クトゥルフへの掛け声 (The Karate of Cthulhu)

梧桐 彰

クトゥルフへのかけ声(The Karate of Cthulhu)

 水の音が聞こえた。ぎらぎらと光る太陽を浮かべ雲ひとつなかった空が、いつのまにか暗い緑色に色を変えていた。


 薄汚れた部屋に、雨と共に魚のような臭いが押し寄せてきた。吐き気がこみあげ、俺は窓を閉じた。


「来なかったね」


 俺の背中に男が声をかけた。振り向くと、そいつはビデオカメラの三脚を閉じていた。


「今日だ。目覚めるはずだ」

「来ないよ。そして来なくてよかったんだよ。もう行こう。この島を出よう。船はとっくに着いてる」


「今日ヤツが目覚める。俺にはわかる。絶対に来る」

「来ないよ。来たってどうするのさ」


「倒す。空手で仕留める」

「あきらめようよ。失敗したんだ。クトゥルフもダゴンも来ないよ」


 俺は低い声で一人悪態をついてから、ぼろぼろの黒帯をもう一度締めなおした。生成りの空手着がバサッと音を立てた。


 この外国の僻地に逗留して数ヶ月になる。俺の空手が伝説の怪物を葬り去るという動画を取るためだ。無駄だと認めることはできなかった。


 かつて、俺にはライバルがいた。


 地上最強を目指し、異世界へ行ってドラゴンすら倒したというだ。


 俺の武道家としての人生は、常にあいつの背中をみつめる人生だった。ヤツの空手をどう凌ぎ、どう捌き、どう倒すか。それが俺にとっての空手だった。


 だが、あの男の目に俺は映っていなかった。この世界にはいつからか、異世界へ転生する道ができていたのだ。そしてあの男は現世を引退し、異世界に戦いの場を求めた。


 遅れをとったと知った時にはもう遅かった。慌ててトラックに飛び込んだが、大怪我をしただけだった。死を覚悟できていなかったのだ。

 

 全身を包帯に包まれて病院の天井を見つめながら、俺はあの男の上をいく方法を考えた。あの男の後塵を拝し続けて生きる。そんなことは俺の自尊心が許せなかった。俺の空手とはあくまであの男を倒すためのものだったのだ。彼がいなければ、その上を倒すしかない。


 ドラゴンを超える脅威は?


 人類がどうあがいても素手では立ち向かえない相手はどこにいる?


 焦って学者やら宗教家やらに異世界転生の方法を聞いたが、彼らが絶望的なまでに常識人であるとわかり、俺は人に聞くのをやめた。文献を調べて、毎日のように大学の図書館をあさった。そして見つけたのが、この現世にいるという太古の神々だった。


 古代フェリシテ人の伝説に知られる魚神ダゴン。


 これしかないと思った。これならヤツを超えられると思った。俺は食い入るように文献を読み込んだ。小山ほど巨大で鱗や水かきのついた手足を持ち、魚類のような容貌。体格は人間に似ているが、大きさははるか上回るとされる。その目を見てしまうと人間は狂気に陥るという。


 なんと魅力的な姿か。間違いない。求めていた相手はこれだ。この巨人が目覚める時を狙う。それが、俺の空手を眠りから解き放つ時だ。そして俺はYoutuberをやっていた道場生に声をかけ、撮影用の機材と共にこの島へたどり着いた。


 だが、非ユークリッド幾何学的な外形を持つ、この建造物に乗り込んでからが長かった。


 世界の果てに立ち、永遠に終わらない夜の、底なしの混沌を覗きこんでいるように感じた日々も、やがて退屈に変わった。形のない闇の国から登ってくる恐ろしい魔王は俺の前に姿を見せなかった。それから先は、悪夢の中を泳ぎ続けるような毎日が続いた。


 すでに滞在の期日も近づいていた。同行したYoutuberは、来る日も来る日も眼前を流れる川に奇妙な影を落とす月を見つめ、無理だろうとしか言わなくなった。これがその最後の日だ。神々が目覚めることはなかった。


「なにがまずかった?」


 谷間を囲む高い断崖の上を見つめ、谷底に幅広い川が流れているのを見つめ、苦々しくつぶやいた。

 

「君のやる気は大したものだけれど、動機がひどい」


 話しかけたつもりはなかったが、同行人が答えた。


「僕も空手家だから強いことが大事なのはわかる。でも人と比べるだけっていうのは卑しいよ」

「俺のほうが強いはずだ。それを認めさせる機会に恵まれなかっただけなんだ」


 雨が強くなっていた。雷鳴と、自然が最も荒れ狂った時に発する轟音を耳にした。それはこの悪夢のような日々を象徴する音だった。


 太古の神が目覚める時。その時こそが、俺の空手が目覚める時だ。この拳。この足。それを叩き込む時だ。その最高の目覚めに至るまで、戻る場所はない。


「意地を張るためだけに、勝てそうにもない相手に素手で挑むのかい」

「俺は勝てる。勝つ。勝って認めさせる」


「何を認めさせる?」

「俺の空手が本当の空手だってことだ」


 それを聞くと、上陸時に腐敗した死骸を目にした時と同じような目で、カメラマンがため息をついた。


「本当の空手ね。そんなことを言うようじゃ、もう終わりだよ」


 俺はそれにも答えなかった。ただ、ヤツの目覚めだけを待ち続けていた。


「彼は純粋だった。地上最強だけを目指していた。君はどうだ? 嫉妬に狂って焦り、挙句の果てに本当の空手? 負け犬の言葉だ。君の本当なんて、誰にとっても本当じゃない。停泊してもらってる船には少しだけ待ってもらう。来なければ、夜までに出してもらう。君を置いて」


 言うと、ついに彼は出ていった。いよいよ俺だけだ。これで太古の神が出てきても、誰の記録にも残らない。


 もう無理なのか。深い夜に悪夢の叫びがこだまする日を終わらせることはできないのか。


 だがそれなら、なぜこの体を鍛えた?


 なぜ、こんなにも人生を武道に捧げた?


 毎日繰り返す自問自答も、そろそろやめるべきか。何もかもが無駄だったのか。この永遠の眠りから目覚める日は来ないのか。だが、それなら鉄骨をぶん殴って牛や虎と殺し合い、自分の体を痛めつけてきたのはなんのためだ?


 その思いをかき消すように、水の音が徐々にうるさくなっていた。そこで、ふと、それは雨どいの音ではないことに気がついた。間違いない。この建物には水道がない。それに俺しかいない……


 まさかと思って外に設置した監視装置を見た。アラームはなっていない。だが、それならこのスクリーンに映っている影は?


 慌てて立ち上がり、道着を着なおした。ずるり、ずるりという巨大な音が雨音をかき消していた。


 ──ついに来たのか!


 逃げ場なんかないぞ。海に戻れなくなる恐怖をたっぷりと思い知らせてやる。本当の空手を見せつけてやる!

 

 恐怖は感じない。隙間から忍び寄るあの触手はどこだ!


 地獄めいたやつらめ!

 目にものを見せてやる!


 窓の外から何かがこちらを覗いている。

 窓の外に何かの姿が見える。


 ドアが音をたてていた。

 何かつるつるした巨大なものが体をぶつけているかのような音だ。


 報われる日が来たのだ!

 拳足をたたきつける相手だ!


 幻ではなかった!

 戯言をわめきながら見た幻覚ではなかった!


 これが俺の目覚めの時だ!

 俺の空手の、最高の目覚めだ!


 息吹を吐き出し素足で跳躍し、足刀をガラスへ向けた。


 いくぞ、あの手へ向けて!


 ああ!


 窓へ!


 窓へ!


【了】

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クトゥルフへの掛け声 (The Karate of Cthulhu) 梧桐 彰 @neo_logic

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