中ほどにある神社と、その隣でひっそりと咲く山桜が見えた。
苔むした階段を上り、神社まで行く。静まり返った境内は空気が澄んでいて、なんだかとても居心地が良いように思えた。
「どうした、小僧。道にでも迷ったか」
不意にかけられた声に、思わず首を竦めた。
「答えぬか。答えられぬか」
どこかからかうような調子の声色にぎこちなく振り向いてみると、そこには一人の女がいた。後ろには、下で見たあの山桜がある。
「お前、わたしが怖くないのか?」
そう言って、女は手にした酒盃と同じ色をした唇を吊り上げる。
蒼い闇夜よりも濃い髪をきりりと結い上げ、艶やかに模様を散らした着物を纏い、緋色の裾襟からのぞくうなじはどこまでも白く。行儀悪く立膝をつき、片手には朱色の大盃。残る一方は、背を預ける幹の横、寄り添うように建つ小さな祠へと伸ばす。
女は供えてある御神酒をひょいと取り上げて、片手で器用に封を開けた。途端、ぷんとした甘い匂いが周囲に漂いはじめる。
「お前にはまだ早いよ」
舞い落ちる花弁は、さながら波打つ水面に揺れる小船のよう。それごと飲み
「言ったはずだぞ。お前にはまだ早い」
さ、と月が翳った刹那、周囲の空気ががらりと変わった。
山頂からの吹き降ろしが、唸りをあげてやってくる黒い獣のように見えて、わぁわぁと叫びながら来た道を転がり、駆け下りる。その背を、女の
屋敷の見える場所まで戻ったあたりで、ようやく人心地がついて走るのをやめた。
振り返ってみれば、月はすっかり雲に隠れ、山もどこからともなく湧き出た
中腹に見えていたはずの桜も見えず、たった今見聞きしたことが、まるで夢のようで。
けれど。
「また来るといい。お前が大きくなって、その時もまだわたしを覚えていたら。そうしたら、今度はちゃんと酌をしてやるよ」
肩に残った花弁が、微かに酒の
陶然と見上げる山の中では、狐の
デイドリィム・メモリィズ 不知火昴斗 @siranui
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